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オープンソース・イニシアティブのブログに掲載された「AIを信頼するには、それがオープンで透明性がないといけない。以上。」を訳した

Technical Knockout「AIを信頼するには、それがオープンで透明性がないといけない。以上。」を追加。Heather Meeker の文章の日本語訳です。

前回の更新時にオープンソース・イニシアティブが「オープンソースAI」を定義するためのイベントを開催する話を取り上げたが、その一環として OSI のブログに掲載された文章を訳してみた。

最初に [SPONSOR OPINION] と明記されており、OSI の公式見解というわけではないが、一つの見識ということでしょう。後になってみればなんの価値も残らないだろうが、2023年秋の時点で問題になっていたトピックの初歩を解説するものとしてよいかと思った。短いし。

あと「オープンソースの定義にこだわるのはもう無意味なのか?」を書いたときに、なんかそのエントリ自体が迷惑みたいな反応を目にしたのも動機の一つかもしれない。それ以上は書かないでおくが。

これを書いた Heather Meeker は、商用オープンソースのスタートアップ支援を専門とするベンチャーキャピタルである OSS Capital のジェネラル・パートナーである弁護士で、オープンソースビジネスに関する著作がある。

ソフトウェア開発の真の問題点は、コードを書くことではなく、問題の複雑さの管理にある

www.oreilly.com

オライリー・メディアのコンテンツ戦略部門のバイスプレジデントであるマイク・ルキダスの文章だが、彼が数週間前、「コードを書くことが問題なのではない。複雑さをコントロールすることが問題なのだ」というツイートを見かけた話から始まる。彼はこれに感心したようで、これから何度も引用すると思うので、誰のツイートか思い出せればいいのにと書いている(ご存じの方は彼にご一報を)。

件のツイートは、プログラミング言語の構文の詳細や API が持つ多くの関数を覚えることは重要じゃなくて、解決しようとしている問題の複雑さを理解し、管理することこそが重要だと言ってるわけですね。

これは皆、覚えがある話だろう。アプリケーションやツールの多くは、最初はシンプルである。しかも、それでやりたいことの80%、いやもしかしたら90%をやれている。でも、それじゃ十分ではないと、バージョン1.1でいくつか機能が追加され、バージョン1.2でさらにたくさん機能が追加され……バージョン3.0になる頃には、当初のエレガントなユーザーインターフェイスはぐちゃぐちゃで見る影もなくなっている。

複雑さの問題は、ユーザーインターフェイスに限った話ではない。今では、昔にはなかったセキュアプログラミングやクラウドへのデプロイメントに気を遣う必要がある。セキュリティのような要件はコードを複雑にする傾向にあるが、複雑さそれ自体がセキュリティの問題を覆い隠してしまいがちだ。後付けでセキュリティを追加しても、大抵うまくはいかない。そうでなく、最初からセキュリティを組み込んで設計し、ソフトウェアの他の部分と歩調を合わせて管理しなくてはならない。

さて、ここからが本題だが、今や GitHub Copilot や Code InterpreterGoogle Codey といった生成 AI ツールで書かれたコードを目にする機会が増えている。しかし、こうしたツールは複雑さを気にしないものだから、結局は人間がそのコードを理解してデバッグする必要がある。

そして、複雑さの問題は、個々の関数やメソッド単位の話では済まない。職業プログラマーの多くは、何千もの関数、何百万行ものコードで構成される大規模なシステムに取り組んでいる。その全体的な構造、アーキテクチャを理解している人がどれだけいるだろう。開発者よりも長生きするかもしれないレガシーコードの複雑さをどう考えたものだろう。

コンピュータシステムがより大規模で複雑になるにつれ、ソフトウェア・アーキテクチャの重要性は増すばかりだ。現代のソフトウェアシステムの複雑さを軽減する役目は、まだ生成 AI に耐えられるものではなく、人間の仕事である。多くの開発者は、コード行数を最小限にすることが単純化の鍵だと思っているが、それには一つの行に複数のアイデアを詰め込んだ複雑な呪文になり、コードの読みやすさを損なう副作用がある。

