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『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』への反応 その44

前回からひと月以上間が空いてしまったが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の宣伝というのがこのブログの存在意義なので、反応がある限りしつこく続けさせてもらいます!

まずは前回紹介した小関悠さんの「フレンチのコース料理に最後デザートがつきますって言うから、楽しみだなーと思ってたら北京ダックが丸ごとやってきたみたいな感じ」という反応への反応から。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』については、「円城塔が推し、ブレイディみかこを泣かせても売れない不遇の電子書籍」というお名前を出した方に失礼極まりない非公式キャッチコピーがあるが、「フレンチのコース料理に最後デザートが来ると思ったら北京ダックが丸ごとやってくる電子書籍」というのもいいかもしれない(逆効果?)。

そういえば、この本に解説を書いてくださった arton さんも以下のように書かれている。

それはそれとして、ボーナストラックに余情があるといえば、「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて: 続・情報共有の未来」だな。

L'eclat des jours(2021-03-28)

よし、「フレンチのコース料理に最後デザートが来ると思ったら余情がある北京ダックが丸ごとやってくる電子書籍」にしようか(やめなさい)。

続いては少し考え込んでしまう反応である。

これは推測であるが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』は、「読みたい」から「買いたい」にいたる導線があまりよろしくないと言われているのかもしれない。

以前、どこまで読んだか把握しやすいよう(達人出版会からの購入するのに加えて)Kindle版も買った方の話を紹介したことがあるが、買うまでの導線もそうだが、買ってからのユーザビリティAmazon は強いのは間違いないわけだ。Amazon を超えるのは難しい。

ブルース・シュナイアーが予言する「AIがハッカーになり人間社会を攻撃する日」

www.belfercenter.org

ブルース・シュナイアー先生が Wired に「Hackers Used to Be Humans. Soon, AIs Will Hack Humanity(ハッカーはかつて人間だった。じきに AI が人間性をハックする)」という文章を寄稿している。

その趣旨はタイトルの通り、じきに AI がハッカー(ここでの「ハッカー」は優れたプログラマーという意味ではなく、コンピュータやネットワークのセキュリティ侵害を行う存在を指している)になるぞという話だが、その文章の中で「最近発表したレポート」としてリンクされている文章である。

軽い気持ちで読み始めたら、長い……とても長い……かなり長い……読んでも読んでも終わらない……なんとか読み終わったが、かなーりな時間がかかったので、内容をまとめてみようと思う。

しかし考えてみれば、上でリンクした Wired の寄稿が作者自身によるまとめとも言えるので、無駄な作業かもしれない。それでも読むのに時間をかけちゃった以上、せっかくその元を取りたいという気持ちから意地でもやってしまった。

はじめに

人工知能(AI)はコンピュータ上で動作するソフトウェアだが、既に我々の社会に深く組み込まれている。AI システムがハッキングに利用されるだけでなく、AI システム自身がハッカーになることで、社会、経済、政治のあらゆるシステムに脆弱性を見つけ出し、かつてない速度(スピード)、規模(スケール)、範囲(スコープ)で我々の社会をハックするだろう。

これは大げさな話ではない。遠い未来の SF 技術ではないし、「シンギュラリティ」も前提としていない。『ターミネーター』のスカイネットや『マトリックス』のエージェントのような悪意のある AI システムも必要なく、現在の AI の学習、理解、問題解決が高度になれば自ずと可能になる。

このエッセイは、AI ハッカーによって引き起こされる影響を論じるものだ。まず、経済、社会、政治システムの「ハッキング」の一般的な解説、次に AI システムがいかにハッキングに利用されるか、続いて AI が経済、社会、政治システムをいかにハッキングするかを説明し、最後に AI ハッカー界がもたらす影響と、可能な防御を指摘する。

ハックとハッキング

まず、ハッキングは不正行為ではない。ルールに従いながら、その意図を裏切り、利己的に利用するものだ。

システムは硬直し制限をかけがちだが、それから逸脱する何か別のことをしたいと思う人がいてハックをする。ハッキングというとコンピュータに対して行われると思われがちだが、税法をはじめとするあらゆるルールに対して行える。

パソコン、携帯電話、IoT 機器問わず、あらゆるコンピュータソフトウェアにはバグと呼ばれる欠陥が存在する。そのバグの中に、セキュリティホールにつながるものがある。具体的には、攻撃者が意図的にコンピュータを攻撃可能な状態にするバグで、これを「脆弱性」と呼ぶ。脆弱性を利用して個人情報を抜き取るのも、システムをその設計者が意図もしない方法で悪用する「ハック」の一例だ。

税法にもコンピュータソフトウェア同様バグがある。それは法律の文言の言葉に誤りがあったり、解釈に誤りがあったり、意図しない脱落があったり、また法律間の予期せぬ相互作用から生じる場合もある。税法上のバグには脆弱性となるものもあり、アイルランドとオランダの子会社を組み合わせて低税率または無税率の国に利益を移す、ダブルアイリッシュ・ダッチサンドイッチと呼ばれる大手テック企業が租税を回避する法人税のトリックはその一例だ。

プログラマーがシステムに意図的にバックドアを追加するように、税法に減税措置や免除措置といった租税回避(Tax Loopholes)の抜け道として意図的に脆弱性が盛り込まれることもある。コンピュータセキュリティの世界でいうところの「ブラックハット研究者」が大勢いて、税法の一行一行を調べて脆弱性を探しているが、彼らは一般には税理士や会計士と呼ばれる。

現代のソフトウェアは驚くほど複雑で、複雑になればなるほどバグや脆弱性は増える。税法もまたしかり。コンピュータコードの脆弱性は、コードが完成する前にツールで修正できるし、コードが世に出た後に研究者が脆弱性を見つけたら、ベンダーが迅速にパッチを当てるのも大事だ。これと同じ方法を税法に採用できる場合もあるが、利害関係者が多くてそう簡単にいかないこともある。

いたるところにあるハッキング

あらゆるものがシステムであり、あらゆるシステムはハック可能であり、人間は自ずとハッカーになる。

金融の歴史はハッキングの歴史でもある。金融機関は自分たちに利するルールの抜け穴を探すし、UberAirbnb といったギグエコノミー企業は政府の規制をハックするし、フィリバスター(議事妨害)は古代ローマで発明された古いハックだし、ゲリマンダーは政治プロセスのハックだ。

そして遂には、人間がハッキングされる可能性がある。我々の脳は何百万年もかけて進化してきたシステムであり、環境との継続的な相互作用によって最適化されてきたが、このシステムは21世紀のニューヨークや東京やデリーにはあまり適しておらず、操作が可能だ。

認知ハッキング(cognitive hacking)は強力で、ソーシャルメディアは我々のアテンションをハックし、広告はパーソナライズされることで説得のシステムをハックし、偽情報は我々の現実に対する共通認識をハックし、テロリズムは恐怖とリスク評価の認知システムをハックする。

コンピュータはシステムとしては新顔だが、財務、税制、規制、選挙といった伝統的なシステムがコンピュータ化されることで、速度(スピード)、規模(スケール)、範囲(スコープ)という3つの次元でハッキングを加速させる。

あらゆるシステムが等しくハッキングされるわけではなく、多くのルールがある複雑なシステムは、意図せぬ結果をもたらす可能性が高いがゆえに特に脆弱である。これはコンピュータシステムだけでなく、税法や金融システムや AI にもあてはまる。厳格に定義されたルールではなく、柔軟な社会的規範による規定されるシステムは、解釈の余地と抜け道が多いため、ハッキングに対して脆弱である。システムには必ず曖昧さや不整合があり、またそれを利用しようとする人が必ずいる。

我々をハックするAI

2016年にジョージア工科大学から発表された研究結果によると、擬人化されてないロボットでも緊急事態となると(そのロボットの能力が低いことを直前に確認したにも関わらず)大多数の人がその指示に従ったそうで、ロボットは人間の信頼を自然にハックできるようだ。

人工知能とロボット

AI の定義を考え始めるといくらでも書けるが、ここでは人間の思考をシミュレートするさまざまな意思決定技術を総称して AI と呼ぶ。

ここで、特化型 AI(弱いAI)と汎用 AI(強いAI)を区別する必要がある。汎用 AI は映画に出てくるような(時に人間を滅ぼそうとするような)、人間的な方法で感知、思考、行動できる AI で、これにロボット工学と組み合わせると、アンドロイドのできあがりだ。

ここでは特化型 AI にフォーカスする。特化型 AI は自動運転車を制御するシステムなどの、限られた領域の特定のタスク向けに設計される。

AI 研究者の間では、「何かがうまくいった時点でそれはもう AI ではなく、ただのソフトウェアだ」というジョークがある。AI は本来神秘的な SF 用語で、何かできるようになると、その不思議さがなくなるというわけだ。

実際には、単純な電気機械から SF 的なアンドロイドまで、意思決定の技術やシステムは連続しており、何をもって AI とするかは、実行されるタスクの複雑さとその実行環境の複雑さに依存することが多い。そうした定義上の議論はここでは避けたい。

ロボティクス分野にも人気のある神話(つまり事実ではない)やそれと裏腹の派手さのない現実があり、これも様々な定義があるが、「物理的な動きによって環境を感知、思考、行動できる物理的に具現化された物体」というロボット倫理学者のケイト・ダーリング(Kate Darling)の定義が好きだ。ロボティクス分野についても、ここでは平凡で近未来的なテクノロジーに焦点を当てたい。

人間のようなAI

コンピュータプログラムに人間らしさを求める考え方は古くからある。1960年代、ジョセフ・ワイゼンバウムが ELIZA というセラピストを真似た会話プログラムを作ったところ、人々が個人的な秘密をただのコンピュータプログラムの ELIZA に打ち明けるのに驚いた。今日でも、Alexa や Siri などの音声アシスタントに人は礼儀正しく接する。

多くの実験で、被験者はコンピュータの感情を傷つけたくないと感じることが分かっており、コンピュータが被験者に架空の「個人情報」を教えたら、被験者は自身の個人情報を教えてくれる可能性が高い。この返報性は、人間も利用するハックだ。

人間を欺くための認知ハッキングも利用されているが(例:ボットによる SNS へのプロパガンダの拡散)、AI の利用は今後ますます高度化していくだろう。何年も前から AI がスポーツや金融分野のニュース記事を書いているが、今ではより一般的なストーリーを書くところまできている。Open AI の GPT-3 といった研究プロジェクトは AI によるテキスト生成の可能性を広げるが、これはフェイクニュースを書くのにも使える。

