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映画『ボヘミアン・ラプソディ』、そして1991年のブライアン・メイのインタビュー記事を題材にたどる史実との相違

映画『ボヘミアン・ラプソディ』については、最初批評家による低評価が伝わり、これはパスかなと思いかけたが、実際に観た観客の受けはそれとまったく違い大ヒットという話を聞き、音楽の原体験を聞かれると「1981年に聴いたYMOとクイーン」と答えてきた人間としてはやはり行くべきではないかと思い直し、どうせ観るなら最良の映像、音響ということで、満を持して IMAX 版を観てきた。

実際の史実と異なる点が多い、フレディ・マーキュリーセクシャリティについて「ストレートウォッシュ」されている、といった批判は、まぁ、そうですねという感じだったが、ブライアン・メイが奏でる20世紀フォックスのファンファーレで始まり、ライブエイドにおける圧倒的なステージの再構成で終わるという、映画館に足を運ぶ人たちが観たいものをしっかり見せ聴かせるもので、本当に観てよかった。

特に最後のライヴエイドの場面は、フレディが歌うすべての歌詞が本作における答えになる作りで、そのあたりにちゃんと考慮した丁寧な日本語字幕にも好感を覚えた。

思えば、批評家受けはよくないが観客に愛されるという構図は、(ワタシは観てないけど)日本では今年公開の『グレイテスト・ショーマン』に似ているように思うし、何よりこの構図はクイーンというバンドそのものにも当てはまることに思い当たる。そうした意味で映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、クイーンらしい伝記映画と言えるのかもしれない。

そのように映画としては満足だったのだが、ワタシのようなクイーンの熱狂的なファンとまではいかない洋楽リスナーであっても、やはり史実との違いは気になるもので、昔 rockin' on で読んだブライアン・メイのインタビューを読み直したいと思った。

ただ1990年代前半の rockin' on は、気になるページだけ文字通り破り取った(!)極めて原始的なアーカイブしか残っていないので無理かと思ったが、帰宅後に自室の本棚を調べたら運よく件のインタビューが残っていた。せっかくなので、今回はそのインタビュー記事を紹介したいと思う。

そういうわけで、以下は映画を観た人だけが読むように、と一応注意させてもらいます。

インタビュー記事について

以下に取り上げるのは、rockin' on 1991年5月号に掲載されたブライアン・メイのインタビュー記事である。これは翻訳記事であり、初出は Q Magazine に1991年初頭に掲載されたものである。

この記事を取り上げるのは、当時の新譜であり、フレディ生前のラストアルバムである『Innuendo』のリリースに合わせた、ブライアン・メイがバンドの歴史を振り返る包括的なものであり、またこの時点でフレディは亡くなっておらず、故人の聖人化を免れているため、内容が比較的フラットだと考えるからである。

イニュエンドウ(SHM-CD)

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』の日本公開に合わせて、この映画やクイーンというバンドについてウェブでもたくさん記事が書かれており、その中にはこのインタビュー記事の内容と合致しない内容もあったりするが、ワタシとしてはどちらが正しい/間違っていると言いたいのではなく(日本語にする際の誤訳もあるかもしれないし)、1991年のインタビュー記事にはこう書かれていたよということだけであるのをご理解いただきたい。

以下、引用におけるカッコ内の発言は、断りのない限りすべてブライアン・メイのものである。

スマイルとフレディ・マーキュリー

映画では、ブライアンとロジャー・テイラーが組んでいたバンド(スマイル)をフレディがフォローしており、ブライアンとロジャーにアプローチする。これは史実の通りだが、そのアプローチの仕方は実は映画の描き方とはかなり違ったりする。

その後間もなく暗礁に乗り上げることとなったが、その短い活動期間のうちにイーリング芸術大学芸術デザイン課卒フレディ・バルサラなる人物がこのバンドの非常に珍しいタイプのファンとなっていた。珍しいというのは、つまりフレディはバンドの演奏をしょっちゅう観に来てはいたが、いつも客席ですっくと立ち上がったと思うと歓声を贈るわけでもなく、もし自分がフロントマンだったら絶対にこうするなどとバンドに向かってがなり散らしていたからだ。

ワタシなど、このキテレツさこそフレディらしい! と思うのだが、まぁ、これをそのまま映像化するとヘンだよな(笑)。

ブライアンの発言を読んでも、フレディは映画で描かれるようにアイデンティティの問題を抱えていたのは確かだけど、同時に生来のカリスマだったのだなと思ってしまう。

「実際、フレディはスターのようなルックスがあったし、実際、スターのように振る舞ってたもんだよ。本当は全くの無一文だったくせしてさ」

またフレディとロジャーはバンド以外でも関わりがあった。

「ジミ・ヘンに熱を上げていてね。そのうちフレディとロジャーは手を組んでケンジントン公園で開かれる市で洋服の露店を始めたんだけど、その時でもヘンドリックスが死んだ日だけは店を閉めてたっけな。ま、とにかくあの露店をやっていたことで二人は、後々にグラム・ロックとなったムーヴメントのとっかかりにいたってことにはなるんだな(笑)(後略)」

そうした意味で、劇中かかるクリームの曲は、ジミヘンだったほうが良かったかもしれない。

クイーンを最初に見出したのは日本のファン?

