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9月22日開催の「技術書典7」にて『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』特別版を販売します

9月22日に開催される技術書オンリーイベント「技術書典7」達人出版会ブースにおいて、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の特別版(紙版)を販売することを達人出版会高橋征義さんに教えていただいた。

この特別版はおよそ一年前の「技術書典5」に向けて製作した紙版である。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』については、全体で結構なページ数になるため、紙版で持っておきたい/読みたいという声をワタシも聞いている。

高橋さんによるとそれなりの在庫を持っていくそうで、技術書典専用のスマホ決済では割引を行うらしいし、これを機会にどうか一家に一冊『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』ということでよろしくお願いいたします。

ジェフリー・エプスタインからの寄付をめぐるMITメディアラボと伊藤穣一の火だるま状態はともかくとして、ローナン・ファローのタイムリーな新刊が出る

児童買春の罪で有罪判決を受け、また性的人身売買の疑いがかけられ、逮捕されて拘留されていた拘置所内で首を吊って自殺した大富豪のジェフリー・エプスタインから MIT メディアラボが多額の寄付を受けていた件については、所長の伊藤穣一が当初の説明と異なり、性犯罪者として有罪判決を受けていたエプスタインの立場を認識しながら寄付を受けとっていたことを暴かれ、辞職に追い込まれた。

伊藤穣一については、15年ほど前は彼の名前を検索するとワタシが彼をボロクソに書いた文章(あえてリンクはしません)が上位に出てくると呆れるように言われたものだが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』にも彼の名前は何度か登場するし、最近の仕事では、「アルゴリズムがつくる「公正さ」には、差別を助長する危険性が潜んでいる」などを高く評価していたので残念には思う。が、いたしかたないでしょう。

当初は伊藤穣一錚々たる面々が擁護していたが、上記の当初の説明との相違が暴露されるとそうした動きも雲散霧消といった案配だが、彼を最後まで擁護しているのがローレンス・レッシグである。

エプスタインのような要注意人物からの寄付は、売名や免罪符に使われないよう匿名にすべきという論点は一考に値するし、政治になんでも透明性を求めるのは逆効果であると論じた10年前の Against Transparency と同じく、一見耳障りの悪い話をあえて訴えるところにレッシグの良心を感じたが、結局はエプスタインからの金で研究していたことを知った研究者たちのことを知れば、レッシグも後悔の念しかないわけで、この擁護はいかにも苦しい。個人的には、児童性虐待の被害者でもあるレッシグにエプスタインのことを相談したという伊藤穣一に心底呆れるし、それに付き合うレッシグも人が良すぎたとしか思わない。

本件は伊藤穣一の辞任だけではとどまらず、MIT メディアラボの存在に対する懐疑、さらには一歩進んだ解体論まで出ているが、MIT メディアラボの初代所長であるニコラス・ネグロポンテの人間性をえぐる MIT Technology Review の記事もそのあと押しになるかもしれない。

また MIT メディアラボだけに留まらず、MIT 学長も寄付について知っていたこと、やはり同じく寄付を受けていたハーバード大学スタンフォード大学も批判を受け、リチャード・ストールマンにも火の手があがるなど、今後も延焼はいろいろ続くだろう。これがダナ・ボイドが言うところのテック業界が直面する「大いなる代償(Great Reckoning)」なんでしょうね。

なんといっても今回伊藤穣一を辞任に追いやったのは New Yorker に掲載されたローナン・ファローの記事である。彼は2017年にやはり New Yorker に掲載されたハーヴェイ・ワインスタインの性的虐待を報じた記事ピューリッツァー賞を受賞しており、今回 MeToo 運動の火の手をあげたジャーナリストにより止めが刺されたというのも示唆的である。

そのローナン・ファローは、ミア・ファローウディ・アレンとの実子と紹介されるのだけど、彼の顔写真を見ればそれはないのは一目瞭然で、ミア・ファローも認めるように父親はフランク・シナトラだろう。

個人的にはローナン・ファローによい感情を持ってないし、今回の件でもレッシグは上でリンクした文章の中で彼の記事にある誤りを指摘しているのに注意が必要だが、彼が優れたジャーナリストであるのは疑いないだろう。

ローナン・ファローは昨年、アメリカの国際的な影響力低下について論じる『War on Peace』(asin:0393652106asin:B00ODG9XX2)という本を発表している。オバマ政権下で外交チームに属したという実務経験もあり、本来そうした分野の書き手だったと思うが、来月早くも新刊が出る。

Catch and Kill: Lies, Spies and a Conspiracy to Protect Predators

Catch and Kill: Lies, Spies and a Conspiracy to Protect Predators

Catch and Kill: Lies, Spies, and a Conspiracy to Protect Predators (English Edition)

Catch and Kill: Lies, Spies, and a Conspiracy to Protect Predators (English Edition)

