当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

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noteに河口俊彦『大山康晴の晩節』ちくま文庫版解説を公開した

note に「河口俊彦『大山康晴の晩節』ちくま文庫版解説」を公開した。

今月はじめに「河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと」を note にて公開し、ありがたいことに好意的な感想をいくつもいただいたので、それに続くものはないかと考えたのだが、そもそもの始まりである『大山康晴の晩節』解説があるじゃないかと今さら思い当たった次第である。

大山康晴の晩節 (ちくま文庫)

大山康晴の晩節 (ちくま文庫)

ちくま文庫版『大山康晴の晩節』は Amazon でも筑摩書房のサイトでも新品在庫なし、要は絶版状態であり、解説をネット公開したから売上にマイナスの影響を出版社に与えることはない。

念のため、解説執筆時の担当である筑摩書房の伊藤さんにメールを入れて了解を得た。伊藤さんからは米長邦雄永世棋聖についての文章についても過分な言葉をいただき、書いてよかったと嬉しく思った。

今回『大山康晴の晩節』解説を公開するのは、全文公開しながら課金するという note で可能な方式を試したくなったのがある。

ワタシは自分のサイト、ブログで公開するコンテンツについて、課金しないと全文読ませないというのは基本したくない。

前回「河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと」を公開して知ったのだが、note はこっちが無料公開しても、ユーザが投げ銭できるんですね。3000円(!)投げ銭してくれたユーザがいて仰天したのだが、今回の全文公開した上で値をつけてみたらどれくらいいくだろうと思ったわけである。

ところで、書籍や雑誌など紙媒体に書いた原稿のネット公開について厳密に法律的にどうというのは知らないが、基本的には雑誌であれば、その雑誌が本屋にある時期を過ぎればネット公開してよいようだ。

note にそうした過去自分が紙媒体やメルマガやネット媒体に書いた原稿をアップしていこうかといったん考えたのだが、何しろ10年以上前の技術系の文章だから、自分にとっての歴史的価値しかない。そういうのは本サイトで公開すべきではないかと思い直した。

本サイトのほうはごらんの通りのほぼ完全手書き HTML からなる Web 1.0 ウェブサイトで、今さらそれを変えるつもりはないのだが、できる範囲で少し手を入れていこうとここ数年思っており、それの良い機会かもしれない。

まぁ、それがめんどくさくなったので、やはり note をその公開先にと考え直す可能性はあるけどね(笑)。

そういうわけで、このブログの現在の存在理由である『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』もよろしくお願いします。

テキサス法科大学教授ロバート・チェスニーの電子書籍「サイバーセキュリティの法律、政策、制度」バージョン3.0が公開されている

ロバート・チェスニー(Robert M. Chesney)は肩書的にはテキサス法科大学教授であり、情報セキュリティとその法律に関するエキスパートなのだが、国家セキュリティ問題を扱うブログとして有名な(ブルース・シュナイアー先生もたまに寄稿している)Lawfare の共同創始者としても有名かな。彼はオバマ政権で拘留政策のタスクフォースにも携わっていたはず。

その彼が「Cybersecurity Law, Policy, and Institutions(サイバーセキュリティの法律、政策、制度)」と題した137ページもの電子書籍を PDF ファイルで公開している(チェスニーは「eCasebook」という言葉を使っている)。

ありがたいことに無料であるだけでなく、ライセンスが Creative Commons の「表示 4.0 国際」なので、自由な複製や再配布、そして翻訳の公開が可能である。

アメリカの)サイバーセキュリティに関する法律や政策の問題をテーマとする本格的な内容なので、誰か CC ライセンスで翻訳を公開……はハードルが高いか。何なら(電子)書籍の出版をどこか考えてくれる出版社ないですかね。

ネタ元は Four short links

ビットコインとブロックチェーンをゼロから概念的に組み立てながら解説する『詳解 ビットコイン』がオライリーから出る

オライリーから3月末に『詳解 ビットコイン』が出る。

ビットコインブロックチェーンをゼロから概念的に組み立てていきながら、その仕組みを深く理解するための解説書」とのことで、ビットコインなどについての著作が多い斉藤賢爾氏が監訳を手がけており、内容は確かだろう。

ビットコインブロックチェーンを組み立てながら解説する本というと、スクラッチからビットコインをプログラムして理解する『Programming Bitcoin』という本が昨年オライリー本家から出ており、てっきりそれの翻訳と思いきや、『詳解 ビットコイン』の原書はオライリー本家でなく Manning Publications から出た Grokking Bitcoin なんですね。

ということは、『詳解 ビットコイン』が大当たりとかでない限り、『Programming Bitcoin』の邦訳が出る可能性は低いのかもしれないねぇ。

さて、先週の世界的な相場下落に巻き込まれる形でビットコインも大きく値を下げたわけだが、こういう時勢に暗号通貨、暗号資産がどのような役割を果たしうるかというのも興味深いところである。

