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ケヴィン・ケリーとマイケル・ルイスの新刊をご恵贈いただいた

日経 BP の竹内さん経由で2冊本をご恵贈いただいたので、ひとまず紹介させていただく。

yamdas.hatenablog.com

まずはケヴィン・ケリーの『生きるための最高の知恵 ビジョナリーが未来に伝えたい500の言葉』だが、こちらは先週読み終えた。

自己啓発書的という事前の予想はある程度当たっていたが、「電話で勧誘や提案に応じてはならない。返事を急がされるときはしばしばペテンが隠れている。」「「これはネズミ講ではない」と説得しようとする人がいる場合はネズミ講だと思っていい。」といった極めて実用的なアドバイスから、「過去の自分について恥ずかしく思う点がないならあなたはたぶんまだ大人になれていない。」「あなたの人としての器の大きさはなにに腹を立てるかで決まる。」といった人生経験から導き出された滋味ある教えまで幅広い。

yamdas.hatenablog.com

続いては、マイケル・ルイス『1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』マイケル・ルイスは、今年読んだ『後悔の経済学 世界を変えた苦い友情』が期待したほど楽しめなくて(これはワタシの期待値が上がり過ぎてたため)、ちょっと新刊に手が伸びてなかったので、正直ありがたかった。

本書の翻訳は小林啓倫さんだが、一昨年のアンドリュー・スチュワート『情報セキュリティの敗北史』、昨年のリード・ブラックマン『AIの倫理リスクをどうとらえるか』、そして今年は本書と、価値ある本の翻訳を毎年手がけているのに尊敬してしまう。

傑作ノンフィクション『誰が音楽をタダにした?』がドキュメンタリー番組になっていた

www.theguardian.com

ティーヴン・ウィットの『誰が音楽をタダにした?──巨大産業をぶっ潰した男たち』は、ワタシは文庫版を読んだが、まー、面白かったですな。

この傑作ノンフィクションがドキュメンタリー番組になっていたのを Slashdot 経由で知る。

いきなり登場する(こないだ新譜が出たばかりの)エミネムが製作総指揮なの? 他にも50セントやティンバランドやジミー・アイオヴィンといった人たちがインタビューに答えている。

音楽産業に破壊的な影響を与えたといえば、言うまでもなく Napster とそれを作ったショーン・ファニングが(アンチ)ヒーローとして賞賛されるわけだが、実は音楽の海賊行為を支えたのが、ノースカロライナ州シェルビーという小さな町でブルーカラーの工場で働いていたデル・グローバーという地味な青年だったというのを作者が突き止めたところがこの本の妙なわけである。

しかし、その前にドイツのフラウンホーファー研究機構が MP3 技術を開発してなければ、あれほどの爆発的な広がりはなかったかもしれないわけで……続きは原作を読んでいただきたい。

この記事では、海賊行為に手をそめたデル・グローバーなどの行為をグラフィティ・アーティストになぞらえる人がいるが、確かに逮捕されるかもしれないグラフィティと同じような即興的な高揚感があったのだろうね。また海賊たちの音楽流通は、現在の Spotify を世界的巨大企業に押し上げた聴き放題モデルを先取りしていた。

この記事が、そういう良い面の振り返りに終始するわけはないのは言うまでもない。

デイヴ・グロールレディオヘッドのメンバーなど、他のミュージシャンはもっと抜け目がなかった。彼らは公の場では海賊を応援していたが、その裏では彼らのマネージャーは RIAA の取り締まりを全面的に支持していた。音楽誌も同様に不誠実で、海賊行為をクールな無法者として称える一方で、ほんの数年後には彼らの業界が破壊的なテクノロジーに大方滅ぼされるのを目の当たりにするという事実から目を背けた。他方、音楽業界は考えられる限り広報的に最悪の反応をした。彼らは、もっとも強力なファンベースを形成していた子供たちを訴えたのだ。「我々がこの時代から学んだ重要な教訓のひとつは、こんな状況では訴訟は出口にはなりえないということです」とウィットは言う。「海賊たちを上回る新しいテクノロジーを作り上げないといけないのです」

その後の歴史はご存じの通りだが、今から20年近く前に『デジタル音楽の行方』という本を訳したワタシ的には、この本はなにより面白いというのはもちろんとして、いろいろ苦い気持ちになるところもあった本である。

そういう意味でこのドキュメンタリー番組も見たいのだが、配信は Paramount+ とのこと。これを日本で観る方法は今あるのかな?