これはズバリここ数年の調査報道記者としての仕事を受けての本のようだ。富とコネを持つ男性がジャーナリストを脅かす監視や脅迫について語られているようで、ハーヴェイ・ワインスタインがターゲットなのは間違いないが、ジェフリー・エプスタインの話まで含まれるかは分からない。

これは邦訳が期待される新刊である。

トマ・ピケティの新刊『資本とイデオロギー』は富の不平等がイデオロギーにどのような影響を及ぼすかを論じる

世界的ベストセラーとなった『21世紀の資本』(asin:4622078767asin:B00VQ75FAQ)に続くトマ・ピケティの新刊が出たそうな。

Capital and Ideology

Capital and Ideology

おい、ちょっと待った。まだ出てないやないか……と思ったら、来年2月に出るのは英語版で、ピケティはフランス人なんだからフランス語版が最初か。今月それが出ている。

Capital et idéologie

Capital et idéologie

英語版の翻訳とともに日本語版の話も山形浩生などに行っているのだろうが、それはともかく重要なのはその内容である。

新刊のタイトルは『資本とイデオロギー』で、富の不平等がイデオロギーにどのような影響を及ぼすかを論じた本である。

ピケティは「バラモン左翼(Brahmin left)」と「商業右翼(merchant right)」という言葉を使っているが、左翼や社会民主主義勢力が、教育水準が低く貧しい人たちの政党から教育水準が高く裕福なミドルクラスや上流階級の政党へと徐々に変化していく一方で、高収入で裕福な層は依然としてビジネスエリートとしての価値観で保守政党に投票し続ける構図がある。

その結果、教育と所得の移動を受けられなかった人々を代表する政党がなくなり、そうした層の受け皿が「ポピュリスト政党」になるというわけである。

ワタシは『21世紀の資本』のことを「資本主義社会では元から資本を持つ者がますます富むことになるという、庶民がとっくに薄々実感していたことを、経済学者にも分かるように書いた大著」と書いたことがあるが、新刊は(前作が経済学者にとってそうであったように)政治学者が自分の専門分野の見方を変える本になるだろうか。

ビル・ブルーフォードは引退から復帰してくれないのだろうか?(答え:してくれません)

ビル・ブルーフォード(今でもビル・ブラフォードと表記したい気持ちがありますが)は、フリップ真理教信者を称するワタシ的には大変な重要人物であり、キング・クリムゾンやイエスにおける彼の張りつめたドラミングが大好きである。

その彼はちょうど10年前、60歳になったのを機に音楽業界をすっぱり引退してしまったのだが、彼のバンド Earthworks の24枚組ボックスセットが出たのを機にインタビューを受けている。

ワタシのような人間からすると、失礼ながら Earthworks の話は興味がなく、やはりクリムゾン絡みになってしまうのだが、このインタビューの後半で、「リック・ウェイクマンエイドリアン・ブリューは、あなたに引退からの復帰を考えるよう求めてきました。その種の引き合いにどう答えますか?」という質問に対して答えている。

ブルーフォードの回答をざっと訳しておく。誤訳があったらごめん。

6月末にロイヤル・アルバート・ホールであったキング・クリムゾンのコンサートに行ったばかりなんだ。彼らが私にステージで「21世紀の精神異常者」の演奏に加わるようお願いしてきたんで、楽屋から去らなきゃならないと思った。私はもう9年かそこらドラムキットに触っておらず、とても困難なのを説明しなければならなかった。やりたくなかったんだよ。でもねぇ、そこにいた人たちはとても歓迎してくれて、カムバックしてドラムを演奏するよう励ましてくれた。私はそういう人間じゃないんだ。私はそういうのから手を引いていて、もうやることはない。

リックには2017年にイエスがロックの殿堂入りしたときに会った。彼は元気だったよ。彼は私の住む街にまでやってきて、チャリティーライブでデヴィッド・ボウイの「Life on Mars?」なんかを演奏して地元の人を感動させてもくれた。ヤツときたらキーボードに覆いかぶさって、満ち足りたセイウチみたいだったよ(笑)。

エイドリアンはいつだって私のドラマーとしての活動をものすごく激励してくれたし、とても満足してくれていた。ありがたいことにね。我々二人とも1980年代のキング・クリムゾンをとても愛している。あのときは私は確かにうまくやった。オーディエンスが好きかは分からないが、私は好きだ。でも、思うにロバートは80年代のクリムゾンにそれほど満足してなかった。ロバートは今のキング・クリムゾンに満足しているよ。

