当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

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ワタシがNetflixで観たドラマをまとめておく(2019年秋~2021年夏編)

yamdas.hatenablog.com

思えば Netflix で観たドラマまとめを書いておよそ2年経つのに気づき、そろそろフォローアップを書いたほうがよいと思った次第。まぁ、夏休みに Netflix で観るドラマを決める一助にでもなれば、と。

例によって Netflix 制作でないドラマも含むし、前回名前を出したドラマは、その後のシーズンを観ていても原則取り上げないものとする。あと便宜上、ウィキペディア日本語版にページがあるものはそちらにリンクしているが、情報が古くダメダメなことが多いので、英語版にあたったほうがよいです。

ミンスキー・メソッド(NetflixWikipedia

マイケル・ダグラスアラン・アーキンという2人の芸達者のイチャイチャ大好き!

本当に最高だったが、今年放送されたファイナルのシーズン3はアラン・アーキンが出ていない。これにはかなりがっかりしたが、思えば彼はワタシの父親と同い年である。いつまでもあると思うな親とアーキン。

さて、そのファイナルシーズンではアーキンの代わりに(マイケル・ダグラスと1980年代何度も共演している)キャスリーン・ターナーが元妻役にして相棒役を務めている。その80年代の映画で印象が固定化されていたワタシ的には、現在の彼女はなかなかインパクトがあったが、その彼女が主人公の元妻を演じる重みは確かにあった。

Giri / Haji(NetflixWikipedia

平岳大も(国際的な作品では『沈黙 -サイレンス-』に続き)窪塚洋介も好演しており、これはもっと日本で評判になってしかるべきだったと思う。

あと男娼役のウィル・シャープも良くて、彼の「ダークよりもさらに暗い、真っ黒な笑い」Netflix で観れるようにならんかな。

ジ・エディ(NetflixWikipedia

『セッション』『ラ・ラ・ランド』に続くデイミアン・チャゼルの作品鑑賞だった。

彼の作品で使われる音楽については批判も多いが、その彼がパリのジャズクラブを舞台にしたドラマを作ったのに手強さを感じる。もちろん彼にもアメリカ人らしいパリに対する憧れはあるに違いないが、例えば『ミッドナイト・イン・パリ』のような打ち出し方ではなく、16mm フィルムでジョン・カサヴェテスを思わせる現代劇を撮ったのが面白い。

イントゥ・ザ・ナイト(NetflixWikipedia

ツイッターのタイムラインで名前を知ったんだったか。Netflix で観たドラマで(日本のものを除いて)英語圏以外で作られたものを初めて観たのがこれか。長すぎないコンパクトな作りがよかった。

太陽光線に曝されると死んでしまうため、飛行機で飛び続けるしかないという設定が強力で、その飛行機に乗り合わせた人たちの人間ドラマも面白いのだけど、ひと段落ついたところでシーズン1が終わり、さて、これからどんな展開があるのか。記憶がなくなる前にシーズン2が始まってほしいところ。

呪怨:呪いの家(NetflixWikipedia

呪怨最初のビデオ版「ホラー映画ベストテン」に入るほどで、最初の映画化までは観ているが、それ以降は興味をなくしてまったく追ってなかった。

今回のドラマ化は、少し違った気合の入り方を感じたので観た。本作は1980年代後半以降の日本の凶悪事件を取り込んでおり、もはや伽椰子も俊雄も出てこないのに確かに『呪怨』な「イヤー」感があるし、一部もはや SF じゃないかと思わせるぶっ飛び方もあるのも面白い。しかし……やはり伽椰子がいないとなぁ。

ホームランドNetflixWikipedia

以前から観たかったドラマだったので、Netflix に入ってるのを知ってこれ幸いと観てみた。クレア・デインズがうまい役者というのはもちろん知っていたが、いや、確かにこれはすごいね。

ただ、こういう長く続くドラマを追うと、費やす時間も大変なものになるし、また特に本作のような作品は精神的な疲労もあるので、シーズン2まで観て打ち止めとした。

5シーズンを超えてアメリカのドラマを追うなかれ、を家訓にすべきか。

ロシアン・ドール: 謎のタイムループ(NetflixWikipedia

イムループものはもはや定番化しつつあるが、本作は『パーム・スプリングス』に先んじて、同じ日を繰り返す人が複数という設定を持ち込み、成功している。

ドラッグ絡みの私生活の問題からの低迷から復帰したナターシャ・リオンが、そうしたバックグラウンドも思わせるあけすけな主人公を演じている。

シーズン2の制作も発表されているが、これ続きはありうるの? 観るかはまだ分からない。

コブラ会(NetflixWikipedia

元は YouTube でやっているのを横目で見ていたが、Netflix 配信に変わってめでたく最初から観れるようになった。

あの映画『ベスト・キッド』シリーズ(asin:B00OH4UK1Y)の続編で、主人公だったダニエル・ラルーソーもしっかり出ているが、あの第一作の敗者だったジョニー・ロレンスを主人公としているのがポイントで、その後イケてない人生を送ってきた(彼の絶頂期だった80年代の音楽愛好がいかにもらしい)彼が空手道場を立ち上げることで立ち直れるかをテーマとしている。

本作を観て感心するのは、深い考えなしに作られたであろう『ベスト・キッド』シリーズのペラッペラな設定や登場人物を、過去映像含めてしっかり活かしてドラマを成立させるアメリカのエンタメ界のクリエイティビティの在り方である(ジョン・クリースの憎々しさと言ったら!)。

この種のクリエイティビティはスターウォーズ新三部作でも最大限利用されているが、結局あちらは悲惨としか言いようがなかったのに、本作は若者パートの魅力も大きいけど、笑って楽しめる。シーズン3まで観終えたが、これは新シリーズも観ますよ。

クイーンズ・ギャンビット(NetflixWikipedia

yamdas.hatenablog.com

ザ・ホーンティング・オブ・ブライマナー(NetflixWikipedia

2年前のエントリで「近年もっとも衝撃を受けたドラマ」と激賞した『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』と同じくマイク・フラナガンが手がけており、こちらの原作はヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』である。

それほど評価したドラマの続編的作品だし(主役をはじめ、『ヒルハウス』に続いて出演のキャストが何人もいる)、マイク・フラナガンの映画は『ドクター・スリープ』Netflix に入っている『サイレント』、そして『ジェラルドのゲーム』(しまった! これは今年はじめに観たのに2021年上半期にNetflixで観た映画の感想まとめに入れるの忘れてた……)と彼が手がけたホラー映画は観ている。

そうして期待が高まりすぎたのもあり、楽しめはしたけど、本作はさすがに『ヒルハウス』には及ばなかった。前作みたいにマイク・フラナガンが全エピソード監督してくれたら違ったのかもしれないが、それを求めるのは酷だ。

原作以上に主人公の同性愛にフォーカスしているのが今どきか。ホラーとして『ヒルハウス』の衝撃はないが、「忘却」というものの怖さを描いていること、そしてそれが最終的なトリックになっているのは前作になかったところか。