AI が政治的言説を劣化させることも起こりうる。既に AI が開発したペルソナが、新聞社や国会議員にメールを書いたり、ニュースサイトや掲示板に分かりやすいコメントを残したり、ソーシャルメディアで政治について知的に議論したりできる。こうしたシステムは、より洗練されてパーソナライズされ、現実の人間と見分けがつかなくなるだろう。

現にあるオンラインプロパガンダキャンペーンが、AI が生成した顔写真を使った偽ジャーナリストによって行われた実例などあり、ディープフェイク技術や、ソーシャルメディアやその他のデジタルグループの中で個人を装う AI である「ペルソナボット」など悪用可能な技術は存在する。1つのペルソナボットでは世論を動かせないが、それが何千、何百万もあったらどうだろう? AI は将来的に偽情報を無限に供給するだろう。

こうしたシステムは、個人レベルでも影響を及ぼす。効果的なフィッシングメールは、人や企業に多大な損失をもたらすが、フィッシング攻撃をカスタマイズするような手間のかかる作業が、AI技術によって自動化され、マーケティング担当者がパーソナライズされた広告を送りつけるだけでなく、フィッシング詐欺師が個別にターゲットを絞ったメールを送れるようになる。重要なのは、AI 技術は人間ではなくコンピュータの速度と規模でそれを可能にすることだ。

我々をハックするロボット

ケイト・ダーリングは、著者『The New Breed』の中で、こうしたハックにロボット工学が加わることでより効果的になると述べている。我々人間は、線の上に2つ点があればそれが顔に見えるという、他人を認識するとても効果的な認知的ショートカットを備えている。顔があるだけで、人間にはそれが何かしらの生き物に感じられ、意思や感情を読み取る。

擬人化されたロボットは、人間の感情に訴えかける説得力のあるテクノロジーだし、AI はその魅力を増幅させる。AI が人間や動物を模倣するようになれば、人間がお互いをハックするのに使っているメカニズムをすべて乗っ取ることになる。人間がロボットを感情や意思を持った生き物として扱い、ロボットに操られやすくなる。

AI はこれらをすべてをうまくこなすようになるだろう。多くの AI 分野がそうであるように、最終的には人間を超える能力を持つようになる。そうなれば、人間をより正確に操れるようになる。しかし、AI のハッカーを操る人間のハッカーがいることを忘れてはいけない。あらゆるシステムは、特定の目的のために特定の方法で我々を操作したい人間によって設計されるのだが、これについては後述する。

AIがハッカーになるとき

CTF(Capture the Flag)は、ハッカーのチームが自分たちのコンピュータを守りながら他のチームを攻撃する、基本的にコンピュータネットワーク上で開催されるアウトドアゲームだ。CTF は1990年代半ばからハッカーの集いの目玉競技だが、2016年に DARPA が AI を対象とした同じスタイルのイベントを開催した。100ものチームがこの Cyber Grand Challenge に参加した。これまで解析やテストが行われたことのないカスタムソフトウェアを使用した特別なテスト環境が用意され、AI には10時間の猶予が与えられ、競技に参加した他の AI に対抗するための脆弱性の発見と悪用されないためのパッチの適用が求められた。

その決勝が行われた DEFCON では、人間チームによる CTF が開催され、それに CGC で優勝した Mayhem も招待されたが、結果は最下位だった。だが、AI のコア技術が進歩する一方で、ツールが進歩しても人間は人間のままなので、最終的には(シュナイアーの予想では10年もかからず)AI が人間に勝つのが当たり前になるだろう。完全に自律した AI によるサイバー攻撃が可能になるまで何年もかかるだろうが、AI 技術は既にサイバー攻撃の本質を変えつつある。

AI システムにとって特に有益と思われる分野の1つが脆弱性の発見で、ソフトウェアのコードを一行ずつ調べていくような退屈な作業こそまさに AI が得意とする問題だ。これはコンピュータネットワークにとどまらない。税法、銀行規制、政治プロセスなど多くのシステムで、AI が何千もの新たな脆弱性を見つけないわけがない。

これを利用して、AI にシステムをハックするように指示する人が出てくるだろう。AI に世界の税法や金融規制を学習させ、そこから利益を生むハッキングをしかけるわけだ。そうでなく、不注意ではあれ AI が自然にシステムをハッキングしてしまうこともありうる。我々がそれが起こったことに気づかないかもしれないので、後者のほうがより危険だ。

説明可能性の問題

銀河ヒッチハイク・ガイド』において、すぐれた知性をもった汎次元生物の宇宙人が、生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えを得るために、宇宙最強のコンピュータ「ディープ・ソート」を構築した。750万年の計算の後、ディープ・ソートが出した答えは「42」だった。しかし、ディープ・ソートはその答えを説明できなかった。

これがいわゆる説明可能性の問題だ。現代の AI システムは基本的に、片方からデータが入り、片方から答えが出てくるブラックボックスである。プログラマーがコードを見ても、システムがどのようにして結論を出したのか理解できないこともある。AI は人間のように問題を解決するものではない。AI システムには、人間のような頭の中で同時に処理できる情報量の限界はないのだ。

しかし、説明可能性の問題がある AI は理想ではない。我々が求めるのは、AI システムが答えを出すだけでなく、その答えについて人間が理解できる形で説明してくれることだ。これはより安心して AI の判断に任せられるようにするためだが、AI システムがハッキングされて偏った判断をしていないか確認するためでもある。

研究者たちは説明可能な AI に取り組んでおり、、2017年には DARPA がこの分野の12のプログラムに7500万ドルの研究基金を立ち上げた。この分野に進展はあるだろうが、能力と説明可能性はトレードオフの関係にあるようだ。つまり、説明を強要すると、AI システムの判断の質に影響を与える新たな制約になりかねない。近い将来、AI はますます不透明、複雑、非人間的になり、説明可能性がなくなっていくのではないか。

報酬ハッキング

繰り返すが、AI は人間と同じように問題を解かない。AI は人間が当たり前に共有する文脈、規範、価値観を持ち合わせないので、人間が思いもよらないような解決策に必ず行き当たるし、システムの意図を覆す解決策もあろう。

報酬ハッキングとは、AI の設計者が意図しない方法で AI が目標を達成することである。AI は目的に最適化するように設計されている。それによって自然に、我々が予期しない方法でシステムをハックしてしまうのだ。

優れた AI システムは、当たり前のようにハックを見つける。ルールに問題や矛盾、抜け穴があり、その特性がルールで定義された許容できる解決策を AI は見つけるのだ。それを見た我々人間は、元の問題の文脈を理解しているがゆえに、逸脱、不正、ハッキングだと感じてしまう。AI の研究者が「目標の調整(goal alignment)」と呼ぶ問題である。

ギリシャ神話のミダス王は、ディオニュソス神に願いを叶えてもらい、触れる物を全て黄金にする能力を得た。しかし、食べ物も飲み物も娘もミダス王が触れたものがすべて金になってしまい、飢えに苦しみ惨めな思いをする。これが「目標の調整」の問題であり、ミダス王は間違った目標をシステムにプログラムしてしまったのだ。

この問題は一般的なもので、人間は言語や思考であらゆる選択肢を説明することはないし、注意点や例外や但し書きをすべて明示もできない。人間は文脈を理解し、通常は誠意や常識を持って行動するので問題にはならない。しかし、AI に目標を完璧に指定はできないし、AI も文脈を完全には理解できない(インターネットジョークの例:ジェフ・ベゾス「アレクサ、ホールフーズで何か買ってよ」アレクサ「承知しました。ホールフーズを買います」)。

2015年、フォルクスワーゲンが排ガス規制のテストで不正行為を行っていたことが発覚した。フォルクスワーゲンはテスト結果を偽造したのではなく、エンジニアが車のコンピュータのソフトウェアを、車が排出ガステストを受けているのを検知するようプログラムすることで、車のコンピューターが不正行為を行うように設計した。車のコンピュータは、テストの間だけ車の排出ガス抑制システムを作動させたわけだ。

このフォルクスワーゲンの話に AI は含まれないが、AI は不正行為という抽象的な概念を理解しない。AIが「既成概念にとらわれない」発想をするのは、既成概念や人間の解決策の限界を知らないからに他ならないし、AI には倫理観もない。フォルクスワーゲンの解決策が他人を傷つけることも、排ガス規制テストの意図を損なうことも、法律に違反していることも理解できないだろう。つまり、AI が人間の不正行為と同じような「解決策」を考え出すのも容易に想像できる。AI は自らがシステムをハックしていることすら気づかないだろうし、説明可能性の問題から、我々人間もそれに気づかないかもしれない。

天然ハッカーとしてのAI

プログラマーが「テスト時に通常と異なる動作をしない」と指定しないと、AI はフォルクスワーゲンの不正行為と同じようなハックを思いつくかもしれない。プログラマーが予想しないようなハックはそれ以外にも常に存在する。問題は明らかなハッキングだけではない。効果が微妙なために我々が気づかない、目立たないハッキングこそ心配である。

例えば、レコメンデーションエンジンが人々を極端なコンテンツに向かわせることはよく知られている。これは元々の意図ではなく、システムが継続的な結果を見て、ユーザーのエンゲージメントを高めようと自己修正することで自然に生まれた特性である。こうしたハッキングは、悪意のある人が行ったものではなく、ごく基本的な自動システムがいきついてしまったもので、我々のほとんどはそんなことが起きてることに気づいていない(Facebook の奴らは例外で、あいつらはそれを示す調査結果を無視している)。

こうした話は AI の研究者にとって目新しいものではなく、その多くが目標や報酬のハッキングから防御する方法を検討している。AI に文脈を教えるのが解決策の一つだ(「価値観の調整(value alignment)」と呼ばれる)。これには価値観を明示的に指定するやり方と、人間の価値観を学ぶ AI を作るやり方の二つがある。前者は現在もある程度可能だが、ハッキング被害を受けやすいという欠点がある。後者は実現に何年もかかるし(それが何年かは AI 研究者の間でも意見が分かれる)、誰の価値観を反映すべきかという問題もある。

SFから現実まで

AI が解決策の最適化に着手し、新しい解決策をハックするには、環境のすべてのルールをコンピュータが理解できるように形式化する必要がある。AI では目的関数と呼ばれる目標を設定する必要があるし、どれくらいうまくいっているかフィードバックが必要で、それによりパフォーマンスを向上させられる。