というわけで、そんな簡単に引退を撤回するわけはないですか。

6月末にロイヤル・アルバート・ホールの楽屋で、ビル・ブルーフォードとロバート・フリップはどういう会話を交わしたんだろう。正直、それは知りたい。

山下達郎のライブに初めて行ってきた

山下達郎の音楽は、物心ついた1980年代前半から聴いてきたが、実は彼のライブに自分が行くということ自体考えられなかった。自分でも不思議になるが、ワタシなんかが行くところじゃないと当然のように思い込んでいたのだ。

アリーナなど大会場では絶対やらない彼のライブのチケットが大変な競争率となることも、そう思い込む理由の一つにはあったが、今回期待せずに申し込んだ彼のライブチケットが抽選に当たったのである。が、やはり自分が山下達郎のライブに行けるということ自体が信じられない気持ちがあった。

結論から言うと、3時間15分に及ぶライブは、ワタシの数少ないライブ経験で言っても他人の参考にはならないが、人生至高のライブ体験であり、控えめにいって最高すぎた。

「ドーナツ・ソング」のイントロが流れる中「さよなら夏の日」を歌い、「でも、まだクソ暑いじゃねぇか」と茶々を入れてからの歌いだし、そして曲の後半ドクター・ジョンの「アイコ・アイコ」、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」などをおり混ぜるあたりの所作を見て、本当にこの人は落語が好きなんだなと感動した。

例えば「土曜日の恋人」など「ひょうきん族」世代のワタシなどからするとライブでやって当然なんだろうと思っていたが、今回が2回目とのことで、この日のセットでは同じく演るのが「2回目」という曲がいくつかあった。

かつてはライブ演奏不可能だった曲の演奏を可能にしたのは、テクノロジーの進化とともに、2008年以降メンバーチェンジなしに毎年ツアーをやっている総勢9人のバックバンドの存在があり、この日の MC でもこのバンドで可能になったことについて何度も触れていたが、それだけに来年はツアーをやらない宣言には客席から悲鳴があがった。

その理由として真っ先に挙げられたのは、2020年東京オリンピックで、ライブ会場や機材の輸送などいろいろと支障が出るのが目に見えているからとのこと。ただ何より2011年の『Ray Of Hope』(asin:B0052VI2Y8)以来出ていないアルバムの制作、滞っている過去作のリマスター作業、それに長らくアルバムを作ってないので最新のテクノロジー(ハードウェアとソフトウェアとも)の勉強、とやりたいことはいくらでもあるようで、活動の停滞ではない。それに伊藤広規難波弘之と3人でおよそ月イチでやってるライブはやるので、ライブ活動からも離れてしまうわけではない。

バンドの演奏についてワタシが何か書くことはないが、それにしても山下達郎の歌にしろ、ギターのカッティングにしろ、衰えを見せない演奏力はただただ感服するしかない。今では還暦過ぎてツアーをやる人は洋邦問わず多いが、その多くはオーディエンス側がかつての記憶で補完するのが前提になっており、山下達郎のような水準を維持している人は世界的にもまれだろう。ただ彼のライブ初体験のワタシからすると、こういうのもテープ(正確にはプログラミング済の音源か)使うんだ、と思ったところもあった。

MC でも自分が年金受給者の年齢になったこと、鬼籍に入る音楽仲間が増えたことを語っていたが、その流れで大瀧詠一の話になり、訃報が伝わるとともに自分にも取材が来たが、関係があまりに近すぎたこと、そして大瀧詠一の熱狂的なファン(ナイアガラー)があまり好きではなく、彼らを喜ばせるコメントをしたくなかったため、そうした依頼は断ってきたが、今年で七回忌になり、彼が亡くなった年齢を超えることもあってこだわりも薄れてきたことを語り、「君は天然色」が歌われた。この曲は大瀧詠一とカラオケに行ったときに歌ったら、「この曲は君にあげる」と言われたそうである。

演奏後、「昨今の傾向として、自分の曲よりもカバーのほうが受けが良い」とコメントを入れるところが山下達郎らしいが、その後、「自分には大瀧詠一の曲を歌う義務があるし、その資格もある」と言った後に続けたインパクトの強い言葉は、あえてここには書かないでおく。

上でも書いた、曲中にまったく別の曲をガンガン歌っていくのは山下達郎の得意技なんだろうが、カーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」(ちょっとこれは勘違いかも)、はたまた自分の「希望という名の光」もやっちゃうし、しまいには竹内まりやの代表曲をえんえん歌い続け、アンコールではパネルまで持ち出して竹内まりやの新譜『Turntable』(asin:B07RM5Y5VX)の宣伝をやりだすところなど、本当にサービス精神に長けた人である(ワタシは既に CD を買っていたので、会場で買って山下達郎のサイン入り色紙をもらえばよかったと少し悔しかった)。そして、その姿勢が媚びでなく一種の攻撃性につながっている。

