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WirelessWire News連載更新(人工知能規制、資本主義批判、民主主義再考)

WirelessWire Newsで「人工知能規制、資本主義批判、民主主義再考」を公開。

またしてもワタシの貧乏性気質が炸裂してしまい、3回分の分量を一度にぶちこんでしまっている。正直、書いていてワタシもかなり疲弊してしまい、最後あたりは書いていて意識朦朧に近く、尻切れトンボになってしまった。次回はもう少しタイトにまとめたい。

基本的にはテッド・チャンの寄稿とブルース・シュナイアーの講演内容を取り上げています。

これだけの分量書きながら、これでもかなり端折っており、たとえばテッド・チャンの文章における左派加速主義批判など、話としては興味深いのに仕方なく触れなかった話題もかなり多いので、できればそれぞれ元文章を見てほしいところ。

他にも長さの関係から本文に入れ損ねた話を以下いくつか拾っておく。

まず、文章のはじめに名前を出した「ディープラーニングの父」ジェフリー・ヒントン、最近いろんな媒体に彼のインタビューが出ていて、それだけ大物ということだが、「インチキAIに騙されないために」でも批判されていたように、放射線科医の仕事は5年以内にディープラーニングに取って代わられるので、今すぐ放射線科医の養成をやめるべきと2016年に半笑いで放言をした責任をどう考えるんだ、と誰かインタビューで聞けばいいのにと思う次第。こういうところ、米ジャーナリストもぬるいよね。

そして、米連邦取引委員会のリナ・カーン委員長の文章を取り上げているが、前回の「AIは監視資本主義とデジタル封建主義を完成させるか」の主役メレディス・ウィテカーは、2021年秋からリナ・カーン委員長のシニアアドバイザーを務めている(いた?)んだよね。その体験を踏まえて、メレディス・ウィテカーは FTC には過大な期待はできないと感じているようだ。

あと、テッド・チャンの文章の最初のところ、適切な比喩を選ぶべきという話で、スチュアート・ラッセルがミダス王のたとえ話をしているのを批判しているのだが、実はこの比喩はブルース・シュナイアーもやっているのね。

ギリシャ神話のミダス王は、ディオニュソス神に願いを叶えてもらい、触れる物を全て黄金にする能力を得た。しかし、食べ物も飲み物も娘もミダス王が触れたものがすべて金になってしまい、飢えに苦しみ惨めな思いをする。これが「目標の調整」の問題であり、ミダス王は間違った目標をシステムにプログラムしてしまったのだ。

ブルース・シュナイアーが予言する「AIがハッカーになり人間社会を攻撃する日」 - YAMDAS現更新履歴

おそらくはこの手を話題で引き合いに出したくなる話なんだろう。

デイヴ・ワイナーが語る「なぜ新しいソーシャルネットはかくもナイスなのか」

scripting.com

ワタシもご多分に漏れず Bluesky に @yomoyomo.bsky.social としてアカウントをとっている。

正直、まだ Twitter からは足抜けできないので使い分けは難しく、Mastodon のときのようになる可能性もあるが、やはりこういう新しい場に足を踏み入れてしばらくの心地よい感触を確かに感じている。

このあたりについてベテランブロガーのデイヴ・ワイナーがズバリ書いていたので、全部じゃないけど訳しておく。

80年代のはじめに BBS を運営していた頃、時にハッキングされて、たいていはデータベースを全消しして一からのやり直しになったものだが、しばらくはすべてが素晴らしくシンプルなのだけど、また万事糞詰まりになったものだ。だから、ハッキングされるのは悪いことばかりではなかったわけだ。

そうした現象は他でもあるのかもしれない。Clubhouse を思い出すと、この音声のみの Twitter は素晴らしかったが、ユーザーが増えてスパムやらインフルエンサーやらでいっぱいになると、最初に人々をひきつけた仲間意識は消え失せてしまった。

そんなわけで今は Twitter が老いぼれて糞詰まっている。多かれ少なかれ、ルールが決まってしまっている。カースト制度があまりない、あるいはそれが避けられる新しいネットワークのほうがより可能性がある。利用者はある程度公平な土俵に立てる。荒らしもまだ組織化されてはいない。なんであれ、Bluesky はイイぞ。でも、それもいずれは糞詰まりになるので、もっといろんな使い方を取り入れて、それに備えるべきなんだろう。

結局は最初はどこもナイスなんだけど、いずれは――と書いてしまうと身も蓋もないのだけど、まぁ、そういうところがあるのは間違いないのだろう。

果たして Bluesky のナイスさはいつまで続くのだろうか?