そういえば原作者のスティーヴン・ウィットは今何しているのかと思ったら、来年の頭には The Thinking Machine という NVIDIA についてのノンフィクションの刊行が予定されている。今回も目のつけどころがいいね!

今年末にオードリー・タンとグレン・ワイルらの『Plurality』の邦訳が出るとな

オードリー・タンとグレン・ワイルらが共著した『Plurality』については、ここで何度も取り上げており(その1その2その3)、その中で日本語版の進捗について触れているが、既に Amazon に邦訳のページができているのに気づいた。

早いな! と驚いたが、書かれている発売日は2024年12月31日、つまり今年末であり、まだまだ先ですな。

個人的に気になったのは、書名に「サイボウズ式ブックス」と銘打たれていること。知らなかったのだが、これはサイボウズの出版事業の名前らしい。しかし、一方で出版社にはライツ社の名前がある。サイボウズが出版社やっているわけではないということか。

いずれにしろ、邦訳刊行が決まったのはめでたいことである。

『ヴィクトリア朝時代のインターネット』復刊効果? トム・スタンデージ『食べ物でたどる世界史』が出る

調べてものをしていて、トム・スタンデージの『食べ物でたどる世界史』という本が来月はじめに出るのを知る。

彼にそんな新刊あったっけ? と思ったが、2010年に出た An Edible History of Humanity の邦訳ですな。

トム・スタンデージといえば、少し前に『ヴィクトリア朝時代のインターネット』が文庫で復刊されたのが話題になったが、15年近く前の本の邦訳が出るというのは、これの復刊の効果かとも思った。が、それにしては間がなさすぎるので、これは偶然か。

何度も書いているが、「車の黄金時代の終焉」を描いたトム・スタンデージの現時点での最新刊の邦訳もどこかお願いします。

フェラーリ

公開週に見逃がしてしまい、これはもう無理かなと諦めかけていたが、速水健朗さんのポッドキャストを聞いて行きたくなったところに、行きつけのシネコンでレイトショーをやってたおかげで観れた。

たまたまだが、少し前に『フォードvsフェラーリ』を観ていてよかった。本作の監督のマイケル・マンは、『フォードvsフェラーリ』にも製作総指揮に名前を連ねているが、本作は念願の企画ということだろう。

ワタシは、フェラーリが1947年に創業したのも本作で知ったくらいで(もっと昔からあるメーカーかと思ってた)、フェラーリ社並びにその車について、ほとんど知識がなかったりする。本作はその創業者エンツォ・フェラーリの人生全般を描くものではなく、息子ディーノを難病で失い、共同経営者である妻との関係も冷え切り、会社は倒産の危機にあるのにイタリア全土の公道を縦断する「ミッレミリア」に社運をかけて臨む1957年にフォーカスした作品である。

ワタシはかつて、マイケル・マンについて以下のように書いている。

マイケル・マンという人は、作品のディテールのリアリティにこだわる人というイメージがあり、本作についても銃撃音は本物の音を使ってるとのことで、それは本作に迫力を加えているが、一方で特に初期は、妙に省略しすぎでよく分からん作品になる人というのがあった。

ヒート - YAMDAS現更新履歴

そう書いておいてなんだが、彼は日本では正当に評価されていないと思う。その評価も「アル・パチーノロバート・デ・ニーロの本格的な初共演」で安心して誉められる『ヒート』に集中しているが、彼の映画では『コラテラル』などもっと評価されるべきだ……が、ワタシ自身彼の(近年、若い世代に再評価されている)それ以降の作品をちゃんと観てないので偉そうなことは言えない。

本作でも車のエンジン音には存分に彼のこだわりが活かされており、見事な迫力である。一方で本作で描かれるクラッシュの場面は、うーん、という感じだった(頭に "Death Race 2000" というフレーズが浮かんだ、と書くと怒られるだろうが)。