囲碁のような、ルールも目的もフィードバックもすべて正確に指定されるゲームは簡単だ。しかし、システムに曖昧さがあると問題になる。世界中の税法を AI にインプットすると考えると、確かに税法は税額を決定する計算式で構成されるが、その中には曖昧な部分が存在する。その曖昧さをコード化するのは難しいので、AI では対応できなくて、当分の間税理士の仕事は安泰だ。人間のシステムの多くはもっと曖昧である。現実のスポーツのハックを AI に任せるのは、不可能ではないが SF の領域である。曖昧さは AI のハッキングに対する短期的なセキュリティの防御策となるわけだ。

AI によるハッキングの対象としては、ルールがアルゴリズムで処理できるよう設計されている金融システムが筆頭候補になる。世界中の金融情報をリアルタイムで入手し、世界中の法律や規制やニュースフィードなど、関連性があると思われる情報を AI に学習させ、「合法的に最大の利益を得る」という目標を与えるのが考えられる。これは遠い未来の話ではないし、その結果斬新な、人知を超えたハックが生まれるだろう。

1950年代以降、二つの種類の AI が生まれた。初期の AI 研究は「シンボリックAI」と呼ばれ、人間の理解をシミュレートすることを目的としたが、これは非常に難しく、その数十年で実用的な進歩はあまり見られなかった。もう一つは「ニューラルネットワーク」で、これも歴史は古いが、計算機やデータの飛躍的な進歩により、ここ10年で一気に普及した。ニューラルネットワークは言語を「理解」したり、実際に「思考」したりはしない。基本的に過去に「学んだ」ことに基づいて予測を行う、高度な統計的オウム返しのようなものだ。その達成は驚くべきことだが、できないこともたくさんあり、この文章に書かれることの多くもその範疇に入るだろう。が、AI の進歩は不連続で直感に反するもので、ブレイクスルーが起こるまでは分からないものだ。

つまり、AI ハッカーで埋め尽くされた世界は現時点ではまだ SF だが、はるか彼方の銀河系の話ではない。我々は、強制力のある、理解しやすい、倫理的な解決策を考え始めなければならない。

AIハッカーの意味

ハッキングは人類と同じくらい古いものだ。我々は創造的に問題を解決し、抜け穴を利用し、自らの利益のためのシステムを操作する。そうしてより多くの影響力、より多くの権力、より多くの富を求めるが、それでも制約なしに利益を最大化する人間はいない。人間的な資質がハッキングにブレーキをかけるのだ。

ハッキングは、あらゆるものがコンピュータ化されるにつれて進化した。コンピューターはその複雑さゆえにハッキングが可能になる。そして今では、車も家電も電話もあらゆるものがコンピュータだ。金融、税制、法令順守、選挙など社会システムのすべてがコンピュータとネットワーク前提となり、あらゆるものがハッキングされやすくなっている。

これまでハッキングは人間が行うもので、専門知識、時間、創造性、運が必要だったが、AI がハッキングをするようになればそれも変わる。AI には人間のような制約も限界はない。

ハッキングに対応する社会システムはあるが、それはハッカーが人間だった頃に開発されたものであり、人間のハッカーの速度を反映している。新たに何百、何千もの税金の抜け穴が発見されたとして、それに対応できるようなシステムはない。Facebook で民主主義をハッキングした人間にも対処できなかったのに、AI がコンピュータの速度でハッキングしたらもはや制御できない。

速度だけでなく、規模の問題も同様だ。その前兆はあり、DoNotPay は駐車違反の取り締まりを自動化する AI を利用する無料サービスだが、このサービスは航空便の遅延に対する補償を受けたり、サブスクリプションをキャンセルするなど他の分野にも拡大している。

AI システムの範囲が広がることで、ハッキングの危険性も高まる。生活に影響を与えるような重要な判断は、これまで人間が独占的に行うものだったが、既に一部 AI が行っている。AI システムの能力が向上すれば、社会はより多くの、より重要な決定を AI に委ねるようになろう。そして、そうなったシステムのハッキングは、大きな被害をもたらすだろう。

AIのハックと権力

このエッセイで紹介されているハッキングは、権力者が我々に対して行うものであり、我々のではなく権力者の利益のためにプログラムされているのを忘れてはいけない(例:Amazon のアレクサ)。ハッキングは主に既存の権力構造を強化するものだが、AI はその力学をさらに強化するだろう。

一つ例を紹介すると、ソニーが1999年から販売しているロボット犬 AIBO がある。2005年までは毎年改良された新型が発売されていたが、その後数年間で旧型 AIBO のサポートは徐々に終了していった。AIBO は原始的なコンピュータに分類されるが、所有者は AIBO に感情移入できた。日本では「死んだ」AIBO のお葬式が行われていたほどだ。

2018年、ソニーは新世代の AIBO の販売を開始した。興味深いのは、クラウドデータストレージを必要とするようになったことだ。つまり、これまでのAIBOとは異なり、ソニーは遠隔操作で AIBO を改造したり「殺す」ことが可能になった。クラウドストレージは最初の3年間は無料で、その後の料金は発表されていない。3年後、所有する AIBO に感情移入するようになったオーナーから多くの料金を請求できることだろう。

AIハッカーに対する防御

AI が新たなソフトウェアの脆弱性を発見できるようになれば、政府にも犯罪者にも趣味でハッキングを行う人にも信じられないほどの恩恵をもたらす。その脆弱性を利用して世界中のコンピュータネットワークをハッキングできるからだが、それは我々皆を危険にさらすことにもなる。しかし、同じ技術が防御にも役立つとも言える。長い目で見れば、ソフトウェアの脆弱性を発見する AI 技術は防御側に有利に働く。そしてそれは、より広範な社会システムのハッキングについても同様である。

しかし、そうした一般的なケースで防御を確実にするには、ハッキングに迅速かつ効果的に対応できる弾力性のある統治構造を構築する必要がある。社会のルールや法律も、パソコンや携帯電話をアップデートする頻度でパッチを当てられるものでなければなならない。これは難しい問題であり、本稿の範囲をはるかに超えるものだ。

最大の解決策は「人」である。ここまで説明してきたのは、人間とコンピューターのシステムの相互作用、並びにコンピューターが人間の役割を果たすことに内在するリスクである。テクノロジーに未来を託すのは簡単だが、未来におけるテクノロジーの役割を社会で決める方がずっと良い。AI が世界をハッキングし始める前に、我々はこの問題を解決しなければならない。

以上がブルース・シュナイアー先生の文章のワタシなりのまとめだが、できれば原文を読んでほしい。むちゃんこ長いけど。

個人的には納得できないところもある。例えば、AIBO を引き合いに出しているところはワタシははっきり不満で、もっと適した例がいくらでもあるだろうに、と正直まとめからバッサリ削除しようかとも思ったくらい。また前半かなり煽っておいて、最後のあたりでこっそり風呂敷をたたんでいる気配があるのもどうかと思った。それでもこれは読むべき論考だと思うわけです。

そういえばロボット倫理学ケイト・ダーリングの新刊 The New Breed が文中引き合いに出されているが、当のブルース・シュナイアー先生だけでなく、ローレンス・レッシグティム・オライリーも推薦の言葉を寄せており、邦訳が期待される。

その内容は、おそらく彼女の TED 講演「なぜ人はロボットと感情的繋がりを持つのか」を発展させた感じでしょうね。

www.ted.com

我々の脳はコンピュータよりもインターネットに近い? 脳の働きの新しいパラダイムをもたらす新刊

boingboing.net

神経科学者のダニエル・グレアム(Daniel Graham)の An Internet in Your Head – A New Paradigm for Understanding the Brain という本を取り上げているが、これは面白そうである。

ディーン・ブオノマーノ『バグる脳 ---脳はけっこう頭が悪い』(asin:4309252737)やドナルド・ホフマン『世界はありのままに見ることができない ―なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか―』(asin:4791773152)など、これまで人間の脳をコンピュータにたとえる言説が多かった。しかし、神経科学の最新研究によると、我々の脳はコンピュータというよりインターネットに近いのではというのがこの本のポイントで、それを脳理解の新しいパラダイムと謳っている。

boingboing.net

こちらには、この本の序文が掲載されている。さわりを少し訳しておきましょう。

我々は自分たちの脳をコンピュータとしてとらえている。意識しているかどうかは別として、記憶を取り戻すとか、自動操縦で動くとか、何か習得回路が備わっているとか、心を再起動するとか言うとき、我々は脳をコンピュータにたとえている。神経科学者もやはりコンピュータのメタファーにとらわれている。神経科学の分野でも、脳をコンピュータ装置としてイメージするのがデフォルトのアプローチなのだ。

もちろん、大部分の神経学者は、脳を文字通りのデジタルコンピュータとは考えていない。しかし、脳科学の教科書では、思考や行動の神経生物学的プロセスを、プログラム、記憶回路、画像処理、出力装置の類を備えたコンピュータにそのまま似たものとして記述されるのが当たり前に行われている。さらには意識も外の世界を内部のコンピュータでモデル化して表現される。そして、この脳とコンピュータ装置との比較は、ある程度条件つきとはいえほとんどどこにも存在している。我々が脳についての考え方にあまりにも浸透しているため、このメタファーから逃れることは難しいし、それに気づくことさえないのだ。

これは来年以降に邦訳が出るんじゃないですかね。

An Internet in Your Head: A New Paradigm for How the Brain Works

An Internet in Your Head: A New Paradigm for How the Brain Works

  • 作者:Graham, Daniel
  • 発売日: 2021/05/04
  • メディア: ハードカバー

ウィキペディアの「社名の由来一覧」ページが今更ながら面白い

kottke.org

WikipediaList of company name etymologies、要は「社名の由来一覧」ページが面白いという話である。

はてなブックマークを見ると英語版でも15年前にぶくまされているので、知る人はとっくに知っている話のようだが、ワタシは初めて知った。まさに暇つぶしに眺めるのにちょうど良い。

kottke.org が取り上げている例に「セブンイレブン」があり、これは日本人ならだいたい想像つくのだけど(いや、生まれたときからコンビニの24時間営業が当たり前だった世代にはそうでもないのかな)、「ハーゲンダッツ」には実は何の意味がないという話は、ワタシも少し前に Twitter で読んだ覚えがあるな。