古いMac上でピクセルアート化された葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」がスゴい

www.hypertalking.com

いやぁ、これはすごいよ。葛飾北斎の『富嶽三十六景』を1ビットの白黒ピクセルアート化するプロジェクトに取り組んでいる人が、手始めにもっとも知られた「神奈川沖浪裏」を描いている。

驚くのは、それを System 7 が OS の古い Macintosh 上で行っていること。この方のサイト自体、古い MacHyperCard に対する偏愛とそれに殉じる美意識を感じる。

この方、過去には『となりのトトロ』のバス停の場面をやはりピクセルアート化している。

ネタ元は kottke.org

ライアン・ノースのポピュラーサイエンス本『キミにもできる世界征服』が7月に出るぞ

yamdas.hatenablog.com

およそ一年前に取り上げた本だが、ここで予測した通り、早川書房から『キミにもできる世界征服: 科学的に正しい悪の野望の叶え方』の邦題で7月に邦訳が出る。

邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2023年版)で取り上げた本の中で最初に邦訳が出るものは、これになりそうですな。

ライアン・ノースといえば、Long Now 財団で行った講演の動画が公開されている。

これはまさに本について語る動画だが、かなり長い(ので誰も最後まで見ないでしょう)。

これは10分程度なので大丈夫ですよ。人間って、自分たちで思ってるほど賢くなくて、往々にして間違った仮定にとらわれて、本来発明できてしかるものが実現するまで1000年単位で長くかかることがあるという話を、コンパスや聴診器やボタンなどを例に語っている。

こちらは1分足らずで、自分自身の価値と仕事とを切り離して考えようというとても重要なことを言ってます。

今もっとも邦訳が待たれるウクライナ人歴史学者セルヒー・プロヒーの新刊

少し前にウクライナ史の必読書の話を Yuko Kato さんのツイートで知り、そこで挙げられているセルヒー・プロヒー(Serhii Plokhy)の名前に見覚えがあるなと記憶を辿ったら、クーリエ・ジャポンで彼のインタビュー記事を読んでいたようだ。

こういう話題に関して、クーリエ・ジャポンは押さえるべき人を押さえているな。

セルヒー・プロヒーはウクライナ人の歴史学者であり、ハーバード大学教授だが、一年以上前に洋書ファンクラブでも彼の The Gates of Europe が取り上げられていた。渡辺由佳里さん、さすがである。

なるほど、セルヒー・プロヒーはハーバード大学ウクライナ研究所の所長でもあるんだな。

以前、ブレイク中の歴史学者としてティモシー・スナイダーを取り上げたが、こちらは以前から何冊も邦訳が出ていたのに対し、セルヒー・プロヒーの邦訳が出てなかったのは残念な話である。が、当時はウクライナの本では難しかったのだろうな。

その彼の出たばかりの新刊が The Russo-Ukrainian War で、ロシアのウクライナ侵攻にフォーカスした本であり、今もっとも求められている本だろう。

セルヒー・プロヒーの本、少なくともこのエントリで取り上げた2冊は、おそらく大急ぎで翻訳中だと思うのだが、今年中にいずれか出るでしょうかね。

TAR/ター

いやぁ、すごい映画だった。恥ずかしながら、トッド・フィールドの監督作を観るのはこれが初めてなのだが、映画としての格からして違う感じだった。

ケイト・ブランシェットという人は、身もふたもなく言えば、現在の映画界でもっとも演技が上手い俳優である。その彼女が、天才女性指揮者、作曲家を演じ、全編にわたりほぼ出ずっぱりの本作は、「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」(EMPIRE)としか言いようがない。

そして彼女は、アカデミー賞主演女優賞をとった『ブルージャスミン』もそうだったが、観客に感情移入を安易にさせない、感じの悪い主人公を演じるのが好きな人なのだけど、本作はその点で『ブルージャスミン』をも超えている。

映画は事前情報はあまり入れずに観るワタシにしても、本作については、主人公の役柄やキャンセルカルチャーとの兼ね合いといった話はどうしても耳に入っていた。本作にもハラスメント描写はあるが、それよりも主に登場人物の微妙な視線や、主人公の不安を喚起する音、そして「時間のコントロール」を強調する主人公がコントロールを失っていく姿の表現が勝っている。

主人公の妻が言うように、その妻にしろ秘書役にしろ、彼女たちと主人公の関係は利害関係だけに依っていたのが主人公が陥る苦境ともにあらわになり、クライマックスの決定的な破綻の場面で「!!」となるわけだが、ここで映画は終わらない。