ダッシュ&リリー(NetflixWikipedia

これは町山智浩さんが「赤江珠緒たまむすび」で紹介していて知ったドラマで、主役2人がキュートなクリスマスシーズンにぴったりなロマンティック・コメディ作品なので、観てない人は今年の終わり頃に観てみるといいですよ。

現代のクリスマスな作品なので当然ポーグスの「ニューヨークの夢(Fairytale of New York)」も出てくるが、主人公の男のほうがジョニ・ミッチェルの「River」を歌うシーンに驚いた。この曲もクリスマスの歌というのをまったく意識してなかったからだ。

ブルックリン・ナイン-ナイン(NetflixWikipedia

他の人の『パーム・スプリングス』の感想で、主人公のアンディ・サムバーグの佇まいが本作のままというのを知り、興味を持ったシットコム

Netflix で刺激の強い作りのドラマや映画をたて続けに見てると疲れるので、息抜き的にちょうどよいかと思ったら本当にその通りで、気楽に楽しめている。

今年放送のシーズン8で終わりらしいが、ワタシは今シーズン2を観ている途中で、シーズン3まで観ようかどうしようか。

運命の12人(NetflixWikipedia

昨年のうちに米光一成さんの文章で知ったドラマだが、今年になってようやく観れた。

ベルギーのドラマは初めてだったが、裁判制度の日本との違いが興味深かった。というか、20年近く時を隔てて行われた2件の殺人事件について同一の被告人に対して同時に裁判を行うってアリなのか? これはドラマだからかもしれないけど、事件の関係者にして重要証人もずっと裁判に参加しっぱなしだし。

タイトルからどうしても『十二人の怒れる男』を連想してしまうが、あれよりもさらに陪審員それぞれに事情があり、それに被告人や重要な関係者がそれぞれにウソをついていたり信頼できなくて、明らかに間違った(ネタバレなので中略)なのになんとも言えない気持ちになった。

本作の本筋とはまったく別のところで日本人(でも演じているのは多分日本人ではない)が登場し、暴力的なまでのいたたまれなさを発揮していたが、これはディスコミュニケーションのドラマとも言える。

瞳の奥に(NetflixWikipedia

これも米光一成さんの文章で知り、しかも「一切情報をいれずに観たほうがいい」とのことだったので、米光さんの文章自体もタイトル以外一切読まずに観た(今、初めて読んだ)。

いやー、これはエグいですね。主人公のシングルマザーがちょっといい感じの男性と知り合ったと思ったら、実は自分の新しい上司の弁護士であり、しかもその妻とも知り合いになってしまい、果たして彼らとの関係はどういう結末に……と思ってたら、うひゃー!

弁護士のなんとも曲者な妻のアデル役を演じるイヴ・ヒューソンは初めて観るが、えらく妖しい雰囲気のある女優さんだと思ったら、U2 のボノの娘なのか。

ラストは「世にも奇妙な物語」で名作とされるあるエピソードを思わせる展開で、そうなると全6話のうち5話をかけて見せてきたアデルが漂わせる不気味さの意味が一気に分かるのだが、ちょっとそれはないだろと思ったのも正直なところ。

マスター・オブ・ゼロ: シーズン3(NetflixWikipedia

本エントリの最初で「前回名前を出したドラマは、その後のシーズンを観ていても原則取り上げない」と書いたが、本作だけは例外として書いておきたい。

なぜかというと、このシーズンは過去2シーズンとはまったく違うからだ。

2年前のエントリで、アジズ・アンサリが行き過ぎたセクハラの嫌疑をかけられ、キャンセルカルチャーの被害にあったことに触れているが、このドラマのシーズン2の終わり、デフの共演相手がセクハラで失脚するという展開だったことを知る人間として、現実はとてもバツが悪く、果たしてこのドラマにどういう新機軸がありうるのか想像もできなかった。

何より本シーズンの主人公はアジズ・アンサリ演じるデフじゃない! 彼も少し登場するが、その友人のデニースが主人公である。デフがニューヨークで闊達に、しかし、ある意味普通に生きる面白さのドラマではない。デニースにしても、発表した小説が思わぬ成功を収め、郊外の一軒家でパートナーと暮らしている設定だ。複数の映画へのオマージュが見られるのは過去シーズンと共通するが、本シーズンの参照は、それこそ小津安二郎など家庭映画が多く、一種の映像的跳躍の役割を果たすものではない。

これは前シーズンまでのファンが期待した展開ではないだろう。前2シーズンほどでないとはいえ批評家の評価は高いが、本シーズンは Rotten Tomatoes の Audience Score がバツグンに低いのはその表れだろう。

しかし、本シーズンにワタシはアジズ・アンサリの誠実さを見るし、このシーズン3を心から支持する。そして、その支持は、ただ彼が誠実だからではない。何よりこのシーズンが現代のドラマとして優れているからだ。

このシーズンに垣間見られるデフの暮らしぶりはなかなか悲しい(しかも、パートナーはシーズン2のフランチェスカではない)。それは、アンサリが現実に負った傷と無関係とは言えないだろう。それでも次シーズンがあれば、今度はデフを主人公として復帰させてほしい。

ライン・オブ・デューティ(NetflixWikipedia

これは最終シーズンのフィナーレについて報じる記事を読んで、イギリスで大人気の警察ドラマというのに興味を持ったら、Netflix にあったのでこれ幸いと観た次第。シーズン1を完走したが、次シーズンも観るやろね。

警察ものといっても、警察組織内部の汚職特捜班が主役というのがポイントで、警察内部を半ば敵にしながら、その操作対象が追う事件を汚職特捜班も追うことになるところが面白い。警察組織の内部を描きながら、一種の酷薄さを感じるところに、古いがヘレン・ミレン出世作である『第一容疑者』を思い出したりした。

レミング役の人ってどこかで観たことがあるなと思ったら、『THIS IS ENGLAND』のロル役の人か!

カトラ(NetflixWikipedia

これも米光一成さんが「予備知識なしで観るのがベスト」と書いているところまで読んで止め、素直に観始めたドラマである。昨夜完走した。

アイスランドの火山近くの孤絶した町が舞台だが(タイトルの「カトラ」は火山の名前)、思えばアイスランドと聞いても、ビョークシガー・ロスくらいしか連想するものがなかったりする。本作は火山周りの自然が圧倒的な存在感を示す場面が多いが、どこまで CG なんだろう?