あと Mozilla について、「Netscape Navigator の前にあったウェブブラウザの名前から。Netscape の共同創業者のマーク・アンドリーセンがその Mosaic ブラウザにとってかわるブラウザを作ったとき、最初ジェイミー・ザウィンスキーによって MozillaMosaic キラー、ゴジラ)と内輪で名付けられた」とあるが、これこそお若い方にしてみれば、Mosaic は言うまでもなく、Netscape もなんだそれ、という感じなのかもしれない。

この Mozilla命名の場面をジェイミー・ザウィンスキーの文章から引用させてもらう。

一週間かそこら前に、みんなで集まってクライアントの名前を考え出そうとした。Mosaic は会社の名前だから、これは使えない。 マーケティングのアホどもは、サイバーなんとかだのパワーなんたらだのうんちゃらウェアだの、くだらん提案ばっかりしやがる。そこでだれかが NCSA Mosaic をつぶすという話をして、ぼくが「もじら!」と口走った。みんなそれが気に入ったみたいで、だからこれがブラウザの正式名になっちゃうかも。

nscp dorm-j

時は1994年8月5日のことである。

ワタシのブログの NetscapeMozilla 関係のエントリでは、以下も参考まで。

yamdas.hatenablog.com

yamdas.hatenablog.com

篠原奎次氏が浮世絵の木版技法を実演する動画を今更知る

www.openculture.com

この記事経由で、スミソニアン国立博物館YouTube チャンネル、それも Smithsonian's National Museum of Asian Art というアジアのアートに特化したチャンネルに浮世絵の木版画作成を実演する動画を知る。

この元動画が公開されたのは2014年4月なので7年前か。恥ずかしながらまったく知らなかった。

英語で説明しながら実演するのは篠原奎次氏で、彼はアメリカで伝統的木版画家として活躍している方なんですね。

知識とは知っていても、こういう動画を見て、あ、浮世絵って木版画だったんだ(もちろん肉筆画もあるけど)、と思い当たるのは日本人としては恥ずかしいことかもしれない。

そういえばスミソニアン国立博物館ってボブ・ロスが「ボブの絵画教室」で書いた絵も一部寄贈されていたっけ。すごいよなぁ。果たして日本の博物館はこうした文化遺産に関する動画を遺しているだろうか。

邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2021年版)

私的ゴールデンウィーク恒例企画である「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする」だが(過去回は「洋書紹介特集」カテゴリから辿れます)、10回目を迎えた昨年、「この企画も今回で終わりである。ちょうど10回、キリが良い」と宣言させてもらった。

が、その後も『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』のプロモーションにかこつけてブログを更新したため、結果、この一年で結構な数を洋書を紹介しており、また今年は緊急事態宣言もあって帰省もキャンセルとなり、ついカッとなってやることにした次第。と、ここですかさず自著の宣伝。

今回は全31冊の洋書を紹介させてもらう。ほとんど毎年書いていることの繰り返しになるが、洋書を紹介してもアフィリエイト収入にはまったくつながらない。それでも、誰かの何かしらの参考になればと思う。

注記:どうもリンクする数が多すぎるせいか正しく書影が表示される本が多いため、今回は Amazon は(紙の本と電子書籍が両方出ている場合)紙の本だけリンクする。Kindle 版は紙の本のリンクから辿っていただきたい。

Mary L. Gray、Siddharth Suri『Ghost Work: How to Stop Silicon Valley from Building a New Global Underclass』

書籍の公式サイト。著者二人はマイクロソフト・リサーチの研究員だが、シリコンバレーが新たな底辺層を作り出すのを止めろという訴えは、非常に現在的なテーマだと思うし、バーバラ・エーレンライクの名著『ニッケル・アンド・ダイムド アメリ下流社会の現実』(asin:4492222731)の現在版とも言えるわけだ。

Safiya Umoja Noble『Algorithms of Oppression: How Search Engines Reinforce Racism』

著者のサイトでの紹介ページGoogle を標的とした、いかに検索エンジンが人種差別を強化しているかという訴えは主に黒人を対象としているが、今年に入って深刻化しているアジア人差別を考えるなら、アジア人についてそのような「抑圧」がないかの研究をまとめた本もいずれ出るのだろうか(既に出ているのかな?)。

Algorithms of Oppression: How Search Engines Reinforce Racism

Algorithms of Oppression: How Search Engines Reinforce Racism

  • 作者:Noble, Safiya
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: ペーパーバック

マット・アルト『Pure Invention: How Japan's Pop Culture Conquered the World』

著者のサイト。著者は AltJapan において日本文化の米国への紹介者として知られるが、これは邦訳出るんじゃないですかね。

そういえば著者は少し前に New York Times「なぜ QAnon は日本ですべったか」という論説記事を寄稿していたが、清義明の「Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー」を読んだ後では、すべったのは著者のほうではないかという疑いを持ってしまう。

Pure Invention: How Japan's Pop Culture Conquered the World

Pure Invention: How Japan's Pop Culture Conquered the World

  • 作者:Alt, Matt
  • 発売日: 2020/06/23
  • メディア: ペーパーバック

アイバン・オーキン、Chris Ying『The Gaijin Cookbook: Japanese Recipes from a Chef, Father, Eater, and Lifelong Outsider』

タイトルであえて「ガイジン」と名乗っているのは、日本人の排他性を逆手に取ったもので……と勝手に解説すると怒られるかもしれないが、こういう日本料理本こそ邦訳が出るべきだと思うのですよ。

ジョン・クリーズ『Creativity: A Short and Cheerful Guide』

最近では、「ブロックチェーンによるエネルギーの大量消費を解消できるか:動き出したイーサリアムと「PoS」の潜在力」でもちょっと触れられているが、iPad で描いたブルックリン橋の大したことない絵(失礼)にとんでもない値段がついて論議を呼んだりしたジョン・クリーズ先生にはどうか長くお元気であってほしい。

Creativity: A Short and Cheerful Guide

Creativity: A Short and Cheerful Guide

  • 作者:Cleese, John
  • 発売日: 2020/09/03
  • メディア: ハードカバー

Carl Bergstrom、Jevin West『Calling Bullshit: The Art of Scepticism in a Data-Driven World』

本の公式サイト。以前にも書いたが、『RANGE』(asin:B0868DR365)を読んでいて、この本の元となった講義が紹介されていてアッとなったものである。「データドリブンな社会において懐疑的にものを見る技術」はとても求められていると思うのですよ。

コリイ・ドクトロウ『How to Destroy Surveillance Capitalism』

さて、これは来月単独でブログで紹介するかもしれないが、遂にようやくやっと出ますよ、ショシャナ・ズボフ『監視資本主義』が! 「人類の未来を賭けた闘い」って、ワオ!

正直、コリイ・ドクトロウがこの本をディスること、特にテック企業のツール(アルゴリズム)が悪用されたことが問題ではなく、独占と腐敗こそが問題だと強調する理由がよく分からなくて、ブルース・シュナイアー先生が「両方問題だろ」と書いていたのにワタシも同意する。

一応まだ OneZero で全文公開されている。著者のサイト内ページも参考まで。

How to Destroy Surveillance Capitalism

How to Destroy Surveillance Capitalism

  • 作者:Doctorow, Cory
  • 発売日: 2021/01/21
  • メディア: ペーパーバック

キャス・サンスティーン『Behavioral Science and Public Policy』

ここで紹介している本は薄い本なので邦訳は出ないだろう、まぁ、何しろサンスティーン先生は多作な人なので、彼の本はそのうちどれかの邦訳が出るだろうからいいんじゃないでしょうか。

というか、彼の「ナッジ」というコンセプトは強力なのは間違いないが、それだけに近年ちょっと濫用されているように思うのよね。

Behavioral Science and Public Policy (Elements in Public Economics)

Behavioral Science and Public Policy (Elements in Public Economics)

Frank Pasquale『New Laws of Robotics: Defending Human Expertise in the Age of AI』

これも AI の危険性を煽る本と思われそうで、そういう本は既にトレンドになって久しい。この本はロボットの軍事方面への利用について突っ込んだ記述があり、国際情勢がきな臭くなってそういう方面に目がいくといった流れにでもならない限り、邦訳は今回も難しいかもなぁ。

New Laws of Robotics: Defending Human Expertise in the Age of AI

New Laws of Robotics: Defending Human Expertise in the Age of AI

  • 作者:Pasquale, Frank
  • 発売日: 2020/11/06
  • メディア: ハードカバー

Joseph Reagle、Jackie Koerner『Wikipedia @ 20: Stories of an Incomplete Revolution』

今年誕生20周年を迎えた Wikipedia を祝して、ワタシもこの Wikipedia @ 20 の文章を2つほど訳させてもらったが、正直邦訳が書籍として商業ルートで出るのは難しいと思う。せっかく Creative Commons のライセンスで全文公開されているので、誰か翻訳プロジェクトでも立ち上げてほしいと今でも願っている。

Wikipedia @ 20: Stories of an Incomplete Revolution

Wikipedia @ 20: Stories of an Incomplete Revolution

  • 発売日: 2020/10/13
  • メディア: ペーパーバック

Sally Hubbard『Monopolies Suck: 7 Ways Big Corporations Rule Your Life and How to Take Back Control』

著者のサイトティム・ウー&リナ・カーンのバイデン政権入りの現状を考えると、ティム・ウー『巨大企業の呪い ビッグテックは世界をどう支配してきたか』に続いてこの本も邦訳が求められていると思うのだが。

Sarah Frier『No Filter: The inside story of how Instagram transformed business, celebrity and our culture』

Instagram という2010年代もっとも成功したスマートフォンアプリのスタートアップの成功物語としてよりも、Facebook に買収された後の軋轢の話、特にマーク・ザッカーバーグのクソ野郎話こそ興味深い。

Whitney Phillips、Ryan M. Milner『You Are Here: A Field Guide for Navigating Polarized Speech, Conspiracy Theories, and Our Polluted Media Landscape』

本の公式サイト。著者二人ともこれまでヘンな研究をしている人なので、そうした人たちが書く現在のインターネットのフィールドガイドは面白いと思うのだが、こういう本はよほど特別何かで話題にならない限り、邦訳出ないんだよなぁ。

WeWork(とその創業者アダム・ニューマーク)の隆盛と没落についての本

こんなドラマ化、映画化の話が話題になるのも WeWork ならではという感じもするし、それらの日本での公開・配信前に以下の本の邦訳も出ていてほしいと思うわけである。できれば帯は孫正義に書いてほしい(絶対無理)。