[2020年03月17日追記]:調べたら、『Programming Bitcoin』の邦訳も7月末に刊行予定だった! すいません、オライリージャパンさん。

プログラミング・ビットコイン

プログラミング・ビットコイン

  • 作者:Jimmy Song
  • 発売日: 2020/07/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ハーバード大学教授がボブ・ディランの詩をガチで論じる『Why Bob Dylan Matters』の邦訳がいずれ出る(歌詞全曲新訳本も)

トランネットの翻訳者オーディションで『Why Bob Dylan Matters』という本を知る。

Why Dylan Matters

Why Dylan Matters

Why Bob Dylan Matters (English Edition)

Why Bob Dylan Matters (English Edition)

2016年、ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞したというニュースは世界中を驚かせた。ミュージシャンが同賞を受賞するのは初めてのこと。いまだに「なぜボブ・ディランなのか?」「ディランにその価値があるのか?」といった議論が交わされている。

ハーバード大学の教授で古典詩の権威である著者は、有名なディラン・マニアでもあり、同大でディランの詩についての講義を行っている。以前は同僚たちから半ば馬鹿にされていた「ディラン講義」だが、ディランがノーベル賞を受賞した途端に注目を集め、著者には学者として受賞に対するコメントを求める声が殺到したという(『NHKスペシャル』にも登場)。

本書はこの講義の要点を一冊にまとめたもの。ディランの詩を解読しながら、彼の作品と時代との関係性、そして「ディランの詩の何が古典たり得るのか?」という本質的な疑問に迫る。

オーディション課題概要

なお、この本、今年秋には改訂版の刊行が告知されているのだが、果たして邦訳はこの改訂版に対応したものになるのだろうか?

Why Bob Dylan Matters, Revised Edition

Why Bob Dylan Matters, Revised Edition

著者の Richard F. Thomasハーバード大学の教授なのだが、彼の著書で邦訳が出るのはこれが初めてのはず。この本はディランの詩作をラテン文学史上に残る詩人であるウェルギリウスオウィディウスの文脈で論じるという、大学教授がお遊びで書いたものではなく、かなりガチな本みたいだ。

さて、ご存知のように例の問題のせいでボブ・ディランの花見目当ての(とはワタシが勝手に言ってるだけですが)ライブハウスで行う来日公演も中止となってしまった。

その来日公演に合わせてであろうディランの歌詞の全曲新訳本も出る。残念ながら来日公演はキャンセルされてしまったが、今回翻訳される本はこの全曲歌詞本の良き副読本になると思うよ。

The Lyrics 1961-1973

The Lyrics 1961-1973

The Lyrics 1974-2012

The Lyrics 1974-2012

「存在しない/実在しない」本の世界

えーっと、このタイトルだけ見ても何のことか分からないと思うのだが、津田大介『音楽業界IT戦争』(asin:4756150926)や八田真行『オルタナ右翼』(asin:4800311365)みたいに Amazon にページはできたが現実には刊行されなかった本の話ではなく、最近「〇〇は存在しない」と断言する本が多くないですか? という話である。

世界

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

やはり口火を切ったのはこの本だろうか。いや、あるだろ。

時間

時間は存在しない

時間は存在しない

なぜ時間は存在しないのか

なぜ時間は存在しないのか

こうやって並べられるのは著者からすれば不本意かもしれないが、昨年、今年と続けて出るとねぇ。

調べてみると、「存在しない」本の前には「実在しない」本も過去あったことを知る。

感染症

ダイヤモンド・プリンセス告発動画で一躍多くの人に名前を知られることになった神戸大学病院感染症内科の岩田健太郎氏の2009年の著書である。

意識

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

  • 作者:河野 哲也
  • 発売日: 2011/07/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

意識も実在しませんか!

(神の)見えざる手

今回取り上げた中では唯一「まぁ、そうでしょうね」と納得するものだったりする。

ブッダ

ブッダは実在しない (角川新書)

ブッダは実在しない (角川新書)

  • 発売日: 2015/11/10
  • メディア: 新書

えっ、ブッダも実在しないの?

というか、「歴史上有名だけど実在しない人物」のリストってウィキペディアにまとめられていたりするんだろうか。これについては下手に名前を挙げると怒られそうだが。

そういうわけで、このエントリに特にオチはない。新型コロナウィルスが存在しない世界だったらよかったのにと思うくらいで。

noteに「河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと」を公開した

note に「河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと」を公開した。

なんでメインブログであるこのはてなブログでなく、note に公開したのかというと、読めば分かる通り、この文章には加藤貞顕さんが登場するので、彼に敬意を表してというのがある。また、note にひとつくらい長い文章を公開して、自分のライティングスタイルに合うか試したいという気持ちもあった(今のところ合わない。が、慣れれば変わるかも)。