もちろんマイク・ルキダスは、生成 AI がソフトウェア開発に使えないとか、役割がないとか主張しているのではない。生成 AI には使い道が確かにある。彼が言いたいのは、コードの自動生成にとらわれ過ぎて、複雑さコントロールするのを忘れてはいけないよということ。大規模言語モデルも、将来はともかく、少なくとも今はその助けにはならない。それでも、人間が複雑さに関する問題を理解し、解決するための時間を捻出できるなら、確かに AI は利益になると言えるわけだが。

大規模言語モデルが、100万行ものエンタープライズ・プログラムを書ける日は来るだろうか? と最後にルキダスは問いかける。おそらくは来るだろう。しかし、それを指示するプロンプトを誰かが書かなければならないということを意味する。それを行う人間は、問題の複雑さを理解し、それを管理するというプログラミングの宿命といえる問題に直面することになると締めくくっている。

うーん、そのうち最終的な目標をプロンプトとして与えれば、複雑さを管理しながらエンタープライズの規模まで自己増殖のように規模を増していくプログラムを書けるようになる生成 AI が登場したりするんですかね?

『傷つきやすいアメリカの大学生たち』の続編はアメリカのキャンセルカルチャーがテーマ

yamdas.hatenablog.com

昨年秋に出た『傷つきやすいアメリカの大学生たち(原題:The Coddling of the American Mind)』だが、その続編と思しき The Canceling of the American Mind が来月出る。

前作はジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの共著だったが、本作はグレッグ・ルキアノフとリッキー・シュロット(Rikki Schlott)の共著で、ジョナサン・ハイトは序文を書いている。

前作は当時刊行が続いていた「反ポリコレ本」の一つとも言われたが、本作のテーマはズバリ、米国におけるキャンセルカルチャーである。副題「キャンセルカルチャーは信頼を損ない、我々皆を脅かす――が、解決策はある」を見れば、本書の立場は明らかだろう。「キャンセルカルチャーは信頼を損ない、我々皆を脅かす」についてはワタシも同感だ。

本書には、自身もキャンセルされ(かけ)た経験があるスティーブン・ピンカーやピアーズ・モーガンが推薦の言葉を寄せているが、ピンカーの騒動については「一つの「失言」で発言の場を奪われる…「キャンセルカルチャー」の危うい実態」を読まれるとよいでしょう。

この新刊も邦訳が出るんじゃないですかね。

なんと『シド・バレット全詩集』が来月発売になる

www.vogue.co.jp

これは驚いたねぇ。『シド・バレット全詩集』が来月発売になる。

一年以上前になるが、「シド・バレットの描いた絵をはじめて見た……」というエントリを書いたとき、本書の原書に言及し、以下のように書いてしまった。

そういえば、昨年には彼の全詩集が出ている。これの邦訳はさすがに期待できないかな。

シド・バレットの描いた絵をはじめて見た…… - YAMDAS現更新履歴

偉いぞ、DU BOOKS!

今ではピンク・フロイド『狂気』がプラネタリウム上映されるご時勢だが、脱退後もシド・バレットの存在はピンク・フロイドの音楽と歌詞に影響を与えたわけだからねぇ。

そうそう、シド・バレットといえば、Have You Got It Yet? The Story Of Syd Barrett And Pink Floyd という彼についてのドキュメンタリー映画が英国本国で公開されているが、日本での公開は実現しないだろうか?