Billion Dollar Loser: The Epic Rise and Fall of WeWork

Billion Dollar Loser: The Epic Rise and Fall of WeWork

The Cult of We: Wework and the Great Start-Up Delusion

The Cult of We: Wework and the Great Start-Up Delusion

アンドレアス・M・アントノプロス(Andreas Antonopoulos)、Olaoluwa Osuntokun、René Pickhardt『Mastering the Lightning Network: A Second Layer Blockchain Protocol for Instant Bitcoin Payments』

本の公式サイト。最近ブロックチェーン絡みの話題というと NFT ばかりだが、安価かつセキュアなマイクロペイメントを実現するプロトコルも重要な話に違いない(これはブロックチェーン外技術だけど)。

アンドレアス・アントノプロスがオライリーから出す本だから、これが Lightning Network 本の決定版になるのだろうが、邦訳が出るかは日本でもその「マイクロペイメント」がどの程度求められるかにかかっているのかな。

ケヴィン・ケリー『Vanishing Asia』

まぁ、何しろ全3巻、1000ページもの分量の本ということで、通常流通もしない本だから邦訳もまず期待できないのは分かっているが、趣味でこれも入れさせてもらう。

さて、ワタシのブログで過去取り上げた洋書はここまで。以下は、ブログで取り上げ損ねた本やこれから刊行予定の本を何冊か取り上げさせてもらう。

ウォルター・アイザックソンWalter Isaacson)『The Code Breaker: Jennifer Doudna, Gene Editing, and the Future of the Human Race

日本ではスティーブ・ジョブズの伝記本で知られるウォルター・アイザックソンだが、彼の新刊が先月出たばかりなのを、少し前に彼の Google での講演動画(というかオンラインインタビュー)をみて初めて知った。

その新刊だが、ゲノム編集技術 CRISPR-cas9 システムの開発者として知られ、昨年ノーベル化学賞を受賞したジェニファー・ダウドナの伝記というタイムリーな本である。これは来年邦訳出るでしょうな!

ミケランジェロ・マトス『Can't Slow Down: How 1984 Became Pop's Blockbuster Year』

今回音楽本をまったく取り上げてないことに気づいたので、VarietyRolling StonePitchfork など2020年最高の音楽本リストに必ず入っていた本を挙げておきましょう。

著者は音楽ライターで、「33 1/3シリーズ」でプリンスのアルバムについて書いた『プリンス サイン・オブ・ザ・タイムズ』(asin:4891769459)の邦訳もある。

本作はそのプリンス、マドンナ、そしてマイケル・ジャクソンという1958年生まれの3人を軸にして、1984年の音楽シーンに焦点を当てたものである(書名はその前年秋にリリースされたライオネル・リッチーのアルバムタイトルからとられたもの)。群像劇なような楽しみのある本とのことなので、これは邦訳出てほしいよな。

Can't Slow Down: How 1984 Became Pop's Blockbuster Year

Can't Slow Down: How 1984 Became Pop's Blockbuster Year

ダニエル・J・ソローヴ(Daniel J. Solove)先生の久方ぶりの新刊2冊

ダニエル・J・ソローヴ先生のことは「社会的価値としてのプライバシー(後編)」で取り上げており、そこでも紹介している『Nothing to Hide』は『プライバシーなんていらない!?』(asin:4326451106)として邦訳が出たが、それから10年共著の教科書本を除くと新作がなかった。

彼はジョージ・ワシントン大学ロースクールの教授のまま、プライバシーやデータセキュリティのトレーニングを手がける TeachPrivacy を起業しており、そちらで忙しかったのだろう。

ノースイースタン大学教授のウッドロー・ハーツォグ教授との共著となる『Breached!』はおよそ10年ぶりの新刊になる。

Breached!

Breached!

……と思ったら、実はソローヴ先生は、昨年秋にこれまでと毛色の違う本を出していた。

そう、絵本を共著で出していたんですね。史上初(?)の子供向けプライバシー指南の絵本らしい。

The Eyemonger

The Eyemonger

サンダー・キャッツ(Sandor Katz)『Sandor Katz's Fermentation Journeys: Recipes, Techniques, and Traditions from Around the World』

サンダー・キャッツというと発酵食品のスペシャリストとして知られており、ワタシも『発酵の技法』asin:4873117631)を恵贈いただいて読み、すごいもんだと思ったものだ。他にも『天然発酵の世界』(asin:4806714909)、『サンダー・キャッツの発酵教室』(asin:4990863712)の邦訳も出ている。

その彼の今年秋に出る新刊の話は大原ケイさん経由で知った。当然のように発酵食品についての本なのだけど、発酵カルチャーをテーマとする世界旅行といった趣である。

Jenny Odell『Inhabiting the Negative Space』

ジェニー・オデルの本は一昨年に「TikTokの時代に我々はスローダウンできるのか? 気鋭のヴィジュアルアーティストが説くアテンションエコノミーへの反逆」で取り上げたが、アテンションエコノミーに抗して「何もしない方法」という本を出した彼女の姿勢は、コロナ禍にかなりマッチしていたと今になって思う。

その彼女の新刊は The Incidents シリーズの1冊となる薄い本だが、やはりコロナ禍という奇妙な時代において、何も活動しない期間を無駄な時間としてではなく豊かなデザインの機会ととらえるものみたい。電子書籍で出すのにちょうどいい本かな。

Inhabiting the Negative Space (Sternberg Press / The Incidents)

Inhabiting the Negative Space (Sternberg Press / The Incidents)

  • 作者:Odell, Jenny
  • 発売日: 2021/08/03
  • メディア: ペーパーバック

Xiaowei Wang『Blockchain Chicken Farm: And Other Stories of Tech in China's Countryside』

正直この本をどこで知ったか思い出せないのだが、ワタシが面白いなと思ったのは、「ブロックチェーン」と「養鶏場」という思いつかない組み合わせの面白さ(鶏肉の産地偽装防止なんでしょう)、そして何よりこれが中国の地方におけるテック話をテーマにした本だということ。

中国の発展は目覚ましく、それと引き換え日本は――みたいな話はもはや定番だが、そこで話題となる「中国」は主に大都市なわけである。果たして中国の地方で「ブロックチェーン養鶏場」ってなんだ? と興味をひかれたのだ。どこかスチームパンクっぽくもあるし。

上で新刊を紹介しているジェニー・オデルクライブ・トンプソンといった人たちが本作を賞賛している。

Lee Vinsel、Andrew L. Russell『The Innovation Delusion: How Our Obsession with the New Has Disrupted the Work That Matters Most

共著者の紹介ページ。「イノベーション妄想:我々の新しさへの強迫観念がいかにもっとも重要な業績をぶち壊してきたか」という書名は、日本の経済メディアでも「イノベーション」という単語を目にしない日はなく、なにかと「イノベーション語り」がもてはやされる風潮に冷や水をぶっかけるものだ。

個人的に驚いたのはこの本をティム・オライリーが激賞していること。彼の推薦文は以下の通り。

長年読んできた中で最も重要な本だ。本書はテクノロジー、経済、そして世界のどこに問題があるかを雄弁に語っており、それを正すための簡潔な秘訣も与えてくれる。それは、製品やサービスが長続きするには何が必要か理解するのにフォーカスすることだ。

ティム・オライリーダン・ライオンズの両方が誉める本ってなかなかないよね。

[asin:0525575685:detail]

James NestorBreath: The New Science of a Lost Art

著者による紹介ページ。ワタシがこの本を知ったのは、New York Times の記事の翻訳「普段意外とできていない「正しい呼吸」の仕方」経由だが、2020年5月刊行ということは、コロナ禍によって図らずも追い風を受けた本と言えるだろう。

呼吸を「失われた技術」とは言いえて妙で、生きている人間の誰もが大変な数を欠かさずやるものだから、逆に普段はほとんど意識しなくなっている。しかし、「正しい呼吸なくして真の健康はない」と言われてみれば、確かになぁと反論できない。それは我々日本人にとっても当然ながらあてはまるわけで、邦訳が出るべき本だろうね。

[asin:0735213615:detail]

Hallie RubenholdThe Five: The Untold Lives of the Women Killed by Jack the Ripper

最後に紹介する本は、先日北村紗衣さんのツイート経由で知ったばかりだったりする。

確かに切り裂きジャックについてはこれまで多くの本が書かれており、その正体についていろいろな説が語られてきたし、『フロム・ヘル』などこれに触発されたフィクションも数限りなくある。が、この本は切り裂きジャックではなく、切り裂きジャックに殺された5人の女性についての本、というのがポイントである。

ワタシも切り裂きジャックの被害者は全員娼婦という話をずっと鵜呑みにしていたのだが、事件から130年後である2018年に本書の著者であるハリー・ルーベンホールドがこれを覆す研究を発表しており、調べてみたらブレイディみかこさんも取り上げていた

「「切り裂きジャックの被害者は売春婦」 レッテルに隠された素顔に迫る一冊」にもあるように、労働者階級の被害者が全員まとめて売春婦扱いされた背景にはメディアのセンセーショナリズムもあったわけだが、ミソジニーもあったろう。そのあたりにこの本の現代性がありそうだ。

著者サイト内の紹介ページも参考まで。

[asin:1784162345:detail]

今年は昨年以上にひどいゴールデンウィークになってしまったが、なんとかお互い生き残りましょう。

ティム・オライリーが「シリコンバレーの終焉」について長文を書いていたのでまとめておく

www.oreilly.com

ひと月以上前になるが、ティム・オライリー御大が珍しく Radar に長文を書いていた。テーマは「シリコンバレー終焉論」である。タイトルは、コロナ禍のはじまりだったおよそ一年前にチャートインして話題になった R.E.M.It's the End of the World as We Know It (And I Feel Fine) のもじりですね、多分。

ティム・オライリーというと2年前に『WTF経済 絶望または驚異の未来と我々の選択』が出ており、ワタシもオライリーの田村さんから恵贈いただいたが、新しい技術がもたらす驚きを良いものにしていこうという、訳者の山形浩生の言葉を借りるなら「テクノ楽観主義の書」であった。

WTF経済 ―絶望または驚異の未来と我々の選択

WTF経済 ―絶望または驚異の未来と我々の選択

  • 作者:Tim O'Reilly
  • 発売日: 2019/02/26
  • メディア: 単行本

ワタシはティム・オライリーをトレンドセッターとして長年ずっとフォローしてきたし、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』でも何度も引き合いに出している。『WTF経済』でも巨大プラットフォーム企業に対する警戒は書かれていた覚えがあるが、それらに支配されたように見えるシリコンバレーの今後についてこの人がどう考えているかはやはり気になる。