主人公は故郷の家に戻り(そこで彼女の出自が明らかになる)、レナード・バーンスタインが音楽について語る古い映像に涙する。ここで終われば、『ブルージャスミン』ではないが、『カイロの紫のバラ』のようなウディ・アレン作品にも似た感触をもって終わったかもしれない。

しかし、ここでもこの映画は終わらない。そこが実はすごい。明らかにかつてよりも格下のキャリアアドバイザーからの表層的な言葉を受け、東南アジアというこれまで彼女が上り詰めてきた西欧エスタブリッシュメントの世界とまったく別のステージに向かう。

ここで余談になるが、昔「エンディングに砂浜が出てくる映画は大体名作(大ざっぱすぎ)」という痴れ言を書いたことがあり、その後、第二弾として「主にエンディングだけに日本が出てくる洋画は大体名作」というネタを考えたことがある。これだけでピンときた人もいるだろうが、『スパイナル・タップ』『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』からの連想なのだが、あとはタワーレコードについてのドキュメンタリー映画『オール・シングス・マスト・パス』くらいしか浮かばずに断念した(他にご存じの方は教えてください)。

本作のエンディングは、普通に観れば上記の構図の逆パターン、主人公の転落のダメ押しと解釈してもよいだろうが、主人公は飽くまで「作曲家の意図の解釈」という姿勢を崩さず、「時間のコントロール」の権限を失いながらもタクトを振り続けることで、映画自体として破綻しながらも、主人公は新しいステージに立ったとも言えるのではないか。

さて、ここまで書いたので、ようやくこの映画についての文章を読むことができる。まずは、トッド・フィールド監督のインタビューから読ませてもらおう。

AIがウィキペディアを引き裂きつつある?

www.vice.com

ひと月前に「ウィキペディアはAIによって書かれるようになるかジミー・ウェールズが考察」なんてエントリを書いたのだが、既に現実には AI に生成されたコンテンツと誤情報の増加にどう対応するかを巡り、ウィキペディア編集者の間で意見が割れているとな。

AI によって生成された一見正確そうに見える文章が、よく読むとと存在しない情報源や学術論文を平気で引用してたりするハルシネーションの問題があるのは既に知られているが、それをオンライン百科事典に載せてしまっては、完全な情報の捏造になってしまう。

ウィキペディアについての著者があるジョージア工科大学教授のエイミー・ブラックマン(Amy S. Bruckman)は、結局は大規模言語モデルを使おうが事実と虚構を見分ける能力を持ってないといかんだろ、ちゃんと人間が確認しないとウィキペディアの品質を低下させる可能性があるので、とっかかりとして利用するのはいいとして、ちゃんと全部検証されなければならない、と指摘する。

ウィキメディア財団もただ手をこまねいているだけではなく、ボット生成コンテンツを特定するツール作成を検討しており、大規模言語モデルを使ったコンテンツ生成に関するポリシーの策定にも取り組んでいるとのこと。

一方で、大規模言語モデルウィキペディアのコンテンツを学習に使うのを許可すべきかについてもコミュニティで意見が分かれているようだ。オープンアクセスはウィキペディアの設計原則の基盤だが、OpenAI などの AI 企業が開かれたウェブを悪用し、自社のモデル用に閉じた商用データセットを作り上げるのを危惧する人もいる。

オープンアクセスと責任ある AI 利用のための行動制限を組み合わせたライセンスのもとで公開された大規模言語モデル BLOOM の利用も提案されているとのことだが、大規模言語モデル向けライセンスがオープンコンテンツ方面で求められているのかもしれませんね。

過去にも機械翻訳や荒らしの除去などの目的で、自動化システムはウィキペディアで既に利用されてきたが、AI 自体の利用を好ましくないと考えるウィキペディアンがいる一方で、ウィキメディア財団は AI をウィキペディアなどの傘下のプロジェクトにおけるボランティアの作業をスケールアップするのに役立たてるチャンスととらえているようだ。それでもウィキメディア財団の広報担当者は、人間の関与がもっとも重要な要素であることは変わらず、飽くまで AI は人間の作業を補強するもの、とも語っている。

最後にまたエイミー・ブラックマンによる、もはや「使うな」とは言えないのだから、使う以上はできるだけコンテンツ(が正しい引用がなされているか)をチェックするしかない、とやはり穏当なコメントで記事は締められている。