日本のクイーンファンにとって映画に対する不満の一つに、日本絡みの場面がほぼ皆無なことがあるかもしれない(トレイラーであった、日本と思しきライブ場面が本編ではなかった気がするのだが、ワタシの見落としか?→見落としらしいです)。

またそれに関連して、映画公開前後に「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」、「クイーンは本国よりも先に日本でスターになった」といった言説をツイッター上で見かけた。これはさすがに言い過ぎで、個人的にはそうした「日本age」はちょっとアレだと思う。

クイーンの日本における受容については東郷かおる子の証言に詳しいが、それを見ても初来日公演より前に「キラー・クイーン」というシングルヒット曲がちゃんと出ていることが分かる。第一、セカンドアルバムの時点で全英トップ10入りしているバンドを無名呼ばわりするのはおかしいだろう。

しかし、である。「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」と言いたい気持ちも分からないでもない。日本におけるクイーンの人気が、他の国とは次元が違った熱狂的なものだったことは、以下のブライアンの発言からも分かる。

「そして日本で何かがパチンと外れたんだ。東京の空港の税関を通ってさ、いざ空港のラウンジに出てみると三千人もの少女達が僕達に向かって悲鳴を上げていたんだよ。突然、僕達はビートルズになっていたわけだ。そこを通り抜けるためには文字通り、担ぎ上げられながらその子達の頭上を通るしかなかったんだ。さすがにこっちも怯えたけどね。あれはもうロック・バンドっていう現象じゃなくて、完璧にアイドル歌手ノリになってたよ。とはいえね、あれを僕達も楽しんでいたということは正直に白状しなくちゃならないな(笑)」

ジョン・リードのマネージャー就任のいきさつ

英米の「バンドで成功掴もうぜ!」本には最初に必ず「有能なマネージャーを雇え」と書いている、という話を昔本で読んだ覚えがある。

70年代のクイーンは、その役割をジョン・リードが担ったわけだが、映画を見ていると、いきなりバンドがジョン・リードに見出されて、バンドの露出がとんとん拍子に進んだように見えるが、これは史実と異なる。

「アルバムを三枚も出した頃になると、皆は僕達がロールスロイスでも乗り回しているんだろうって想像していたようなんだけど、実際には莫大な負債を抱えていたんだぜ。それで会計士を問い詰めてみて初めてわかったのは、マネジメントと交わしていた契約はお金がほとんど僕達のところに流れてこないように仕組まれていたってことだったんだよ。さすがにこれで僕達の不満も一気に表出したよね。借金はおそろしいほどプレッシャーになっていたし。(後略)」

60年代、70年代のロック界隈でよく聞かれたマネージメントに騙され搾取されていた話だが、クイーンはその問題をどのように乗り越えたのか。

 そこでバンドはこの業界の中でも信頼の高いマネージャーの面々から助言を請おうという手段に訴える。それに当時はまた伝説的な敏腕、辣腕マネージャーが何人も顔を揃えていたこともあって、彼等はあのやたらに攻撃的でそれでいて抜け目のないピーター・グラント(レッド・ツェッペリン)やドン・アルデン(ELO)、より計算機型のジョン・リード(エルトン・ジョン)やハーヴィー・リスバーグ(10cc)まであらゆる人物にどうしたらいいものかと意見を聞きまくっていた。幸い誰もがバンドに同情を示し、それぞれが考えるところの解決策を説明したが、エルトン・ジョンがちょうど休暇を取っていたこともあってバンドはリードに全権を依頼することに決定した。リードはその代わりに彼等をスタジオに送り込み、弁護士らとこの契約に根本的なメスを入れている間は全てを忘れろと指示を出したのだった。

このジョン・リードの仕事は、ブライアンによると「素晴らしいほどに功を奏し」、「おかげでやっと作曲をする時間を捻出することができるようになった」とのことで、バンドが創作に集中できる環境ができたおかげで、『A Night at the Operaオペラ座の夜)』というクイーンにとっての決定的なアルバムを出せたというわけである。映画を見ているだけでは、『オペラ座の夜』がまるでセカンドアルバムみたいでおかしいのだが、実際は上に書いた事情があったのである。

オペラ座の夜(SHM-CD)

オペラ座の夜(SHM-CD)

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なお、映画の中では、ジョン・リードは1980年代に入りフレディに CBS とのソロ契約を持ち掛けたことで彼の怒りをかいクビになっているが、この記事によると、「バンドは初期の窮乏状態を救ってくれたマネージャー、ジョン・リードを友好的に解雇」したとのことで、それは確か1978年のはずだ。

ブライアンがロジャー作の"I'm in Love with My Car"を執拗にディスった背景

オペラ座の夜』レコーディング時、ブライアンがロジャーが作った "I'm in Love with My Car" という曲をひどくバカにして口論になる場面が映画にある。この曲はメンバー間の対立の大きな要因となった印税問題にも象徴的な位置づけになっており、ブライアンがこの曲を執拗にディスっているのは、そのあたりの暗示でもあるはずだ。

「おまけに、お金のいさかいがもう絶えなかったんだ。まあ、作曲っていうのはいろんな形でひどい不正がまかり通っちゃったりするもんだからさ。特にB面曲なんかがそうなんだよね。例えばさ、"ボヘミアン・ラプソディ"のシングルが百万枚売れるとなるとロジャーまでもがそれと同等の印税をついでにもらったりしちゃうんだな。なぜかって言えばロジャーはB面曲の"アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー"を書いたからなんだ。これが原因でいさかいがもう何年も何年も続いたんだ」