日本語圏でこの文章はほとんど話題になってないが、やはり長さが原因だろうか。以下、ざっと要約してみたい。

イーロン・マスクやピーター・ティールのような著名人、Oracle や HP Enterprise といった大企業がカリフォルニア州を去りつつある。コロナ禍において、テック労働者もリモートワークの利点に気づいてしまった。これはシリコンバレーの終わりなのか? シリコンバレーの未来を形作る以下の4つのトレンドを理解するのが重要だ。

  1. 消費者向けインターネットの起業家は、ライフサイエンス革命に必要なスキルの多くを持ち合わせていない。
  2. インターネット規制が迫りつつある。
  3. 気候変動に対応するには大きな資本が必要だが、本質的にローカルなものである。
  4. 賭博経済(betting economy)の終焉。

未来を発明する

「未来を予測する最良の方法は、それを発明することだ」とはアラン・ケイの有名な言葉だが、2020年はその正しさと間違いの両方が明らかになった。パンデミック自体はずっと前から予測されてきたが、世界は準備ができてなかった。さらに言えば、気候変動なんて数十年どころか一世紀以上も前から注目されていたし、不平等が国家の運命を左右することも大昔から知られていたが、やはり準備はできていなかった。

パンデミックや気候変動のような危機は、イノベーションの大きな原動力にもなりえる。起業家、投資家、政府が直面する難題の解決に立ち上がれば未来は明るい(新型コロナウイルスへの素早いワクチン開発はその例)。でもそれは、今見苦しいことになっている消費者向けインターネットやソーシャルメディアとはまったく話が違う。

予言:機械学習と医学、生物学、材料科学の結節点は、この数十年のうちに20世紀後半から21世紀初頭におけるシリコンバレーのような存在になる。

その「結節点」となる地の台頭が、シリコンバレーの終焉につながる。というのも機械学習、統計分析、プログラミングは必要だが、求められるスキルが変わり、シリコンバレーの地の利が失われるから(セラノスの挫折もその傍証となるでしょうか)。

「我々自身がデザインした悪魔」を使いこなす

機械学習の可能性は大きいが、人間による理論構築と実験に依存する現在の科学へのアプローチと噛みが悪い(少し前にテッド・チャンも話題にしていたアーサー・C・クラークの「十分に進歩した技術は魔法と区別がつかない」という言葉を思い出そう)。

インターネットのパイオニアたちは、自由群集の英知(wisdom of crowds)を期待したが、気が付けば我々は皆、偽情報の市場から利益を得る巨大企業に支配されてしまい、インターネットは我々の夢ではなく、悪夢になってしまった。シリコンバレーが問題を解決するなんて片腹痛い。お前らはむしろ「問題」の側だろ。

リチャード・ブックスターバーの本のタイトルを借りるなら、テクノロジープラットフォームは自身がデザインした悪魔を手なずけることができるだろうか? ということになる。

欧米の政府の規制当局はいわゆる GAFA に照準を合わせているが、規制当局のプラットフォーム理解が古ければ、満足いく結果にはならないだろう

市場は生態系であり、いたるところに隠れた依存関係がある。シリコンバレーの勝者総取りモデルの弊害は最終的には消費者にも及ぶが、例えば Google が独占的地位を悪用する弊害は、まずは消費者ではなく競合ウェブ企業の利益や資金低下や研究開発投資の減少に現れる。プラットフォーム企業は、新鮮なアイデアを持つスタートアップと競争し、人材を奪い、サービスをパクって市場全体からイノベーションが失われる。政府だって租税回避のテクに長けた大企業に歳入を奪われる。

ソーシャルメディアは、利益のためにユーザを操作し、民主主義や真実の尊重が損なわれているが、テクノロジーだけに罪があるわけではない。搾取に利用されるテクノロジーは、我々の社会の価値観をもっともよく映し出す鏡に過ぎない。オープンソースソフトウェアやワールドワイドウェブの寛大さやアルゴリズムによって増幅された集合知は今も健在だが、それを我々は積極的に選択し、間違った方向のシステムのレールに乗ってはいけない。

予言:プラットフォーム企業は自らを規制できないので、良い方向にも悪い方向にも制限をかけられることになろう。

シリコンバレーにとって悲しい時代になるが、それはシリコンバレーの若々しい理想の死というだけでなく、シリコンバレーがチャンスを逃すことになるからだ。

ここから GoogleAmazon、あと Facebookアルゴリズムの問題について書いてあるが、シリコンバレーは我々の経済や企業統治のどこがおかしいかを示す鏡であって、その原因ではないが、最悪の反面教師とは言える、という結論はかなり辛辣である。AI倫理の面からの規制論もこれから出るだろうが、オライリーは『WTF経済』で肯定的に取り上げたギグエコノミーについても、企業中心ではなく労働者中心のより堅牢な保障体系が必要と強調している。

気候変動とエネルギー経済

イーロン・マスクが世界でもっともリッチな人間になったというニュースは、気候変動の回避が今世紀最大のチャンスであることの前兆であり、電気自動車だけではなくあらゆる分野で改革が必要。何億人もの人間の移住が必要になる(マジかよ)。

予言:今後20年間に生まれる気候変動億万長者は、インターネットブームで生まれた億万長者よりも多いだろう。

電気自動車(のバッテリー)、ソーラーパネル、風力タービン、再生可能発電、培養肉などいろんな分野にチャンスがある。

何より温室効果ガスの排出を減らす必要があるが、Rewiring America では以下の5つが主張の柱になっている(なんで唐突にこの団体の名前が出てくるんだ、とワタシは疑問だったのだが、『WTF経済』を読み直して、これの共同創始者ソール・グリフィスティム・オライリーの娘さんと結婚しているのに気づいた)。

  1. すべてを電化すれば、現行システムの半分のエネルギーしか必要なくなる。
  2. ソーラーパネル、バッテリー、電気自動車、家電を国のエネルギーインフラとして再構築する必要がある。
  3. 第二次世界大戦式の民間企業の動員がなければ、市場は十分な速さで動かない。
  4. アメリカを電化することで多くの雇用が生まれる。
  5. この巨額投資の恩恵を受けるのが、電力会社、太陽光発電事業者、消費者の誰になるかは金利次第。

かなり端折っているのもあるが、ここの議論は正直ワタシにはピンとこなかった。とにかくすべて電化、ってその電力はそうやって賄うの? とも思うわけだが、オライリーは気候変動に対応する規制や税法が、ネットプラットフォーム企業のアルゴリズム規制と同じような重要性を持つものと見ているようだ。

カジノ資本主義の終焉?

オライリーシリコンバレーの終焉を唱える最大の理由は、現在のシリコンバレーを2009年の世界金融危機以降、異常にチンケな資本の産物と見ていることにあるようだ。

ここでオライリーは、企業が製品やサービスを作り売る operating economy と、金持ちが株式市場の美人コンテスト式にどの企業が勝ち/負けるか賭けをする betting economy という二つの言葉を出しているが(この二つに定訳あるのかな?)、前者が人間の問題を解決するかという成功の指標があるのに対し、後者の成功指標は株価だけになってしまう。

シリコンバレーは、その名の通り半導体メーカーの集まりから始まったにもかかわらず、今では非生産的なイノベーションを推奨する betting economy の地になってしまったとオライリーは見ているようだ。

ここでオライリーは、いきなりジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』を以下の箇所を引用している(訳文は山形浩生訳から引用)。

事業の安定した流れがあれば、その上のあぶくとして投機家がいても害はありません。でも事業のほうが投機の大渦におけるあぶくになってしまうと、その立場は深刻なものです。ある国の資本発展がカジノ活動の副産物になってしまったら、その仕事はたぶんまずい出来となるでしょう。

betting economy は「カジノ活動の副産物になってしまった」経済を指しているが、ここではその典型として WeWork が挙げられている。ソフトバンクが投資した巨額の金が煙のごとく消え失せたことも書かれており、ソフトバンクも賭博経済、カジノ資本主義の一味と見られているということですね。

予言:バブルが終わっても、より大きなチャンスが残る。

これを読んでいて知ったのだが、オライリーはおよそ一年前に「21世紀にようこそ――ポストコロナの未来の計画の立て方」という文章を書いている(電子書籍版)。こちらについては、シンギュラリティラボ共同代表の草場壽一氏がまとめをやられているので、そちらを参照ください。

堅牢な戦略を条件としているが、それでも未来は明るいとオライリーは考えているのだろう。そして、イノベーション(と多額の資本投資)が期待される二大分野として、生命科学(ライフサイエンス)と気候変動を挙げている。明言はしていないが、それを担うのはシリコンバレーではないということだろうか。

さて、ここまでざっと要約してきたが、もちろん端折ったところは多いので、詳しくは原文を読んでください、と一応書いておきます。

yamdas.hatenablog.com

ティム・オライリーの主張と同じではないが、やはりこれを思い出してしまった。いずれもシリコンバレーが有意義なイノベーションを実現する地ではなくなったという認識は共有されているように思う。

それにしてもオライリーの巨大プラットフォーム企業に対する視線の厳しさには、それがかつて Web 2.0 の旗印のもとで応援した企業でもあっただけにたじろいでしまう。彼はかつてアルゴリズムが信頼に足るかを基準に考えていたが、もうあいつらは信頼できないと見切ってしまったのだろうか。

Twitterでフォローすべきサイバーセキュリティの専門家リストを日本で選ぶなら?

securityboulevard.com

Schneier on Security で知ったページだが、2021年に Twitter でフォロー必須なサイバーセキュリティの専門家を21人選出している。

見てみると、当のブルース・シュナイアー先生をはじめとして、ケビン・ミトニックのような古株、Krebs on Security でおなじみブライアン・クレブス、ユージン・カスペルスキーなどよく知られた人も入っているが、恥ずかしながらワタシが知らない人も何人もいる。

Twitterでフォローすべきサイバーセキュリティの専門家リスト」を日本語圏で選ぶならどういうリストになるだろうか。パッと思い浮かぶのでは以下の感じになる(以下、五十音順、敬称略)。

……す、すいません、13人選んだところで力尽きてしまいました。ワタシが年寄りなためチョイスもキャリアのある方に偏っており、もっと若い方でこういうリストに入るべき人がもっといるはずだし、それに何より、全員男性なのは大きな問題である。

そうした観点で、リストにこの人が入るべきだろ、というのがあれば教えてください。


[追記]:教えを乞うたところ、いろいろな方のお名前を挙げていただいたので、直接コメントいただいた方を列挙しておきます。以下、Twitter ID のアルファベット順。