ジョン・ウィック:コンセクエンス

前作『ジョン・ウィック:パラベラム』について、「このシリーズを映画館で観るのは本作を最後とする」と明言していたが、真田広之とリナ・サワヤマが出る、しかもリナ・サワヤマが良いと聞いて、やはり本作も観ることにした。

物語内の時間はさほど経っていないはずだが、考えてみれば第一作が公開されておよそ9年が経っている。さすがにキアヌ・リーブスの動きもかつてとは同じくらい俊敏とはいかず、微妙な衰えが見える。

それでも本作も我々がこのシリーズに求めるアクションを目一杯詰め込んだ映画になっている。しかも本作の場合、撃たれる側もなかなか一発では仕留められないので、その分全体の分量が増しており、前作と比べても30分以上尺が増している。いったい何度キアヌ・リーブスは車に吹っ飛ばされるんだという感じだし、さすがにあの階段落ちでは、そこまでやらせるかと思ってしまった。

やり過ぎだろ、いい加減にしろよと文句言ってもよいのだが、ワタシはジョン・ウィックとして痛みを抱えるキアヌ・リーブスが観れるだけで点が甘くなってしまう。期待通り、リナ・サワヤマは映画初出演と思えないアクションを見せているし、ドニー・イェン真田広之の対決など見せ場は文句なしにあり、ここまでやってくれれば満足としか言いようがない。

シャロン役のランス・レディックは惜しくも今年亡くなったが、彼は『THE WIRE/ザ・ワイヤー』、『FRINGE/フリンジ』、『BOSCH/ボッシュ』とこの20年以上、食いっぱぐれなく人気ドラマシリーズでがっちりメインキャストの一員を張ってきた。思えばこのシリーズは、彼のキャリアにおいて、映画での代表作になったわけだ。同じことはイアン・マクシェーンにも言える。この格調のある2人の俳優のキャスティングが、実はこのシリーズの成功を支えていたのかもと思い当たる。

あとこれは書いてよいと思うが、エンドロールの後にワンシーンあるので、これから観る方はご注意を。

ソール・グリフィス『すべてを電化せよ!』をご恵贈いただいた

yamdas.hatenablog.com

原書、そして邦訳刊行を取り上げた関係で、オライリー・ジャパンの田村さんよりご恵贈いただいた。

「科学と実現可能な技術に基づく脱炭素化のアクションプラン」との副題だが、こうして読んでみると、なかなかにラディカルな指針が綴られた本である。

著者は、完全な脱炭素化しか道はないと最初に明確に述べ、気候変動(もはや気候危機?)を解決するための「ワクチン」としてクリーンエネルギー・インフラストラクチャ、膨大な電化転換とそれを可能にする電力網の大幅な拡大を道筋として示す。今では気候変動への対処には奇跡が必要と思われているが、それは違う。上記の電化を実現するハードワークが必要なだけだ! それで我々は自動車や快適な住居を諦めることなく、豊かな未来を実現できる、と訴える。そして、その変化でむしろ何百万もの雇用の創出があることも抜かりなく示す。

もちろんこれは並大抵なハードルではない。米国では現在の3倍の電力供給が必要になるし、米国の平均世帯がすべてを再生可能エネルギーに移行するにはおよそ4万ドルかかる(が、コロナ禍前でさえ、米国の40%の世帯は非常資金として400ドル足らずの銀行資金しか持たなかった)。逆に言えば、「時間は思ったよりも残されていない」という章タイトルにも明らかなように、気候変動を安定化させるのが手遅れとする「ティッピング・ポイント」は、これまで考えられたよりも早期に起こるという著者の危機意識は大きい。

「すべてを電化」するには、これまでと違った発想が必要になる。斬新的な方法論、例えば「リデュース! リユーズ! リサイクル!」という呪文は「1970年代の効率環境主義」と退けられる。もはや「効率」の話ではなく、「転換主義マインドセット」が必要というわけだが、これは日本人にはかなりキツい話だと思う。

本書では大幅な電力網の拡充とともに「グリッド中立性」が重要だと繰り返される。ワタシなどティム・ウーの「ネットワーク中立性」の話、インターネットを送電網になぞらえる議論はニコラス・カー『クラウド化する世界』(asin:4798116211)を思い出したりもした。

本書の完全電化のプランを実現すれば、現在世界が使用している半分のエネルギーしか必要でなくなるなど利点も大きいが、その実現には大きな摩擦や抵抗が予測される。それに対して著者は実現可能な道筋をできるだけ示そうとしているし、以下のくだりなどワタシも深く首肯するものである。

