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平民金子さんの名連載「ごろごろ、神戸3」の完結前にその素晴らしい文章を振り返る

ワタシが深夜(というか朝方)泥酔して書いたツイートが、場末の雑文書きであるワタシにしてはバズって驚いた。

ワタシは平民金子さん(id:heimin)の連載「ごろごろ、神戸3」が大好きで、なんとかしてそれを称えたいという気持ちがあってツイートしたものだ。

思えば、ワタシは昔「極私的はてなダイアリーアンソロジー2008」という文章を書いたが、真っ先に平民さんの「おいどんはただ生きてるだけよ」を選んでいて、というかこの文章を読んでなければ勝手にアンソロジーなんてやらなかったでしょう。要は平民さんの文章と写真のファンなのである(余談だが、このアンソロジー後編もあわせ、重要なメンツをほぼ網羅した、すごくよいチョイスだったと思います。えっへん)。

しかし、先のツイートは泥酔状態ゆえに強い言葉を使っていて、平民さんが気を悪くされていないのを祈るばかりである。しかも、このツイートでワタシは決定的な誤情報を書いてしまっている。

それは「この連載は本当にあと1回で終わってしまうのだろうか」のくだりで、なぜそのように勘違いしたのか、自分でもよく分からない。平民さんは第21回の時点でこの連載があと4回しかないことを示唆していて、つまりは25回で終了ということになり、連載の残りは本文執筆時点であと2回ということになる(2018年5月開始なので、連載一年になる2019年4月で終了ということなのだろう)。

そういうわけで、平民さん、間違った情報を書いてしまい、申し訳ありません。

せっかくなので、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の宣伝というワタシのブログの存在意義をいったん忘れ、この名連載でワタシの心に残った文章を各回からチョイスさせてもらう。

上にも書いたように、この名連載は平民さんの文章+写真の妙が肝なので、引用だけ読んで終わらずに元文章+写真を堪能ください。

5月の連休は神戸市内各所で様々なイベントが開催されています。いま「市内各所で様々なイベントが開催されています」なんて書きましたが、正直なところ「神戸は観光地だしどこか人の集まる所に行けば何かしらのイベントくらいはやってるんだろう」なんていう適当な気持ちで「市内各所で様々なイベントが開催されています」と書いてしまった事をここに告白します。実際はどこで何をやっているのか全然知りません。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第1回 ゴールデンウィークの過ごし方」

連載第1回のはじめからこの調子で最高である。神戸市の広報担当者は度量のある方なのだろう。

新・神戸の残り香

新・神戸の残り香

公園を出て、シャッターが降りたままの店の軒先に出来たツバメの巣の横を、緊張して通る。
立ち止まったり、じろじろ見たら親鳥に悪い気がするから、「わたしたちはあなたがたに危害をくわえるものではありません。のぞいたりもしません。そもそもあなたたちに気付いてもいませんよ……」というようなそぶりで巣を大きく迂回してそっと、息をころして歩き、それでも気になる心には逆らえず。すれ違いぎわの一瞬だけチラっと、目のはしにツバメ達の元気そうな姿を焼きつけて、そこからわきあがってくるちょっとした嬉しさで、雨の舗道を駆けた。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第2回 生活の柄」

私は急に、周りの人たちは空気坊主とどのように出会い、やがてどのように別れたのか。大人になった今どのように空気坊主を振り返るのかが気になって、行きつけの酒場の客や店主に聞いてみた。けれど皆一様に「ああ、やってたね」と答えてくれるものの、「だからどうしたの?」となって、話が盛り上がる事はない。それは今となってはあまりにも小さくて、どうでもいいことだからだろう。大人になった私たちには風呂の湯に沈んだタオルから出る小さな泡よりも、もっと楽しいことや悲しいこと、人生の重大事が目の前にあふれている。そしていつしかあれほど親しんだ空気坊主は、記憶の彼方に消えてしまった。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第3回 空気坊主」

帰りたかった家 (講談社文庫)

帰りたかった家 (講談社文庫)

神戸に3年住んで、なんとなく町にも慣れたような、どこか斜に構えたような気分になりそうになる時もあるけれど、この場所に来ると初めてここに遊びに来た時の、新鮮な感動を思い出す。
私は以前も今も、モザイクからのこの眺めが大好きだ。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第4回 日々」