ただ何よりも、将棋をテーマにしていて、将棋界のことを知らないと基本的に伝わらない、読者層を限定する文章というのが大きい。『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』のプロモーションという現在の本ブログを趣旨を鑑みると、それとは別の場所で公開すべきと考えた次第である。

文章の最初を読めば分かる通り、これは今年1月末の公開を目指して書き始めたものである。しかし、公開は一月以上遅れて3月になってしまった。1月後半にワタシがインフルエンザにかかって執筆が滞ったというのがまずあるが、一番大きかったのはそれではない。

やはりこれである。例えばツイッターなどタイムラインも自分の投稿もどうしても新型コロナウィルスに関するものが多くなり、それにヘキエキとしつつ、タイムラインを見ていて怒りが喚起され、そして一人で疲弊する。

とにかくそれから離れた文章を書きたい気持ちがあった。別に誰に頼まれたわけでもない、お金をもらえるわけでもない文章をなんとしてでも書きあげなければならないと思ったわけである。

河口俊彦老師から伺った話をまとめるというのはずっと頭にあったが、現役の棋士にご迷惑をかけてはいけないというのもあり、なかなか手をつけられなかった。が、話の中心を故人にすることで、それを避けることができるのに思い当たった。そうなるとその対象は、ワタシの場合、おのずと米長邦雄になる。

たとえて言うと、「テリー・レノックスの側から書いた『長いお別れ』」というアイデアがあり、それが結果的に『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』のボーナストラック「グッドバイ・ルック」に部分的になったようなもので、ずっと書きたいと思いながら果たせてなかった米長邦雄についての文章を、老師からうかがった話を中心にすることで、元々書きたかった文章の三割くらいは形にできたのではないか。

大山康晴の晩節 (ちくま文庫)

大山康晴の晩節 (ちくま文庫)

盤上の人生 盤外の勝負

盤上の人生 盤外の勝負

  • 作者:河口 俊彦
  • 発売日: 2012/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

升田幸三の孤独

升田幸三の孤独

  • 作者:河口 俊彦
  • 発売日: 2013/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

テック系ジャーナリストの大御所スティーブン・レヴィがFacebookに切り込む最後の(?)渾身作が刊行された

一応日本語訳もある。

ティーブン・レヴィというと、『ハッカーズ』(asin:487593100X)でテック系ジャーナリストとして一躍有名になった人だが、近年は『iPodは何を変えたのか?』(asin:4797334150)や『グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ』などテック系大企業に取材した著書のイメージが強い。それができるくらい、この界隈の大御所ということですね。

そのスティーブン・レヴィが新刊で取材対象としたのはズバリ Facebook である。

Facebook: The Inside Story

Facebook: The Inside Story

  • 作者:Levy, Steven
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: ハードカバー

Facebook: The Inside Story

Facebook: The Inside Story

  • 作者:Levy, Steven
  • 発売日: 2020/02/25
  • メディア: ペーパーバック

Facebook: The Inside Story (English Edition)

Facebook: The Inside Story (English Edition)

Facebook: The Inside Story』という書名を見ると、AppleGoogle のときと同じくじっくり取材した本なのだろうと想像がつく。上でリンクした Wired の記事によると、レヴィが初めてマーク・ザッカーバーグと顔を合わせたのは2006年3月でそれ以来ザッカーバーグの動向は注視してきたが、この本の執筆に3年をかけ、その間マーク・ザッカーバーグと9回話をしたとのこと。

レヴィの本となれば、今年後半以降に邦訳が出るに決まっている。創業者をはじめとする企業としての Facebook についての本となると『フェイスブック 若き天才の野望』(asin:4822248372)あたりが有名だが(ワタシは読んでないけど)、そのおよそ10年後に出た決定版と言えるものになろうか。

AppleGoogleFacebook ときて、次に Amazon について書けば GAFA コンプリートだが、Verge の著者インタビューの最後の質問がズバリそれだったりする。それに対するレヴィの答えは、「ブラッド・ストーンがやってるよ」とのこと。つまり、『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』(asin:4822249816)があるじゃないというわけ。

現在レヴィは Wired の editor-at-large、つまりもはや編集長からあれこれ指図を受けることなく自由に書ける地位を確保しているようだが、その彼も来年には70歳になる。テック系のがっちりした本となると今回が最後になるかもしれない。

数十個もの開発者向けの法則や原理を集めた「ハッカーの法則集」

Four short links で知ったページだが、「ハッカーの法則集」と題された開発者向けの法則や原理を数十個まとめられていて、なかなか壮観である。

ワタシが2007年に公開した「人名を冠したソフトウェア開発の19の法則」で取り上げた法則はどうだろうと調べたら、19個中11個が入っていた。

ポステルの法則
パーキンソンの法則
パレートの法則
スタージョンの法則 ×
ピーターの法則
ホフスタッターの法則
マーフィーの法則
ブルックスの法則
コンウェイの法則
ケルクホフスの原理 ×
リーナスの法則 ×
リードの法則
メトカーフの法則
ムーアの法則
ロックの法則 ×
ヴィルトの法則 ×
ザウィンスキーの法則 ×
フィッツの法則 ×
ヒックの法則 ×