レコード会社に発売を拒否されたシングル盤をフレディがラジオ局に持ち込んだが、"I'm in Love with My Car" がA面曲だと思われてしまうシーンが映画にあったが、それにしても1991年段階でもブライアンは怒ってますね(笑)。

余談だが、「ボヘミアン・ラプソディ」をシングルにするのを拒否する EMI の重役を演じているのが、映画『ウェインズ・ワールド』によって「ボヘミアン・ラプソディー」をアメリカでリバイバルヒットさせたマイク・マイヤーズというのは、この映画の密かな笑いどころだったりする。

当時死の床にあったフレディも、この映像をものすごく気に入ったらしい。

悪名高きフレディのパーティライフ

フレディが催していたパーティは、彼のセクシャリティとも絡み、その過剰さが悪名高い。映画では比較的穏当なレベルで描写されていたが、以下の記述にその実際の一端が分かると思う。

(前略)アルバム『ジャズ』をぶち上げるに当たってはニュー・オーリーンズで英米のレコード会社社員のために盛大なパーティを開催、多数のトップレス・ウェイトレス、ふたなりストリッパー、小人、そしてせめて肺癌は避けられるという言い訳のつく、下の口から煙草を吸う女達などを接待として大量動員したのだった。そしてフレディは黒人に扮装した十数名の召使いを従えて豪壮に登場した。それは風刺や諧謔を意味していたのかもしれないが、そこまでくるともはや冗談という世界を遥かに超えていた。

この手のパーティではコカインも存分に振る舞われたらしいし、現在の感覚からすればかなりアウトで、さすがに映画では再現できないわな。

ジャズ(SHM-CD)

ジャズ(SHM-CD)

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「ブレイク・フリー (自由への旅立ち) 」の放送禁止とトラブルについて

映画では、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち) 」の女装を披露した PV がアメリカの MTV で放送禁止になり、フレディは憤慨するが、これは史実の通り。そして、それ以外でもこの曲と女装のおかげでフレディは大変な目にあっている。

(前略)今度はブラジルで行われたコンサートでクイーンはおそろしいまでに自分達が政治について世間知らずであったことを露呈する羽目になった。"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"の演目でかつらをかぶり、巨大な尻のステージ衣装を身に着けてステージに登場したフレディは、観客からのヤジと空き缶と石までもが混ざった猛烈なシャワーを受けることとなった。咄嗟にフレディがかつらや衣装を外すとやがて観客もまた静まったのだが、ラテンのマッチョ的心情を侮辱してしまったのだろうかとバンドはその時考えたらしい。しかし、後々になって地元の人達に聞かされた話はそんな生やさしいものではなかった。何とクイーンの、それも特に"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"は常に政情不安に悩む南米では独裁主義に抵抗するという半ば神聖なメッセージをもった解放の歌として受け取られているというのだ。その曲をクイーン自身が茶化してしまうのは、それこそ屈辱的でとても耐えられないことだったのだ。

ザ・ワークス(SHM-CD)

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クイーンのメンバー間の対立の原因だった印税問題とその解決策について

映画におけるライヴ・エイド出演を決めるバンドの話し合いの場面で、ジョン・ディーコンがフレディにこれからは楽曲はすべてクイーン名義とし、印税はすべて平等に分配することをバンドの活動再開の条件として言い渡す。ライヴイベント出演の話し合いなのに、なんで最初に印税の話になるの? と疑問をもった人もいるかもしれないが、上で引用したブライアンの「お金のいさかい」話を読めば、そのあたりがバンドメンバーにとって最大の衝突ポイントだったことが分かる。

これはクイーンというバンドが、メンバー全員が優れたソングライターだったために生じた問題と言える。特にロジャーやジョンの曲がアルバムからのシングル曲になることが多くなった80年代にそれが強まったのではないか。

実は、楽曲をすべてクイーン名義にしたのはアルバム『The Miracle』以降なので、映画におけるジョンの発言は史実とは微妙に異なる。が、その前作『A Kind of Magic』においてもメンバー全員が2曲分担当し、残る1曲はバンド全員のクレジットにすることで均等化が図られているので、まぁ、許容範囲でしょうね。

この決定についてブライアンは、「もっと早くやったら、と本当に思うよ」「はっきり言って僕達が行なってきた全ての判断の中でこれ程賢明なものはないと思う」「でも、これを一度やってみるとね、突然、バンドがあらゆる側面で共同作業に精を出し始めるのに気付くんだよ」と極めてポジティブに語っている。

あと、フレディに印税のことをきっぱり言い渡すのがジョンなのはおかしなことではなくて、それはジョンについての以下のブライアンの発言からも分かる。

ジョンもね、いかにももの静かな古典的ベーシストではあるけれども、信じられないほど思い遣ってくれる一方で、わけがわからないほど無礼になる時もあって、そんな時、犠牲になった奴としては身悶えして死んじゃいたいくらいなんだぜ。ただ、ジョンは本当に変わっているけど、でもバンドのビジネス面のリーダーでもあるんだ。株式はくまなく研究しているし、契約書の落とし穴もわかっているからな。

