ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2005/03/28
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はじめてはまぞう使ってみました。本エントリは敬称略でいきます。
買って読んだからには何か言及しなければならないと思うところが貧乏症なのだが、これについて書こうと思ったらぱったりと手が止まってしまった。よって、今週は本サイトの更新はなし。
本特集がはてなダイアリー内でしか話題になっていないとのことだが、それは本特集において最大のページ数を割く「激突! はてな頂上決戦」の内容、並びにその編集の仕方を見れば、確信的なものであるのは分かるので問題ではないだろう。
Wiki と比較した場合のストックとフローのあれこれとか、Web 2.0 という文脈におけるブログと RSS のうんちゃらといった話がほぼないのはユリイカという雑誌の性質上当然で、逆にそのあたりに言及がなくてよかったと思う。
基本的にはまっとうなものだと思う。内田樹も稲葉振一郎も小谷野敦も竹熊健太郎もいかにも彼ららしい切り口による、現在の彼らの立ち位置を踏まえた、彼ららしい文章だと思う。もちろん彼ららしいというのと、その意見に賛同するというのはまったく関係ないが。また中には上野俊哉+泉政文の文章のように、
ところが「はてな」と英語圏のブログ、たとえば「Slashdot」や「Indymedia」などとの違いを見ると愕然とする。とても同じツールとは思えない。
とか、
ここで思いつくのは、そもそもブログの「思想」の革新性とは、なによりもその「形式」の更新にこそあるのではないか?というものである
といった何を今更というか小難しいことを書き連ねた挙句それかよ見たいなしょうもないものもあるが、それはそれ。
ブログ・ガイド100@2005にしても、これだけジャンルを分けて書かれればそうだろうなと言うより他ない。ばるぼらさんが、ワタシも最近その存在を知った名称なんかどもでもいいを取り上げていたのが嬉しかった。
そして「激突! はてな頂上決戦」に戻るわけだが、参加者である仲俣暁生、鈴木謙介、吉田アミ、そして栗原裕一郎のブログはいつも読んでおり、そうした人たちの座談会がワタシ的に面白くないわけはないのである。実際、この座談会で吉田アミという人の面白さを引き出せているのはもくろみ通りだろう。「俺ニュース」が終わるから日日ノ日キを始めたとか、ネット・ラジオをやりたいとかとか、これは彼女の言葉じゃないが言葉をオブジェのように使っているとか。
「ブログは、モテる人が更にモテるためのツールです」とか「私は、いま、しゃべりたいんですよ」とか「結局、ブログって更新頻度命みたいなところがあって、やればやるほど人気はあがっていくっていうか」とかみもふたもない核心を突きまくる言葉を見れてよかった。
ただこれを書くのはないものねだりなのかもしれないが、この座談会が名もなき一般人がブログをやるにあたり何か意味を持つのかと思ってしまうのも確かである。上で引用した吉田アミの発言はそのあたりを結果的に強化していると思う。
そうした意味では、見下げはてなにおける、
たいていの人間の場合、ブログに限らず、ネットに文章をアップする行為は、無か負か不毛かの三択に終わるような気がする。
というのが誠実な結論になるとワタシ自身も経験上思うのだけど、それじゃ暗すぎるわけで、それなら何でワタシは性懲りもなくウェブサイトを続けているのかというと……えーっと、どうしてだろう。
そもそもワタシははてなダイアリー利用者に人文系の人たちが多いと思ったことがなく、この座談会の参加者と見ている風景が違うのだと思う。ロック少年リハビリ日記・別館によれば、
印刷メディアの論客がブログを論じるときの居心地の悪さと、ブログの論客が印刷メディアに登場するときの居心地の悪さ。この同居のありようこそが、こんにちの人文系言説の現在なのかもしれない
とのことでなるほどとは思うが、それじゃワタシにとってのはてなとは何なのかという話になると、やはり自分で一本文章書かなきゃならんのだろうね。多分書けないだろうが。
あと鈴木謙介の以下の発言はちょっと不用意じゃないですかね。
つまり、ユーザー自身は日記を書いているだけなのに、たとえば「鈴木謙介」というキーワードの編集に知らず知らずに手を貸していることになるシステムが、「はてな」なのだと。
はてなキーワードの充実は、飽くまでそのキーワードを編集する人たちの功績だと思うが。先の無名人の話ではないが、かつてのオープンソースを巡る安直な言説に近いものを感じてしまったので。もちろん分かって言っているはずだけど。