正直、思ったより少なかった。特にケルクホフスの原理、リーナスの法則、ヴィルトの法則が入ってないのは意外である。あとワタシが以前ブログで取り上げたのでは、「カニンガムの法則」が入っているね。

個人的には俳優のウィル・ウィトンにちなんだ「ウィトンの法則」が笑った。ご存知ない方は公式サイト(!)を見ていただきたい。

本文執筆時点で既に5か国語に翻訳されており、それ以外にも6か国語に翻訳中みたいだが、日本語訳はまだないみたい。どなたか挑戦してみてはいかがだろう。

一方で Reading List に挙げられている本は、すべて翻訳がありますな。

人月の神話【新装版】

人月の神話【新装版】

1917 命をかけた伝令

今年のアカデミー作品賞最有力候補で、そのアカデミー賞の発表直後に日本公開、本来なら最高のタイミングだったはずが、ご存知のように『パラサイト 半地下の家族』に持っていかれてしまった。

よくできた映画だった。ロジャー・ディーキンスの撮影は例によって見事の一言。でも、正直『パラサイト』がアカデミー作品賞で良かったと思う。

本作については、「全編ワンカット」というのが宣伝文句に多用されているが、これは正直逆効果ではないかとも思った。それはワタシが長回しにうるさい人間だからだけではない。確かに二か所はっきりカットが切れるところがあり、疑似でもないじゃないか、これなら『ロープ』のような古典のほうがよほど「ワンカット」に見せてるよと思っちゃったが、それで本作の価値が落ちるものでもない。

伝令の命令を遂行する二人の若い兵士をはじめ基本的なそこまで有名でない役者なのだが、そこにコリン・ファースやあの人といった名の知れた俳優が要所を締める形である。それにしても近年のマーク・ストロングのスクリーンに出てきただけで頼りになる感はなんなんだ。抱いて。

最初のほうで、ああ、この二人のうち多分こっちが任務を遂行し、もう片方は駄目なんだろうなと思っていたら、唐突な形で裏切られてしまう。このあっけなさも狙いなんだろう。そういえばこの片方はどこかで見たことがあったと思い出せなかったのだが、調べたら『パレードへようこそ』の彼だった。

あえなく失われる命、死体が転がりまくる惨状がよく描かれているのだが、当然そこにあるだろう「死臭」の演出が足りなかった。臭いを感じさせるところって、はじめのほうの馬の死体に蠅がたかるところくらいじゃなかったかな。

「全編ワンカット」には物言いをつけてしまうが、それでもそれでやりたかった演出の意図はよく分かり、緊張感が観客にも伝染する仕組みになっている。さて、伝令を主人公は伝えられるのか、そのあたり本作はうまい落としどころなのだろう。やはり最後の激走はすごかった。しかし、日の出とともに行う突撃攻撃を前にして大声で朗々と歌を歌うって、アンタら何やってんの? と正直思ってしまった。

ミッドサマー

ミッドサマー 豪華版2枚組 [Blu-ray]

ミッドサマー 豪華版2枚組 [Blu-ray]

  • 発売日: 2020/09/09
  • メディア: Blu-ray

世界中の映画ファンをいやーな気持ちに叩き込んだ『ヘレディタリー/継承』に続くアリ・アスターの長編2作目である。

前作が尋常でなかっただけに本作への期待値も相当上がっていたわけだが、今回もやってくれた。前作同様、本作も「ホラー映画」に分類されるが、本作は恋人たちや友人たちの会話が微妙に詰まってできる「間」の演出がよくできていて(主人公たちがどんどん自我を失っていく後半よりも、村に行くまでの前半特に)、むしろダークコメディ映画の傑作と言いたくなる。

家族に遺伝する精神疾患への恐れといった前作にも共通する要素がいくつもあるが、本作はスウェーデンの田舎町で行われる夏至祭が舞台で、ひたすら爽やかでまぶしい画に満ちている。最初のトリップの後、主人公がかけこむ建物がぐんにょーと歪んでいたが、他でも映像歪曲手法を駆使しているようで、いつの間にかアリ・アスターに感覚を支配される恐怖を味合わされる。そして、例によって本作でもヤツは観客を不安に叩き込む。

本作を観て、どうしても『ウィッカーマン』を連想してしまったが(というか、主人公の恋人の名前が「クリスチャン」なのは絶対それでしょ)、あの映画のエンディングにあった悲壮美は本作にはない。何しろこっちは炎に包まれるあの人の恰好がああで、それからも本作のダークコメディ性が分かる。

それにしても、ずっと理性で感情を抑制すべしという現代社会の規範に縛られていた主人公が、はじめて感情を爆発させて泣き叫び、最終的に草花に同化したような恰好でカルトコミューンの住人の価値観に屈服して飲み込まれるエンディングの前に、死を前にした登場人物を通してこの村の価値観の欺瞞をちゃんと描いているところも巧みだった。

……というか、歴代のメイクイーンが写真でしか出てこなかったことを考えると、あの後主人公も殺されるんじゃないのだろうか。

未来のプログラミングについて再考(機械学習とソフトウェア2.0、配管工プログラマ、オープンソースでは十分でない?)