以下は余談だが、ロジャーが「ディスコやんのかよ!」と反発してメンバーが揉める中でジョンが「地獄へ道づれ」のベースラインを弾きだして、メンバー全員が「おっ、これは……」となる場面、「ディスコやんのかよ!」と反発するくらいなのに、その前にベースライン聴いてなかったのかよ、とちょっとヘンだし、「おっ、これは……」の後に誰か「シックのパクリだよね?」と言い出さないかと思って、映画館でワタシ一人ちょっと笑ってしまった。

そんなことを言えば、八〇年に発売されたクイーンの<アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト>も、少なくとも権利の一部は(引用者注:ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズに)譲るべきだと、ぼくは思います。(ピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』215ページ)

ザ・ゲーム(SHM-CD)

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クイーンの歴史における「ライヴ・エイド」の位置づけについて

映画『ボヘミアン・ラプソディー』のクライマックスは、言うまでもなく「ライヴ・エイド」におけるステージである。映画においてこのステージを完全再現しているという宣伝文句は実は正しくないのだが、それはともかくバンドにとってライヴ・エイドでのステージは、実際大きな転機だった。

映画では、フレディの取り巻きのポールがライヴ・エイドの話を隠していたためクイーンの出演が決まらなかった筋書きになっているが、もちろん史実は異なる。

 そしてクイーンの面々も進んで認めるように彼等はボブ・ゲルドフに感謝をしなくてはならない。彼等のキャリアに再び脚光を呼び戻したあのライヴ・エイドに出ないかと最初にボブが打診してきた時、彼らは過去の破滅的で実のなかったチャリティー・ギグでの経験を思いあわせて躊躇していた。それをボブが無理矢理食いついて出演させたのだ。ボブはまず、マネージャー、ジム・ビーチの休暇用の別邸にまで押しかけるとクイーンのヴィデオでも語っているように「あのオカマあんちゃんに、とにかくこの世で起こったどんな出来事よりもこれほどデカイものはないんだって伝えておけよ」と談判し、ジムは言われた通りにバンドを説得することとなった。

映画『ボヘミアン・ラプソディー』の中でまともに登場するクイーン以外のミュージシャンがほぼボブ・ゲルドフだけというのも批判の対象になっているが、正直ボウイ役くらいは誰か当てると思ってたね。

そのゲルドフは、ライヴ・エイドにおけるクイーンのステージを以下のように評している。

「ま、個人の好き好きを全く超えたところでクイーンこそがあの日最高のバンドだったと絶対に思うよ」

「演奏は最高だったし、サウンドも最高だったし、ライヴ・エイドの、あの地球規模でのジューク・ボックスっていう発想を完璧に連中はわかってくれたと思う。しかも、あれはフレディにとってはこれ以上にないって言えるほどの恰好の舞台だったんだからね。あいつは世界中を相手にしても臆面もなくショー・アップできる奴なんだ」

まさにその通りだと思う。アメリカでの商業的な失敗とその後の停滞、大きな批判を浴びたサン・シティでのライブ問題など、バンドを取り巻く悪い空気を20分のステージで払拭したのは、フレディのショーマンシップだったわけだ。ゲルドフは「サウンドも最高だった」と言っているが、「触るな!」と書かれているのを無視して、スタッフが音量をこっそり上げたという映画における描写は本当のことらしい。

 実際、クイーンの面々もライヴ・エイドの成功には非常に感じ入ってしまったようで、ジョンの言葉を借りれば「ライヴ・エイドで僕達の世界はもう一回引っくり返ったんだ」ということだ。確かに、この出演はすさまじい宣伝ともなり、たちまちにして猛烈な勢いで旧譜セールスに火をつけ、86年のスタジアム・ツアーのきっかけともなったのだ。クイーンは再びウェンブリーとネブワースに凱旋し、ハンガリーブダペストに足を伸ばすという快挙も成し遂げた。しかし、何より重要だったのはライヴ・エイドはバンド自身のやる気にまた活気を吹き込み、その姿勢をも心機一転させたということだ。

伝記映画がライヴ・エイドのステージで終わるのは、必然的なのである。

しかし、このインタビュー記事の終わりあたりの記述は、今読むとなんとも言えない気持ちになる。

(引用者注:ブライアンは)数日したらクイーンの面々とスイスのモントルーにある自分達のスタジオに入り、何ともう新作のレコーディングをするのだと言う。『イニュエンドゥ』がリリースされたばかりだというのにだ。何でもロジャーとフレディが新年に食事をした際、今現在のバンドのエネルギーがあまりにもありあまっていて絶対にこれを抑え込んでは駄目だという結論に達したのだという。

今になってみれば、彼らが新作が出たばかりなのに次のレコーディングを急いだのは、言うまでもなくフレディの命が残り少ないことをメンバー全員が自覚していたからだと分かる。

そのように生き急いだフレディがなしたことすべてが正しかったわけではないし、映画『ボヘミアン・ラプソディー』にしても、フレディのエイズに関する描写は事実を歪曲しているという批判もあるのも分かるが、見事にショーアップされた映画だったと思うし、それはフレディにふさわしいものだと思う。

本当は映画について書きたいことはまだいろいろ残っているのだが、もういい加減長くなってしまったので、ここまでとさせてもらう。

2001年宇宙の旅(IMAX版)

2001年宇宙の旅』は、VHS も DVD も所有しており、20回近く観ているオールタイムベストの一本である。今更映画館で観たからって何が変わるのかと思うところもあった。