上記の通り、本作はエンツォ・フェラーリがもっとも苦悩していたであろう時期にフォーカスしている。朝帰りするなり妻に銃を向けられぶっ放されるわ、その妻が共同経営者なので金策を頼まなければならないし、そんな中愛人と(彼女から認知を迫られている)息子の存在を知られてしまうという修羅場を迎える、言ってしまえばなかなかに陰鬱な映画である。クライマックスであるレースの場面も、本作の後日譚にあたる『フォードvsフェラーリ』にあるような興奮や爽快感は望むべくもない。でも、陰鬱さの先に描かれるハッピーエンド(!)は価値あるものだと思った。

それにしてもアダム・ドライバーという役者、近年は『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』テリー・ギリアム、(本作との題材的な近さが言われる)『ハウス・オブ・グッチ』でリドリー・スコット『メガロポリス』フランシス・フォード・コッポラ、そして本作でマイケル・マンと、高齢監督の最後かもしれない作品で主演している。彼らが頼りにする資質を彼が持っているのか、あるいは彼が一種の介護者というか、面倒見が良すぎるのか。

産業ロックについて語るときに渋谷陽一の語ること

rockinon.com

この記事タイトルには苦笑してしまった。ジャーニーを「「産業ロック」呼ばわり」って、それやったの、お前のとこの社長(現在は会長)だろが!

というわけで、渋谷陽一の著書などからの引用を今月もやらせてもらう。今回は、彼が「週刊FM」1982年12号に寄稿した「産業ロックへの挑戦状」を紹介する(『ロック微分法』収録)。

FM ラジオ専門の週刊誌があったなんて、若い世代の人にしてみれば信じられないかもしれないが、それはともかく、この文章の「産業ロック」というお題は、編集部サイドから与えられたものらしい。

 この"産業ロック"、僕が勝手につけた名称で、アメリカで売れまくるフォリナー、ジャーニー、スティックス、REO・スピードワゴンといった一連のグループを指す言葉である。アメリカではこういうグループを"ダイナソー・ロック(恐竜ロック)"と呼ぶらしい。つまり巨大で古めかしいというわけだ。

やはり「産業ロック」という呼称は、渋谷陽一の発案のものらしい。そして、その範疇にジャーニーも入る。それでは、産業ロックとは何なのか。

 産業ロックの特徴としてあげられるのは、まずメンバーのほとんどが長髪である事。そしてウス汚れたGパンにTシャツといった服装が多い。

なんだそれ、当時のロックバンドの半分くらい当てはまるじゃないかと言いたくなるが、この後渋谷は、ヤクザ、サーファー、ファッション関係者がそれぞれ似通った、独自のファッション美意識を持つ話を続ける。彼ら/彼女らの美意識は、その発想、イデオロギーと深くかかわりあっているからで、それはロックにも同じことが言えると渋谷は続ける。

 ロックにとって音楽のスタイルはファッションと深いつながりがある。新しい音楽スタイルは常に新しいファッションやヴィジュアルを伴っていたといっていいくらいだ。その最大のものがパンクだった。あのスリー・コードのビート・ミュージックには、長髪とベルボトムジーンズはふさわしくない。これは動かしがたい事実として、僕等の目に映った。

逆に言うと、長髪とウス汚れたGパンにTシャツという工夫のないファッションは、渋谷にとって、試行錯誤しながら進んできたロックの歴史を元に戻してしまう敵に思えるということだ。

 さて産業ロックの次なる特徴、それは音楽的に全くアヴァンギャルドでない事。
 情緒的で類型的なメロディ、大仰なアレンジ、やたら厚い音、歌いあげるような唱法。日本のシンガーでいうならアリス、あれに近いものがある。

アリス、というかチンペイとばっちり。

 ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り、音楽は動脈硬化するだけである。僕にとって産業ロックとは、その動脈硬化なのである。シュガー・コーティングのみが巧妙な、やたら甘いだけのケーキ。そればかり食べているとコレステロール過剰になり、そのうち死んでしまう。そんな感じなのだ。