昨年のエントリだが、その後現在までマイク・ルキダス(Mike Loukides、O'Reilly Media のコンテンツ戦略担当副社長)の文章を追って、これを書いていた当時ワタシが理解していなかった文脈、そしてそれに対応するニュースや問題意識が見えてきたところもあるのでつらつらと書いておきたい。

こちらは2019年末に、マイク・ルキダスが O'Reilly Media のチーフ・データサイエンティストである Ben Lorica と共に書いたエントリだが、2020年3月に開催される O'Reilly Strata Data & AI Conference に向けた露払いである。

ワタシはタイトルだけ見て、「ソフトウェア2.0? 今さら〇〇2.0は古いだろー」と思ったのだが、これは Tesla で AI 部門長を務める機械学習の専門家 Andrej Karpathy が2017年11月に公開した Software 2.0 というエントリに由来していて、当時日本圏でも話題になっていたのだが、ワタシは恥ずかしながら知らなかった。

プログラミング言語で開発が行われる従来のソフトウェアが Software 1.0 なら、機械学習を付加した新しいソフト工学の体系が Software 2.0 であり、そこではソフトウェアはニューラルネットワークの重み付けとして記述され、プログラマの仕事は(コードを書くことではなく)データを集めることなどになっていくという見立てである。

我々は未だ「パンチカード」を使っているようなもので、プログラミングはもっと視覚的なものになるべきではというマイク・ルキダスの考えの背景にはこの Software 2.0 の文脈があったのは間違いない。

この「ソフトウェア2.0への道」と題したエントリでは、ソフトウェア2.0は実現に向かっているが、まだその第一歩を踏み出した段階に過ぎないというのが現状認識である。そして、AmazonGoogle といったプラットフォーム企業をはじめとして AI、特に機械学習周りを中心とした様々な取り組みを紹介している。

個人的には、Google が買収した AppSheet などノーコード開発ツールの話題もこの文脈で重要になるのではないかと考えている。そして、そういうのも Google といったプラットフォーム企業に押さえられてしまうんだなという感慨もあるのだが。

こちらは2020年年頭のマイク・ルキダスのエントリだが、我々はプログラマの役割を再考すべきではないかと問いかけている。

ここで彼が引き合いに出すのは、以前にも紹介した「配管工」のアナロジーである。つまり、一口にプログラミングといっても、フレームワークやプラットフォームやプログラミング言語自体を作り上げる高度に訓練されたプロフェッショナルと、ディープなバックグラウンドはないがプログラム作り経験が豊富な人たちである「配管工」に分裂しているとうのだ。

ディープなコンピュータサイエンスの素養はないが優れたプログラミングスキルを有する「配管工」がプロフェッショナルのマーケットに参入する架け橋が必要だし、そうした取り組みは存在するが、一方で「なんでオレがクイックソートのプログラミングの仕方なんて学ばなきゃならないの? 何かソートしたけりゃライブラリ関数を呼ぶよ」と「配管工」プログラマが考えるのも確かなのを認めないといけない。

次にマイク・ルキダスが引き合いに出すのは Google の研究者たちによる論文 Hidden Technical Debt in Machine Learning Systems機械学習システムにおける隠れた技術的負債)で、機械学習というのはアプリケーションの比較的小さな部分に過ぎず、データパイプラインの構築やアプリのサーバインフラへの接続や監視機能の提供といった機能のほうが重要で、この地味な「配管工」向けの接続機能の実装がまずいとサービスの性能に関わってくる。これこそ半世紀の歴史がある既存のプログラミング言語ではなく、またそのパラダイムをビジュアル化しただけのビジュアルプログラミング言語でもない、「配管工」向けの視覚的なプログラミングツールがあるのではないかというのがマイク・ルキダスの見立てである。

さて、これは LWN.net で知った、デジタル・オーディオ・ワークステーションDAW)の Ardour の原作者である Paul Davis のフォーラムへの書き込みだが、ここまでの話につながる問題意識があるように思うのだ。

タイトルは「オープンソースはユーザが本当に望むものから脇にそれてないか?」という問いかけだが、彼が Ardour の開発に携わりだした頃、GPL 以外のライセンスは考えられなかったし、GPL がユーザにしかるべき自由を担保していると考えていたが、その考えが揺らいでいるという。