しかし、クリストファー・ノーラン監修の70ミリ版を観れなかったのを悔しく思っていたので、IMAX 版が上映と聞くと、やはりこれは行くべきかと思った。

上に書いたように、ワタシは『2001年宇宙の旅』を20回近く観ている。しかし……これはちょっと書きにくいことなのだが、そのうちの三割は途中のどこかで寝てしまっている(笑)。わざわざ映画館に行き、しかも IMAX 版の料金を払って居眠りでもしたら自己嫌悪で死にたくなりそうだ。

結論から書くと、まったくそんなことはなかった。そんな余地がどこにあるんだよ。この映画は大画面で観るべきだし、それが実現して大満足だった!(逆に言うと、これまで自室のちっこいテレビを通して観たのはなんだったんだという気もしてしまうが……)。細かいことだが、宇宙空間から宇宙ステーションや宇宙船を映すカットで、そのステーションや宇宙船で働く人の姿をはっきり見れるのは感激だった。あと、「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」ってこんな感じだったんだとか、これが宇宙人の声だったんだ! とか(だから今まで何を観ていたんだ……)。

それでもスターチャイルドのエンディングは、もっと画面に横幅欲しいぞ! 70ミリ版で観たかった、と思ってしまったな。

いや、とにかくすごい映像×音! インターミッション中、近くの女性客が「なんかこんなん『インターステラー』で観た思うた」と素直に口走っていて苦笑いしてしまったが、いろんな方面に大きな影響を与え、やはり数多くパロディになってきた、「ツァラトゥストラはかく語りき」が轟くオープニングにしろ、優雅な「美しく青きドナウ」にしろ、大音量で聴けてよかった。

ボーマン船長がある場面で浮かべる安堵の表情まで分かるくらい得るところの多い上映だったが、彼の HAL9000 に対する怒りの表情が個人的にはやはりもっとも印象的だった。人工知能に対して人間が持ちうる感情を考える上で、これは示唆的である。

search/サーチ

以下、映画の展開についても触れるので、これからご覧になる方はご注意ください。

映画がすべてパソコンの画面上で展開するという本作の話を聞いて、ヘンな映画もあるもんだと思ったが、それが単なるギミックというか奇抜なだけの映画でないという話も聞いて興味を持ち、公開初日に観に行った。

確かにこれは面白い! Windows XP の起動から説明的な台詞なしに主人公家族の歴史を語るオープニングも気が利いているし、ソーシャルメディア時代の闇というか、ネット時代らしい人間関係や承認欲求の問題も描きながら、パソコン上のちょっとしたカーソルや入力の動きやその停滞で主人公の感情を伝える手法もうまい。

はっきりいって、パソコンの画面上ですべて展開するという点は途中から気にならなくなる。もはや、テレビニュースの映像だろうが大抵のものはネット経由で閲覧できてしまうのだ。

姿を消した主人公の娘の身に何が起きたのか? 彼女には父親の知らない顔があったのか? ストーリーとしては必然的にイヤな流れに何度もなりかける。彼女は何のためにどこに向かったのか。親から××××したお金を何に使ったのか。もしかしてドラッグ? まさかこいつと男女関係があるのか? そうした疑念が伏線の回収とともに解消され、真犯人が明らかになる展開は、サスペンス映画として何よりよくできており、緊張感が途切れないし、とにかく後味が良かった。

本作は Sony の映画なのに出てくるパソコンが VAIO でないのは、完成した後に本作を Sony が買ったかららしいが、主人公の家族が韓国系アメリカ人で、だからといって人種問題がまったくストーリーに絡まず、普通にハリウッドメジャーの映画でアジア人が主役をはっているところに時代は変わったのかなとも思う。

ルー・リードのアーカイブについてドン・フレミングが語るインタビュー

ルー・リードのパーソナル・アーカイブがニューヨーク公共図書館入りした話は以前にも取り上げているが、このアーカイブには600時間もの主に未発表の音源があるんだってね。

この記事でインタビューを受けているのは、ミュージシャンやプロデューサーとして著名なドン・フレミングDon Fleming)で、彼自身もそのアーカイブの公開に一枚噛んでいたとは。彼はハンター・S・トンプソンジョージ・ハリスンアーカイブにも関わっているとのこと。

レミング自身はルー・リードと会ったのは数度で、彼がモーリン・タッカーと仕事をしていた関係だったらしいが、ルーがいかにモーのことを愛しるか、彼女といかに素晴らしい関係を築いてたか伝わったようで、そういう話を聞くと、ルーのファンとして嬉しくなる。

初期の未発表詩集の刊行にもフレミングらの仕事の成果らしいが、何しろ大量の未発表音源もあるようなので、出来の良いものが発表されることを期待してしまう。

そういえば、ルー・リードこの世を去ってちょうど5年になるんだな……。

The Broadcast Collection 1976-1992

The Broadcast Collection 1976-1992

ヨハイ・ベンクラーの新刊はアメリカ政治におけるネットワークを利用したプロパガンダがテーマ(全文オンライン公開あり)

調べものをしていて、ヨハイ・ベンクラーの新刊(共著)が今月出ているのを知った。

Network Propaganda: Manipulation, Disinformation, and Radicalization in American Politics

Network Propaganda: Manipulation, Disinformation, and Radicalization in American Politics