それにしてもこれは衝撃的で物騒なドラマである。内容に触れるとどうしてもネタバレにつながっちゃう。最初灰まみれの人物が登場するだけでかなり画的にヤバいのだが、それに慣れて油断していると、後半に本作の怖さの在り方にかなりやられる。

惑星ソラリス』を連想する人もいるだろうが、ワタシはどうしてもスティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』と『アス』、あと少しだけ『アナザー プラネット』を思い出した。

このドラマも最終回になってかなりショッキングな展開がある。クライマックスとなるアレでどちらが死んだのか、意図的に混乱させるカット割りになっていて、これは解釈の分かれるところなんだろうな。ワタシの中でも、どっちもありえて答えは出ていない。

Facebook内幕暴露本『An Ugly Truth』について日本のメディアで取り上げられる/取り上げられない話題

www.businessinsider.com.au

先月の話題になってしまうが、New York Times の記者2人が書いた Facebook の内幕を描く An Ugly Truth の内容がニュースになった。そこで話題となったのは、つまりは以下のような話である。

この手の話って昔は Google もあって、それが露見して社員のデータへのアクセスが厳しくなったのは有名……と過去形で語ってはいけないのかもしれない。今月になって、Google でもデータの悪用が理由で社員が解雇された話がニュースになっているからだ。

www.vice.com

正直、今の Google でもそれあるのかと思ってしまうが、それだけ普遍的な、誘惑の多い問題なのだろう(日本のテック企業は、さてどうでしょう?)。この手のニュースには前のめりになってしまうが、それはワタシがゲスだからではない(と思いたい)。

しかし、この Facebook 内幕暴露本『An Ugly Truth』について日本のニュースメディアで話題になっているのは、以下のようなシェリル・サンドバーグに関する話ばかりなんですよね。

japan.cnet.com

forbesjapan.com

シェリル・サンドバーグは世界有数のテック企業の COO なんだから、そりゃ彼女に関する話は重要だけど、この本ではもっと報じるべき身近な話題があるんじゃない? とも思ってしまうのよね。まぁ、ワタシの調べが足らないだけの可能性もあるけど。

www.nytimes.com

そんな話題ばかりの本ではないことを示すために、New York Times に掲載された書評もリンクしておこう(執筆者は『インスタグラム:野望の果ての真実』の著者のサラ・フライヤーだ)。この本の刊行に Facebook 側もかなり神経質になってるようだが、それだけいろいろ暴露されている本ということだろう。

この書評にもある通り、ロジャー・マクナミー『Zucked』シヴァ・ヴァイディアナサン『アンチソーシャルメディア』スティーブン・レヴィ『Facebook: The Inside Story』など Facebook 本は事欠かないが、これは邦訳が出るべき本だと思いますね。

インターネット・アーカイブのFMラジオ番組アーカイブでライブ音源がいくらでも聴ける

archive.org

八田真行さんのツイートで知ったのだが、Internet Archive は、FMラジオ番組のアーカイブ FM Radio Archive Collection も作っていたんだね。

しかし……これ、アーティスト側の許諾取ってないよね? Internet Archive って、結構こういう権利的にアウトなんじゃね、と思うものに手を出しているのが面白い。

それにしてもこれはすごい。これで有名バンド(やはりアメリカ勢が強い)のライブ音源をいくらでも聴ける。ワタシのようなロートル洋楽リスナーには天国のようなサービスで、適当にバンド名で検索しては聴いている。

ただなぁ、Internet Archive の音楽プレイヤーって、ブラウザで再生タブをトップに持ってきてないと次の曲に行かないという致命的な欠点があるのが玉に瑕でなので(これは Firefox だけの現象かもしれんが)、何か見つけては mp3 ファイルをダウンロードしている。

yamdas.hatenablog.com

思えばワタシも Internet Archive で公開されている音楽についてのエントリを書いているが、これが9年前か!

これにも書いているが、元からグレイトフル・デッドのライブ音源など大量にあるのだけど、上で紹介したアーカイブは元がラジオ番組なので、かっちりした構成というか適度なボリュームになっているのがありがたい。

バンド名だけでなく NHK-FM で検索したりして、マーヴィン・ゲイの1979年の武道館ライブを聴けたりする。ワオ!

当時彼の活動は低迷しており、このライブも後半駆け足だが(これは編集の問題か)、彼の歌声の美しさに変わりはない。

他にもボブ・ディランとニール・ヤングが1975年に共演したライブロバート・フリップがギターを弾くピーター・ガブリエルのソロ初期ライブなど貴重な音源も探すと出てくるので、ロートル洋楽リスナーの夏休みのお供にどうぞ。

ジャパニーズ・ブレックファストのKEXPライブが良かったので新譜を聴いた

Japanese Breakfast の新譜は聴いてなかったのだが、KEXPYouTube チャンネルで公開されているスタジオライブを試しに聴いてみたらとても良かった。

15分くらいのスタジオライブだと楽に聴けていいよね。というわけで、初めてアルバムを聴いてみた。またひとつ、新しい音を知れた。

これくらいの長さのスタジオライブというと、NPR の Tiny Desk がよく知られているが、KEXP のライブもなかなか良いものがある。

yamdas.hatenablog.com

そうそう、半年くらい前にネットラジオについての記事を紹介したんだった。そうした意味で、Worldwide FMSoho Radio など YouTube チャンネルでスタジオライブの映像を公開しているところは他にもある。

新しい音のきっかけは本当にいくらでもあるんですな。

アーシュラ・K・ル=グウィンが晩年に書いたブログと新刊『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』

boingboing.net

アーシュラ・K・ル=グウィンは2010年、81歳(!)でブログを始めた。そのブログはネットから削除されていたのだが、今回オンラインに戻ったとのこと。

アーシュラ・K・ル=グウィンが晩年も人気が衰えず、若いファンも獲得していたのは、このブログなど彼女が晩年も精力的に活動を続けてきたことが大きかったはずだ(彼女の死後に何冊も邦訳が出ていることもその反映だろう)。

おっと、ブログを読みたいが英語は苦手という人もご安心あれ。彼女のブログの一部は、昨年邦訳が出た『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』に収録されている。

www.kaminotane.com

ル=グウィンというと、今月新刊『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』が出たばかりだが、訳者の大久保ゆうさんの解説がオンライン公開されている。

これが訳者の細やかな目配りが伝わるとても良い文章で、ご一読をお勧めする。

訳者についてワタシは、今年のはじめに実は2020年は大久保ゆうさんの年だったと書いているが、2021年の仕事もお見事である。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』への反応 その45

このブログの読者でも、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の宣伝エントリはもうたくさん、と思われているかもしれないが、この電子書籍の宣伝こそがこのブログの存在意義なのでねぇ。

というわけで、先週末からの巷の話題を完全スルーして自著の宣伝に勤しむことにするが、河村書店に取り上げられるだけで嬉しかったですね。

このツイートで取り上げられているのは Kindle 版ですね。

この電子書籍の複数のバージョンの相違については過去エントリを参照ください。

その意思表示だけで嬉しいです! 今年のお盆の読書にいかがでしょうか。

もちろん買っていただいたほうがずっと嬉しいのは言うまでもないわけで。

もし読まれたら、感想もよろしくお願いします!

