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『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回がウェブ公開されている

サイゾー2019年8月号の『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回になぜかワタシが登場している話は先日お伝えした通りだが、そのウェブ版が公開されている。

この対談が実現したいきさつなどについては先日書いたので、今回は対談内容について補足させていただく。

対談でまずワタシの大学時代について話しているが、それについては昔本サイトで文章に書いているのだが、正直なところ、ウェブサイト開設から5年以内に書かれた文章は、今のワタシはすべてゴミ以外の何物でもないので、あえてリンクはしないでおく。

次に Yahoo! JAPAN の名前を出しているのは、要は Yahoo! JAPAN のサービス開始が、ワタシが就職して社会人になったのと同じ1996年4月1日ということである。

クロサカタツヤさんの「ネットでしか生きていけない人々」に触発された書かれたのは、言うまでもなく WirelessWire News 連載最終回「ネットにしか居場所がないということ(前編後編)」のことである。

あとクロサカさんの発言の中にある「殺人事件」というのは、想像はつくと思うが、Hagex さんの事件が念頭にあったものである。

次にワタシが「インターネットは暗い森」になりつつあるという話をしているが、これは少し前にブログに書いた「劉慈欣の話題の『三体』と「暗い森」になりつつあるインターネット」を参照ください。雑誌では対談で名前が出てこない劉慈欣の写真が載っているのはご愛敬。

ワタシは「クロサカさんがツイッターをやめた時、ある連載で恨み言を書きました」と言っているが、これについては「個人ブログ回帰と「大きなインターネット」への忌避感、もしくは、まだTwitterで消耗してるの?」を参照いただきたい。正確には「恨み言」より冷ややかな感じだが、あとになってクロサカさんは自分よりもいろいろ見えていたんだなと思ったりした(が、まだ自分は止めるまでふんぎりがつかない)というのが正直なところ。

そしてワタシは唐突に「監視資本主義」という言葉を使っているが、これはハーバードビジネススクールのショシャナ・ズボフ名誉教授の新刊に由来するのは言うまでもない。

またそれに続けて、「フェイスブックが無料で利用できるのは、フェイスブック社がユーザーを売り物にしてもうけているからだ」という言説に対する Facebook 社員の反論を引き合いに出しているが、これは Joey Tyson の「あなたは商品ではない」のことである。

まぁ、サイゾーを読んで『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』に興味を持ってくれる人が何人いるか分からないけれども、できることは一通りやったのではないか。

Facebookが解体されるべき理由をティム・ウー教授が改めて解説する

この記事、ワタシが見落としたのでなければ WIRED.jp には日本語訳が出ていないはずである。アントニオ・ガルシア・マルティネスの「それでもフェイスブックを「解体」すべきと考える理由」があるのでこっちはもういいという判断かな。

アントニオ・ガルシア・マルティネスの文章でも冒頭に取り上げられている、Facebook の共同創業者でもあるクリス・ヒューズのフェイスブック分割をよびかける論説New York Times に掲載され、Facebook のタコ殴り状態度合いが高まったように思う。

Facebook は、イギリスの前副首相でもあるニック・クレッグをコミュニケーション担当副社長に担ぎ出すまでして分割論に反論しているが、その根拠は以下の4つに集約される。

  1. Facebook を解体すると、たくさんの小企業がプライバシーよりも成長を優先して競争することになる
  2. Facebook を解体すると、ユーザがソーシャルメディアに投稿する不適切なコンテンツを監視する3万人を雇うお金がなくなる(もっともその当事者たちからは、安月給と精神を病む劣悪な労働環境を告発されているのだが)
  3. Facebook を解体すると、中国のテック企業が世界の覇権を握る(参考:WIRED.jpTechCrunch Japan
  4. Facebook による WhatsApp や Instagram といった企業の買収は、非競争的行為ではなかった。

これに対して、クリス・ヒューズも引き合いに出すなど、Facebook 解体論の根拠となる新刊を出したティム・ウーが、上記の根拠をばっさり斬っている。

以下の箇条書きはおおざっぱな意訳なので、詳しくは原文をあたってくだされ。

  • 大統領選挙のときにロシアの介入を許したプライバシー侵害の常習者が、今さら偉そうなこと言う資格があるか。それに権力が集中する中央集権型のシステムは危険である。
  • もっとも非中央集権的でイノベーティブだったテクノロジー分野が、競争や生態系への信頼が失われ、Facebook に買収されたくてスタートアップを立ち上げるような場所になったのは嘆かわしい。
  • 70年代、80年代の日本企業の台頭は著しかったが、日本政府は企業に独占禁止法を適用しなかった(で、90年代以降は……)。一方当時のアメリカ政府は AT&TIBM にたがをかけたが、それが次代のソフトウェア産業の隆盛につながった。
  • マーク・ザッカーバーグのメールを見れば、Instagram を買収したのは競争相手として脅威を覚えたからなのは明らか。