サービス精神といえば、最近の海外でのシティ・ポップ人気の話をした後で竹内まりやの「プラスティック・ラブ」をやり、「一昨年や昨年に続いて受け狙い」と意地悪そうに言ってから「ハイティーン・ブギ」をぶちかまし、アンコールでは「硝子の少年」までやってしまう。もちろん自分の代表曲も欠かさない。当然のように「クリスマス・イブ」はやるし、最後はマイクなしでものすごい歌声まで聴かせる「RIDE ON TIME」で終わり、と思いきや「DOWN TOWN」である。終わってみれば3時間15分、圧倒的だった。

その圧倒的なライブを、改装後ちょうど100回目のライブを行う、山下達郎自身が最高のホールという会場で観れて本当に良かった。ワタシ自身は三階席のほぼ最後列だったとはいえ。

ライブ終演後、バックバンドのメンバーがステージから去った後で山下達郎は、最近のギスギスした世の中について語っている。その具体的な内容については、彼の意図を曲げて伝えることになっては申し訳ないし、そうでなくても曲げて解釈されてしまうご時勢なのでここには書かないが、音楽体験としてのライブを考えるなら、そのバランスを一部崩してまで彼が憂慮を語ること自体の深刻さについて考えてしまった。

ハッピー・マンデーズの伝記映画のニュースを知って思い出したショーン・ライダーのかつての犯罪自慢

注意:以下、犯罪行為の話など不愉快な内容を含みます。

ハッピー・マンデーズの伝記映画が作られるとのことである。Kingink さんは「ショーン・ライダーの伝記映画って…世も末だ」と吐き捨てていたが、「マッドチェスターのパーティーシーンの重要人物になるまでのライダーの軌跡」を描くそうである。映画『24アワー・パーティ・ピープル』において、曲者ぞろいの登場人物の中でも完全に単なるゴロツキ扱いだったショーン・ライダーのロクデナシぶりをどこまで描けるのだろうかという不安がある。

そういうわけで、1989年から2004年までの15年間読者だった(実際には2008年ぐらいまで不定期で買っていた)雑誌 rockin' on から引用するコーナー「ロック問はず語り」を久しぶりにやることにする。

今回紹介するのは1996年9月号(表紙はセックス・ピストルズ)で、そこの通常のインタビュー記事ではなく、なぜか海外情報のページに掲載されていたショーン・ライダーのインタビューである。この当時はハッピー・マンデーズは解散しており、ショーン・ライダーがその後結成したブラック・グレープのファーストアルバムが大ヒットしていた。

そのインタビューは、ショーン・ライダーがハッピー・マンデーズのキャリア初期においてもガンガン犯罪行為をやっていた話を堂々と開陳するものである。およそ20年ぶりに読んだが、やはり時代を感じる。今これをやったら炎上間違いなしだろう。作品とクリエイターの人格は分けて考えるべき主義の強硬な支持者であるワタシもひるんでしまうくらいだ。

ケン・ローチ『天使の分け前』など、イギリスの映画を観て引いてしまうときがあって、そういえば『T2 トレインスポッティング』を観たとき、そうだこいつらひっでぇ奴らだったなと思ったものだが、ショーン・ライダーの話はそうした感覚を理解する助けになる……のかな?

とにかく、二百ポンドの給金をもらいながらバスでドイツ中走りまくって、荒しまくりのギッパリまくりってもんよ。あの時点じゃさ、ツアーなんて表向きのもんで、革ジャンだろうが靴だろうがもう何でもかんでも盗みまくりってもんだった。つまり、俺たちの稼ぎはせしめたものの合計ってなわけだ。特にスイスなんかに行くとアホみたいにせっせと万引きだとかクレジット・カードを細工する必要もなくて、ただレストランに入って玄関のところにかけてあるどっかのうすらばかのコートを持ちだしちゃえばそのコートだけで七百ポンドにはなるし、懐をみりゃお大事にその馬鹿の財布まで入ってるわけよ。俺たちなんてさ、そんなもんだったんだ。そうやって食ってたわけだ。

言っておくが、この前後にもドラッグ絡みの話などこってりしていて、そのあたりは割愛させてもらった。ここでの話は、かつての悪行自慢のため、いわゆる「ふかし」込みの可能性があることはご留意いただきたい……ってなんでワタシがフォローしてるんだよ。

さて、『24アワー・パーティ・ピープル』におけるショーン・ライダー登場場面の描写に関係する話もしている。あの話は実話だったんですね……。

おれとある連れとで、鼠退治用の劇薬を持ち歩いてマンチェスターをうろついていたことがあってさ。で、俺たち、鳩がとんでもなく嫌いだったんだ。ピカデリー・ガーデンじゃどこらじゅう鳩だらけで、バタバタしていて落ち着いて飯のチキンも食えないんだからさ。ま、今はさすがに俺もそこまで悪いことはしないけど、若かった頃はさあ……。あそこの鳩ときたら俺の食いもんまでひきちぎってくんだからよ! それで鳩に毒入りのパンを食わせたんだ。そうしたら、翌日には「デイリー・ミラー」紙にまで載ってたよ。"変質者、鳩に毒盛り!"とかね。空から鳩が落っこちてくるっていう。