ロクサーヌ・ゲイが書く「なぜ人はオンラインではひどく不愉快なのか」

www.nytimes.com

作家のロクサーヌ・ゲイNew York Times に寄稿している文章が面白い。

彼女が Twitter を始めた14年前(つまり、2007年……ということはワタシと同じだ)にはミシガン州のアッパー半島に住んで大学院に通っていたが、彼女が住んでいた人口4000人ほどの町では、(彼女と同じ属性の)有色人種、クイア、物書きは少なく、大学院以外ではオンラインこそが彼女にとってのコミュニティだった。そこでフォローした新進気鋭の作家たちは今でも大切な友達だし、意見を交換したり、ミームに参加したりいろいろすることで、いわゆる集団的な興奮というものを味わったと振り返る。

しかし、根本的に何かが変わってしまったと彼女は書く。大方のソーシャルメディアはもう楽しめない。しばらく前からそう感じていたのだが、認めたくなかったのだ。

オンラインへの関わりが、多くの人たちが世界の現状や日々の生活で直面する問題に感じる絶望が、燃料になっていると彼女は指摘する。そしてオンライン空間には、不正は正されるという希望に満ちたフィクションがあって、そのせいで Twitter では、各々が小さな力を行使して、不正に報復し、悪人を罰し、心の純粋さを高める懲罰的な空気がある。

しかし、正義を追い求めるあまり、我々はバランスと基準を失ってしまったと彼女は書く。何か不正が明らかになったら、それこそ戦争犯罪人のように責められる。現実世界では、我々は全能のゴリアテを前に恐怖にすくむダビデだが、オンラインでは、我々は皆いきなりゴリアテ側になってしまうのだ。

オンラインで自分に影響力なり力があると認めるのは気まずいと前置きしてから、彼女は本を何冊も発表する過程で何十万人もの Twitter のフォロワーを獲得したことを書く。そうしたフォロワーの大半は彼女の仕事を評価してくれているが、その中には彼女を憎み、またその憎しみを裏付け、強化する証拠を見つけるためにフォローしているアンチもいる。何かしら理由をつけては彼女に嫌がらせする人もいる。

そのように当たり前のようにアンチから攻撃を受ける環境にいると、すべてが攻撃に感じられるようになるまで批判に敏感になってしまう。善意に基づく批判といちゃもんや残酷な攻撃の区別が難しくなる。かくして、かつては魅力的で楽しかった体験が、ストレスでひどく不愉快になる。我々は釘を探すハンマー、つまり叩けるものを探しては叩いて回るようになってしまった、と彼女は書く。

つまり、手段と目的を取り違えてしまっている状態ということだが、そのせいで元発言に対する誤解や拡大解釈から生まれるクソリプやら、十年以上前の戯言を持ち出しての攻撃やら……まぁ、皆さんご存知の話だらけになってしまう。

特にロクサーヌ・ゲイのような著名人はその傾向が強い。ソーシャルメディアでのクリックがあたかもその人全体のイデオロギーを代表するかのように「いいね」が執拗に分析されるし、何か間違いを犯せば、それはすぐさま救いようのない証拠になってしまう。しかし、その糾弾が間違っていたら、今度はミスの責任を問われた人が、「キャンセルカルチャー」の非人間性を断罪しながら、その窮地にある人の服を引き裂くような大合唱が起こる。

一方で、プラットフォームからほぼ制限されることなく怒りの対象を標的とする人種差別主義者、ホモフォビア、トランスフォビア、外国人嫌いがおり、しかもそれに加えて嬉々として混乱を巻き起こす真正の荒らしがいる。

長年インターネットを利用し、実際いろんなバカげた議論や対話に関わった経験から、オンラインでの怒りや敵意の原動力は、オフラインでの我々の無力感ではないか、とロクサーヌ・ゲイは分析する。オンラインでは善人でありたい、善いことをしたいと思ってはいるが、人間的な優しさはおろか、寛大さや忍耐力はほとんど持ち合わせていない。一方で、感情的安全性(emotional safety、心理的安全性と同じようなもの?)に対する抜き差しならない渇望がある。

それはつまり、自分が完璧で、他人も同じく完璧であれば困ったことはなくなるという絶望的な望みなわけで、それ自体は腹立たしいが、完全に理解もできると彼女は書く。少なくともオンラインでは、自分の主張を伝えることができ、それが誰かに聞いてもらえているという自覚を持てる。

オンラインにコントロールと正義を求めること、オンラインへの関わりが急激に悪化しがちなこと、そしてそれに疲れてしまう人がいることのいずれも不思議はないということだ。

ソーシャルメディアに費やした時間を後悔していない、とロクサーヌ・ゲイは書く。バーチャルな関係がきっかけとなって現実世界で冒険したこともあるし、自分自身に挑戦し、人間として成長する勇気を得た。

しかし、自分はもう以前とは違う。妻をはじめ家族もいて、仕事も忙しい。(『飢える私』で書かれる減量を経て)体が動くようになったので、積極的に外に出るようになった。今では、大半の時間を過ごすのはあまりネットを利用しない人たちで、インターネットでの奇妙だったりイラつかされる出来事について話すと、まるで自分が遠い国の外国語を話しているかのような顔をされがちだという。そして、ロクサーヌ・ゲイは、まあ、そうだよね(And, I suppose, I am.)、と締めている。

折角なので自分の文章に引き寄せると、どうしても以下の文章を思い出してしまう。

wirelesswire.jp

wirelesswire.jp

wirelesswire.jp

この文章のタイトル「なぜ人はオンラインではかくもひどいのか」の答えは「オフラインでの我々の無力感」ということなのだと思うが、やはり現実生活を充実させ、ネットから距離を取れる人間関係が重要という話になるのでしょうな。

ネタ元は kottke.org

オープンソースの終焉? ではなく次代の(技術、ガバナンス)モデルに移るべきという話

techcrunch.com

オープンソースの終焉?」という不穏なタイトルを掲げている文章だが、TechCrunch Japan ではなぜか翻訳されていないようだ。

このエントリは、今年の春にミネソタ大の研究者が研究のためとして Linux カーネルに意図的に脆弱性コードをコミットしようとし、Linux コミュニティが出禁措置を言い渡したのを受けてミネソタ大学がおわびの公開書簡を発表するにいたった Hypocrite Commits(偽善者のコミット)騒動の話から始まる。

この問題はオープンソースのエコシステムとそのユーザを脅かすもので、このエコシステムはいわゆる FOSS があらゆる人間の事業にますます重要になっているという問題と格闘してきた――と続くのだが、うーん、あの騒動はパッチ主の態度にかなり問題があったと思うのよね。

ともかく Mirantis の CTO でもある Shaun O’Meara は、現在メジャーなオープンソースプロジェクトは巨大化しており、その複雑さや開発速度は、従来の「コモンズ」アプローチや、もう少し進化したガバナンスモデルが対応できる規模をも超えていること、一部の営利団体が従来の FOSS 参加パターンを歪め始めている一方で、FOSS への参加者数は減少しているように見えること、また OSS のプロジェクトやエコシステムは多様で、営利組織が参加したりそれで利益を上げるのが難しい場合があるという問題を指摘する。

このあたり、昨年書いた「2020年においてもオープンソースの持続可能性、そしてビジネスモデルは一筋縄にはいかない」話を思い出した。

さて、一方でオープンソースへの脅威は進化し続けている。攻撃者はより大規模に、より賢く、より素早く、より忍耐強くなっているし、OSS が重要な分野に入っていることの裏返しで攻撃はこれまで以上に経済的、政治的利益をもたらす。Linux カーネルの規模と重要性を考えると、こういった脅威モデルと戦う準備ができていない。具体的には、これまで堅牢で安全なカーネルリリースにうまく機能してきた信頼システムの「インサイダー」モデルが悪用されてエクスプロイトコードがコミットされる危険である。