やはり、これがもっとも大きなポイントでしょうな。

 次の特徴はマネージメントがしっかりしている事。これはいい事である。今やマネージメントがしっかりしていないバンドは生き残っていけない。
 ただ、ジャーニーのようにマネージャーがヴォーカリストを選定したり、バンドの基本的方針を決定するようになると、問題も出て来るのではないだろうか。ローリング・ストーン誌に掲載されたジャーニーのインタビューでは、メンバーよりもマネージャーの発言の方がメインにフィーチャーされ、そのマネージメント・システムの見事さが称賛されていた。

ヴォーカリストの選定とは、スティーヴ・ペリーの加入を指しており、それによりジャーニーはトップバンドにのしあがったのは間違いない。ただ、渋谷自身、会社のマネージメント側の人間であり、これについては何が悪いと断罪できず、歯切れが悪い。

ロン・ウッドが加入後10年以上「非正規雇用」扱いだったローリング・ストーンズ、メンバーの権利は当初全員平等だったはずなのに、一人また一人と放逐され、その後に加わったジョー・ウォルシュティモシー・B・シュミットにはその権利が与えられなかったイーグルスの例をみても、渋谷がこの文章を書いた時点で既に、ロック産業は相当冷酷にシステム化されていたとも言えるかもしれない。

「どうも枚数が足りないので、中途半端にしか書けず」と言い訳しているが、渋谷陽一が出している結論は以下の通り。

 とにかく、僕が過剰なほど産業ロックに反応するのは一種の危機感からなのだ。ロックがこれまでジタバタしながらも進んで来た試行錯誤の歴史を全て御破算にしてしまうような不安を産業ロックは僕に与える。何か非常に実もフタもない、という気がするのだ。ジョン・ライドンならずとも「ロックは終わった。」と言ってみたくなるのである。

本文執筆時点で Wikipedia 日本語版に「産業ロック」の項目はないが、「スタジアム・ロック」が意味合い的に最も近いと思われる(Wikipedia 英語版では「Arena rock」)。

そういえばこれも昔の話だが、兵庫慎司が確かボン・ジョヴィのアルバム評で、「かつてロッキング・オンは恐怖だった。自分が好きで聴いているジャーニーを誌面のみならずラジオでも『あれはゴミですね』とつるし上げ、同じ気持ちで好きでいられなくするのだ」といったことを書いていた覚えがあり、子供の頃に兄の影響でジャーニーのアルバムをよく聴き、特に "Separate Ways (Worlds Apart)" が大好きだったワタシもそうだったっけ、と思ったものである。

この曲のビデオは超絶的にダサいことで逆に歴史に残っている。

ワタシがこのブログでジャーニーについて書いたのは、10年以上の「何故ゼロ年代やたらと映画やテレビで"Don't Stop Believin'"が使われたのか問題」くらいかな。

New York Timesが選ぶ21世紀の100冊の邦訳リスト

www.nytimes.com

21世紀といってもまだ四半世紀も経っていないのに気が早い話だが、およそ5年前に Guardian も同様の企画をやっており、まぁ、やりたくなるものなんでしょう。Guardian と同じく、2000年発表の作品が入っているのはなんだかなと思ってしまうが。

503人もの作家や批評家などの投票による今回のリストの中で、邦訳が出ているのは以下の66作品になる(抜けがあったらすいません)。

この中でワタシが読了した本となると、『わたしを離さないで』、『ザ・ロード』、『贖罪』、『掃除婦のための手引書』の4冊しかない(いかん、『地下鉄道』が読みかけのままだ)。

意外に邦訳が出てない本が多かった。映画『アメリカン・フィクション』の原作とか、ノーベル文学賞受賞作家アニー・エルノーの本とか。

(邦訳が出てないものもあるが)このリストでは、エレナ・フェッランテ、ジョージ・ソーンダーズ、ジェスミン・ウォードが3冊ずつでもっとも多く選ばれている作家になる。非英語圏の作品が10以上選ばれているが、日本人作家の作品はなし。

