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YAMDAS更新

Technical Knockoutマイクロソフトは、Windows 98 SEをオープンソースとして公開すべきだを追加。Todd Ogasawara の文章の日本語訳です。

はっきりいって実現性のないどうでもいい話と言ってしまえばその通りなのだが、これと同じことをワタシもときどき思うことがあったので、思わず訳してしまった。訳におかしなところがあればメールでコメントくだされ。

(原文にはいろいろコメントがついているが)深読みすれば肥大化の一途を辿り、もはや「古いマシンが蘇ります」などという宣伝文句が使えなくなった Linux ディストリビューションの問題もあるだろう。

さて本文中に登場する Ubuntu Linux については、試用レポートの翻訳が出ているが、Debian ベースのミニディストリビューションで、国際化などへのしっかりした対応と、半年毎のリリースの遵守をうたっているようだ。Debian ベースの場合、後者が特に魅力的なのだろう。

つーか、そもそも Ubuntu って何やねん、どう読むねんという疑問については、公式サイトの FAQ ページを読むとよい。

今週末はほとんど何もせずにひたすら引篭っていた。こういうのができるのも今日までと、録りだめしていた『24』シーズン2をひたすら見ていた。Tさん、申し訳ない。

サイト移転続き

旧サイトのコンテンツを、トップページを除き、定型文とその移転先へのリンクに置き換えさせてもらった(例えばこんな感じ)。

Perlスクリプトを作って一括変換させてもらったのだけど、10分ぐらいでちゃちゃっとやるならともかく、実際には結城さんの Perl 本を久方ぶりに取り出し、えっちらおっちらという感じで、えらく時間がかかってしまった。

終わりの日

クリストファー・リーブの訃報を知ったとき、僕はリチャード・マシスンのことを想起した。なんで? と思われるだろうが、少し前にリーブが主演した『ある日どこかで』という映画のことを知り、その原作・脚本がマシスンであるのに驚き、機会があったら観てみたい、とずっと考えていたからだ。

いくらSF初心者とはいえ、ワタシだって彼が『地球最後の男』の原作者であることぐらい知っていた。が、彼がスピルバーグを一躍有名にした『激突』の脚本を手がけていたのを知ったのは比較的最近のことだったりする。

さて、マシスンの作品で絶対に忘れられないのが短編「終わりの日」である(『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』に収録)。倉田わたるさんは、久しぶりに再読した夜にこの作品世界と同じ夢を見、ishii-k さんも「読み終わって、涙が出てきた」と書いているが、ワタシも通勤電車の中で読んでいて、最後のところで唐突にこみ上げた涙を周りに悟られないようにするのに難儀した覚えがある。

川端康成の放蕩と埴谷雄高の度量

さて先週、川端康成が草間弥生の初期作品を買っていたことが、川端が草間の才能をいち早く見抜いていた証左としてニュースになっていた。

川端康成というと乱費癖も有名で、晩年は骨董屋からの非常識な買い物をしていたというから(嵐山光三郎の『文人悪食』には、川端踏み倒し伝説を明確に否定する夫人の声も紹介されているが)、美術品の蒐集に関してはその文脈でとらえるべきという気もする。ただ川端の新人作家の力量を見きわめる眼力の定評は高く、圧倒的な影響力をふるっていたようで、美術に関しても同様だったのかもしれない。

例えばその影響力は、安部公房芥川賞受賞のときに発揮された。今となっては安部公房芥川賞をとっているのは至極当然に思えるが、強く推したのは瀧井孝作川端康成の二人だけでおまけ受賞扱いだったというのは驚くほかない。

これは加藤弘一氏による「同時代人の読んだ安部公房」で知った話だが、同ページの埴谷雄高についての項を読むと、埴谷の人間的な大きさを感じずにはいられない。文壇に限らず、今の日本にこうした度量を持った人物のなんと少なく、反対に若手の足を引っ張りたがる年長者のなんと多いことか。

さて、埴谷雄高というと、山形浩生浅羽通明『ナショナリズム/アナーキズム』評を読んだときに思いついたことなのだが、「引きこもりのおたく先駆者」としての埴谷雄高と、親の脛かじりのモラトリアムとしてのウィリアム・バロウズは、もしかすると近いところがあるのかもしれない。埴谷は人脈的には戦後文壇の主流に位置しながら作品的には紛れもなく反主流であり、バロウズは時代時代で多くのフォロワーに囲まれながら、作品的にはやはりこちらも反主流であるところなど。

いつか山形さんに聞いてみようかと思うのだが、何より浅羽通明の本を読むのが先決だし(まだ読んでないのかよ!)、そういう機会はもうないかもしれないが。

いつどこから読み出しても没入できる長編小説ベスト3

さて唐突だが、ワタシの乏しい読書歴の中で出会った、いつどのページから読み出しても没入できる長編小説ベスト3を紹介しておく。

  1. レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』
  2. カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』
  3. 色川武大『狂人日記』

帰省するときは必ず本を一二冊持ってかえって読もうとするのだが、読めたためしがない。それは枕元に『長いお別れ』と『スローターハウス5』があるからなのだなぁ。

「時間のなかに解き放たれた」構成をとる『スローターハウス5』は極端としても、『長いお別れ』も『狂人日記』も元は雑誌の連載小説で、細切れになっているのポイントなのだと思う。いずれも手にとり適当なページから読み始めるだけで、すぐにその中に入っていける(そして抜け出すのが大変である)。

『長いお別れ』は矢作俊彦『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』を語る際に引き合いに出されることも多いが、明らかに『長いお別れ』を読んだことがないのに「ハードボイルドなんてこんな感じでしょ」と読んだふりして書いている文章を見かけて苛ついたりする。畢生の名作であることはワタシがうけおうので、是非読んでもらいたいものだ。

狂人日記』は、これをはじめて読んだ、今よりも狂気を身近に感じていた大学生のときは、とにかく怖かった。今でもワタシにとって「今まで読んだ中で一番怖かった小説」でもあるのだが、現在は落伍者・劣等者として慰められるところがあるのも確かである。

自分は誰かとつながりたい。自分は、それこそ、人間に対する優しい感情を失いたくない。

狂人日記』は福武文庫版が入手できなくなっており悲しく思っていたのだが、講談社文芸文庫入りしていた。値段が高くなるのは残念だが、講談社文芸文庫は絶版にならない(はずな)ので喜ばしいことだと思う。

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