このティム・ウーとドナルド・トランプの支持者が FacebookGoogle の分割論で意見が一致してしまった話が最近あったが、2020年の大統領選挙を控え、民主共和両党とも GAFA 規制のトーンを強めているのは間違いない。そうした意味で、ティム・ウーの本は邦訳が出てほしいところなんだがねぇ。

ネタ元は Boing Boing

The Curse of Bigness: Antitrust in the New Gilded Age

The Curse of Bigness: Antitrust in the New Gilded Age

オブジェクト指向プログラミングは1兆ドル規模の大失敗なのか?

えーっと、長すぎて、ワタシも全部は読み通せていません。

文章の趣旨はインパクトが強いタイトルの通りで、オブジェクト指向プログラミングは1兆ドル規模の災厄であり、もうオブジェクト指向プログラミング(OOP)の先に進むべき時だよ、ということである。

著者は OOP 批判がセンシティブな話題であること、多くの読者を敵に回すであろうことを認めた上で、OOP はその発明者であるアラン・ケイが思い描いたように実装されればよかったと考えている。で、返す刀で現実の JavaC#OOP へのアプローチを批判する。

OOP が素の手続き型プログラミングよりも優れているという客観的、公平なエビデンスは存在しないと著者は断言している。

ところどころで「JavaMS-DOS 以来コンピューティング分野に生まれたもっとも悲惨な存在だ」というアラン・ケイの言葉や、「C++ はおぞましい言語だ。だからプロジェクトで使う言語を C に限定するのは、あのバカな「オブジェクト・モデル」のクソで台無しにしないためなんだよ」というリーナス・トーバルズの言葉を引用しながら、ビシバシ OOP を批判しているが、果たして彼の主張にどれだけ妥当性があるかは原文をあたってくだされ。

しかしねぇ、例えばワタシが愛する C 言語の後に作られ、現在まで生き残るモダンでメジャーな(つまり用途がはじめから限定されない)プログラミング言語で、逆にオブジェクト指向に背を向けたプログラミング言語ってどれがあんのかねとも思うのだよ。

ネタ元は Slashdot

オブジェクト指向入門 第2版 原則・コンセプト (IT Architect’Archive クラシックモダン・コンピューティング)

オブジェクト指向入門 第2版 原則・コンセプト (IT Architect’Archive クラシックモダン・コンピューティング)

[2019年7月24日追記]日本語訳が公開されている。

ボブ・ロスが「ボブの絵画教室」で書いた絵は今どこにあるのか?

プレゼンターのボブ・ロスがインターネットが一般的になる前に死去したにも関わらず、テレビ番組「ボブの絵画教室」はインターネット時代も愛されており、何年かに一度動画サイトでバイラル化する。そういえば少し前に「ボブの絵画教室」の絵をマインクラフトで再現してしまった猛者が話題になったっけ。ワタシも2006年に「ボブの絵画教室」のゲーム化を取り上げている

しかし、ここで一つ疑問が浮かぶ。ボブ・ロスが「ボブの絵画教室」で書いた絵は今どこにあるのだろうか?

考えてみれば、ボブ・ロスの絵がどこかの美術館に展示されているなんて話は聞いたことがない。それを解き明かす New York Times の記事だが、お時間がある方はその動画版を見られるのがよいだろう。ボブ・ロス愛されてるね。

彼の絵は(言われてみればそうだろうが)彼の会社に収蔵されており、売却の予定はないとのこと。一部はスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に寄贈されてるそうな。

ワタシのネタ元である Boing Boing のエントリ日本語訳も参考まで。

ボブ・ロス THE JOY OF PAINTING2 DVD-BOX

ボブ・ロス THE JOY OF PAINTING2 DVD-BOX

単行本が出て37年のときを経て初めて小島信夫『別れる理由』が文庫化されるという文学的事件(事故?)【追記あり】

小島信夫といえば、第三の新人に分類され(ただ年代的には、その分類の代表的作家よりも年長)、『アメリカン・スクール』で芥川賞、『抱擁家族』で谷崎賞を受賞し……と紹介される高名な作家である。ワタシも『抱擁家族』が好きで、講談社文芸文庫編「戦後短篇小説再発見〈10〉表現の冒険」の読書記録で彼について少し書いている。