ウクライナ人歴史学者セルヒー・プロヒーの主著の邦訳『ウクライナ全史――ゲート・オブ・ヨーロッパ』がようやく出る

yamdas.hatenablog.com

一年前以上のエントリだが、すぐに邦訳出るだろうとたかをくくっていたらそうでもなくて、「これはまったくの予想外。なにか問題でもあるのだろうか?」と思わず書いてしまったくらい。

そのセルヒー・プロヒーの主著である『The Gates of Europe』の邦訳が来月刊行されるのを知る。

書誌情報を見ると、上下巻合わせて600ページを超える本の翻訳だもの。そりゃ、時間かかって当然ですよ。うがったこと書いて、すいませんでした。

ウクライナの対ロシアとの戦争もなかなか厳しいことになっているが、これは価値がある仕事でしょう。

『AMETORA』のデーヴィッド・マークスの新刊『STATUS AND CULTURE』が来月出る

yamdas.hatenablog.com

およそ2年前に『AMETORA(アメトラ) 日本がアメリカンスタイルを救った物語』で知られるデーヴィッド・マークスの新作を取り上げた。今回は舞台が日本ではないので、邦訳は難しいかと思ったが、『STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』の邦題で来月刊行されるのを知る。

デーヴィッド・マークスというと、少し前に GQ JAPAN「中野香織とデーヴィッド・マークスが語る、現代のジェントルマン論──「ジェントルマンよ、復活せよ!」」という記事を見かけたが、まさにこれなど STATUS AND CULTURE な話ですね。

当然、新刊に関係する話もしている。

中野 デーヴィッドさんは『Status and Culture』という本を書いていますが、ステータス(社会的な地位)の変化はジェントルマンにも影響しているのでしょうか?

デーヴィッド そうですね。例えば、昔だったら政治家や牧師はみんなから尊敬される職業でした。でも今は、お金があることが一番のステータスになってしまっている。有名で大勢から愛されているハリウッドの俳優が自分でビジネスを始めているのも、そうした背景からです。昔は資産と関係のないところにあったステータスや尊敬が、今ではお金がないと得られないものになっている。パリス・ヒルトンがいい例ですが、オールドマネーがニューマネー(的な文化)に憧れているような状況です。

中野 資本主義的な価値観が浸透しているわけですね。特にアメリカはその傾向が強い。

デーヴィッド 今ではイーロン・マスクジェフ・ベゾスが貴族と並んで、あるいはそれ以上に高い地位を持つようになりました。でも彼らがジェントルマンかと言われると違いますよね。やはりジェントルマンにはスタイルや仕草やモラルが必要です。だからこそ、かつては「あの人はお金あってもジェントルマンじゃない」という言い方でクラブへの入会が断られ、紳士のコミュニティが保たれていた。でもそうした構造が機能していたのは、オールドマネーにステータスがあったからこそ。今はそこが崩れてしまったから、成り金的な価値観が強くなってしまったのだと思います。

中野香織とデーヴィッド・マークスが語る、現代のジェントルマン論──「ジェントルマンよ、復活せよ!」 | GQ JAPAN

あと、現代的なジェントルマンというと誰を思い浮かべると聞かれて、真っ先にファレル・ウィリアムスを挙げているのが興味深い。

メイ・ディセンバー ゆれる真実

思えば、トッド・ヘインズの映画を観るのは実は初めてだった。

ナタリー・ポートマンという人は、俳優として実に真面目である。その彼女の代表作が、演技者として周りから責められ、同時に自分で自身を追い込み、必死に頑張りぬく姿を見せる『ブラック・スワン』なのは偶然ではない。

その彼女がプロデューサーも務め、メアリー・ケイ・ルトーノーを明らかに下敷きとする女性を取材し、役作りをする女優を演じる本作は、ある意味自己パロディーにも思えた……とは言いすぎか。ナタリー・ポートマンという演技者の在り方と映画の批判的な作り方が重なっているということですね。

そして、彼女が取材する対象の女性を演じるのがジュリアン・ムーアで、彼女は例によって見事に事件当時者の女性の狂気を体現する。そして、ナタリー・ポートマンは真面目な努力と分析で迫ろうとする。両者がいかにもらしい役をやっている。あと、同じく事件当時者である男性を演じるチャールズ・メルトンも良かったですね。

