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ピーター・セラーズのほぼ遺作といってよい映画であり、本作によりセラーズは『博士の異常な愛情』以来15年ぶりにアカデミー主演男優賞にノミネートされる。しかし、前回同様オスカーは獲得できなかった。

本作の主人公はやはり innocent と形容されるのだろうか。もっとも純真というよりも、テレビへの執着に見られる正に子どもっぽい一心さが勝っており、最初この映画を観たときはそれにいささか不気味さも覚えたほどである。

とにかく本作はテレビと車の映画である。この二つなしには成立しない。それはアメリカという国の暗喩であり、メディア批判も含まれ……などと賢しらに語ることもできるのだろうが、そうしたのは当方の得意とするところではない。面白いと思ったのは、主人公がご主人の家(それなりに裕福だったろう)を出るとそこは黒人が多く住むごみごみしたところだったり、ハンバーガー屋のネオンのすぐそばから大富豪の邸宅に入っていくなどアンバランスさを感じるところである。それも含めてアメリカ的なのか?

ただ極めてアメリカ的な映画なはずなのに、どこからしくない落ち着きも感じる。まあ、主演のセラーズにしてもイギリス人だし、映画の主な舞台が大富豪の邸宅内というのもあるのだろうが、ジョニー・マンデルの音楽もその印象を強めている。またその落ち着きは、ストーリーにも感じる。随所に笑いどころのあるコメディではあるが、題材的にもっとドタバタな笑いも引き出せるはずなのに、ある種の静謐さを保っている(唯一毒を感じたのは、黒人メイドがテレビに向かって「白人なら誰でもいいのさ」と毒づくところぐらいか)。そしてその静謐さが本作を他のセラーズの映画と一線を画している点だろう。

当方はこの手の映画に主人公の転落/決定的な破綻を期待してしまうというのがあり、本作にしても邸宅付きの医師が主人公の素性を突き止めるところや、主人公が男色を持ちかけられる場面などその契機はいくつもあったと思うが、ストーリーも飽くまで抑制されておりそうした破綻は訪れない。結局主人公は原題の通り「そこにいた」だけであり、周りが勝手に解釈して右往左往したり、意識を変えたりしたわけだが、決して後味は悪くない。特にシャーリー・マクレーンのコメディエンヌぶりはチャーミングである。

ラストにおいて主人公が大統領候補に祭り上げられることが暗示される一方で、主人公はそうした現実から一足飛びに遊離してしまう。こういうのをズルいとする向きもあるだろうが、上記のような破綻がないとしたら、ファンタジー以外に終わりようがないのだと思う。

ただエンディングロールでのNG集はないよな。ジャッキー・チェンの映画じゃないんだから。

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