紙版の値段がべらぼうだ! ……と思ったが、これはオンデマンド出版のようで、もはや紙版はおまけのような位置づけなのかも。

というか、Oxford Scholarship Online において、Creative Commons — 表示 - 改変禁止 4.0 国際ライセンスの元で全文が公開されている。HTML と PDF 版の入手が可能。

新刊のタイトルは『ネットワーク・プロパガンダアメリカ政治における情報操作、デマ、尖鋭化』ということで、フェイクニュース絡みの情報操作が問題となったアメリカ政治を主題にしている。もちろんこの問題はアメリカに限った話ではないわけで、日本にもあてはまる話は多いだろう。

CCライセンスとはいえ、改変禁止なので勝手に翻訳を公開はできないのだが、『協力がつくる社会―ペンギンとリヴァイアサン』asin:4757142919)に続く邦訳は出てくれないものかねぇ。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』特別版がSTORES.jpで人気アイテム入り

わざわざ更新するほどのことでもないのだが、高橋さんのツイートを見て驚いた。

マジかよ、と思ったら本当だった。

だからどうしたという話ではあるのだが、自分の作品がこういう人気アイテムのトップにくることなど最初で最後だろうから、少し自慢させてください。

瞬間風速だということは分かっているが、何より『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』特別版を購入いただいた方に感謝します。

それでは電子書籍版『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』のほうもよろしくお願いします。

そうそう、上でリンクしたサポートページに特別版の情報を追加させてもらった。

幻の遺作がNetflixで公開間近なオーソン・ウェルズの映画を観たいのに観れない状況は2018年現在変わったか?

オーソン・ウェルズの幻の遺作『風の向こうへThe Other Side of the Wind)』が11月2日に Netflix で配信開始とのこと。

さて、ワタシは2010年に「オーソン・ウェルズの映画が観たい(のに観れない!)」というエントリを書いたことがある。オーソン・ウェルズの映画は、当時 DVD で入手できなかったものが少なからずあるという話だった。

あれから8年以上経ち、状況はどのように変わったか再度調べてみた。

市民ケーン(1941)

これはさすがに新品を入手可能で、廉価版の DVD もある。

偉大なるアンバーソン家の人々(1942)

こちらも新品を入手可能で、ここではリンクしていないが、通常盤の Blu-ray も DVD も定価より大幅に値引きされている。

しかし、148分のオリジナル版、あるいは131分のプレビュー版のディスク化はやはり不可能なのだろうか。

オーソン・ウェルズ In ストレンジャー(1946)

2007年に出た廉価版 DVD が現在も入手可能で、Netflix でも配信中である。

そういえば、幻の遺作『風の向こうへ』で主演のジョン・ヒューストンは、この映画の脚本でウェルズと既に仕事していたんだね。

上海から来た女(1947)

上海から来た女 [DVD]

上海から来た女 [DVD]

近年再リリースされた DVD が現在も入手可能である。

マクベス(1948)

シェイクスピア 映画大全集 DVD10枚組 BCP-057

シェイクスピア 映画大全集 DVD10枚組 BCP-057

残念ながら単独では DVD 化されていないが、シェイクスピア映画大全集という DVD 10枚組に収録されており、現在も入手可能である。10枚組と聞くと身構えるが、ありがたいことに値段はかなり安い。

オセロ(1952)

シェイクスピア 映画大全集 DVD10枚組 BCP-057

シェイクスピア 映画大全集 DVD10枚組 BCP-057

これも『マクベス』同様、シェイクスピア映画大全集に収録されている。この DVD 10枚組は、他に収録されているのもローレンス・オリヴィエ監督、主演の名作とされているものなので、かなりお得なのではないか。

秘められた過去(1955)

残念なことに、この作品だけは現在も日本では DVD 化されていない。元々は『アーカディン/秘密調査報告書』というタイトルだったようだ。

黒い罠(1958)

修復版がフィルムノワールの傑作という評価を確かにしており、現在も入手可能である。Netflix でも配信中

審判(1963)

審判 Blu-ray

審判 Blu-ray

近年再リリースされた Blu-ray/DVD が現在も入手可能である。

フォルスタッフ(1966)

こちらも近年再リリースされた Blu-ray/DVD が現在も入手可能。

フェイク(1974)

オーソン・ウェルズのフェイク [DVD]

オーソン・ウェルズのフェイク [DVD]

昨年再リリースされた DVD が現在も入手可能だが、なぜかは分からないが、2018年末にも再リリース(asin:B07J3H7FB3)されるようだ。

さて、オーソン・ウェルズの映画は現在までに一作をのぞいてすべて Blu-ray か DVD の新品が入手できるようになっている。また Netflix で配信されている作品もわずかながらある。

とてもありがたいことだと思うが、一方で彼の映画を観ていない言い訳ができなくなったとも言えるかもしれない(笑)。

とりあえず、ワタシは11月に入ったら『風の向こうへ』を Netflix で観るつもりである。

ブルース・シュナイアーが説くコンピュータセキュリティに関する6つの教訓

Slashdot 経由で知ったブルース・シュナイアー先生のニューヨークタイムズへの寄稿文だが、「すべてがコンピュータになる未来は、あなたが恐れる通りゾッとするものになるよ」とのことで、つまりは IoT(モノのインターネット)に対する警告ですね。