そうそうチキンと言えば、『24アワー・パーティ・ピープル』でメジャーレーベルと契約の話をしているときにショーン・ライダーがバックレてしまう場面があったと思う。あのとき彼は「ケンタ行ってくるわ」と言って席を立ったのだが、彼の言うケンタとは KFC ではなくヘロインの隠語なのをスタッフは皆知っていたので、「もうこれはダメだ。帰ってこない」と分かっていたそうな。

このインタビューの最後、犯罪歴を持っていることが音楽業界に入って役に立ったと思うかという問いに対する回答は最高である。

わかんないなぁ。でも、業界にカモられる以上に俺たちの方がカモにしてやったとは思うよ。

果たして、「荒しまくりのギッパリまくり」だったキャリア初期をどう映画化するんでしょうか。

Greatest Hits

Greatest Hits

Amazon

『三体』を読み終えたところで『折りたたみ北京』文庫版が出ると聞いて喜んだが……

3か月以上前に書いたエントリだが、なぜか今頃はてなブックマーク数が増えている。

このエントリは、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の主題にも実はかなり密接な内容を含む話だったりする。

さて、件のエントリを書いたときは、劉慈欣『三体』はまだ刊行前だったが、先週ようやく Kindle 版を読み終えた。

三体

三体

三体

三体

いやぁ、面白かったねぇ。早く続編を! と言いたくなる次への期待を高める終わり方だったが、そんな早くに続編刊行が無茶なことはワタシにも分かる。Twitter のタイムラインを読んでいて、『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』が文庫化されるという情報を小耳に挟み、これはありがたい、と喜んだ。

……のだが、Amazon にページはできているものの、発売日もよく分からないんだよね。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (ハヤカワ文庫SF)

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (ハヤカワ文庫SF)

文庫版が出ると知ると単行本には手が伸びないが、今の自分の中の熱を活かさないのももったいない。このまま発売日がはっきりしないなら、ケン・リュウの短編集でも買おうかな……。

半世紀前のアメリカで女性ができなかった9つのこと

Twitter ユーザ @WPCelebration が、1971年のアメリカで女性ができなかったことを連投していて面白い。

簡単にリストをまとめておく。各項目の最後にカッコ内は、それが変わった年。

  1. 自分の名義でクレジットカードを持つ(1974年)
  2. 妊娠したからといって解雇されない(1978年)
  3. 陪審を務める(ユタ州では1879年からだが、アメリカすべての州となると1973年)
  4. 戦闘で前線に立つ(1973年より前は看護婦か補助スタッフしか認められなかった)
  5. アイビーリーグの大学で教育を受ける(エールやプリンストンは1969年、ハーバードは1977年まで女子生徒を受け入れなかった)
  6. 職場でのセクシャルハラスメントに対して訴訟を起こす(1977年)
  7. 夫が求めてもセックスに応じない(アメリカ全州で配偶者へのレイプが犯罪となったのは1993年!)
  8. 男性と同じ利率で医療保険を受給する(医療保険における性差別が違法となったのは2010年)
  9. 避妊のためのピル服用(これの歴史は長い議論になる)

今では至極当たり前に思えることでも、その権利を勝ち取るまで歴史があり、それが認められたのはそんな大昔ではないというのが分かる。なお、Ms. Magazine が2013年に似た趣旨の記事を公開している。

ボストンマラソンを走ることも半世紀前の女性には認められてなかったとな。

ネタ元は kottke.org

アメリカの女性の歴史【第2版】 (世界歴史叢書)

アメリカの女性の歴史【第2版】 (世界歴史叢書)

1999年は映画史上(最後の)最高の年だったか?

Twitter のタイムラインで Brian RafteryBest. Movie. Year. Ever. という本を知る。

Best. Movie. Year. Ever.: How 1999 Blew Up the Big Screen

Best. Movie. Year. Ever.: How 1999 Blew Up the Big Screen

Best. Movie. Year. Ever.: How 1999 Blew Up the Big Screen (English Edition)

Best. Movie. Year. Ever.: How 1999 Blew Up the Big Screen (English Edition)

タイトルを見れば分かるように、1999年は映画史上最高の年であることを論じた本である。

あれっ? と思ったのは、少し前に同様の趣旨の記事を読んだ覚えがあったから。記憶を辿って以下の記事だと思い当たった。

ただこの記事自体は2014年に書かれており、Brian Raftery の本の話は当然ながら出てこない。

ロジャー・イーバートの評点によると映画最良の年は1974年らしいが、確かにこの記事で名前が挙がる映画のリストを見ると、内容的に優れているだけでなく、後の影響力が大きい作品が並ぶ。

