こないだ訳した「ニュース向けマイクロペイメントは聖杯? それともただの危険な妄想?」は反応が薄くて少しがっかりしたが、それはともかくいくつか付け加えておく。
ワタシが訳した文章はキーとなる文章へのリンクが豊富でそうした意味で意義があると翻訳したが、何度も名前が出てくる Clay Shirky が今年のはじめに書いた Why Small Payments Won’t Save Publishers にリンクがないのは惜しかった。
あとこのニュースメディアの危機の話については、同じく彼のブログからの翻訳「新聞、考えられないことを考える」が公開されていてありがたい。ちょうど Nick Carr 先生が Questioning Accidentalism でこの文章(の原文)にリンクをはって、彼の「偶然論」を批判的に取り上げていたので思い出した。
Shirky の文章は長くて内容がとてもシビアだが、名言連発の趣きがあるのでご一読をお勧めする。
新聞が今直面している問題は、彼らがインターネットの到来を予見できなかったことによるのではない。彼らにはもう何マイルも先から見えていた。のみならず、対策プランが要ることも早くから分かっていた。それが証拠に1990年代初頭には1つだけでなく何通りものプランを捻出している。
「新聞をどう別のものと取り替えると言うのだ?」と知りたがる人は、我々が革命の時代を生きているんじゃないと本当は言ってもらいたいのだ。新しいシステムに交代するまで、古いシステムは崩壊しないと言ってもらいたい。古の社会契約は存続の危険に晒されていないし、コアの組織はそのまま見逃してもらえると言ってもらいたい。情報伝播の新手法は、これまでのやり方を改善するものであって転覆するものではないと、言ってもらいたいのだ。
新聞業界人はよく、新聞は社会全体の利益になると言う。それは本当にその通りなのだが、今さしあたっての問題には関係ない。;「俺たちがいなくなったら、寂しくなるぞ!」 ―という台詞がかつてビジネスモデルだった試しはないからだ。
社会は新聞を必要としない。必要なのはジャーナリズムだ。1世紀もの間、ジャーナリズムの強化と新聞の強化は互いにあまりにもきつく1本に括られてきたので、どっちがどっちか見分けがつかなくなっている。これは良き偶然だった。が、その偶然が終わった今(まさに我々の眼前でそれは終わっている)、それに代わる様々なジャーナリズム強化策が求められている。
この文章について切込隊長が「途中までは最高の論述」と評しているが、氏と意見が異なるところについて知りたくもある。
あと、ここでも何度も取り上げているが、彼の『Here Comes Everybody』の邦訳は結局出ないのかしら。
Here Comes Everybody: The Power of Organizing Without Organizations
- 作者: Clay Shirky
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日: 2009/02/24
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