「ゆれる真実」とあるように、事件の真相はどうだったか、当事者の過去や現在はどうなのか揺らぎ続けるのだけど、人の心ってリサーチで必ず理解できるものでもないし、関係者に話を聞けば真相にたどり着けるわけでもない。

正直、この物語が最終的にどんな破局を迎えるのか見るのを期待したところがある。しかし、意外にもそうはならない。それはいいのだけど、チャールズ・メルトンが卒業式に子供たちを送り届ける頃には狩猟をやってたジュリアン・ムーアが、卒業式に普通に座っているのにちょっと??となった。

WirelessWire News連載更新(ティム・オライリーとシリコンバレーの贖罪)

WirelessWire Newsで「ティム・オライリーとシリコンバレーの贖罪」を公開。

例によって長い文章だが、ようやくインフレーションが止まった先月よりもさらに少し短くなっており、これは良い傾向だと思う。次回は少し肩の力を抜いた題材で、さらに短くなるかな。

さて、今回のタイトルを見て怒り出す人がいるかもしれないので先に書いておくが、言うまでもなく Rita Hayworth and Shawshank Redemption のもじりである。

今回の文章は、3月、4月に公開された論文などを紹介しており、だいたいそれくらいに文章の着想を得たのだが、実際に書きだすまで時間がかかってしまった。先月にこのタイトルを思いつき、それでこれは書けるという気になったから不思議なものである。

ティム・オライリーオープンソースや分散型への期待が一貫している話など、今回の文章から長さの関係で省いた内容もあるので、お時間がある方は、今回の文章でリンクした論文などを読んでいただきたい。ビッグテックに対する独占禁止法の再考という意味で、(最近、ちょっとおかしくなっちゃった? とマイク・マズニックがボロクソ書いていた)ティム・ウーの『巨大企業の呪い ビッグテックは世界をどう支配してきたか』あたりとの差別化が、オライリーの新刊の評価ポイントでしょうかね。

誕生から30年を迎えたFreeDOSの作者がオープンソースコミュニティについて学んだこと

opensource.net

MS-DOSオープンソースによる代替 OS と知られる FreeDOS が、先月末に誕生から30年を迎えており、その作者である Jim Hallオープンソースコミュニティについて学んだ7つの教訓について書いている。

  1. 単なるコード以上のものである:コミュニティとのコミュニケーションあってこそのオープンソースプロジェクト
  2. 人々をひきつけ続ける:新機能の追加、バグの修正、新しいリリースが基本だけど、インタビューを受けたり電子書籍を出すのもエンゲージメントにつながる
  3. ウェブサイトを維持すべし:素晴らしくなくてもよいので、仮想の「本拠地」となるウェブサイトがオープンソースプロジェクトには必要
  4. 素晴らしいニュースを共有する:オープンソースの認知度を高めるため、YouTube チャンネルで動画を公開するのも良い方法だし、より多くの情報を共有できれば、より多くの人が身近に感じて試したくなるよ
  5. オープンなコミュニケーション回線を維持すべし:FreeDOS の場合、開発者用、ユーザ用それぞれのメーリングリストを維持しており、これを意思決定の場であるのを明確にしている
  6. 敬意を保つ:コミュニティでは互いに敬意を払う必要があるが、それには行動規範(code of conduct)を公開するのがいいよ
  7. とはいえ、コードも重要だ:誰もがダウンロード、研究、利用、修正、共有できるソースコードあってのオープンソースプロジェクトなので、目的に合致するオープンソースのライセンスを選ぼうね

まぁ、正直なところ、FreeDOS って今どれくらい存在価値があるんだろうと思うところもあるのだが、この教訓自体はどれももっともですよね。オープンなコミュニケーション回線(この場合、メーリングリスト)を意思決定の場にするというのは、近年著しいインターネットの「暗い森」化に逆行するものであり、示唆的と言える。

ネタ元は Slashdot

ニコラス・カーの久々の新刊はソーシャルメディアがいかに我々の感覚を歪めるかに切り込む(今更?)

www.roughtype.com

一昨年夏からブログの更新がなくなり、もう引退モードなのか、あるいは身体を悪くしているかと密かに心配していたニコラス・カー先生だが、久しぶりにブログが更新されたと思ったら、新刊 Superbloom の告知である。

来年1月に刊行とな。ワオ!