それはフォーラムであるユーザが、ソースコードをビルドすることなしに Ardour を拡張できるよう要望したことがきっかけである。Paul Davis は冗談だろ? とその要望を何度も却下したのだが、そのユーザも別の DAW である Reaperソースコードにアクセスしなくてもユーザ主導の拡張ができる反例として引き合いに出して折れない。

そうするうちに Paul Davis も、ほとんど誰も全体を理解できない技術インフラに立ち向かわせることでユーザに本当に自由を与えていると言えるのか、C++ のコードを書けばソフトウェアに貢献できるといっても、実際は開発者を遠ざけているのではないかと考えるようになった。

実は Ardour も、プログラムをビルドする必要なく高度な機能を書くことができる Lua API を提供している。が、Reaper などのプロプライエタリな競合にはビルドなしの拡張に関して劣る。2020年のコンピュータユーザは、リチャード・ストールマンが「フリーソフトウェア」を始めたときとは背景が異なる。当時「いじる自由(freedom to tinker)」とは、ソースコードを読み、手を入れて再ビルドする自由と同義だった。今もそれはフリーソフトウェアのコンセプトの重要な一面だが、多くのユーザはソースコードに関わるところから始めることを望んではいない。ユーザがアプリケーションを容易にカスタマイズできることこそ、大半のユーザが最重要視していることなのだ。

Paul Davis が提起する問題に対し、ソースコードに実際に触り貢献する人間が少数派だったのは今に始まった話ではないし、GPL などの自由なソフトウェアのライセンスが今も重要なのは変わりないという反論はあるだろう。Paul Davis も、フリーソフトウェアのコンセプトが今も重要であることは繰り返し書いている。一方で、アプリケーションを改良するのに、普通のユーザにコア開発者と同じように苦労しろと言えるのかという Paul Davis の問題意識も分かる。

この問題についても、プログラマと呼ばれる人種が、高度なプロフェッショナルと「配管工」に二極分化しているというマイク・ルキダスが書く話を補助線にすると見えてくるものがあるだろう。ここでも「配管工」のためのプログラミングパラダイムの必要性が浮かび上がるとワタシは思うのだ。

オライリー的には、上でも挙げた3月の O'Reilly Strata Data & AI Conference カンファレンスに加え、今月末の O’Reilly Software Architecture カンファレンスにそのあたりのヒントがありますよ、といったところだろうか。

ここまでの話とは直接は関係ないが、もうすぐオライリーから出る本では Lean AI がタイトルだけで売れそうな気がする。

Lean AI: How Innovative Startups Use Artificial Intelligence to Grow

Lean AI: How Innovative Startups Use Artificial Intelligence to Grow

  • 作者:Lomit Patel
  • 出版社/メーカー: Oreilly & Associates Inc
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: ハードカバー

Lean AI: How Innovative Startups Use Artificial Intelligence to Grow (English Edition)

Lean AI: How Innovative Startups Use Artificial Intelligence to Grow (English Edition)

  • 作者:Lomit Patel
  • 出版社/メーカー: O'Reilly Media
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: Kindle

Web 3.0がもたらす3つの革命

星暁雄さんのツイート経由で知った文章だが、面白かった。

正直「Web 3.0」というタームも、上で書いた「〇〇2.0」と同じくらい使い古されたものだけど、目的意識がはっきりして再度輝き出した感がある。目的意識とは何か? ズバリ、decentralization である。そうである、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』にもつながる話なのだ。

この文章は、ウェブの歴史のおさらいから始まる。

昨年ウェブは30周年を迎えた。しかし、ウェブの父ティム・バーナーズ=リーは、その現状が我々が望んだものとは思っていない。

1989年にウェブが誕生し、1995年を「Web 1.0」とすると、Web 1.0 は decentralized でありオープンソースであり(当時、その言葉は発明されてなかったが)、だからこそ GoogleAmazon が生まれる余地があったのだが、同時に read-only でもあった。

そして、その10年後の2005年が「Web 2.0」であり、ウェブは read-only から読み書き可能になった。が、同時にウェブは徐々に centralized になり、スマートフォンの普及もそれを後押しした。

ご存知の通り、「Web 2.0」という言葉は、ティム・オライリーが作ったバズワードであり、このキャッチーな言葉が広まるにつれ、「それなら Web 3.0 はどんなものになる?」というのが当時から言われた。

当時は「AI のウェブ」「VR のウェブ」を Web 3.0 と見立てる人がいたが、この文章の著者の Tony Aubé は納得しなかった。

で、昨年 Web3 Summit がベルリンで開催されたのだが、そこでのメッセージは明確だった。

Web 3.0 is about re-decentralizing the Web.(Web 3.0 はウェブを再度脱中央集権化する)