 私は昔から、規則や規制には有効期限が必要だと考えている。ほとんどの法は20年以上続けるべきではない。なぜなら十分な時間さえあれば、人はあらゆる規則や規制を堕落させる、または回避する方法を考えつくものだからだ。(中略)ここで強調したいのは、規則や規制の整理には単に新法の制定にとどまらず、壊れた古い法の撤廃も重要だということだ。(p.227)

また本書では、懐疑的な姿勢を示しつつも原子力発電は否定されていない。少し前に若い環境活動家が「オールドファッション」なアンチ原発のスタンスを変えろとグリーンピースを突き上げている話を読んだが、本書では自動運転車を「シリコンバレー印のガマの油」でしかないと一刀両断していたりしていろいろ興味深かった。

 木を植えるベストタイムは30年前だ。そしてセカンドベストタイムは今日である。(p.322)

著者は本書のプランの実現を、ルーズベルト大統領のもとでのニューディール政策、そしてそれに続く第二次世界大戦時の生産体制になぞらえ、「"ゼロ"次世界大戦への動員」と書く。しかし、原書刊行後に勃発したロシアによるウクライナ侵攻は、この章の読み心地をかなり変えてしまったように思う。しかし、著者はバイデン政権が制定したインフレ低減法を「すべてを電化せよ」法案と自賛しており、自信は揺らいでないようだ。

上に日本人のマインドセット的にツラい話を書いたが、今の日本に目を向けると、メガソーラーにしろ風力発電にしろ汚職がらみでニュースになることが多く、「ノーモア メガソーラー」を宣言する地方自治体が出てくる始末。本書の話の実現性には暗い見方をしてしまいそうなるが、「訳者あとがき」が、著者に感化されて自宅にソーラーパネルを導入した訳者による、本書の力強い解説になっている。

本書は良き訳者を持った。

オープンソース・イニシアティブが「オープンソースAI」を定義するためのイベントを開催

blog.opensource.org

大規模言語モデルなど AI 分野でオープンソースという言葉が僭称されがちな問題が少し前に話題となったが、「オープンソース」の勧進元と言えるオープンソース・イニシアティブOpen Source InitiativeOSI)もこの問題を重視しているようで、「AI 向けオープンソース」「オープンソース AI」を定義するためのイベント Deep Dive の開催を告知している。

OSI に加え、Mozilla FoundationCreative CommonsWikimedia Foundation、Internet ArchiveLinux Foundation といったオープンソース/フリーカルチャー関係の主要団体の理事らが6月に既に会合の機会を持っており、そこでの議論に対するコメントを求めるウェビナーが9月26日~10月12日の間に行われるとな。

これは良い動きだと思う。調べてみたら、OSIStefano Maffulli がまさにこの話題で講演している動画が Linux Foundation のYouTube チャンネルにあがっていた。その公開日は昨年の10月なので、ワタシが見逃していただけで、以前から問題は把握されており、議論は進んでいたんだね。

マイケル・ルイスの新刊は仮想通貨業界の元寵児サム・バンクマン=フリードの隆盛と凋落がテーマ

www.nytimes.com

New York Times が選ぶ、この秋読むべきノンフィクション本おススメ記事で思い出したのだが、『マネー・ボール』(asin:4150503877)などで知られるベストセラー作家マイケル・ルイスの来月出る新刊 Going Infinite: The Rise and Fall of a New Tycoon は、暗号通貨取引所 FTX の創業者、CEO であり、仮想通貨業界の寵児扱いもされ、米民主党候補者に対する高額献金でも知られたが、FTX の経営破綻後に逮捕・起訴されたサム・バンクマン=フリードを取材したものなんだね。