その彼が野間文芸賞日本芸術院賞を受賞した代表作のひとつ『別れる理由』が初めて文庫化される。単行本のときと同じく三分冊である。

今回の文庫化とともに電子化もされるようだ。

本文執筆時点で(1)だけだが、いずれ残る2冊分の電子版も出るのだろう。電子版はひとつにまとめて出したほうがよいと思うが、『別れる理由』という小説の性質を考えると仕方ないかなとも思う(後述)。いずれにしても、おおげさに書けば、これは一種の文学的事件ではないだろうか。

まず、上記のように高名な小説家の代表作が、単行本が出て37年のときを経て初めて文庫化されたというのが、事情を知らない人からすれば奇怪だろう。

小島信夫は、晩年には日本芸術院会員になり、文化功労者にも選ばれたが、80歳を過ぎて『うるわしき日々』で読売文学賞を受賞するなど、生涯現役を通した人である。それなのに代表作『別れる理由』はこれまで文庫化されなかった。

『別れる理由』は長年文芸誌「群像」に連載され、講談社から1982年に単行本化されている。講談社は1980年代末に、純文学系の作品を対象とする講談社文芸文庫を立ち上げている。「純文学系」ということは、要はあまり売れなくても出すという意味であり、しかも絶版は出さないというポリシーがあったはず(これはもう守れていないと思うが)。

しかも、その講談社文芸文庫から小島信夫の本は(代表作『抱擁家族』、『うるわしき日々』を含め)何冊も出ている。つまり、おぜん立ては完全に整っていたのに、『別れる理由』は頑なに(?)文庫化されなかった。なぜか?

当たり前だがワタシも特に事情を知るわけはないのだが、大きな理由として、『別れる理由』という小説の規格外のヘンテコさがある。日本芸術院賞の受賞パーティーにおいて、当時内閣政務次官だった森喜朗が、「(この作品を)ぼくは認めないよ」と著者に冗談めかして言った話は知られるが、『別れる理由』のヘンテコさについては、「小島信夫長篇集成」シリーズで再刊された際に、千野帽子さんが「TV版「エヴァ」か江口寿史「POCKY」か。世紀のデタラメ、文学的大事故『別れる理由』復活」という文章を書いているので、そちらをご一読いただきたい。

『別れる理由』の大枠の筋だけ読めば、なるほど『抱擁家族』の続きにあたるものかと納得しかけるのだが、実際の中身はそんなレベルにおさまっていない。

千野帽子さんは「ゲラすらチェックしてないのではないかと言われる「戦略的ずさんさ」」「コンテンツ事故」と書いているが、坪内祐三の丸ごとこの本を扱った『「別れる理由」が気になって』の帯にも「天下の奇書か!」とある。相当なものである。

そうした意味で、今回電子書籍版も三分冊というのは分かる気がする。この小説は、後半に行くほど「コンテンツ事故」の混迷の度合いを増していくからだ。

小島信夫は当時『私の作家遍歴』(日本文学大賞受賞)と『別れる理由』の両方を連載していて、『私の作家遍歴』はいろいろ資料を調べる必要があって執筆に時間を取られて大変だったが、『別れる理由』のほうはさっさと書き飛ばしたという趣旨のことを語るのを読んだ覚えがある。が、小島信夫は本当にとぼけた人なので、この話だってどこまで本気にしてよいか分からない。

『別れる理由』はそういうわけのわからない小説であって、ワタシ自身現在までほぼ未読である。文庫版が出ないとなーと自分に言い訳した過去があるが、とうとう文庫になってしまった。この奇書を文庫化した小学館の編集者には敬服する。しかし……ワタシ絶対最後まで読み通せないと思うんだよなぁ。

最後に、筒井康隆の「実はおれも「ゲゲツ」した」(『笑犬樓よりの眺望』収録)から、小島信夫と講演旅行をした際の記述を引用しておく。1980年代末の話である。

 小島さんは「小説とは何をどう書いてもいいものである」というおれの主張を、おれなどよりずっと前から実践している作家で、いささか敬愛の念を抱いていた。別れる際、「では、またどこかで」と言うと、「いや、もう二度と会えないでしょう」と断言なさったので「さすがあ」などと思ったりしたものだ。

[2019年7月24日追記]:本エントリについて誤りを指摘いただいた。ありがとうございます。

現在予約可能なのが3冊だったので、てっきり単行本と同じ三分冊だと思い込んだのだが、全6巻でした! また飽くまでペーパーバックであり、一般の文庫本とは異なるとのこと。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』が国立国会図書館オンラインに登録された

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』達人出版会高橋征義さんが国会図書館に納本くださった話は以前書いたが、無事に国立国会図書館オンラインに登録されている。ワオ!