それに対応する策として、著者が挙げる方策は以下の通り。

  • モノカルチャーの広がりを制限する。オープンソースであるというだけでなく、技術的多様性(technical diversity)の導入が重要
  • プロジェクトのガバナンス、組織、資金を見直し、特定の人に完全に依存しないようにしながら、営利企業が専門知識などのリソースを提供する動機付けを行う
  • スタックを単純化し、コンポーネントを検証してコモディティ化を促進。セキュリティ面のしかるべき責任をアプリケーション層に押し上げる

ここまで書いていて、「オープンソースの終焉?」というタイトルはいくらなんでも釣りだと呆れてしまうが、技術的な多様性も重要なんだろうね。しかし、それにはオープンソースをこれまで支えてきた貢献者の文化をある程度変える必要もあるわけで、それができないと本当に「オープンソースの終焉」につながるんだろうかとも思った。

例によって端折っているところは多いし、ワタシが意味を取り違えているところもあるかもしれないので、詳しくは原文を読んでくだされ。

ネタ元は Slashdot

ソフトバンク幹部だったゲーリー・ギンズバーグによる米大統領とその親友についての本が面白そう

avc.com

フレッド・ウィルソンのブログで紹介されていた First Friends という新刊が面白そうである。

「我々の大統領を方向付けた強力で、脚光を浴びない(しかも選挙で選ばれていない)人たち」という副題を見ると分かるが、アメリカの歴代大統領とその親友との関係性にスポットライトをあてた本である。

この本で取り上げられる大統領とその友人の組み合わせは以下の通り。

おっと、他にもリチャード・ニクソンビル・クリントン(とその親友たち)の章もあるよ。

日本語版ウィキペディアにページがあるのは一人だけだが、デイヴィッド・オーンズビー=ゴアについては、JFK の死後、ジャクリーン夫人にプロポーズし、それを断る手紙が競売にかけられたのが数年前にニュースになっていたっけ。

あと、フランクリン・ルーズベルトとマーガレット・サックリーの関係については、十年くらい前に映画になってような。

で、ここまで書いていて、この本の著者 Gary Ginsberg の名前になんか覚えがあるなと引っかかったのだが、この人2018年にソフトバンクグループのグローバル広報担当で常務執行役員に就任し、今年春に退社したことが報じられたゲーリーギンズバーグじゃないですか。

50代後半になり、企業重役職もひと段落ということで本でも書いてみたというところだろうか。

本の話に戻ると、日本の首相で、影響を与えた(政治家でない)友人って誰かいるだろうか? 吉田茂白洲次郎? それもちょっと違うよな。

スチュアート・ブランドのドキュメンタリー映画『We Are as Gods』が完成していた

スチュアート・ブランドというと、現在では『ホール・アース・カタログ(Whole Earth Catalog)』創始者としてもっとも知られているが、ワタシも彼が立ち上げた Long Now 財団『How Buildings Learn』など彼の仕事を取り上げてきた。

彼のおそらくは最後の著書の邦訳が出て10年になるんやね。

blog.longnow.org

今更その Long Now 財団の4月のブログエントリを読んで知ったのだが、そのスチュアート・ブランドのドキュメンタリー映画『We Are As Gods』が作られているんですね。SXSW でプレミア上映されたとのこと。

「彼はまるでキルロイだ。重要なものが起こるたびにその背後に彼の姿がある」というコメントが印象的である。

このエントリでは、この映画の監督2人とブランド自身、そして彼の盟友ブライアン・イーノが対談を行っており、文字起こしもあるので、映画に興味のある方は見るとよいでしょう(あんまり言いたくないが、映画の日本公開は難しいだろうし)。

そのスチュアート・ブランドについては昨年 Wired に「スチュアート・ブランドは人工呼吸器を拒否することにした」という不穏なタイトルの記事が掲載されていたが、彼ももう80歳を過ぎている。生きてるうちにこのような伝記映画が作られたのは良いことである。

ブランド本人やイーノ(彼の曲も使われている)をはじめ、ダニエル・ヒリスケヴィン・ケリーなど彼と仕事をしてきた人たちがインタビューに答えている。

さて、調べてみると、やはり『We Are As Gods』に出演しており、近年では『人工知能は敵か味方か』(asin:4822251411)の邦訳があるジョン・マルコフによるスチュアート・ブランドの伝記本が来年春に出るみたい。こちらは是非邦訳が出てほしいところ。

ティム・オライリーの経済指南「なんでイーロン・マスクはそんなにリッチなのか」

www.oreilly.com

ティム・オライリー御大が O'Reilly Radar ブログに長文エントリを寄稿している。URL を見れば分かるが、当初のタイトルは「なんでイーロン・マスクはそんなにリッチなのか」だったが、ちょっと釣りタイトル過ぎると反省したのか、穏当なタイトルに変わっている。性格が悪いワタシは、その当初のタイトルを改めて掲げて、その内容を大まかにまとめてみたい。

今年のはじめ、短い間ながらもイーロン・マスクは世界でもっともリッチな人になった。彼の会社テスラの株価が上がったおかげで、一時は2000億ドルを超えた彼の純資産は、今では「たった」1550億ドルばかしに落ち着いている。

こんなことをもたらす経済の仕組み、具体的には何がよくて何が危険か理解するのが、我々の社会を引き裂かんとする激しい不平等に対処するのに欠かせないとオライリーは考えているわけだ。

賭博経済(betting economy)対事業経済(operating economy)

イーロン・マスクが資産をむちゃんこ増やしたニュースを受け、バーニー・サンダースは「2020年3月18日、イーロン・マスクの資産は245億ドル。2021年1月9日、イーロン・マスクの資産は2090億ドル。一方、アメリカの最低賃金は2009年も2021年も時給7.25ドル」とイヤミをツイートした。

1979年以降の生産性向上を反映するなら最低賃金は現在24ドルになってるはずで、最低賃金が上がってないのに怒るバーニー・サンダースは正しいが、イーロン・マスクの富がテスラの労働者を食い物にした結果と見るのは間違っているとオライリーは予防線を張る。

イーロン・マスクはテスラの利益を搾取するぼったくり男爵ではない。というか、テスラはずっと利益を出してなかったし、2020年にしても7.21億ドルの利益は、売上高の2%強に過ぎず、全然大したものじゃない。

マスクが勝ったのは株式市場における美人投票なのだ。理論的には、株価は継続的な利益とキャッシュフローを生み出す企業価値の反映だが、実際にはその企業の現状と無関係に乱高下することがある。

なんでイーロン・マスクはそんなにリッチなのか? それは人々が彼に賭けているからだ。しかも宝くじなど一般の賭けと違い、株式市場ではレースが終わる前に賞金を現金化できてしまう。