こないだ「Wikipedia公式の「不毛なWikipedia編集合戦」事例集」なんて記事を読んだが、これからは AI 同士の編集合戦ならぬ編集戦争に人間の編集者が付き合うことになり、人間による不毛な編集合戦が懐かしいよ、と思う時代がくるのかもね。

無形文化遺産を祝うWiki Loves Living Heritage(がもうすぐ終わる)

ich.unesco.org

ゴールデンウィーク前に Creative CommonsYouTube チャンネルに Ethics of Open Sharing with Creative Commons & Wiki Loves Living Heritage という動画があがっているのに気づき、「Wiki Loves~」というキャンペーンが過去にもあったので、今回もそれかと調べたら、ユネスコのサイトに告知があがっていた。

Wiki Loves Living Heritage日本語版)とは、UNESCO の無形文化遺産の保護に関する条約署名20周年を記念し、無形文化遺産への関心を促すキャンペーンだったのね。

5月4日から5月18日までということで、ほとんど終わりかけの紹介となって申し訳ないという感じではあるが。

そういえば「Wiki Loves~」のキャンペーンって他に何があったっけと調べたが、以下のあたりかな。

少なくともこれらはウィキメディア財団が関わり、成果となる画像などは Wikimedia Commons に保存される……という理解でよいですよね?

開発並びにデプロイにドキュメンテーションを統合するEtsyのDocs-as-codeの取り組み

www.etsy.com

Etsy といえば、「お母さんにも分かるWeb 2.0」などと紹介されていたのも今や昔、少し前に Netflix で『メイドの手帖』を観ていたら、Etsy の名前が当たり前のように出てきて、もうそういう存在なんだなと思った次第。

その Etsy の開発ブログで、Docs-as-code の取り組みが紹介されている。

正直、ワタシはこの Docs as Code という言葉すら知らなかったのだが、ソフトウェア業界における長年の問題であるドキュメンテーションについて、コーディングと同じツール、手順を採用することで開発にドキュメンテーションを統合する手段として出てきたのが、この docs-as-code というアプローチなんですね。

ソフトウェアのソースコードの管理と同じくらいの厳密さをもってそのドキュメントを管理することを目的とするもので、ドキュメントの作成、バージョン管理、レビュー、公開をよりスムーズで効率的に行いながら、信頼性をあげることを目指すものである。

そのためにはドキュメンテーションをコードの付属品ではなく、ソフトウェア開発プロセスにおいてコーディングと同じくらい重要視しないといけないし、バージョン管理や共同作業を考えるなら Markdown などのプレーンテキスト形式を作成しないといけないし、ドキュメントの信頼性やユーザ体験を向上させるためにワークフローはできる限り自動化しないといけない。

Etsy では Docsbuilder という Markdown ベースのツールを使っているみたい。現在、150もの Docsbuilder のプロジェクトサイトで、6200ものページがホストされているというのだから、もはや Etsy の開発並びにデプロイのプロセスに統合されていると考えてよいのだろうな。

この手の話で文芸的プログラミングの話を持ち出すのは、さすがに時代がもう違うということなのだろう。ソフトウェアが複雑になれば、ドキュメントの利便性はチームの生産性に関わる問題になるだろう。docs-as-code アプローチについての決定版となる書籍が書かれる日はくるのだろうか。

ネタ元は O'Reilly Radar

ウェス・アンダーソンが『天才マックスの世界』のスタイルで『トルーマン・ショー』『アルマゲドン』などを再演するショートムービー

kottke.org

最近、ウェス・アンダーソンのスタイルで AI により生成した『スターウォーズ』『ロード・オブ・ザ・リングス』の新作の予告編が話題になったりした。

実は、ウェス・アンダーソンはかつて、自身の監督作『天才マックスの世界』のスタイルで、『トルーマン・ショー』、『アルマゲドン』、『アウト・オブ・サイト』を再演するショートムービーを作り、1999年の MTV ムービー・アワードで放送していたとな。こんなの全然知らなかったよ!