国立国会図書館オンラインを yomoyomo で検索してみると、ワタシが著者や訳者でクレジットされた本で、国立国会図書館オンライン入りした本が、今回で5冊目であるのが分かる。

本当は他にもあるんだけど、細かいことはよい。これで最後になるはずだから。

ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的ゆえに暗号資産ビジネスには期待できる?

ツイッター業物語』に登場する冷徹傲岸な投資家としておなじみフレッド・ウィルソンが、ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的だという話を書いている。

ウィルソンが例として挙げるのは、ウェブからモバイルアプリへの移行と、デスクトップコンピュータからウェブへの移行の違いである。ウィルソンによると、前者は大方技術的なイノベーションだったという。確かにモバイルへの移行により新規参入する企業も生まれたが、ビジネスモデルにはほとんど変わりがなかったので、ネット大企業の市場における地位を強化するだけだった。

一方で、後者はソフトウェアライセンスを販売するモデルから広告モデルへの移行は、ビジネスモデルの変化を伴い、すこぶる破壊的だった。そしてその移行が、後のサブスクリプションフリーミアムモデルにもつながったという。

フレッド・ウィルソンが、分散型アプリ(decentralized apps)を採用する暗号資産をベースとするビジネスに興奮するのはこの点にあるという。つまり、まったく新しいビジネスモデルのイノベーションを実現するスタートアップがビッグプレイヤーになる可能性があるのではと見ているわけだ。

言われてみると、これは5年以上前に「2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい)」で紹介した、クリス・ディクソンがビットコインに期待する理由にも通じるものがあるように思う。

仮に(自分が投資する)テクノロジー産業が金融サービス産業を変えようと思っても、既存の金融サービス企業の上では新しいサービスを作るというのはありえない。例えて言うなら、GoogleApple のプラットフォーム上でサービスを作ることで GoogleApple を打倒しようとするようなものだ。本当にインパクトを与え、大きなビジネスを生み出すには、既存の金融産業を完全に迂回して出し抜くサービスを作る必要がある。

2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい) - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

でも、Bitcoin の一番エキサイティングな(しかも、危険をはらんでいるのは認めなければならない)ところは、「プログラム可能なお金」があらゆる面白く新しいビジネスや技術モデルを可能にするところだ。

2014年はビットコインの年になるか?(別にならんでいい) - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

だからこそフレッド・ウィルソンの USV は Facebook がぶちあげた仮想通貨 Libra を後援しているわけである。Libra が実現しなくても、大量のユーザがトークンをスマホに保持し、利用する未来が来ると確信していており、それを機にビジネスモデルのイノベーションの波が押し寄せるのが待ち遠しくてたまらん、とウィルソンは楽観的に予測している。

ビジネスモデルのイノベーションは技術的イノベーションよりも破壊的という考え方は、ブロックチェーン技術周りの仮想通貨、暗号資産を考える上で大事かもしれないね。

トークンエコノミービジネスの教科書

トークンエコノミービジネスの教科書

葛飾北斎の傑作「神奈川沖浪裏」が博物館、著作権、そして今日のオンラインコレクションについて教えてくれること

原題の「The Great Wave」とは、葛飾北斎の「富嶽三十六景」における神奈川沖浪裏のことだが、そういえば2年前に大英博物館に行ったとき、日本美術の展覧会を控えていたようで、広告に描かれていたのがこの神奈川沖浪裏で、やはり北斎の代表作というだけでなく、世界的に最も有名な日本美術作品の一つなんでしょうな。

言うまでもなく江戸時代の人物である葛飾北斎著作権はとうに切れており、彼の作品はパブリックドメインに入っているが、このエントリは神奈川沖浪裏の電子版を公開している14機関の二次利用条件を比較している。

もっとも条件が緩いのは言うまでもなくパブリックドメイン(CC0)で、シカゴ美術館などその条件を課している機関もあるが、日本の機関でもっとも条件が緩いのは東京国立博物館の CC BY-NC 相当で、東京富士美術館にいたっては堂々の all rights reserved 主張だったりする。

ダウンロードできる画像サイズも東京国立博物館はしょぼい部類に入り、東京富士美術館にいたっては公開なし。日本の美術館、博物館にはもう少し頑張ってほしいところだが、これは身勝手な期待なんだろうか。

他にも分析があるので、詳しくは原文をあたってくだされ。葛飾北斎の傑作を通して、パブリックドメインという人類の共通遺産について考えさせられる文章である。

ネタ元は Four short links

世界初の長回し・ワンカットPVかはともかく、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」は素晴らしい

このエントリを含む beipana というブログがワタシは好きで、力の入ったエントリが書かれるたびに毎度楽しく読ませてもらっている。少し前にこれまでを振り返るエントリが公開され、それを契機にワタシもこのブログの過去ログを再読する機会があったのだが、最初読んだときに気にならなかった疑問が頭をもたげた。

マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」は、本当に世界初の長回し・ワンカット PV なのだろうか?