他にも名前が挙がってる作品はあるが、映画自体ワタシがよく知らないもの、単なる駄作だと思うものは外している(炎上したくないので具体的に名前を挙げるのは避けるが、『ファントム・メナス』のこと)。

しかし、1999年ということは、ちょうど20年前ということなんですね。当時はアメリカ映画もアメコミのヒーローものの映画化ばかりでも、過去のヒット作の続編/リメイク/リブート作ばかりではなかった。

この本の邦訳が待たれるところである。

アス

いやー、途中まで怖くて怖くてどうなるかと思った。以下、内容に踏み込むので、未見の人は観た後に読むのがよいです。

ジョーダン・ピールの監督デビュー作『ゲット・アウト』は、人種問題を非常にユニークな切り口で描いたホラー映画だったが、本作は持てる者と持たざる者の格差を背景として、持たざる者の復讐が文句なしのホラーとなって主人公家族(と観客)をいたぶる映画である。

本作では旧約聖書のエレミア書11章11節が何度も引き合いに出される。手元の新共同訳の聖書から該当部分を引用しておく。

 それゆえ、主はこう言われる。
「見よ、わたしは彼らに災いをくだす。彼らはこれを逃れることはできない。わたしに助けを求めて叫んでも、わたしはそれを聞き入れない。

この言葉の通り、本作は無慈悲な災いの話である。

とにかく観ている側の不安を喚起する演出がうまい。いやーな感じを増幅させていくところに『ヘレディタリー/継承』を思い出したくらい。主人公家族から遠慮なく収奪しようとする主人公家族の「影」たちという設定も現在的である。

最終的に主人公は自らの「影」と対決するのだが、実はここに至ってワタシの緊張感は切れてしまった。悪役が長々と自分の身の上を話すような演出はもはやクリシェであり、端的に詰まらないと感じるからだ。主人公もそんな話をいちいち最後まで聞いてないで、背中を向けてる相手にさっさとかかっていけよと思うし。

それに、そこで語られる「影」たちの存在理由というか設定が、あまりに荒唐無稽でクールダウンしてしまったところもある。『ゲット・アウト』のときは楳図かずおの『洗礼』を連想して想像力で補えたが、本作の場合、これだったら種明かしなんてしなくていいから、赤服の「影」たちがずーっと手をつないで並ぶ禍々しい画だけ見せてくれたほうがどんだけよかったかと思ったくらいである。

でも、本作は最後にヒネリがある。これも勘の良い人なら読める話だろうし蛇足と見る人もいるが、ワタシはここで、主人公が自らの「影」と対峙するまで、あの印象的な片側だけのエスカレーターをはじめ、地下の長い距離を迷いなくずんずん突き進めた理由、主人公の「影」である女性が「特別」だとみなされた理由などいろいろ一気に合点がいったし、本作の「持たざる者の持てる者に対する復讐」というテーマが再度浮かび上がり、これはうまいと唸った。

ただ上に書いたようにその時点でワタシ的にクールダウンしていたので、最終的にはちょうどよいくらいの感じだった(?)。

ブレイディみかこさんの新刊『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にワタシが友情出演していたという話(誇大表現)

ブレイディみかこさんの新刊(の片方)『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』特設ページ)を先月読了したのだが、すごく良かった。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、その主人公であるケン君を通じて「エンパシ―(empathy)」という言葉の意味を考えさせてくれる本である。ワタシは2014年の春にケン君に一度会ったことがあり、あのとき喫茶店の床に転がりながらタブレットでサッカー動画を見ていたお子さんがもう中学生とは……と自分が歳を取ったことをなにより思い知らされてしまったりもした。

せっかくなので、ブレイディみかこさんにこの本でグッときたところはいくつか挙げるメールを送ったのだが、その中のひとつである、ケン君が友達のティムにリサイクルされた制服をあげる場面について、著者自身から、あそこに出てくるアレはお前からもらったブツだと指摘され、こっちが驚いた。

 息子はいつまでも窓の脇に立ち、ガラスの向こうに小さくなっていく友人の姿を見送っていた。ティムの手元でぶらぶら揺れる日本の福砂屋のカステラの黄色い紙袋が、初夏の強い光を反射しながらてかてかと光っていた。(p.114)

そう、ティムに渡された制服を入れた福砂屋の紙袋は、ワタシが以前ブレイディみかこさんにあげた長崎土産の福砂屋のカステラを入れていた袋だったらしい。それ以降で福砂屋の紙袋をイギリスに持ち帰った覚えはないから、と。