考えてみれば、マイケル・ルイスと言えば、債券セールスマンだった自身の経験をもとにした『ライアーズ・ポーカー』(asin:415050394X)でデビューし、『世紀の空売り』(asin:4167651866)や『フラッシュ・ボーイズ』(asin:4167913402)などの著作で知られる人なので、サム・バンクマン=フリードに注目するのも不思議ではない。しかし、取材を始めた頃は、まさかこんな劇的な展開を迎えるとは思ってなかったのではないか(彼は今や「世界でもっとも嫌われている一人」とのこと)。

今年、かなり久方ぶりの海外出張時、フライトのお供に『最悪の予感』(asin:4150505985)を持っていって以来、ワタシの中のマイケル・ルイス熱が高まっており、今『後悔の経済学』(asin:4167918382)を読んでるとこだったりする。邦訳が来年あたり出るであろうこの新刊も面白い本なのは間違いなさそうなので、今から楽しみである。

個人的には「効果的利他主義」周りがどのように論じられているかが気になる。

仮想通貨に関するノンフィクションというと、『世紀の大博打 仮想通貨に賭けた怪人たち』(asin:4163912010)が知られるが、そういえば、仮想通貨×犯罪といえば、21世紀最大の詐欺をやらかした「クリプトの女王」の本の邦訳はまだだろうか?

ピンク・フロイド『狂気』のプラネタリウム上映を見てきた

www.fukuokacity-kagakukan.jp

ワタシが住んでいる地方は、ゼロ年代前半あたりまでは洋楽アクトの来日公演も普通に入っていたが、日本経済の衰退とともにそれもなくなってしまった。もともとが出不精なためそれほどこたえていないが、50歳になるワタシもいつまで元気でやれるか分からないと思うことがあり、こんな地方在住でも見れるものは億劫がらずにできるだけ足を運ぶようにしようと思うわけです。

というわけで、ピンク・フロイドの『狂気(The Dark Side of the Moon)』をプラネタリウムで上映するイベントに行ったわけだが、開始半時間前に会場に着いたら、ワタシが見る回は満員の札が出ており、既にすごい行列ができていた。その中に故郷の知り合いがいて驚いたり。

この企画は『狂気』のリリース50周年を記念するプロジェクトの一環だが、このアルバムはワタシと同い年ということになり、つまりはワタシは発表時にリアルタイムに聴いていた世代ではない。客層はワタシでもやはり若いほうになるのかもしれない。

ピンク・フロイドの『狂気』はワタシにとっても重要な作品で、今更プラネタリウムで見たからどうというのはないが、アルバム冒頭の引き込み方の巧みさ、アルバム全体の聴きやすさと統一感を再認識させられた。

思えば、ワタシが本格的に洋楽を聴き始めたのは中学生の頃だが、当然ながら購買力に限界があり、当時熱心に聴き、自分の人生航路に影響を与えた70年代の名盤の多くは、レンタル屋で借りた CD をカセットテープに録音しており、驚くほど CD での所有率が低かったりする。今はストリーミング音楽配信サービスがあるので別にそれでもいいのだが、『狂気』ほどの作品はやはり CD で買っておこうと今回思った次第である。

あと、福岡市科学館に行ったのは恥ずかしながら今回初めてだったが、雰囲気の良いところだったので、何か機会を見つけてまた足を運びたいものだ。

グランツーリスモ

実はワタシは、ゲームの『グランツーリスモ』をプレイしたことがなく、カーレースにも特段の興味がない人間だったりする。

だから、映画館で本作の予告編を何度か見ても、これは自分が行く映画ではないなと思っていた。そんなワタシが、なんで公開初日に観に行ったかというと、本作の監督が『第9地区』のニール・ブロムカンプだからだ。

もはや10年以上前になるが、『第9地区』は鮮烈な作品だった。ニール・ブロムカンプはこれで一躍注目株になったが、その後は少し煮え切らない感じが続いている。ワタシは『チャッピー』が好きだが、批評家の評価は低かったし、正直彼はもうメジャーで映画は撮れないのではないかとすら思った。