追記分だけで20人超えなので、とりあえずここまでとさせてください。

あと、アクセス解析で珍しくワタシのブログがはてな匿名ダイアリーで話題になっていたのを知ったで、こちらも参考まで。

anond.hatelabo.jp

発売50周年を迎えるローリング・ストーンズ『スティッキー・フィンガーズ』の有名なカバー写真を巡る話で驚いたこと

www.vanityfair.com

こないだ FTP の RFC 発行日がストーンズの「ブラウン・シュガー」の発売日と同じという小ネタを知ったが、それから間もなく発売された、その「ブラウン・シュガー」も含むアルバム『スティッキー・フィンガーズ』が発売されて今週50周年を迎えるということでもある。

スティッキー・フィンガーズ』は、ワタシもワタシが愛する洋楽アルバム100選に入れている、『Let It Bleed』と並ぶストーンズの最高傑作なのだけど、この Vanity Fair の記事は、『スティッキー・フィンガーズ』の有名なジーンズのジッパーをあしらったアルバムカバー制作を巡る裏話についてのもの。

このアルバムカバーのデザインはアンディ・ウォーホールによるものであることは知られ、実際これはある夜クラブで一緒になったアンディ・ウォーホールミック・ジャガーの会話の中での、「カバーにブルージーンズのジッパーがあったら良くね?」「ああ、そいつはいいアイデアだな」というやり取りに端を発したものだが、実際にデザインを手がけた Craig Braun という人物のインタビューをフィーチャーしている。

何しろアルバムジャケットにジッパーをつけるとレコードに傷をつけかねないわけで、それに関していろいろ苦労した話もあるのだけど、そういう話よりも個人的に驚いたのは、このアルバムジャケットでジーンズを履いて(チンコをモッコリさせて)いる男性は誰かということ。

yamdas.hatenablog.com

ワタシはこれはジョー・ダレッサンドロだと思っていたのだが、この記事ではモデルでウォーホールのマイクアップアーティストだった Corey Grant Tippin の名前があがっている。そうだったんだ?

で、ジッパーを開けると見れる下着姿の股間の男性は Glenn O’Brien という人らしい。そのあたりの記述を訳してみる。

ジャケットの表と裏に写っているのは Corey Tippin で、(中の下着姿は)Glenn O’Brien だと思う。Corey が下着姿の撮影時にいなかったかは知らないが、アンディが Glenn O’Brien に電話して来させ、下着姿を撮影したと確かに聞いた。だから彼だと思うよ。人々は(ウォーホール映画のスターだった)ジョー・ダレッサンドロだと思っている。最初はミック・ジャガーだと思われてた。俺がやったと考える人さえいた。でも、俺としてはそこら辺は曖昧にしておきたくて、「それがミックのチンコだと女の子が思えば、もっとアルバムが売れるだろ」と言ったんだ。

うーん、そうだったんだ。今となっては、アルバムジャケット(そしてジッパーの中)の写真に写っているのが誰だろうとアルバムの評価は何も変わらないのだが、定説だと思っていることが覆されることもあるんだなと感心した次第。

草思社文庫に入ったデジタルテクノロジー関連本を調べてみた

録画しておいた ETV 特集の「パンデミック 揺れる民主主義 ジェニファーは議事堂へ向かった」を見たら、ここでもショシャナ・ズボフが出ていて、『監視資本主義の時代』の邦訳、いったいいつになったら出るんやろうね? と Amazon で「監視資本主義」を検索し、やはりまだ出ないのを確認してしまった。

で、その検索語で必ず上位に出るのがジェイミー・バートレット『操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』なのだが、Amazon の表示でこれが草思社文庫入りしているのを知った。

こうしたコンピュータやインターネット関連のデジタルテクノロジー本は文庫入りが難しいというイメージがずっとあったのだが、最近ではハヤカワ文庫にぼちぼち入っている印象がある。しかし、草思社文庫はノーマークだった。

草思社文庫でもっとも有名なのは『銃・病原菌・鉄』だと勝手に思っているが、良い機会なので調べてみたら、他にもいくつかデジタルテクノロジー関連本が少し入っているのを知ったので、まとめて紹介しておく。

まず最初は、ダニエル・ヒリス『思考する機械 コンピュータ』

10年前(そんななるのか!)に「リチャード・ファインマンのヴィジョンがテーマのTEDxCaltechとダニエル・ヒリスの回想」でも書いたが、この本は山形浩生が紹介している文章で知った。

続いては、クリフォード・ストール『カッコウはコンピュータに卵を産む()』。

この古典が文庫化されているとはな!

そして最後は、エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』

この本には個人的な思い出がある。この本が出た2016年の早い時期に仲俣暁生さんから、これについてマガジン航に書いてよ、と依頼を受けた。買って読んでみたら、確かにワタシの文章執筆意欲を刺激する、とても面白い本だった。

が、その年の終わりにワタシは無期限活動停止並びに執筆や翻訳など新規の仕事依頼は受けない宣言をしたため、そういう人間が書いちゃいけないよな、と仲俣さんの依頼に応えることはしなかった。改めて、仲俣さん、すいません。

そういうわけで、これはワタシもおススメします。しかし、この本が文庫入りすると知ると、やはり驚くね。

『AIに潜む偏見: 人工知能における公平とは』とAI倫理、顔認識技術の行方

週末に Netflix を含め映画をいくつか観たので、今日はその話を中心に更新したい。

まず一つ目はなかむらかずやさんにお勧めいただいた『AIに潜む偏見: 人工知能における公平とは』

この作品はワタシのアンテナに入ってなかったのだが(みんなどうやって Netflix の新作情報を得ているのだろう?)、観てみるとなるほど、なかむらかずやさんがワタシにレコメンドするのも納得のドキュメンタリーだった(公式サイト)。

Netflix で観れるドキュメンタリー映画としては、『グレート・ハック: SNS史上最悪のスキャンダル』『監視資本主義: デジタル社会がもたらす光と影』に続く、AI(アルゴリズム)の問題を突くものである。ワタシもかつて「我々は信頼に足るアルゴリズムを見極められるのか?」という文章を書いているが、電子書籍『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来」とも共通する問題意識を扱った作品である(と例によってすかさず宣伝)。

本作では『AIには何ができないか』のメレディス・ブルサード『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』のキャシー・オニール『ツイッターと催涙ガス』のゼイナップ・トゥフェックチー『抑圧のアルゴリズム』の Safiya Umoja Noble『不平等の自動化』の Virginia Eubanks など本ブログでもおなじみの識者が、アルゴリズム支配や顔認識技術の危険性を語る。それらに加え、本作に少しだけ登場する、昨年末 Google を解雇されたことで話題となったティムニット・ゲブル、そして何より本作の狂言回しである MIT メディア・ラボのジョイ・ブオラムウィーニ(Joy Buolamwini)を含め、主要登場人物が全員女性である。識者以外の登場人物もほぼ女性だった。本作の監督も女性だからというわけではないが、このチョイスは絶対意識的なはずだ。果たして同じ問題について日本でドキュメンタリーを作るとして、これを実現できるだろうか?

本作の最初にジョイ・ブオラムウィーニが告発する顔認識技術の人種差別、性差別(白人男性ほど正しく識別される)の話と、その後で展開される顔認識技術の使用による監視社会化の問題は別の話じゃね? と思ったりもするが、上記識者の語りの巧みな編集と本作の最後におけるジョイ・ブオラムウィーニの議会証言でそれらがまとめられ、うまく丸め込まれた印象がある。

……と一見して思ったが、本作鑑賞後にたまたま類似の問題意識のコンテンツをいくつか目にし、そうでもないなと考えを少し改めた。

まず録画しておいたのを見た「町山智浩のアメリカの今を知るTV」で、『監視資本主義の時代』のショシャナ・ズボフが登場して、顔認識技術に法律での規制が必要とかなり強硬な主張をしていてたじろいだ。

それはそうと、番組でもはっきり『監視資本主義の時代』とテロップに表記していたが、邦訳はいったいいつになったら出るんじゃ!

gigazine.net

こちらはビッグデータやAI倫理の問題を訴えてきたケイト・クロフォードの記事を取りあげたもの。犯罪捜査で有用と顔認識技術を使っていると、個人の自由と権利を侵害する恐れがあると、特に感情を読み取る AI の危険性が警告されており、これは前述の番組でも強調されていた。

考えてみればケイト・クロフォードも『AIに潜む偏見』に出ていて不思議ではなかったし、彼女の出たばかりの新刊は邦訳が期待されますな。

news.yahoo.co.jp

タイミングよく平和博さんも顔認識技術、特に「感情認識」テクノロジーを扱う AI の問題を取り上げている。その問題とは、人種によるバイアスや「常時監視」によるプライバシーの侵害の懸念であり、『AIに潜む偏見』での告発につながる話なのだ。この問題については意識しておいたほうがよい。

さて、最後に少し本筋から離れた話を書いておくと、『AIに潜む偏見』で狂言回しを務めるジョイ・ブオラムウィーニの詩心が強調されていたのが印象的だった。クライマックスとなる議会証言の後、本作の登場人物たちとリモート会議をするのだが、そこで彼女は Safiya Umoja Noble やキャシー・オニールの書名を織り込んだ詩を得意満面で披露する――と書くと、なんかバカにしているように誤解されるかもしれない。日本語圏のインターネットには「ポエム」という言葉が侮蔑語として使われる文化圏がはっきりあり、というかワタシ自身それをやった過去があるからだ。

先日観た『ノマドランド』でも主人公を支える詩の力が描かれていたなと思い出したりして、本作における主人公の詩心の意義について、作品の趣旨とは違ったところでちょっと考えてしまった。

『パーム・スプリングス』と『隔たる世界の2人』という二つのタイムループ映画を観た

ようやく近場のシネコンもレイトショーを再開してくれたおかげで、『パーム・スプリングス』を公開初日に観に行けた。

サンダンス映画祭で大変に話題になったタイムループもの、という事前知識だけで観に行ったが、最近タイムループものってちょっと多くない? と個人的な感覚が正直あった。それだけジャンルのご本尊というべき『恋はデジャ・ブ』が秀作だったということか。

イムループするのが一人ではなく複数というのが肝なのだろうが、実はその設定は、昨年 Netflix「ロシアン・ドール: 謎のタイムループ」で見ている。作りとしての巧みさは、本作よりも「ロシアン・ドール」のほうが上だった。

アンディ・サムバーグの余裕たっぷりで気楽なたたずまいは好みだったし、クリスティン・ミリオティはギョロっとした目で自信のなさを表現しているのだけど、こちらはさほど好みではない。のだけど、それぞれが抱える「秘密」が物語のキーになり、物語が進んでいくと二人に対する印象が変わっていく。

イムループを繰り返し続けるうちに、それから逃れたいと思うか? ここに男女の違いが出るわけだが、ワタシなどアンディ・サムバーグ側というか、バカンス地で気楽に歳もとらずに生きられたらそれでいいじゃん、と考えてしまうのだが、そこでJ・K・シモンズがそれとは別の観点をもたらすんですね。

というわけで楽しめたけど、コロナ禍の隔離生活を経たことは、タイムループものの受容を変えてしまったような気がするし、本作がそれから抜け出ようという意思をはっきり示すところはよかったと思うが、やはりタイムループもの、少しクリシェ化してね? とどうしても思ってしまった。

あ、ジョン・ケイルの1974年の傑作『Fear』から2曲劇中で使われていたのはとても良かったです。

『パーム・スプリングス』を観た翌日、深町秋生さんのツイート経由で、『隔たる世界の2人』のことを知る……ってホントみんなどうやって、こんな短編映画の情報まで知るんだ?