ただ、シュナイアー先生は IoT という言葉よりも「インターネット+」という表現のほうを好んでいる。

最近シュナイアー先生の寄稿やインタビューや講演について聞くことが多いのは、邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2018年版)でも紹介した新刊 Click Here to Kill Everybody が発売になったということですね。

Click Here to Kill Everybody: Security and Survival in a Hyper-Connected World

Click Here to Kill Everybody: Security and Survival in a Hyper-Connected World

個人的に面白かったのは、Google での講演。

開口一番、「私が初めてつけた釣りタイトル(clickbait title)」と書名を紹介していて笑ってしまった。

この講演でも語るのは、「すべてがコンピュータになる世界」であり、「インターネット+」の話である。

その上で、コンピュータセキュリティに関する6つの教訓を語っている。

  1. 大抵のソフトウェアは不完全に実装されており、安全でない
  2. インターネットは元々セキュリティを考慮して設計されていない
  3. コンピュータ化されたシステムの拡張性は、我々に不利な形に利用されうる
  4. コンピュータの複雑さゆえ、攻撃のほうが防御よりたやすい
  5. コンピュータが相互接続することで新たな脆弱性が生まれる
  6. 攻撃は常に上達する。攻撃は常により容易に、より高速に、より安価になる

要はコンピュータセキュリティは難しく、不断の努力がいるということですね。何を今更と言う人もいるだろうが、IoT あらため「インターネット+」を考える上でこの前提は欠かせないということでしょう。

来年あたり、この新刊の邦訳が出てくれるかねぇ。

ゼイナップ・トゥフェックチー『ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ』邦訳刊行を喜ぶ

先日、大久保潤さんから連絡をいただき、ゼイナップ・トゥフェックチー『ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ』の刊行を教えてもらった。

ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ (ele-king books)

ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ (ele-king books)

ゼイナップ・トゥフェックチー(Zeynep Tufekci)の本は、BackChannelチームが選出した2017年最高のテック系書籍11選で取り上げたし、その後も「ネット広告から権力者による監視まで〜AIのアルゴリズムが導くディストピアへの道」でも彼女の講演を取り上げている。

junne さんによると、ワタシの文章を読んで邦訳を企画したとのことで、もちろんワタシのブログエントリなど契機の一つに過ぎないとは分かっていても、そう言っていただけるだけで嬉しいことこの上ない。

正直邦訳自体難しいと思っていたところに、下手に邦題を無理やりキャッチ―なものにすることなく、ちょっと物騒な原題をほぼそのまま直訳しているところにこれに携わった人たちの真摯さを見る気がする。

ゼイナップ・トゥフェックチー(紹介する文章ごとに名前の日本語表記が微妙に違っていたが、これで定着かな?)は重要な論者だと思うし、何よりこの『ツイッター催涙ガス』は、それこそ2010年代はじめに出た安易なネットによる動員論を徹底的に更新するものである。

ちょうど恵贈いただいた本書を読み始めたところなのだが、二段組のこの本をよくぞ邦訳出版してくれたと感謝したくなる多層的な本である。

技術書典5で販売した『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』特別版の取り扱いをBooth.pmでも開始

技術書典5において、達人出版会ブースで販売した『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の特別版について、Booth.pm の達人出版会BOOTH支店でも取り扱いを開始した。

経緯については23日に書いた通りである。こちらのほうが達人出版会STORES支店より安そうだが、それは送料別のためらしく、結果的には STORES.jp のほうが安くなるらしい。ユーザの利用環境で都合がよいほうを選んでいただけると幸いである。

7月22日

ポール・グリーングラスの新作が Netflix で配信という話はこないだ書いたが、早速観たので新作映画として感想を書いておく。

ご存知の通り、本作は2011年に起きたノルウェー連続テロ事件を題材とするものである。

この監督の作品らしく、冒頭から政府庁舎爆破、そしてウトヤ島における銃乱射を淡々と描いていく。『ブラディ・サンデー』のような映画になるのかなと思っていたのだが、犯人のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクが69人を射殺後逮捕されるまでが143分の上映時間の最初の30分で、そこからほぼ映画一本分の時間になる。

つまり本作は、「7月22日」そのものというよりは「7月22日の後」を主に描いた映画なのである。テロ実行の描写も怖いのだが、主眼はその後にある。

犯人のアンネシュ・ベーリング・ブレイビクの不敵さが予想通り印象的だったが、彼から指名されたために脅迫を受けながら彼の弁護をする羽目になる人権派の弁護士をはじめ、この事件はいろんな人の人生を大きく揺るがす。その最たるものが事件の被害者なのは言うまでもないが、五発の銃弾を受け、脳に銃の破片が残ったままになってしまう被害者ビリヤルの苦悩が特に心を震わせる。彼がウトヤ島で語った多様性の重視は犯人の銃弾により蹂躙されてしまう。その彼が現実に立ち向かい、なんとか犯人に一矢を報いようとする姿にワタシは涙を流した。ポール・グリーングラスの映画を観て泣く日が来るとは……。

さて、ここから映画本体の感想から少し離れた話、主に Netflix Japan への文句を書かせてもらう。

本作において、ビリヤルと同じく事件の被害者である少女が物語上重要な役割を果たすのだが、彼女は事件で姉妹を亡くしている。

さて、「姉妹」と書くと、二人以上亡くしたと思わない? でも、実際には一人なのである。

どういうことかというと、英語の台詞では sister としか言わないのを律儀に「姉妹」と訳され続けるためである。しかし、おそらく彼女も実在の人物がモデルだろうから、亡くなったのが「姉」か「妹」かは調べればすぐに分かるのではないか。それぐらいのリサーチを Netflix Japan の字幕制作者に求めるのは過度の期待だろうか?(以上について、ワタシが勘違いしていたら申し訳ない)

Netflix Japan については、宇野維正さんの苦言に乗っかる形で文句を書かせてもらっているが、ネット企業なのに SNS 利用が微妙なのはなんでだろう?