そうした意味で本作は、雇われ監督に違いないが、彼のメジャー復帰作ともいえる。彼の悪趣味さが好きなワタシは、死に水をとるつもりで観に行ったわけである(失礼です)。

本作は、『グランツーリスモ』のプレイヤーがプロのレーシングドライバーになったという驚きの実話(上記の通り、ゲームにもカーレースにも疎いため、知りませんでした)に基づくもので、ゲームとエンターテイメント分野の両方の主要プレイヤーたるソニーの企画として手堅く作られている。

本作の上映時間は134分と長めだが、GT アカデミーで誰が選ばれるかという場面で、いかにもらしい役のデヴィッド・ハーバーと、映画ではお久しぶりな印象があるオーランド・ブルームの意見が対立した後、何のフックもなく決定が伝えられるところなど、何か足らないんじゃないかと思うところがあった。

それでも、凄腕ゲーマーを集めて本当にプロのレーサーにしようという企画自体、フィクションめいていて映画化にピッタリの話だし、カーレースの興奮がしっかり描かれている。デヴィッド・ハーバー演じるトレーナーが好きなのがブラック・サバスなのに対し、主人公の勝負曲がケニー・Gとエンヤというのがなんともいい味出しているのだが、それがクライマックスでもきいてくる。

本作にニール・ブロムカンプらしい悪趣味さを期待するのは間違っているのだが、カーレース中の車が分解して主人公の自宅に戻り、そしてまたカーレースに戻る場面の動きの気持ち悪さに少しそれが感じられた。

WirelessWire News連載更新(先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち)

WirelessWire Newsで「先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち」を公開。

またしてもワタシの悪癖が出てしまい、3回分くらいの内容を1回にぶちこんでいる。Sue me if I play too long.

元々は Rolling Stone の記事だけを取り上げるつもりで、ケイト・ブッシュの曲名をもじった「These Women's Works」というタイトルにするつもりだった。が、そのうちその前段の「男たち」の話が長くなった形である。

今回、ジョナサン・タプリンの新刊『The End of Reality』を取り上げているが、実は彼の名前は、「風上の人、スチュアート・ブランドの数奇な人生」にも出てくる。これは重要な伏線で、次回以降そのあたりを踏まえた文章を書くかもしれない。

ジョナサン・タプリンの新刊並びにそこからの抜粋である今回参照した文章は、八田真行さんの Facebook 投稿で知った。八田さんに深く感謝する。

思えば、「シリコンバレーの「男性ユートピア」ぶりを暴く『Brotopia』が面白そうだ」を書いたのが2018年はじめで、結局これの邦訳が出なかったのは損失だったと思う。

『AIに潜む偏見』のジョイ・ブオラムウィーニが満を持して『Unmasking AI』を出す

「先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち」の中で取り上げた Rolling Stone の記事で知った話だが、ジョイ・ブオラムウィーニが Unmasking AI を来月刊行する。

WirelessWire 原稿には、さすがにその話までは盛り込めなかったので、こちらで取り上げておく。

「機械の世界で人間らしさを守るのが私の使命」という副題もなかなか強烈だが、表紙デザインもクールである。

ティムニット・ゲブルはもちろん、『AIに潜む偏見: 人工知能における公平とは』でも共演していた『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』のキャシー・オニールも推薦の言葉を寄せている。

同じ問題意識を扱った本として(やはり今回の WirelessWire 原稿に出てくる)サフィア・ノーブル『抑圧のアルゴリズム』があり、残念ながら邦訳は出なかったが、こちらはどうだろうか。

デヴィッド・グレーバー生前最後の大作の邦訳『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』が今月出る

yamdas.hatenablog.com

一昨年の秋、その少し前に亡くなったデヴィッド・グレーバーが生前最後に手がけていた共著を取り上げたのだが、かなりの大著なので、邦訳は出るに違いないとしても、優に2年以上はかかるだろうと踏んでいた。