これがアメリカにおける不平等の最大の要因の一つであり、コロナ禍で(庶民が苦しむ一方で)金持ちが大いに資産を増やした理由でもある。

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ここまで読んで、どうしても以前解説したオライリーの文章を思い出してしまう。betting economy と operating economy の対比はこの文章にも出てくるが、このエントリに対する反応にも以下のようなものがあった。

ティム・オライリーが「シリコンバレーの終焉」について長文を書いていたのでまとめておく - YAMDAS現更新履歴

イーロン・マスクを気候変動億万長者の例としてあげてるようだけど、テスラはbetting economyの代表株だと思うのだが。

2021/04/21 00:42

イーロン・マスクを気候変動億万長者の例としてあげてるようだけど、テスラはbetting economyの代表株だと思うのだが。 - doas1999 のブックマーク / はてなブックマーク

確かにワタシは、この文章でオライリーはテスラを operating economy と見なしていると読んだのだが、上に引用したように反対だろと見る人もいるだろうし、今回の文章をここまで読んだだけでは、オライリーもテスラ(というかイーロン・マスク)を betting economy そのものと思ってるんじゃないのと読めてしまう。どうなのか?

確率はどれくらい?

株式市場がレース中に賭け金を現金化できるものなら、それなら何をもってレースは終了なのか? 起業家や初期ステージの投資家にとっては株式公開が一種のゴールだし、買収や事業停止もまたしかり。一方で、企業の利益で投資を回収する時点をもって「レースの終わり」とも言える。

例えば、100万ドルかけて会社を買い、その会社が年間10万ドルの利益を出すなら、投資額は10年で回収できる。もちろん、今日得られる1ドルと10年後、20年後に得られる1ドルは同価値ではないが、単純化してしまえば、株とはその会社の将来の利益と現在の価値に対する請求権と言える。

成長率も企業価値に影響を与える。株を買ったときにその企業のライフサイクルのどの段階にあるかでその所有価値は決まる。例えば、今の Apple などビッグテックが5万ドルの利益しかあげてなかったころに運よく株を買えたなら、わずかな投資であっても長期保有で億万長者になれるかもしれない。テスラもそうした企業になれるかもしれないが、既にテスラの株式市場での評価は十分高いので、その「未来を買う」チャンスは過ぎ去っている可能性が高い。

テスラの PER(株価収益率)1396で(注意:リンク先の数字は、当然オライリーが原文を書いたときとかなり異なる)、今テスラの株を買ったら、その資金を利益分配で取り戻すのに1400年近くかかることになる。最近テスラの収益は上がり、また株価もかなり下がっているので、今ならおよそ600年待つだけで済むよ。

もちろんテスラが自動車産業で圧倒的な強さを発揮して利益を増やす可能性はあるが、Big Market Delusion: Electric Vehicles という分析によると、電気自動車メーカーは売上も利益も少ない上に、将来的に競争が激化する可能性があるにもかかわらず、既に既存の自動車産業とほぼ同等の評価を受けている。

ならなんで投資家はテスラの株を買うのか? 簡単に言えば、テスラ株はもっと高い値段で誰かに売れると考えるからだ。17世紀のオランダのチューリップ・バブルを引き合いに出すまでもなく、そうしたバブルはいずれは崩壊する。

この賭博経済は、合理的な範囲内であれば良いもので、未来への投機的投資はいろんな新製品、生産性や生活水準の向上をもたらす。テスラは再生可能エネルギーのゴールドラッシュをもたらしたが、これは気候変動の問題を考える上で重要なことだ。賭博の熱狂は(インターネットの構築がそうだったように)有益な集団的フィクションとなりえるし、革命的な新技術が受け入れられるサイクルでバブルは自然な現象である。

ここでオライリーは賭博経済が道を踏み外した例として、WeWork と Clubhouse を挙げていて、シリコンバレーには、利益も出さず、ビジネスモデルも機能せず、収益への道筋もないのに時価総額が数十億ドルの企業が溢れている、と苦言を呈している。オライリーさん、Clubhouse は評価できませんか(笑)。関係ないですが、ワタシも先月末に Clubhouse のアカウントを削除しました。

そしてオライリーは、前回同様ケインズの『一般理論』から、「事業の安定した流れがあれば、その上のあぶくとして投機家がいても害はありません。でも事業のほうが投機の大渦におけるあぶくになってしまうと、その立場は深刻なものです。ある国の資本発展がカジノ活動の副産物になってしまったら、その仕事はたぶんまずい出来となるでしょう」のくだりを引用し、ここ数十年、ドットコムの崩壊、サブプライムローンの崩壊、現在のシリコンバレーの「ユニコーン」バブル、と経済全体が投機の渦に巻き込まれるのを目の当たりにしてきたと書く。

なぜバブルが重要なのか

賭博経済のプレイヤーは不釣り合いに裕福なので、負けることを恐れていない。株式市場の価値の半分以上をアメリカ人の上位1%が保有している。アメリカ人の下位50%は、株式市場のたった0.7%しか保有していないのにね。

地元の個人経営の会社なら、1ドルの利益はそのまま1ドルの価値だが、テスラは1ドルの利益で600ドルの株式市場価値を引き出す。このバブルこそが、現代の経済において、金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる理由の一つである。金持ちと貧乏人は、現実には別のルールで仕切られる別の経済に生きているのだ。金持ちの多くは、資産が金融化され、賭博経済に参加でき、何十年分もの将来の収益を反映した株価で評価される、つまり未来から無利子の巨額融資を受けられる「スーパーマネー」の世界に住んでいるのだ。

さて、ここまで読んだところで、オライリーが改題したタイトル「Two economies. Two sets of rules.」の意味、そして、その下に添えられた「イーロン・マスクはスーパーマンではない。だけど彼には「スーパーマネー」がある」という文の意味が分かるわけですな。

イーロン・マスクは世界を変える会社を二つも作り上げた(テスラとスペースX)。でもいくらなんでも富が多すぎやしないか? バーニー・サンダースが「億万長者は存在すべきではない」と言ったとき、マーク・ザッカーバーグは蓄積される富の中には理不尽なものもあると認めたが、何十億ドルもの報酬がないと起業家がイノベーションを起こさなくなるという考え方は、悪質な幻想である。

ならばどうすべきか

富裕層に税金を課し、その富を再分配すれば問題は解決すると思うかもしれない。実際、1970年代まで、つまりはレーガノミクス登場前は、所得税累進課税率が90%に達していたため、富の再分配と幅広い中産階級の形成がうまくいった。オライリーはそれはそれとして、幻の富を生み出している「賭博経済」にも歯止めをかける必要があるのではないかと訴える。

不平等を解消するには、「スーパーマネー」が経済で果たしている役割を認識しないといけない。それなしに増税しても効果は薄いというわけ。

しかし、政府がスーパーマネーに甘いという現実がある。世界中の中央銀行は、インフレを引き起こさずに成長率を維持するため、サブプライムローン問題以降、刷ったお金を世界中にばらまく「量的緩和」によってこれを実現しようとしている。それにより金利は低く保たれ、理論的には実体経済への投資が活発になり、雇用や工場やインフラに資金が供給されるはずだった。が、現実はそうはならず、あまりにも多くのお金が賭博経済に費やされてしまった。

