加野瀬さんの文章を読んで思い出したのが、坂口安吾が島崎藤村(の『新生』)を激しく批判したエッセイ「デカダン文学論」である。以下、角川文庫版『堕落論』から引用。
彼がどうして姪という肉親の小娘と情欲を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取り澄まし方をしていると、知らない女の人を口説く手掛かりがつかめなくなる。彼が取り澄ませば女の方はよけい取り澄まして応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかもしれぬと口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので藤村はポーズを崩す恐れなしにかなり自由にまた自然にポーズから情欲へ移行することができやすかったのだと思う。
加野瀬さんも戦前の鈴木庫三の話を引き合いに出しているが、「仲良くなるための手間を面倒くさがる」、「心にもない取り澄まし」って普遍的な話なんでしょうな、と自分自身を鑑みても思う。