一発撮りというなら、この曲以前にも前例はあるはずである。例えば、ホルガー・シューカイの「Cool In The Pool」がそうである。ビデオの制作時期は知らないが、曲自体はおよそ40年前である。

いやいや、定点カメラの前でおっさんが百面相するようなビデオじゃなくて、カメラに動きがなくてはいけないと言われるかもしれない。それなら、ブルース・スプリングスティーンの「Brilliant Disguise」がある。1987年のこの一発撮りの PV は、カメラのズームが主だろうが、カメラ自体も寄りの動きをしているはずである。

いやいや、ただおっさんがスタジオ内で弾き語りするビデオじゃなくて、屋外撮影で映像にストーリーがないといけないと言われるかもしれない。それなら、ニール・ヤングの「Touch The Night」がある。監督は、キュアーのビデオの仕事で知られるティム・ポープである。これはすごいよ。

しかし、である。よく見ると、上の動画だとちょうど2:00にカット割りと思しき箇所がある。残念。

こういうとき便利なのが Wikipedia で、調べてみると案の定 List of one shot music videos というページがある。これを見ると、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」以前にもワンカット PV があるのが分かる……って、最古はボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」なのか!

しかし、このリスト、やはり Wikipedia ということでうのみにできなところもある。このリストには、「一発撮りに見えるけどそうでないビデオ」のリストも付いているのだが(ピタゴラスイッチでおなじみ OK Go の「This Too Shall Pass」は、2:27 のカーテンが開くところでカット割りがあるのか!)、カイリー・ミノーグ「Come Into My World」R.E.M.「Imitation Of Life」など、いや、それ絶対違うから! というものまで入っているのに注意が必要である。

とはいえ、上に書いたような条件を課すなら、「Unfinished Sympathy」が多分もっとも古い部類に入るのは間違いない。

今回久しぶりに見直したが、本当に素晴らしいビデオである。一発撮りならではの緊張感が、この曲にふさわしい映像の高揚感につながっている。これが作られた背景については beipana のエントリを参照ください。

ただ、このエントリでは以下の箇所もひっかかった。

一発撮り/ロング・ショットは、ヒッチコックの『ロープ』、オーソン・ウェルズの『黒い罠』やロバート・アルトマンの『Absolute Beginners』などの映画で使われていたテクニックだけど、音楽のプロモーションビデオでは使われたことがなかったと思う。かなり難しい撮影だったけど、自分自身にチャレンジを与えるのが大好きなんだ。

世界初の長回し・ワンカットPV マッシヴ・アタックの『Unfinished Sympathy』は、どうやって生まれたか - beipana

これはバリー・ウォルシュ監督の発言だが、まず『Absolute Beginners』(邦題は『ビギナーズ』)は、ロバート・アルトマンではなくジュリアン・テンプルの作品である。原文をあたってみる。

It’s a technique that had been used in a few film scenes, Hitchcock’s Rope, that Orson Welles film with Marlene Dietrich [Touch Of Evil], Absolute Beginners and Robert Altman’s Shortcuts. But I don’t think it had been done in a pop promo before.

Scans→Uncut Magazine Feature — MASSIVEATTACK.IE

原文ではロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』と言っている。しかし、『ショート・カッツ』にそんな長回しはないはずで、これはアルトマンが『ショート・カッツ』の前に撮った『ザ・プレイヤー』におけるオープニング約8分の長回しと間違えたものと思われる。

なお、このオープニングにおいて、上に名前が出た長回しが有名な映画はほぼすべて題名が台詞で言及される。


Opening scene from The Player (1992) from Single Shot Film Festival on Vimeo.

以前観たときは、交通事故の後に郵便物が大写しになるあたりでカット割りが入っていたような気がするが、これを観るとそうでもなく、ちゃんと全体一発撮りなのかな。

公開から半年以上経ったブログエントリにいちゃもんをつけられたように思われたら申し訳ないのだが、beipana の文章はとても参考になるものばかりだし、マッシヴ・アタック「Unfinished Sympathy」のビデオが素晴らしいのは間違いない、というのを結論とさせてください。

Blue Lines

Blue Lines

ザ・プレイヤー [DVD]

ザ・プレイヤー [DVD]

トイ・ストーリー4

公開初日の金曜日にレイトショーで吹き替え版を観た。劇場に入るなり、立憲民主党公明党の CM をコンボで見る羽目になり、そういうのから離れたくて映画館に来てるんだけどなとも思ったが、時期が時期だけに仕方ないのだろう。