彼の本は、4冊続けて邦訳に「バカ」が入るというふざけた話になっているが、カー先生の新刊は『AIバカ』という邦題が合いそうなものを期待しているというのをワタシは書いたことがある。果たして今回の新刊はどんな内容なのか?

歴史、科学、政治から鮮明な例を紐解きながら、Superbloom は、今では我々の生活や関係を規定する多動的なメッセージのやりとりがいかに人間の精神に適さないかを明らかにする。ソーシャルメディアが生み出したこの問題について、シリコンバレーを責めるのは簡単だ。しかし、問題の真の原因は我々――我々の本性そのもの――にあるとカーは示唆する。我々の共犯関係を受け入れることでしか、今や我々を圧倒する情報の狂い咲きから逃れることはできないのだ。

というわけで、ソーシャルメディアが我々の感覚をいかに歪めているかという本のようだ。今更? とも正直思ったが、「シリコンバレーを責めるのは簡単」と書いているということは、FacebookTwitter をぶっ叩いて終わりという単純な本ではないはず。

そういえば、ワタシってニコラス・カー先生が本を出すたびに連載で取り上げているんだな。

我ながら律儀だが、今回の新刊についてはどうでしょうね。

Plurality.Instituteをいまさら知った話と今月末のイベント「Funding the Commons」について

Long Now 財団の YouTube チャンネルで、「Plurality とは何か?」と題した約5分の短い講演動画が公開されている。

もちろん、オードリー・タンとグレン・ワイルらによる『Plurality』の話も出てくる。

この Rose Bloomin という人をワタシは知らなかったのだが、Plurality.Institute の共同創始者とな。

その Plurality.Institute のサイトを見ていたら、イベントページに7月24~25日に開催される Funding the Commons が載っていて、何か見覚えがあるぞと記憶を辿ったら、二月ほど前に id:tkgshn さんにお誘いいただいたイベントがこれだった。

残念ながらワタシは本業の兼ね合い並びに田舎暮らしなのもあって参加はできないのだが、参加者一覧を見て、オードリー・タンとグレン・ワイルをはじめ、その界隈で著名な方が多く参加するのに驚いた。

そういえば、『Plurality』の日本語版全訳もだいたい完成したようである。

ルックバック

実はワタシは『チェンソーマン』すら読んだことがなかったりするのだが(アニメも未見)、『ルックバック』に関しては、ネットに公開されたのを読んで、感じ入るものがあった。

しかし、これが映画になるとは思わなかった。果たしてどんなものかと思っていたら、観測範囲で強く推す声をいくつか見かけたので、上映時間の短さは気になりながらも観に行った。

結論を書くと、『ルックバック』としか言いようがなかった。『ルックバック』のコアを何ら損なうことなく、文句なしにひとつの作品になっている(「ODS作品」という言葉を初めて知った)。藤野がずっと嫉妬と敗北感を感じていた京本から思いもよらぬ形で承認欲求を満たされ、雨の中をスキップする場面の輝き!

本作の主人公の藤野と京本は言うまでもなく原作者の分身に違いないが、「なんで描くか?」、「描いてなんになる?」という問いに対するある種の「業」、そしてその継続が本作の中心にある。

原作が京都アニメーション放火殺人事件に触発されて書かれたのは言うまでもないが、その描き方について批判もあり、一度編集部によってそのあたりは修正されたと記憶する。しかし、本作では当初の設定を踏襲している。ワタシはこれは端的に正しいと思う。というか、本作で描かれる表現者の「業」には、嫉妬など暴虐的でドス黒いものも含まれるというのこそ本作は描いているのだから。

明らかにアマンド・ノックスの事件にインスパイアされたおそるべき傑作『スティルウォーター』を少し前に観たからというのもあるが、本作における設定についての決断をワタシは支持する。

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