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伊藤穣一は原爆資料館を見たことがあるのだろうか

伊藤穣一ニューヨークタイムズに原爆についての論説記事を書いているのだが、タイトルからして反語だろうと思ったら、これが本当にひどいもので、個人的には日本人が原爆について書いた文章を読んでこれほど悔しい思いをしたのは久しぶりだった。

……という話を別所に一週間以上前に書いたのだが、この話題についてのワタシの考えは簡単に書ききれないものがあるし、それは他の人にしても同様だろう。例えばそのあたりについてワタシは以前対談で語っているのだが、今読むと何が言いたいのか見事に意味不明だし。それにまた伊藤穣一叩きか、と思われるという遠慮もあった。

しかし、awake in a muddle の「下らない op-ed」というエントリを読んで、時期外れだろうがちゃんと批判しておくべきだと思い直した。

ワタシが伊藤穣一の文章を読んで思うのは、彼は原爆資料館を見たことがあるのだろうか、という基本的なところである。広島平和記念資料館でも長崎原爆資料館でもよい。一度でも行ったことがあるならば(以下孫引き)、

我々の世代にとって、広島と長崎の原爆や戦争一般は、文化的なゲームオーバーやリセットのボタンと等価である。意識的な政策と無意識的な文化とがあいまって、戦争の痛々しい記憶はその文脈を失い、サブカルチャーの中でねじれた残響としてのみ浮上する。

というような、「ゲームオーバー」や「リセット」などのまさにゲーム感覚な言葉を使うことはないのではないか。別に認識が足らないのを責めるつもりはない。戦後60年という区切りの年にニューヨークタイムズに記事を書くことの意味、望むと望まざると日本人代表として原爆無知大国アメリカに住むアメリカ人に対して意見を述べることになるの意味を鑑み、自分にそれに足る意見がないなら辞退するぐらいの自己認識がほしかった。

ワタシが嫌悪感を覚えたのは上に書いた言葉の選び方に加え、「下らない op-ed」にある「米国人一般に対する一種のへつらいが感じられた」からだと思う。ある人は彼について「英語だと何でも言えるけど症候群」と評していたが、それが恐らく伊藤穣一という人の一貫した処世術なのだろう。

追記:「YAMADASさんは平和祈念資料館を見たことがあるだろうか」とは大したイヤミだね。なければこんな文章書くかよ。そもそもYAMADASさんって誰のことだよ

参考リンク:

彼は「ネットはこんなに便利だ」と言いたかった模様で、創発民主制などといううさん臭いものを口癖のように繰り返している彼らしい話ではあるのだが、これはむしろ ultraviolet が指摘するテクノロジーが人間を退化させる現象の絶好のサンプルと取るべきだろう。

個人的には伊藤穣一さんの記事に全く批判的ではない。原爆や太平洋戦争について語る時には政治的な文脈と「国民感情(なるものが存在すると仮定してだが)」の文脈が乖離していることを示し,両者を見せなければフェアではないと思う。(中略)伊藤穣一さんの記事は政治的な文脈では頷ける部分もあるがフェアじゃないとは言える。

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