さて、『トイ・ストーリー3』があまりにも見事なシリーズ有終の美を飾る傑作だったので、本作製作の話を聞いたときは勘弁してくれやと思った。が、もしかしたら本作がランディ・ニューマンが手がける映画音楽を聴ける最後の機会になるかもしれない、と思い直した。

事情によりジョン・ラセターは放逐されてしまったが、ピクサーというブランドに対する高い信頼感があるし、本国でも大ヒットということでクソな続編ではないだろうという安心感があったが、本作もよくできていた。

『3』を超える作品かというと絶対それはないが、明らかにこれまでとは異なる質感のある作品である。存在意義自体どうなんだと思うところもあるが、主人公のウッディの子供への献身と忠誠がある種の狂信性を帯びてきて、それを貫けば大方の観客に引かれてしまうギリギリのところで提示される「子離れ」というコンセプトには、その手があったかと唸らされた。

思えば、第一作が公開されて20年以上になる。CG 技術やおもちゃの持ち主の子供たちだけでなく、ウッディも「成長」したんだな、と感慨深くなる。

そういえばピクサー映画というと、最初に短編が入るのが通例だったが、あれはもうなくなったのかな。

サイゾー2019年8月号の『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回になぜか登場

yomoyomoの執筆、翻訳活動サイゾー2019年8月号を追加。

『クロサカタツヤのネオ・ビジネス・マイニング』第67回「ネット黎明期からの書き手と語る、スマホSNS以後のネットの未来」で対談相手を務めました。

まだ雑誌発売前だが、ちょうど発売の頃ウェブを更新できない可能性があるため、先走って告知させていただく。記事はいずれウェブにも公開されるので、そのときにまた告知させてもらう。

なぜワタシごときがクロサカタツヤさんの対談に登場したのか?

話は5月の Maker Faire Kyoto 2019 のときのこと。ワタシにとっては久方ぶりの Maker 関係のイベントだったのだが、このとき取材に来られていた青山祐輔さんとバッタリ会った。

どのくらい久しぶりかお互い覚えていないくらい久しぶりだったのだが、あとから青山さんが調べたところ9年ぶりとのこと。青山さんと少し話をするうちに、クロサカタツヤさんの名前が出て、サイゾーの対談いかがですかと言われた。当方は大変恐縮したのだが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』のプロモーションにも、という青山さんの言葉に、当時自著の宣伝ならなんでもするマインドセットだったワタシはピクンときた。

ただ正直なところ、社交辞令だろうと思っていた。なぜなら、クロサカタツヤさんのサイゾーの対談には、ワタシの知った人も何人も登場しているが、だいたいが何かしらの分野の確固たる専門家である。ワタシのような何の専門分野も持たない半可通では、クロサカさんに失礼ではないか。だが、Maker Faire Kyoto からそう経たないうちに青山さんからメールでの打診があり、本気だったんだとワタシも日程を調整した次第である。

クロサカタツヤさんとお会いしたのは……時期は正確には思い出せないのだが(調べたところ2012年の12月らしい)、竹田茂さんの主催トークイベントのパネラーにクロサカさんが登壇されたときで、このとき「なんと頭の良い人だ」と感嘆した客のワタシは氏の出番の後で挨拶させてもらったのだが、ゆっくりお話しさせていただくのは今回が初めてであった。

ワタシなんかでよかったのだろうか? という気持ちは今もあるのだが、とても楽しいときを過ごすことができた。関係者の皆様に感謝する。あと先回りして書いておくと、タイトルにある「ネット黎明期からの書き手」というのは、パソコン通信の経験もないようなワタシにはいくらなんでも過分である。人目を惹くための文句と思っていただきたい。

クロサカタツヤさんは『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』でも二度言及される。そのあたりについての解説は、記事のウェブ版が出たときに行うが、なんといっても WirelessWire 連載最終回「ネットにしか居場所がないということ(前編後編)」は、氏の文章を読んでなければ書かれなかったものである。今回の対談の最後にクロサカさんが寄せる文章も、平民金子さんの文章と共通するところのある、なんというか遠くの景色をぼーっと見たくなるような、個人的に感慨深いものだった。

というわけで、雑誌サイゾー2019年8月号をよろしくお願いします。

ウィキペディアの共同創始者が唱えるデジタル独立宣言、並びに非中央集権型ソーシャルネットワークの原則

ウィキペディアの共同創始者として知られるラリー・サンガーだが、システム的に Wikipedia への批判を内包したオンライン百科事典 Citizendium を立ち上げるもそんなに話題にならず、近年では今度はブロックチェーン技術を活用したオンライン百科事典を手がけているようだが、多分うまくいかないと思います。