昨年秋に神戸に遊びに行く機会があり、神戸の街を歩いて思ったのは、ここが小関悠さんが言うところの「徒歩の街」であり、ポートピア連続殺人事件の舞台であり、平民さんがごろごろしている街なのだという感慨だった。

私たちはひどい現実を前にすると、それが子供に関するものならなおさら、社会を一気に良くするような特効薬を探してしまいがちになるけれど、現実的には局面を一発で打開するような「かいしんのいちげき」はなかなか存在しない。悲しい事件が起こった時の当事者ではない私たちが、子供が暮らす社会を良くするために確実に出来るのは、つみかさねる日々の地味ないとなみだけで、たとえば、「視線」の向かう先を変えてみるのはどうだろう。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第5回 視線」

炎天下、風にふかれた枯葉がアスファルトをこする小さな音が聞こえている。
わからんけれど、耳をすまして、聞かなあかん声や。
そんな説明をしながら、舌を鳴らす。輪郭をつかみたい。けれど反響が、何もわからない。
通りではセミが鳴き始めた。夏が始まったのだ。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第6回 反響」

近くて遠いこの身体

近くて遠いこの身体

というわけで、まずは最近新開地の路上でおじさんが手作りしている謎の紙粘土人形を用意する。
次に、須磨海浜水族園本館3階にあるレストラン「うみがめのお店」で、400円ごとに1個もらえるスタンプを10個集めたらもらえる、スタッフ手作りのチンアナゴのぬいぐるみを用意する。
そして最後に、ヒガシマルのラーメンスープを用意してほしい。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第7回 中華冷や汁研究」

平民さんの文章から時折にじみ出る一種の狂気が好きだ。

景色もパラレルワールドも、もうどうでもよかった。飛び込んだ個室で、私はただ「助かった」と言う思いで、壁に貼り付いた小さなカマドウマと向かい合っている。セミの声がオーケストラのように私たちを祝福していた。何もかもが愛おしく、世界は光り輝いている。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第8回 保久良山」

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)

僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)

自分が普段接することのない層に対して、いたずらに敵意を向けるのではなく、ちょっとした勇気やふとしたきっかけで彼らの空間に入ってみると、案外そこは優しい場所だったりする。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第9回 海の家、20号、21号」

近い将来きれいに生まれ変わる三宮駅前や須磨海浜公園や神戸新鮮市場は、きっと素敵な場所になるんだろう。
また新しくたくさんの人が集い、また新しいにぎわいを見せるのだろう。
それでも、壊れ行く市場の片隅で「いつまでもそのままで」と小さく唱えたことを私は記しておきたい。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第10回 いつまでもそのままで」

私たちは、どこにでもあるような街を作ることで、間違いなく生活の平均値を底上げしてきた。
昔のほうがおもしろかったと遠い目で語ったり、「神戸らしさ」という言葉をたくみに使って、私は自分に都合良く街のイメージを固定化していないだろうか。それを常に問い続けること。
そのような自戒と内省を忘れてしまうと、私の語る街の魅力は、ただの懐古趣味の、うわすべりした中身のないものになってしまう。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第11回 なつかしさと、都合良さと」

この文章は、その前回と対になっていますね。

長野重一写真集『香港追憶』

長野重一写真集『香港追憶』

元町から、メリケンパークから、神戸の街のそこかしこからビッグ赤ちゃんがきらきらと輝いているのが見える。
それを見て、私はこれから出会うすべての小さな赤ちゃんに、やさしい大人でありたいと思うのだ。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第12回 ビッグ赤ちゃんイカリ山」

いつの間にか私も彼も汗だらけになっている。うちにも犬がおるからああいう状況はほっとかれへんよ、と私が話をする。名前も知らず、この先もう出会う事もないだろうけれど、たぶんこれからの人生で、なんとなくこの日の出来事を私たちは覚えているのだろうな、と思った。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第13回 原田通のイーサン・ハント」

今の私には、彼ら彼女らを『助けて』いた当時の自分には想像出来なかった、あのころ階段の下でじっと誰かが来るのを待っていた車椅子の人のジリジリとした長い時間を想像する事が出来る。
車椅子をかつぎ上げられる側の人には、感謝以上に、さまざまな感情があったはずだ。
そもそも当たり前の事をするのになぜ手助けを待たないといけないのか、なぜ感謝しないといけないのか。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第14回 「お手伝いをしましょうか」」