株式市場が経済の中心となってしまい、株価が下がるような政策をとった政府は失敗したとみなされる。これは公共政策や投資判断の誤りにつながる。

ここでオライリーは、ワシントンポストのコラムニスト Steven Pearlstein2020年に書いた記事から、「FRB連邦準備銀行)は市場が活況なときには手綱を締めず、市場が下降線となるや、市場は合理的でないと大量の融資を行う。つまりは FRB は株価に床を与えるが、天井は与えない」というくだりを引用する。

中央銀行がやるべきこととして、オライリーが主張するのは以下の3点。

  • 最初は小幅に、そして時間をかけて積極的に金利を上げる。それでバブルは崩壊するかもしれないが、投資の裏付けを合理的に判断するようになり、市場は資本の配分をより適切に行えるようになる。
  • 金利を上げるかわりに、より大きなインフレ率の上昇を受け入れる手もある。トマ・ピケティが『21世紀の資本』で論じたように、インフレは不平等を減少させる主要な力のひとつだ。
  • 賭博経済における株価上昇ではなく、事業経済(operating economy)における中小企業の起業、雇用、収益を目指す。

税制も重要だ。ここでオライリーは、税制に関するアイデアをいくつか紹介している。

ここでオライリーは、税金の抜け穴をソフトウェア企業にとってのゼロデイ脆弱性にたとえている。つまりは、気づいた時点でさっさと穴をふさぐべきだし、バックドアをシステムに組み込むべきでもないのだ。

そしてオライリーは、税制とソフトウェア企業のアナロジーを敷衍し、FacebookGoogleアルゴリズムを変更しないで、誤報やスパムで市場を混乱させることが許されないように、税制をもっとダイナミックに変えられるようにすべきという本文においてもっともラディカルなアイデアを披露している。Facebookアルゴリズムに責任を持たせることが可能なんだから、政府にも同じことができるんじゃないか? というわけ。

つまり、我々の社会や市場を設計する「アルゴリズム」は、我々の意図するものになっているか? という問いかけですね。

正直、ケイザイに明るくないワタシにはオライリーの提案の妥当性について偉そうに評価はできないが(そのせいで文意を取り違えているところがあればご指摘ください)、金利を上げるよりはインフレ率の上昇を受け入れるほうが良いかと思いますね。最後の税制に関するアイデアはワタシも大賛成です!

しかし、オライリーイーロン・マスクに対する評価には、なんともねじれたものを感じる。オライリーは彼のテスラとスペースXを「世界を変える会社」と評価する。しかし、テスラの株価は事業収益に見合ったものではまったくなく、まぎれもなくバブルだし、イーロン・マスクがリッチなのは、企業の PER に合致しない「スーパーマネー」を彼が株式市場から得ているからと断じる。けど、バブルが一概に悪いというのではなく、賭博経済が新製品や生産性向上の原動力になることもあるし、ただし、現在のバブルが合理的な範囲内かというと――と話が蛇行する感がある。

wirelesswire.jp

5年以上前に書いた文章だが、ティム・オライリーリバタリアンであるポール・グレアムの経済的不平等論を斬っていたが、ワタシはグレアムが経済的不平等を論じるのにトマ・ピケティ『21世紀の資本』を引き合いに出さないのはおかしいだろと思ったので(そう書いている)、オライリーがちゃんと『21世紀の資本』を援用していてそうだよな! と思ったものだが、そうした意味でオライリーの視座は一貫していると言えるだろうか。

とはいえ、リバタリアンの最後の拠りどころであるシリコンバレーのスタートアップを支持してきたオライリーが、前回の文章に続いて見せるシリコンバレーの賭博経済に対する強い嫌悪には少しギョッともしてしまう。

そういえば、そろそろピケティの新刊の邦訳も出る頃ですかね。

あと文中引き合いに出される Steven Pearlstein の新刊も、書名からしオライリーの主張と親和性が高そうだ。しかし、この人の本って邦訳出てないな。

元祖ウィキペディア構想? H.G.ウェルズの埋もれた作品『World Brain(世界の頭脳)』の新装版が出る

調べものをしていて、『タイム・マシン』、『宇宙戦争』、『透明人間』、『モロー博士の島』など近年まで何度も映画化されている SF の古典の作者で、「SFの父」とも呼ばれるハーバート・ジョージ・ウェルズH.G.ウェルズ)の『World Brain(世界の頭脳)』が来月再発されるのを知る。

World Brain

World Brain

Amazon

H.G.ウェルズというと、今年は没後75年で、そういえば英国の2021年記念硬貨にH.G.ウェルズ記念デザインが入り……おい、ちょっとおかしいぞ! というのが少し話題になったが、それだけで上に挙げた SF の古典に比べれば知名度が低い『世界の頭脳』の新装版が出るのか不思議になる。

これは、サイバーパンクの代表的存在であり、またハッカー文化サイバースペースにも造詣の深いブルース・スターリング(ワタシも『Make: Technology on Your Time』日本版で彼の文章をいくつも訳しました!)が「まえがき」、『Good Faith Collaboration: The Culture of Wikipedia(善意にもとづく共同作業:ウィキペディアの文化)』の著者であり、『Wikipedia @ 20: Stories of an Incomplete Revolution』の共編者であるジョゼフ・リーグルが「序論」を寄稿しているのがポイントなのだろう。

Of course, as Bruce Sterling points out in the foreword to this edition of Wells's work, the World Brain didn't happen; the internet did. And yet, Wells anticipated aspects of the internet, envisioning the World Brain as a technical system of networked knowledge (in Sterling's words, a “hypothetical super-gadget”). Wells's optimism about the power of information might strike readers today as naïvely utopian, but possibly also inspirational.

World Brain | The MIT Press

つまり、H.G.ウェルズの『世界の頭脳』で書かれる「世界百科事典」の構想は、ウィキペディア(というかインターネットそのもの?)の元祖とも言えるもの、という視座からの再評価なのだろう。もちろん今の目で読めば、ウェルズの構想がユートピアすぎるという見方はあるだろうが。

当然『世界の頭脳』にも既存の邦訳はあるが、1980年代に出たものでとっくに絶版なので(Amazon マーケットプレイスですごい値段がついている)、今回の新装版の邦訳は意味あると思うのだが難しいですかねぇ。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのドキュメンタリーがカンヌでお披露目され、賞賛されている模様

variety.com

ベルベット・ゴールドマイン』や『アイム・ノット・ゼア』といった一癖あるミュージシャンの伝記的な映画をものにしているトッド・ヘインズがてがけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドドキュメンタリー映画のことは、2019年5月に取り上げているが、それから2年余り経って、その『The Velvet Underground』というそのものズバリなタイトルの映画はカンヌ国際映画祭でお披露目された。

遺されたアーカイブ映像、そしてジョン・ケイルをはじめとする生存するメンバーへのインタビューが使われているのはまぁ当たり前だけど、ルー・リードの妹さんもインタビューを受けてるとな。