そうでなくても「積みNetflix」で未だいっぱいなのだが、30分くらいならいいかと観てみたら、これがすごい作品だった。

『パーム・スプリングス』も90分と最近の映画では短い部類だったが、『隔たる世界の2人』はさらにその3分の1で見事にタイムループを表現している。ラッパーのジョーイ・バッドアスが知的なグラフィックデザイナーの主人公を演じているが、彼が女性の部屋でお泊りした翌朝、何度自宅に帰ろうとしても白人警官に殺されてしまう。

とにかく、このはじめから殺意満々で、容赦なく主人公を殺す白人警官がすごい(ひどい)。言うまでもなく殺しにいたるシチュエーションは、ジョージ・フロイドなど実際の警官による黒人の殺害のそれを模しているのだが、ジョージ・フロイドのときにそうだったように、警官は他の市民のスマホでの撮影など意にも介さない。

何度も殺されるうちに主人公はその白人警官とコミュニケーションを図り、状況を打開しようとする。最終的にその落としどころがどうなるかは本作を観てくださいとなるのだが、戦慄ものだったとだけ書いておく。本作は今年のアカデミー短編映画賞にノミネートされているが、こりゃ取るんじゃないかな。

さて、同じタイムループものである『パーム・スプリングス』と『隔たる世界の2人』をたまたま続けて観て、どちらに強い印象を受けたかというと間違いなく後者なのだけど、ヘンな表現になるが前者の印象も良くなった。やはり、アメリカにおける黒人はこういう理不尽なプレッシャーを生きているというのを説得力を持って何度も繰り返し見せられるよりも、タイムループではロマンティックコメディーを見たいと切に思ったからだ。

『隔たる世界の2人』で印象的に使われていた「The Way It Is」とブルース・ホーンズビーの現在について

上で紹介した『隔たる世界の2人』でうまいと思ったのは、ブルース・ホーンズビー・アンド・ザ・レインジの「The Way It Is」という80年代のヒット曲が使われていたこと。

ブルース・ホーンズビーのピアノによるメロディーが印象的な全米1位のヒット曲で、ワタシもリアルタイムに聞いていたが、当時はその歌詞などまったく気にしてなかった。

正直「そんなもんさ」とのんびり歌っている曲かと思っていたが、実はシビアな曲だったんですね。

曲のはじめは、生活保護を求めて列をなす人たちの描写から始まるが、そこにスーツ姿の男が通りかかり、貧しい老婦人に「仕事探せよ」と半笑いで言い放つ――そういう構図見たことありません?

そして曲の後半で歌われる「1964年に成立した法律」とは言うまでもなく公民権法のことで、それは持たざる者たち(黒人)のために作られたが、それで精いっぱいだった。だって法律は人の心まで変えるものではないから、というくだりを知ると、繰り返し歌われる「そういうものだ」「決して変わらないものもある」というフレーズは一種の呪詛に思えてくるし、それが『隔たる世界の2人』で使われる意義については言うまでもないだろう。

ワタシよりも下の世代なら、この曲のメロディーは 2Pac の「Changes」でなじみがあるかもしれない。これも原曲のシビアさを踏まえつつ、そしてそれをなんとか覆そうとしたもので、2Pac がこの曲をサンプリングした意図はよく分かる。

さて、ブルース・ホーンズビーがヒットチャートを賑わしたのは1980年代までで、それ以降の活動を知らない人も多いだろう。90年代以降もグレートフル・デッドとのライブ活動を挟みながら彼はずっと現役で、しかも一昨年、昨年とたて続けにとても質が高いアルバムを作っている。それらにはジャスティン・ヴァーノン(ボン・イヴェール)、ブレイク・ミルズ、ジャミーラ・ウッズ、ヴァーノン・リードなど多彩なゲストが参加しており、後進からのリスペクトも篤いのが分かる。

この一年、コロナ禍を理由にいろんなライブ音源を無料で聴くことができたが、その中で公開されたブルース・ホーンズビー&ザ・ノイズメーカーズのライブはすごかった。

音源が公開されたのは2019年8月16、17、18日に行われたライブだが、彼くらいの年齢になって3日連続でライブをやるというのもすごいし、彼のキャリアならライブの後半はヒットパレードを求められるところだが、くだんの「The Way It Is」、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースに提供して全米1位のヒットになった「Jacob's Ladder」、ドン・ヘンリーと共作してヒットした「The End of the Innocence」のような有名曲は、一晩につき1曲くらいしかやらない、というか毎日セットリストがほとんど重ならないという異様にスパルタンな選曲で、要はバリバリの現役なのである。

つまり、ブルース・ホーンズビーは音楽家として60代後半になった現在、実は何度目かのピークを迎えているのだが、それをちゃんと評価している人が少なく思えるのが歯がゆい。Wikipedia の英語版の彼のページを見ても、上記の最近の2枚のアルバムの個別ページも作られてない始末。

そういうわけで彼がボン・イヴェールのライブにゲスト参加した「I Can't Make You Love Me」をどうぞ。

この曲はボニー・レイットの代表曲で、近年までいろんな人にカバーされている。ボン・イヴェールはホーンズビーに参加してもらうためにこの曲をチョイスしているが、実はこの曲のソングライティングにホーンズビーはまったくタッチしていない。だが、ボニー・レイットのバージョンで一聴してホーンズビーと分かる鍵盤が印象的で、彼の代表曲にもなってしまったという経緯がある。

せっかくなので、30年前のボニー・レイットブルース・ホーンズビーの共演もどうぞ。

『隔たる世界の2人』での「The Way It Is」の楽曲使用を契機にもう少しブルース・ホーンズビーにスポットライトが当たればいいなと思う。

GREATEST RADIO HITS

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  • アーティスト:HORNSBY, BRUCE
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Absolute Zero

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メッセージングアプリSignalの暗号通貨による送金機能の追加にブルース・シュナイアーが苦言

www.schneier.com

エンドツーエンド暗号化で高度なセキュリティを実現していることが売りのメッセージングアプリ Signal暗号通貨による送金機能のβテストを開始というニュースにブルース・シュナイアー御大がコメントしている。

記事タイトルに WTF をつけていることからも明らかなように、今回の機能追加をまったく肯定的にはとらえていない。ブルース・シュナイアーは以前よりブロックチェーン技術を信頼していないが、それだけで否定的なのではなく、安全なコミュニケーションとセキュアな商取引は別々のアプリでやるべきで(できれば会社も別のところが好ましい)、混ぜるな危険というわけ。

国税庁や証券取引委員会や FBI の介入待ったなしと予測している。

www.stephendiehl.com

シュナイアー先生もリンクしているこのブログは Slashdot でも取り上げられているが、技術者の立場からの Signal への裏切られたという思いを語っている。

逆に言うと、そういう反応はあれどもメッセージングアプリが個人送金や商取引に参入するのは、それだけ旨味が見込める分野だからともいえる。このブログエントリの「Signalよ、お前もか?(Et tu, Signal?)」というタイトルはそのあたりを指している。ここへの参入を図ったのは、Signal が最初ではない。

でも、それは怪しげなオフショア暗号通貨取引所に資金が流れるのを招きかねず、合法だからってやるべきかどうかは考えてほしかったという失望があるわけだ。もっとも今回の機能をアメリカでやると違法だから英国で立ち上げるという事情があるみたいで、こういうのは英国のほうが規制が緩いのだろうか。

Signal は未だ優れたソフトウェアで、反体制派やジャーナリストなどにプライバシーを保証しながら自由にコミュニケーションできる、信頼性のあるプライベートメッセージングのデファクトプラットフォームになれるのに、怪しい送金ビジネスに堕してほしくないという最後の訴えは悲痛である。

最後にブルース・シュナイアー先生に話を戻すと、彼の現時点での新刊が出てもう少しで3年になるが、そろそろ邦訳出ないのかねぇ。

Click Here to Kill Everybody: Security and Survival in a Hyper-Connected World

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  • 作者:Schneier, Bruce
  • 発売日: 2019/10/08
  • メディア: ペーパーバック

アメリカを代表する経済学者の遺作『ロック経済学』の邦訳が出るぞ

yamdas.hatenablog.com

高名な経済学者であるアラン・クルーガーが自殺したのも、その遺作が『ロック経済学』だったのもかなり驚いたものだが、今年の6月に邦訳が出る。

ROCKONOMICS 経済はロックに学べ!

ROCKONOMICS 経済はロックに学べ!

発売日が6月9日なのは「ロックの日」を狙ったものだろうか(そんなわけはない)。関係ないが、この日、渋谷陽一の70歳の誕生日だな。

訳者の望月衛さんは、最近ではナシーム・ニコラス・タレブの本を多く手がけているが、個人的にはスティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学~悪ガキ教授が世の裏側を探検する』の印象が強い。今回も活気のある翻訳を期待したい。

しかし、この本はストリーミング以後の音楽経済を考える上で、榎本幹朗『音楽が未来を連れてくる 時代を創った音楽ビジネス百年の革新者たち』と比べることも可能かもしれないが、書き手の年代的な意味で、アラン・クルーガーのほうがオヤジ向けでしょうな(笑)。

邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2020年版)で取り上げた本でまた一冊邦訳が出るわけだ。

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