あちらもこちらも、終わるものは終わる。それが今の時代にやって来たというだけなんだろう。でもなんというか、最初から何も知らないままだったのならともかく、東京から遊びに来てこの町に一目惚れし、引っ越して来て、それがごっそりと消えてしまうのを今、見ているだけしかないという、このもやもやとした自分の心にどう落とし前をつければよいのやら、なんて思いながら、やって来たバスに乗った。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第15回 ミナイチ・エレジー」

と、思いきや、その鳴き声は突然画面をはみ出す勢いで大きくなる。
今ではイヤホンを付けている意味がないほどの大音量となり「ウオッ! ウオッ!」「ウオッ! ウオッ!」とそれは聞き慣れた吠え声となって耳をつんざき、振り向くと声の主は、アシカのナイト君(7歳)であった。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第16回 ふれあい荘のナイトくん」

この映画『東京暮色』の話が突然アシカのナイト君の話に転調するところを読んでいて、ワタシは自分の目か頭がおかしくなったのかと思ったものである。

私には、この世に生まれて来た瞬間の記憶がある。
産声を上げる事も忘れ、外界の眩しさに耐え、
この問題を解決しないと自分は先へ進めないぞと、
出てきたばかりの体をタオルで拭かれながら黙考していたのだ。
それは「ビールに一番合うつまみは何か」という問題である。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第17回 神戸鉄火巡礼」

アシカのナイト君に続き、年が明けると平民さんの文章はもう完全にフリーダムな領域に突き進むようになった。

ある日テントに入って何もせずにふてくされて寝ていると音楽が鳴り始めて、うっせえなあと隙間から彼らの歌う民謡を聴いていた、そんな24年前のふてくされ斜にかまえて、目の前の光景に思考停止してしまった、そんな日常も、いま真面目に目をつぶって黙祷している、きみを連れてこの場所に立っているこの日常も、全部がつながっている。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第18回 いつもよりあたたかかったので」

遂には連載一回がひとつの段落になってしまった。天衣無縫である。

神戸の大偉人である淀川長治が遺した映画にまつわる語りの中で特に印象に残っているのがフェリーニの映画について語ったこの場面だ。何かを好きになる気持ちを前のめりに表明することのすばらしさが詰まっている。
私はいつまでたってもこの場所に無性にときめいてしまう自分の気持ちを大切にしようと思うのだ。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第19回 思い出すのは神戸のことばかり(神戸名所案内)」

というわけでコロッケを作るが大変でしんどい人は神戸に引っ越してしまえばよいのではないか。
いらいらしている人は出来たてのおいしいコロッケを公園で食べて、ついでにビールを飲んで、酔っ払っていろいろと忘れよう。日に日にあたたかくなって梅の花も咲き始めた公園の日差しの中で、アッツアツのコロッケと缶ビール。
かのフェデリコ・フェリーニも映画の中でこう言っている「人生は祭りだ。ともに太ろう」。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第20回 コロッケのおいしさについて」

アナ「この季節のノースマウンテンは最高やね~」
エルサ「アウトドア高菜茶漬け。やっぱりこれが最高やん?」
アナ「春の日差しで、屋根がきらきらしとーね」
エルサ「ええやん。これでええやん」

神戸市:ごろごろ、神戸3「第21回 高菜炒めつくろう」

もうどうにでもしてくれ状態である。

みなさん、今日のお昼は何を食べましたか? あるいは、これから何か食べられる方もいらっしゃるかと思います。
うどん、とんかつ、寿司、カレー? はいはい、違います。
みなさんが食べていいのはラーメンセットだけです。

神戸市:ごろごろ、神戸3「第22回 ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題」

神戸に平民金子あり、としか言いようがない。

本当は各回の引用ごとに解説めいた文章を書こうと思ったのだが、それは野暮でしかないでしょう。あとは連載の文章と写真そのものを堪能していただけばよい。

連載も残すところ2回となってしまったが、「ごろごろ、神戸4」を期待してしまう。あとアーカイブは絶対に消さないでください>神戸市広報課

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