確かに福砂屋の紙袋なんてそうそうもらうものではない。しかし、ワタシがあの土産をあげたのは、2013年の正月だったりする。物持ちいいな! と思わず笑ってしまったが、それはともかく、ワタシがあげた福砂屋の紙袋が海を渡り、何年も経って彼女の息子さんの友人の手に渡るなんて素敵な話じゃないか。

そういうわけで、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にワタシが友情出演していた話である(正確にはワタシがあげた紙袋)。

8月後半にブレイディみかこさんは来日されていたが、ブックスキューブリックでのトークイベントなど、ワタシが福岡にいたなら絶対かけつけたのに、と未だに死んだ子供の歳を数えるようなことを考えてしまうのが悲しい。

さて、ここからは例によってワタシの宣伝だが、そのブレイディみかこさんに「ボーナストラックの長編エッセイに泣きました」と言わしめた『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』もよろしくお願いします!

実は、彼女がある文芸誌に書き、ウェブでも読めるある書評にも、このボーナストラックの長編エッセイ「グッドバイ・ルック」の話が出てくるのだが、それに気づいたのって多分3人くらいじゃないのかな(笑)。

Rustこそがシステムプログラミングの未来(で、C言語はもはやアセンブリ相当)なら、Rustで書かれたドライバのコードをLinuxカーネルは受け入れるべきなのか?

Intel の主席エンジニアの Josh Triplett の Open Source Technology Summit 2019 での講演 Intel and Rust: the Future of Systems Programming を取り上げ、Rust こそがシステムプログラミングの未来であり、C 言語はもはやかつてのアセンブリ言語である。つまり、未だに OS などのシステムプログラミングの大部分で使われる C 言語は Rust に置き換えられるのではないかと見る記事である。

「Cを愛して…」という文章をワタシが訳したのももはや10年以上前、C が他言語に置き換えられる未来が遂に来るのかと遠い目になってしまう。もっともワタシ自身、4年近く C 言語でコーディングしてないんだよね……。

でも、本当にそうなるのだろうか? 手近なシステムプログラミングの現場である Linux カーネルの開発において、Rust で書かれたドライバのコードが受け入れられるのかという議論が起こるのは自然な話だろう。

これについては、件の講演者である Josh Triplett 自身がコメントを寄せており、Linux カーネルの有力開発者であるグレッグ・クロー=ハートマン(Greg Kroah-Hartman)と話をし、彼もドライバを Rust で書くカーネルフレームワークの受け入れに前向きとのコメントを得たらしい。

ただそれには条件があり、そのフレームワークはデフォルトでは有効にはならないし、そして C で書くよりも本当に優位性がないといけないとのこと。

リーナス・トーバルズはかつて C++ を「おぞましい言語」と呼び、「プロジェクトで使う言語を C に限定するのは、あのバカな「オブジェクト・モデル」のクソで台無しにしないためなんだよ」と悪態をついていたが、彼は Rust についてはどう思っているのだろう?

ネタ元は Slashdot

プログラミングRust

プログラミングRust

東京という都市に満ちている音について考察した研究書『Tokyo Listening』が面白そうだ

ニューヨーク州立大学でメディア研究と人類学の准教授である Lorraine Plourde が書いた『Tokyo Listening』という本が紹介されている。

Tokyo Listening: Sound and Sense in a Contemporary City (Music / Culture)

Tokyo Listening: Sound and Sense in a Contemporary City (Music / Culture)

この本は、人々が音楽を聴きに行く場所とデパートやスーパーなどいやおうなく BGM を聞かされてしまう場所の両方について東京という都市と音の関係を考察しているが、著者の興味をひいたのは後者のようだ。

この手の BGM、いわゆる Muzak はよくて大衆芸術、悪くて全体主義支配や監視の一種とまで言われてしまうが、その両方と違った考察を著者は行いたかったとのこと。

そうした東京の音を考察する研究が、ヴェイパーウェイブ(Vaporwave)などのサブジャンルにつながるわけだ。

この著者インタビューによると、著者は日本のスーパーや店舗で流れる音楽の制作企業に取材しており、そうした企業も快くインタビューに応じているようで、確かにそういう証言は読んでみたいな。邦訳出ないかな。

個人的にこのエントリを読んで驚いたのは、Onkyokei、つまり「音響系」のウィキペディアのページが、英語版はあるのに日本語版にはないこと。そういえば上でリンクした Muzak も日本語版ページはないんだよね。なんだかなぁ。

中国の一人っ子政策のおぞましさを描いた『One Child Nation』が気になる人はナンフー・ワン監督のTED講演「一人っ子政策の下で育つということ」を見よう

映画 One Child NationWikipediaRotten Tomatoes)だが、これはなかなか怖そうである。

Amazon Studios 配給なので、いずれは日本でも公開されるようだが、今のところそれがいつになるか分からない。と思ったら、この映画の監督であるナンフー・ワンが TED2019 で行った講演「一人っ子政策の下で育つということ」が日本語字幕付きで公開されている。