なぜ再度 decentralized にする必要があるのか。それは現在のウェブは壊れてしまったという認識があるからだ。その原因は以下の通り。

  • ウェブのデフォルトのビジネスモデルとしての広告
  • データ漏洩
  • 企業や政府による監視
  • 政府による検閲
  • データの損失(ウェブサイトの寿命は短い)

Web 3.0 はこれらの問題を解決するためにウェブの構成要素をアップデートしようという試みなのだ。Web 3.0 で何が変わるのか? 以下が Web 3.0 がもたらす3つの革命である。

  1. お金(支払い)がインターネットに元から備わる機能になる。
  2. 分散アプリケーションがユーザに新たな可能性を提供する。
  3. ユーザはデジタルアイデンティティとデータのコントロールをより握るようになる。

お金の話を可能にしたのは言うまでもなくビットコインなわけだが、それが可能にしたイノベーションを著者は Internet of Value(価値のインターネット)と呼んでいる。

分散アプリケーション、ユーザのデータのコントロールについてもブロックチェーン技術が可能にするという見立てである。

Web 3.0 により我々は仲介なしにお互いとやりとりができるようになり、それがウェブを再度脱中央集権化させると著者は宣言する。

面白いと思ったのは、Google のかつての非公式社是の「Don't be Evil」を引き合いに出し、Web 2.0 はこうした誓約に依存していたが、Web 3.0 はウェブの基盤を作り直すことで「Can't be Evil」になるという見方である。これはキャッチーだね。

これに対して、これを革命とは言い過ぎとか、見通しが楽観的過ぎるといった批判はあるだろう。しかし、かつて「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」を書いた人間としては読んで嬉しくなった。

それにこれを書いたのが Google AI の人というのも面白い。

アカデミー作品賞をとったのに今では相手にされることが少ない映画の代表格といえば?

さて、今年は本日2月10日にアカデミー賞が発表される。賞をとった映画だけが素晴らしいわけじゃないというのは歴史が証明しているが、とはいえ賞をとるのが名誉なのは間違いない。いろいろ言われるが、アカデミー賞にはまだそれだけの権威がある。

少し前に、アカデミー作品賞についてちょっと疑問に思ったことをツイートした。

これについていろんな声が寄せられた。そこで挙げられた映画を制作年が古い順に並べてみる。複数票の入った作品は太字にしている。

1970年代が1本、1980年代が3本、1990年代が3本、2000年代が3本、2010年代が4本、とむしろ近作のほうが多いのは面白い。単純に時間経過を考えると、もっと古い作品が多くてもおかしくないのだが、それだけ1970年代はアメリカンニューシネマ全盛で名作揃いということだろうか。

個人的にははっきり異を唱えたい作品もあるが(『アメリカン・ビューティー』とか)、こうしてみるとアカデミー賞作品賞に選ばれる作品って、投票する映画人におもねる、とまではいかなくても、彼らに好かれるというより嫌われない「無難」な映画になりがちという問題があるのかもしれない。

ここにあがってない映画で個人的に思うのは以下のあたり。

当然ながら、これにも異論があるだろう。ただ1980年代の『愛と〇〇の××』映画というだけで観たい気持ちがなくなるし、こうしてみるとワタシも kingink さんと同じくワインスタイン映画を多く挙げてるな。実はワタシは『恋におちたシェイクスピア』は好きな映画なのだが(脚本がトム・ストッパードだし)、昨年ようやく『プライベート・ライアン』を観て、これより上なんてとても思えないわけで。

さて、今日何がアカデミー作品賞を獲るのだろう。ノミネート数だけ見ると、『ジョーカー』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』『アイリッシュマン』になるが、特に『ジョーカー』は作品賞には危険すぎる。

そうなると『1917 命をかけた伝令』が最有力、そして全方位的に好かれている『パラサイト 半地下の家族』が対抗作ということになるのだろうか。『1917 命をかけた伝令』を授賞式の前に観れないのは残念だが、映画会社からしたら最高のタイミングでの日本公開できるのかもしれない。

ジョジョ・ラビット

『リチャード・ジュエル』と本作のどちらを観に行くか悩みに悩んだ末本作にしたのだが、これが実にチャーミングな映画でよくできていて、『リチャード・ジュエル』を観ればよかったと後悔した。

なぜか? この題材でチャーミングな映画なんか観たくなかったという心持ちになったからである。本作がニクいほどによくできていたのでなおさらそう思った。

本作は、ビートルズの「抱きしめたい」のドイツ語版で始まる。これは歴史上の人物としてではなく、主人公のイマジナリーフレンドとして本作の主要な登場人物であるアドルフ・ヒトラーが、それこそビートルズのような人気を誇っていたことを示唆しているのだが、本作はそうしたポップさに満ちている。

それは登場人物にもあらわれている。ほとんど悪役らしい悪役がいない。いたとしてもガキ大将レベルであったり、スティーヴン・マーチャント演じるゲシュタポも悪辣さでなく、その存在の滑稽さで飽くまでコメディに奉仕する役柄である。サム・ロックウェル演じる大尉からして、出てきた途端に有害な人物でないのがありありとしている。

かくも本作はポップでチャーミングなのだ。主人公が顔に負う傷も客を引かせるようなレベルでなく(それって、劇中の描写を考えておかしくない?)、飽くまで彼はチャーミングだ。戦時の暗さを微塵も感じさせない主人公の母親の思考や佇まいは、まるで現代の女性のそれである。本作を日本で誉めている人は、本作の舞台を日本に置き換え、彼女のような登場人物がいたら、それをリアルだと称えるだろうか?