映画ポスターのデザインの変遷から映画産業の発展の歴史をひも解く本が面白そうだ

株式会社トランネットのオーディション課題に面白そうな本があがっている。

Selling the Movie: The Art of the Film Poster

Selling the Movie: The Art of the Film Poster

世界の映画産業の発展は、映画の宣伝用ポスター抜きには語れない。最初にハリウッドに映画スタジオが誕生した映画創成期の1910年代から2000年代までを年代順に10年ごとに区切り、創造的かつ商業的な観点から各国の映画ポスターを紹介する。ポスターのデザイナー、スタイルの変遷、政治とイデオロギーの影響、商業がポスターの発展に果たした役割など、ポスターを通して様々な面から映画産業の歴史をひも解く一冊。

オーディション課題概要

洋画のポスターが日本版はデザイン変えすぎ話は定期的で映画ファンの間で話題になるが、映画のポスターというのは、この本の原題にあるように、何より映画を売り込むためのものであり、それがどのように発展変化してきたかというのは興味深い題材である。来年には邦訳が出そうなので楽しみである。

著者の Ian Haydn Smith という人は知らなかったが、かの 1001 Movies You Must See Before You Die の第7版(asin:1438050062)の編集もやってる人ということは、映画の分野でそれなりに信頼のおける人なのだろう。

3年前に紹介したドローン本の邦訳『ドローンの哲学 遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』が出ていた

この記事を見て驚いた。今からおよそ3年前に『The Black Box Society』の著者が勧めるドローン本が気になると紹介したドローン本の邦訳が7月に出ているのを知った。

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争

原書が出てから結構経つので邦訳はもう無理かと思っていたが、「日本ではじめての《ドローンを「哲学」する》本」という宣伝文句を持つユニークな本は、そう簡単には古びないということか。

版元である明石書店のページを見ると、新聞にも複数書評が出ている。

イカームーブメントの文脈でドローンに注目が集まった時期があるが、これはそうした視点の本とは一線を画すもので、ドローンがもたらす戦争の変容を扱っているのだからなかなかハードである。

アメリカ国立標準技術研究所による「本当にブロックチェーンを使うべきか」チャート

ブロックチェーンを使うべきかどうか判定するチャートで、面白いものを作る人もいたもんだと思ったら、これアメリカ国立標準技術研究所(NIST)が公開している Blockchain Technology Overview の42ページからの抜粋なんですな。

NIST がこんな文書を公開してたのか! しかし、このチャートは、ブロックチェーンがやたらといろんな分野や用途で引き合いに出されるのに対する、本当にそれにブロックチェーン使う必要あるか? という警鐘なんでしょうね。

さて、NIST によれば、以下の6つの質問にすべて Yes でないとブロックチェーンを使うべきではないとのこと。

  • 一貫した共有データ格納が必要か?
  • 二つ以上の実体がデータを提供する必要がある?
  • データ記録は、一度書き込まれれば、更新されたり削除されることはない?
  • 機密の識別子がデータ格納に書き込まれることは絶対ない?
  • 書き込みアクセス権のある実体は、誰がデータ格納を管理すべきか決めるのに苦労している?
  • データ格納へのすべての書き込みの不正開封防止ログが欲しい?

NIST の文書全体を読んでないので、訳がおかしかったらごめんなさい。以上の質問について、No の場合にどのソリューションがよいかは原文を読んでくだされ。

「ブロックチェーン信仰」が揺らぎ始めたとか日本では「ブロックチェーン」は過度な期待とかいろいろ言われているが、過度に期待して合ってない用途に使ってもそりゃ幻滅するよね。

ネタ元は Four short links

ブロックチェーン技術の未解決問題

ブロックチェーン技術の未解決問題

技術書典5で販売された『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』特別版の販売をSTORES.jpで開始

技術書典5において、達人出版会ブース『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の特別版を販売した件については既にお伝えしている(その1その2)。

その特別版だが、STORES.jp の達人出版会STORES支店で取り扱いを開始したので、ここでも告知させてもらう。高橋さんによると、達人出版会STORES支店はもう少し修正が加わる見込みとのこと。

まぁ、このように紙書籍版の販売をできるということは、つまりは、技術書典5において完売しなかったということでもある。そうした意味で、高橋さんに大変申し訳ないので、紙版を手元に欲しい方で技術書典に参加できなかった方は、これを機会に買ってもらえると大変ありがたいです。

実は、既に Booth.pm での販売を準備していて、一週間前からそれに合わせてブログを更新できるようにしていたのだが、いつまで経っても準備中のままなので、カッとなって(?)STORES.jp での取り扱いを始めたとのこと。Booth.pm での取り扱いを開始したら、またこちらでも告知させてもらう。

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