ナイスタイミングだし、6分足らずの長さなのでさくっと見ることができる。この映画に興味を持った人はひとまずこれを見ておくのがよいだろう。

中国「絶望」家族: 「一人っ子政策」は中国をどう変えたか

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

ストーリーに踏み込んでしまうので、未見の人は観た後に読んだほうがいいです。

クエンティン・タランティーノの映画は必ずしもワタシの体質には合わないとずっと思ってきたのだけど、本作は素晴らしかった。多分彼の最高傑作ではないだろうが、もしかしたら彼の映画でもっとも好きな一本かもしれない。彼の善心と悪意が両方あふれ出た傑作である。

本作を観るにあたり、シャロン・テート殺害事件、そしてそれを実行したチャールズ・マンソンのファミリーについての基本的な知識は必須である。ハリウッドが舞台だから、1960年代のテレビドラマ、映画界についての知識もあったほうがもちろんよいが、それに関してはワタシも大したレベルではない。その上で、タランティーノの旧作との関連とか読んでしまうと興が削がれる種類の作品なので、シャロン・テート殺害事件について分かっている人は、それ以上の事前知識なしに観るほうが間違いなく楽しめるだろう。

本作はある意味ストーリーがあってないような映画なのだけど、観客が本作から目を離すことができないのは、本作の登場人物でもあるシャロン・テートがどうなるか知っているからだ。本作では、ずっと場面ごとに日付が入り、ナレーションまで入ってくる。これは言うまでもなくドキュメンタリーっぽく見せかけているわけだ。本作は楽観的で、呑気ですらある空気が基調になっていて、ストーリーがどう転ぶか読めないが、一方で観客は自分たちが知ってしまっているカタストロフィに徐々に向かっていることに緊張の度を強める仕掛けになっている。

タランティーノはデビュー以来、音楽の使い方がうまいと言われてきた。本作はストーリーがない代わりにえんえん音楽が鳴りっぱなしで、それだけでちょうど半世紀前、1969年を表現してしまう。いかにもこれイケてるでしょ? みたいな目配せなしに雰囲気を作るところが本当にうまい。十年以上ぶりに聴いたストーンズの「アウト・オブ・タイム」がこんな気持ち良い曲だったなんて!

上で本作の仕掛けについて書いたが、(どうしてもある旧作の展開を思い出してしまう)クライマックスにいたり、それが一種のトリックであることが分かり、そしてこのつかみどころのない映画って結局なんなんだろうとなるのだが、シャロン・テートという一人の女性を肯定する作品なのだとワタシは思いますね。彼女自身は別に映画史に残る女優ではない。おバカな映画でおバカな役をやっていたりする。そのハリウッド的な日常における彼女を描くことで、彼女をしっかり肯定している。

彼女を演じたマーゴット・ロビーの台詞が少ないと難癖をつけたニューヨーク・タイムズの女性記者に対してタランティーノが回答を拒否したのは、なんでこの映画の意図が分からないんだと憤怒の念を抑えきれなかったのではないか。

クエンティン・タランティーノは、昨今の MeToo 運動で確実に痛手を負った。なにせ彼の作品の製作を一貫して手掛けてきたのはハーヴェイ・ワインスタイン(ワインスティーン)だし、ユマ・サーマン『キル・ビル Vol.2』でスタントなしに運転させられ、結果木に衝突して怪我を負わされたことを糾弾されてもいる。

しかし一方で、タランティーノ自身はうまく逃げおおせたと感じている人も少なからずいるのかもしれない。件の女性記者の質問の背景にもそういう感情があったのではないかと邪推する。そうした意味で、本作はタランティーノの反省があらわれている――なんていうお道徳的に都合のよい話にはならない(笑)。

本作では、ブラッド・ピット演じる主人公のスタントマン役のクリフ・ブースは(ロマン・ポランスキー役もそうだけど)、狭い坂道のシエロ・ドライブを不安を感じさせる速度でくだっていく。クリフ・ブースの愛車カルマンギアは、ユマ・サーマンが事故を起こしたのと同じモデルである。これはおそらく、あの記事に対するあてつけだろう。

そして、本作のクライマックスで、クソヒッピーどもは大変な目に合うのだが、女房殺しの疑いがあるクリフ・ブースという人物、しかも彼が LSD でラリっているという予防線が張ったうえで、女たちを完膚なきまでにボコボコにさせていて、上のあてつけも含め、タランティーノの悪意を感じる。それを不快に思う人もいるだろう。ワタシはどう感じたかと言うと、本作のクライマックスは最高でした、ハイ。

「彼の善心と悪意が両方あふれ出た傑作」というのはそういう意味である。映画はお道徳の教科書ではない。ワタシは本作を支持する。

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