その彼が7月4日から5日にかけて、非中央集権型ソーシャルメディアの開発促進と普及を旗印に「ソーシャルメディアストライキ」を呼びかけたが、それに応じた人はさほど多くなかったのではないか。

……と書くとただ彼をけなしているようだが、彼が書く「非中央集権型ソーシャルネットワークの原則(Principles of Decentralized Social Networks)」を読むと、「デジタル独立宣言」をぶちあげる彼の問題意識は、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』での議論とも共通するものでワタシにも理解できるので、その部分だけざっと訳しておく。

  1. 我々自由な個人は、いかなる企業から許可を得る必要なしに、自分のデータを自由に公開できるべきだ。
  2. 我々は自分自身のデータを法的に所有することを宣言する。我々には、自分のデータをコントロールする法的、道徳的の両方の権利があるのだ。
  3. ソーシャルネットワーク上の投稿は、企業が独占支配するデータベースや何らかの中央保管所からではなく、電子メールやブログと同様に我々個人がコントロールするたくさんの独立サービスから提供可能であるべきだ。
  4. 並外れてよほどの事情がない限り、家庭でなされる私的な会話を盗聴する権利が誰にもないように、ユーザのプライバシー権もまた、犯罪者や企業や政府の監視から守られなくてはならない。従って、そのプロトコルは、私的なコンテンツには強力でエンドツーエンドの暗号化やその他のプライバシー慣行をサポートしなければならない。
  5. インターネットのドメイン名システムと同様に、入手できるユーザフィードのリストは技術規格やプロトコルのみに限定されるべきで、ユーザの身元やコンテンツに応じて変えてはいけない。
  6. ソーシャルメディアのアプリケーションは、ユーザ独自の判断で、まさに電子メールやブログがそうであるように、いかなるパブリッシャーも上位のネットワークにより特権を与えられることなく、共通のグローバルな規格やプロトコルに従って、他のあらゆるパブリッシャーに配信できるようにすべきだ。規格が独自なアプリケーションは、ユーザのデジタル権を侵害するものである。
  7. 結果的に、ソーシャルメディアのアプリケーションは、ユーザに決定された複数の独立したデータソースからの投稿を、ユーザの優先順位に従って統合すべきである。
  8. いかなる企業も、あるいは企業の小集団も非中央集権型ネットワークの規格やプロトコルを支配すべきではないし、中央集権化をもたらす単一のブランド、所有者、独占ソフトウェア、あるいはそれらと関連付けられたインターネット位置情報もあるべきではない。
  9. ユーザは、新しいネットワークに参加でき、また特別な技術スキルを持たなくても上で列挙した権利を享受できるべきだ。ユーザはとても簡単にプライバシーをコントロールでき、もっともプライベートなメッセージは自動的に暗号化され、技術に詳しくない人が使いやすいフィードや検索結果をコントロールするツールを利用すべきである。

ゆっくり訳文を練る時間がなかったもので、誤訳があったらすんません。

ラリー・サンガ―が標的とするのは言うまでもなく FacebookTwitter なのだけど、彼らは自身の権力を悪用し、ユーザのプライバシーと安全を侵害していると訴えている。

彼は Facebook の CEO であるマーク・ザッカーバーグに代表されるシリコンバレーの大物たちは「支配的すぎる」と批判しており、非中央集権型のソーシャルネットワークの普及を目指しているわけだ。

その実現は簡単なものではないだろうが、「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」を書いたとき、この議論がここまで一般的なメディアにも取り上げられるとは思わなかったね。

ネタ元は Slashdotその1その2)。

ブレット・イーストン・エリスがこんな面白いことになっているとは知らなかった

書肆侃侃房が面白い。西崎憲が編集長を務める文学ムック『たべるのがおそい』は、今年の春の第7号で終刊したが、最近も北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のような面白い本を出して気を吐いている。

惜しいことにワタシがその存在を知ったのは(つまり『たべるのがおそい』を知ったのは)、ワタシが福岡を離れた2016年春以降で、福岡に住んでいたら「本のあるところ ajiro」とか絶対行ってるし、取材とか称して会社に押しかけたかもしれない(実際、マガジン航の取材記事「福岡の出版社、書肆侃侃房の挑戦」がある)。

それはともかく、書肆侃侃房の note でやっている「現代アメリカ文学ポップコーン大盛」シリーズにおける青木耕平の文章がすこぶる面白かった。

ブレット・イーストン・エリスって、映画関係の仕事が多いこともあってツイートなんかもそっち関係のものしかワタシの観測圏内に入らず、どうしてるんだろうという感じだったのだが、こんな面白いことになっているとは。キレッキレである。

最近ポッドキャストが熱い、10年ぶりブームとか言われるが、ブレット・イーストン・エリスポッドキャストもその一端を担っているのだろうな。

それにしても、彼の新作『ホワイト』、邦訳出てほしいな!