調べものをしていて、その邦訳『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』が今月出るのを知った。

原書が出て2年足らずとは早いな! その後に出た『海賊の啓蒙、もしくは真のリバタリア』のほうが薄いので、先に出るとばかり思っていたよ。

デヴィッド・グレーバーの遺作は、副題にあるように「人類史を根本からくつがえす」ことを目論む挑戦的な本なので(その分、批判も多いが)、これは出版社も刊行を急いだのだろうな。

まもなく没後10年になるルー・リードの伝記本がまたしても出る

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「この秋に読むのを待てない30冊」という Los Angeles Times の新刊本紹介記事だが、この中に Lou Reed: The King of New York というルー・リードの伝記本が、没後10年に合わせてかは知らないが、出るのを知る。

しかし、ルー・リード亡くなってもう少しで10年なんやね。時の経つのは早い。

そして、この10年、このブログでも彼の伝記本を何冊も紹介してきた。

アンソニー・デカーティス『ルー・リード伝』が出たことで邦訳は打ち止めだろうから、これの邦訳は出ないだろう。それにしても、新たに伝記本を書くネタがあるのかねぇとも思うが、Los Angeles Times の記事によると、しかるべき評価をされていない LGBTQ のアイコンとしてのルー・リードというアングルらしい。

少し前にルー・リードの人生にかかわった二人のトランスジェンダーについての記事を紹介したが、これに近いアングルなのかもね。

そうそう、このブログでは紹介し損ねていたが、今年は太極拳の達人でもあるルー・リードが音楽、瞑想、武術について書いた文章をまとめた本も出ていたね。これ、邦訳出ないかなぁ。

アステロイド・シティ

ワタシの住む福岡で、本作は行きつけのシネコンではやっておらず、博多駅にあるTジョイ博多か、天神にある Kino Cinema 天神に行かないといけない。それはいいのだが、公開初週でもいずれもレイトショー時間帯の上映がない! しかもTジョイ博多なんか1日1回のみ上映で、必然的に Kino Cinema 天神しか選択肢がなくなる。

福岡でアートシアター系、ミニシアター系の映画館というと、四半世紀前はそれなりにあったが、いつの間にか KBC シネマしかなくなっていた(一部、その役割を補完していた中洲大洋映画劇場は、建物の老朽化に伴い来年3月末を持って取り壊すことが発表されている)。Kino Cinema 天神は、そうした意味でありがたいのだけど、入居している商業施設にとにかく客が入ってなくて不安になる。天神にバスで行っても、電車で行っても、降りてから10分以上歩く必要があり、上映時間のタイミングやコロナ禍などいくつかの要素が重なり、今回初めて出向くこととなった。

で、シアターに入り、最初に思ったのは、「スクリーンちっちゃ!」だった。まさか前から6列目の席で、「字幕ちゃんと読めるかな」と不安になるとは思わなかった。

さて、本作だが例によってウェス・アンダーソンの鉄壁の箱庭映画で、前作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』に続いて、途中ちょっと寝ちゃった。まぁ、彼の映画にある美点は本作にもあったと思います。例えば、必ず2時間未満で終わるとか(笑)。

途中、えらくマット・ディロンに似た俳優が出ているなと思ったら、本人だった。ウェス・アンダーソンというと、毎回オールスター映画になり、本作も例外ではないが、良かったのは初顔合わせに近いスカーレット・ヨハンソンだった。彼女は本当に良い女優であり続けているよね。

本作は戯曲のドラマ化という入れ子構造になっていて、そのあたりウェス・アンダーソン映画の箱庭性の面目躍如だが、それが観客のストーリーへの没入を定期的に妨げる以外に効果を発揮しているのは、最後の主人公とその妻役の女優が向かい合う場面くらいだったんじゃないかな。とにかく静的というか、想定外の出来事が起こらず、まがいなりにもアクションがあった彼のアニメ作品や『グランド・ブダペスト・ホテル』が懐かしくなった。

でも、最終的には満足してるんだよな。本作では、いきなり歌と踊りが始まってしまう場面が良かった。

そういえば、少し前に彼は日本映画について語っていたが、まさか彼の映画で植木等を見ることになるとは思わなかったな。

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