出ている評を見る限りだいたい好意的で、このバンドをこよなく愛するワタシ的にも嬉しい話だが、この Variety の記事における、トッド・ヘインズジョン・ケイルをバンドにおける純粋さのメタファーと見ているのではないか、モーリン・タッカーにインタビューしてるけどなんで彼女の革命的なドラミングについて触れないんだ、ヴェルヴェッツの音楽の素晴らしさと謎を語る批評家の意見を含んでいないのはトッド・ヘインズは重要な間違いを犯してると思うぞ、という感想は興味深い。

variety.com

同じ Variety の記事だが、こちらは「いかにしてトッド・ヘインズはドキュメンタリーでルー・リードを生き返らせたか」というタイトルで、監督にとってはそれが最大の課題だったようだ。

この記事を読むと痛感するのはアーカイブの重要性で、ワタシもルー・リードアーカイブについてはこのブログで何度か取り上げている。

そして、最後に引用されているトッド・ヘインズの発言、「この映画はこのバンドだけではなく、多分にニューヨーク・シティ肖像画でもあるんだ」という発言も奮っているね。

しかし……この映画は Apple TV+ でのストリーミング配信が決まっており、Netflix しか契約していないワタシは観れないのが残念である。

フー・ファイターズがマディソン・スクウェア・ガーデン公演でデイヴ・シャペルと演った「クリープ」の珍しいカバー

nme-jp.com

マディソン・スクウェア・ガーデンが公開した動画を見ると、フー・ファイターズのマディソン・スクウェア・ガーデン公演は、単にロックバンドの公演というだけでなく、ニューヨークにライブが戻ってくる! という感動が伝わってくるものになっている。

片や大観衆で満員のライブが再開できるところもあれば、一方日本では……とどうしても思ってしまうが、この話題をしだすと、どうしようもかく腹立たしくなってしまうのでここで止めておこう。

このライブ自体特別感があったようで、NME の記事にも「コンサートではコメディアンのデイヴ・シャペルがゲスト参加してレディオヘッドの“Creep”のカヴァーも披露されている」という記述があるが、この映像も紹介しておこう。

フー・ファイターズがこの曲をライブでカバーなんて通常では考えられないわけで、これはアメリカを代表するコメディアンであるデイヴ・シャペルの希望なんだろうが、なんでまたよりにもよってデイヴ・シャペルがこの曲を望んだのかすごく不思議というかヘンだけど、すごく盛り上がっている。

関係ないが、デイヴ・シャペルってワタシと同い年なんだよな。彼がプロデュースし、ミシェル・ゴンドリーが監督した『Dave Chappelle's Block Party』の DVD は絶版なのかぁ。

nme-jp.com

そうそう、フー・ファイターズといえば、デイヴ・グロールが少し前に面白い話を披露していたが、今年出た新譜も結構ダンサブルで良かったよね。

2021年上半期にNetflixで観た映画の感想まとめ

今年も昨年に続いて映画館に足を運ぶ機会がなかなか持てず、というか上半期で5本しか映画館で観れず哀しい限りである。

その代わりといってはなんだが、Netflix で映画を観たのでその感想をまとめておく。昨年もそうしたエントリを書いたが、一年分をまとめて書くと、ワタシもジジイのため思い出せなかったりして情けなくなるので、上半期で一度まとめておきたい。

基本的に観た映画でも新作、もしくはそれに近いものだけにさせてもらう。飽くまで Netflix で観た映画ということで、Netflix 制作に限らない。

この茫漠たる荒野で(Netflix

『キャプテン・フィリップス』以来のポール・グリーングラス監督、トム・ハンクス主演の映画である。

News of the World という原題が、新聞のニュースの読み聞かせをして各地を渡り歩く主人公の立ち位置を表していることを考えると、この邦題が損なっているものもあるが、「茫漠」という単語が邦題に入る映画を他に知らないので、このユニークな西部劇を表現するものとしては悪くない。

ポール・グリーングラスは本作でも器用に西部劇をものにしているし、トム・ハンクスが主人公なので安定感があって、はからずも旅を一緒にすることになる少女との関係を安心して観ていられる。


マ・レイニーのブラックボトム(Netflix

本作でチャドウィック・ボーズマンアカデミー賞主演男優賞は堅いと言われていたが、蓋を開けたら『ファーザー』アンソニー・ホプキンスがとってしまい、そのまま放送事故のような中継番組のエンディングを迎えるという不幸があった。

『ファーザー』も本作も舞台劇を元にしており、本作はバンドの控室とレコーディングスタジオのいずれかでだいたい話が展開するが、チャドウィック・ボーズマンは熱演で映画をドライブさせている。マ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィスも負けておらず、個人的にはむしろ彼女がアカデミー賞で主演女優賞をとれなかったのが悔しかったくらい。

本作は音楽劇だけど、音楽はブランフォード・マルサリスが担当してるんですね。


メーキング・オブ・モータウンNetflix公式サイト

yamdas.hatenablog.com

AIに潜む偏見: 人工知能における公平とは(Netflix

yamdas.hatenablog.com

愛してるって言っておくね(Netflix

『隔たる世界の2人』も短編だったが、こっちは12分とさらに短く、アカデミー賞短編アニメ賞を受賞している。

痛ましい実際の事件に材をとっているが、その事件そのものではなく、その悲劇がある夫婦にもたらした拭い難く深い傷が簡潔に表現されている。これはワタシがどうこう書いてもしょうがない種類の作品で、10分ちょっとなんだから観れる人は観ろとしか言いようがない。

ラブ&モンスターズ(Netflix

この映画はまったくノーマークだったのだが、真実一郎さんのツイートを見て、特に The The のあの名曲で始まると知って、俄然観たくなった。

真実一郎さんが書く通り青年の成長物語であり、壊れたロボットと交流の場面で流れるあの曲(タイトルを書けない)にオマージュにグッときたりするが、それならその後の場面で主人公は××に血を吸われているべきだろ、と演出が惜しいと思ったりもした。が、この映画でそれをやるとヤバいということだろうか(なにしろ生物が巨大化しているので)。

離れ離れになった恋人に会いたくて危険を顧みずに旅に出た青年が、果たして彼女に会えたら――だいたい見当がつくんですね。しかし、ここからの展開、そして最後の主人公の選択が良いんですよ。


オクトパスの神秘: 海の賢者は語る(Netflix

評判になっていたドキュメンタリー映画で、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞したことで、ワタシも観てみようかと思った次第である。

確かにこれはよくできている。ワタシはもっぱらタコは食べるほうの専門だが、そんなワタシにも確かに主人公とタコの関係性の不思議さを感じさせてくれた。

しかし……こんなことを思うのはワタシが性格が悪くからに違いないが、ある意味世捨て人的に海に潜りだした傷心の主人公を、なんで最初からこんなしっかり撮ってるんだ? 特に本作のクライマックスであるタコとサメの攻防はどういう体制で撮影したんだろう、本作はどこまでドキュメンタリーなんだろう? とか思ってしまった。

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