WHITE (EXP)

WHITE (EXP)

White (English Edition)

White (English Edition)

青木耕平の文章もそうだが、ブレット・イーストン・エリスというと、現在評価は『アメリカン・サイコ』(asin:4042673015)に集中している。ワタシは彼のデビュー作『レス・ザン・ゼロ』が好きで、未だに帰省中に実家に置いている文庫本を読むことがある。

「日本の近現代文学には「病気小説」や「貧乏小説」とならんで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあります」という斎藤美奈子『妊娠小説』(asin:4480032819)風に書くなら、日本に限らず近現代文学には「帰省小説」という小説ジャンルがある、とワタシは以前から思っている。

その小説ジャンルの代表作というとまず浮かぶのは魯迅「故郷」だが、日本文学を代表する帰省小説は村上春樹風の歌を聴け』(asin:4062748703)だろうか。これには異論があるだろうが、ともかくエリスの『レス・ザン・ゼロ』も帰省小説の傑作だと思うのである。が、そういう風にこの小説を評価する人などワタシくらいで、今では手に取り読む人もいないのだろうな。

レス・ザン・ゼロ (中公文庫)

レス・ザン・ゼロ (中公文庫)

はてなグループの終了への対応(は特にない)

はてなダイアリーの終焉を知ったとき、はてなグループもいずれそうなると思っていたので、正直そこまで驚きはない。

はてな社内では、はてなグループは徹底的に利用されていて、技術仕様、日報、メモ書き、ミーティングアジェンダ〜議事、プレゼンテーション、社内告知、雑談、サービスアイディアのディスカッション等々、毎日のように情報を書き込んで、誰かの書いた情報を見ていた。

はてなグループ終了に寄せて - #生存戦略 、それは - subtech

とはいえ、かつてはこれほどはてな社内で使い倒されていたはてなグループであってもサービス終了を免れないのか、と嘆きたくなる気持ちはある。そのあたりを今村勇輔さんが的確に表現している。

[2019年7月16日追記]:本件について今村勇輔さんはブログも書いているので、そちらも参照いただきたい。

特に B2C 事業はもうどうでもいいというか、ユーザベースを救おうという気概も技術力もないのだろう。

さて、はてなグループの終了で、はてなユーザとしてのワタシの影響があるのかというと、ない。

ワタシがはてなグループを使っているのは、モヒカン族グループの中で犬は吠えるがモヒカンは進むをやっていたのが唯一だからだ。モヒカン族

見れば分かる通り、これがネットから失われても特に損失はないので、ワタシとしても特に何か手を打つ気はない。しかし、はてなグループを主な活動な場にしていた、ここに大事な蓄積がある人はいるはずで、そういう方々の不都合を最小限にしてほしいと願うばかりである。

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム

公開中の映画だし、この映画の場合、必然的に他作品のストーリーを前提とするので、以下ネタバレ注意と書かなければいけない。

ワタシは MCU 嫌いを公言している奇特な人間だが、『スパイダーマン:ホームカミング』が面白かったので、7月最初の金曜日のレイトショーを吹替版で観た。

話としては、やはりというべきか『アベンジャーズ/エンドゲーム』その後、親愛なる隣人、ローカルヒーローとしてのスパイダーマンの在り方と、トニー・スターク亡き後の責任との板挟みの話であり、そうなると舞台がミッドタウンの範囲に収まっては迫力に欠けるわけで、必然的にヨーロッパを舞台とした一種の観光映画になっている。

だから、本作には観光映画的散漫さがどうしてもあるが、一連の MCU 作品の中で唯一と言える青春映画としてのスパイダーマンが好きだ。今回もネッドが良い味出してたと思うし、MJ の造形にも好感を持った(そういえば、彼女を演じるゼンデイヤは「The OA」セカンドシーズンにも出てたっけ)。あと、最後にあの人が再登場するとは思わなかったな。

まぁ、本作もちゃんと楽しませてもらった。正直に書けば、これで MCU の一つのフェーズが一区切りつき(そういえば、本作からスタン・リーは登場しないのだな)、しばらくはこれから離れていられるという安堵がある……のだが、本作はフェイクニュースで続編まで引っ張る終わり方なんだよな!

あと、ワタシが観た回、レッド・ツェッペリンのネタで笑ったのは劇場でワタシだけみたいだったが、さすがにあれが分からなかった人はいない……と思いたいのだけど、そうでもないのかな。

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