それにしても本作はよくできている。主人公の母親が匿うユダヤ人の少女の存在は書き割りの如くだが、主人公と彼女の関わりがそれに膨らみをもたらしている。主人公の親友役のデブもいい味出している。それにワタシは本作について何度もポップでチャーミングと書くが、戦時を描く映画として持つべき苦さもちゃんと持っている。主人公の母親役のスカーレット・ヨハンソンも良いのだけど、だらしなくとぼけた感じのサム・ロックウェルが実に良くて、彼がおいしいところをもっていく。『スリー・ビルボード』にはさすがに及ばないが、『バイス』より本作のほうがよほどアカデミー賞助演男優賞ノミネートにふさわしいと思ったくらい。

あとスティーヴン・マーチャント、『LOGAN/ローガン』のときは驚いたものだが、もう彼は怪優枠でハリウッド映画に出演して違和感がないし、ワタシは観れていないのだが、監督として『ファイティング・ファミリー』のヒットも飛ばしている。すごいじゃないか。

さて、ビートルズとともに始まった本作は、最後にあの曲とともに終わる。それを感動的と評しても良いだろう……が、ワタシはどうしても文脈的におかしい思ってしまう。本作に感じる危うさを象徴するような曲の使い方だった。

テリー・ギリアムのドン・キホーテ

公式サイトによると、「構想30年、企画頓挫9回」を乗り越えて完成された執念の一作である。その苦闘の一端は『ロスト・イン・ラ・マンチャ』で観ることができるが、ワタシのようなギリアムのファンも、もうこれは呪われた企画なんだから止めておけばとずっと思っていたというのが正直なところである。つまり、「テリー・ギリアムドン・キホーテ」というより「テリー・ギリアムドン・キホーテ」が正しい。

本作はジャン・ロシュフォールジョン・ハートに捧げられているが、エンドロールの Special Thanks の筆頭に名前があがるマイケル・ペイリンを含め、何人もドン・キホーテ役をキャスティングされながら製作が果たせなかったのが結局は『未来世紀ブラジル』をはじめ、『バロン』や『ブラザーズ・グリム』でもギリアム作品にはおなじみであるジョナサン・プライスが収まっている。彼がこの役に相応しいところまで歳をとるまで時間がかかってしまったとも言えるだろう。元々はジョニー・デップだった役はアダム・ドライバーが務めており、大層ひどい目にあうのだが、彼らしい実に安定感のある演技を見せている。思えば、プライスとドライバーは、それぞれ『2人のローマ教皇』と『マリッジ・ストーリー』で今年のアカデミー賞主演男優賞にノミネートされているのは面白い偶然である。

はっきりいって、当初の企画とはまったく違ったものに脚本は変質してしまっただろう。アダム・ドライバー役など行き詰った CM 監督役で、『The Man Who Killed Don Quixote』は彼が卒業制作のために撮った映画であり、それによって人生が狂わされた人たちが本作の登場人物だったりする。映画の脚本自体が、完全にこの呪われた企画に取り込まれている。

正直に書くと、『ゼロの未来』がクソつまんなくて、ワタシはテリー・ギリアムはもう終わったと思っていた。しかし、本作においてジョナサン・プライスは確かにドン・キホーテだし、本作は確かに「ドン・キホーテを殺した男」になっているし、何よりテリー・ギリアム映画の興奮を感じさせてくれる。

テリー・ギリアム映画の興奮」とは何か? それは「夢、ファンタジーの力」である。企画自体が災難続きの呪われた映画という枠組みに完全に取り込まれ、ストーリーは端的に荒唐無稽と言ってよい。それでも本作には、ドン・キホーテ(それはすなわちギリアム自身)という狂った老人のファンタジーが現実に対してみっともなくもあがいてみせる、ギリアムの代表作であり、ファンタジーが現実と真っ向勝負をする『未来世紀ブラジル』や『バロン』、完全な請負監督なのに「これをやったらテリー・ギリアムの映画になってしまう」と思いついてグランド・セントラル駅を行き交う人々にワルツを踊らせる『フィッシャー・キング』と同等とはワタシも言わないが、確かにそれに通じる想像力の力を感じるのだ。それで十分である。

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