別にこれが映画史に残るパロディーとか言うつもりはないが、このショートムービーに漂う幸福感はなんだろう。これが発表された1999年は、後に「映画史上(最後の)最高の年」と呼ばれることになったのに勝手に符合めいたものを感じてしまう。

もちろんウェス・アンダーソンをはじめとして、彼が再演した元作品を監督した人たちも今も一線で活躍している。しかし、今のアメリカ映画界には、この当時にあった幸福感はもはやない。ここでまた「映画の終焉」というフレーズが頭に浮かんでしまうのである。

ヴィタリック・ブテリン『イーサリアム 若き天才が示す暗号資産の真実と未来』を恵贈いただいた

yamdas.hatenablog.com

以前、邦訳刊行を取り上げた縁で、日経BPの田島さんからヴィタリック・ブテリン著、ネイサン・シュナイダー編『イーサリアム 若き天才が示す暗号資産の真実と未来』を恵贈いただいた。

しかし、本を読むのが致命的に遅いため、読了まで時間がかかりすぎてしまい申し訳なし。

本書は、イーサリアム創始者であるヴィタリック・ブテリンが2014年から2021年にかけて書いた文章をネイサン・シュナイダーが編集し、まとめた本である(編者のネイサン・シュナイダーによる序文)。やはりヴィタリック・ブテリンが執筆したイーサリアムホワイトペーパーも収録しており、イーサリアムについての読み物として、その最前線にいる人が書いたもっともまとまった論考といえる。

本書の邦訳作業は大変だったろうな。本書には巻末に「用語集」があり、本文中にも原注がそれなりの数ついてあるが、それだけでは分かってはもらえないと訳注にも紙幅を割かねばならない種類の本なので。ワタシ自身、普段からその界隈にどっぷり入りびたっている人間ではないので、本書を読んでいて自分がブテリンの議論を真に理解できているか自信がないところもあるのが正直なところ。

それはともかく、ビットコインに代わる優れた基盤プロトコルにして、その上に分散型アプリケーションを構築可能にすることを目指すイーサリアムについて、というか「Web3」という言葉に広げても読まれる本なのは間違いないだろう。

ただ、最近テック系の話題はすっかり生成型 AI に持っていかれ、「Web3」は随分と影が薄くなった印象がある。個人的に笑ったのは、伊藤穰一のポッドキャストで、シリコンバレーの VC の多くが Web3 から AI にシフトしてしまったこと、そして「少し前まで Web3 専門家だったのが、今では AI 専門家みたいな顔をしている」とからかったり、バカにする人がいる話をした後で、伊藤穰一が「自分もそれだなみたいな感じで――」といささか居心地悪く語っていたこと。

ワタシ自身、およそ一年前に「Web3の「魂」は何なのか?」という批判的な声にかなりの分量を割いた文章を書いているが、そうした人間からすると現状を不思議に思う気持ちは特にない。

ブロックチェーンのエコシステムは、イーサリアムも含めて、自由と非中央集権化を大切にしている。だが、そうしたブロックチェーンのうち大半の公共財エコロジーは、残念ながらいまだに権威志向が強く中央集権的だ。(p.285)

界隈の停滞の原因は、「キラーアプリ」(のなさ)の問題ではないだろう。

まず、ブロックチェーン技術に「キラーアプリ」は登場しない。理由は単純、「手の届く果実から摘まれていく」原理だ。もし仮に、現代社会のインフラストラクチャのうち相当の部分について、ブロックチェーン技術のほうが圧倒的に有利だといえる用途が本当に存在するとしたら、人はとっくにそれを声高に喧伝しているだろう。(p.88)

これについては、クリプトに早くから理解を示し、報じてきた IT ジャーナリストの星暁雄氏が書く、クリプト界隈のリバタリアニズム的で必ずしも包摂的でない姿勢が大きいとワタシも考える。

ブロックチェーンコミュニティ」という概念が、政治的な色を帯びた運動としてはそれ自体意味を持たなくなる、とブテリンは2015年に書いているが、それこそ今の生成型 AI がすべての人にリーチしているように、「すべての人がウォレットを持つ」段階をもっと早くに目指すべきだったのではないか。

本書に収録されている「ブロックチェーンがつくる都市、クリプトシティ」もそうだが、本書には活きの良いアイデアが多く含まれている。第2部「プルーフ・オブ・ワーク」に収録された「非中央集権化とは何か」など、今なお立ち返る基盤となるような文章もいくつもある。ワタシのようにクリプト界隈のかつての熱狂には距離を感じてはいるが、かつて非中央集権型のウェブに期待した人間として、現状は惜しいと思うし、「クリプトの冬」でも本書は読まれる価値があると考える。

暗号経済の研究コミュニティと、AIの安全性や新しいサイバーガバナンスや人類絶滅リスクを扱うコミュニティは、どちらも根本的には同じ問題に取り組もうとしている。我々は作られてから柔軟性を失ってしまった、ごく単純なばかダムシステムを使って、新しく登場し予測不能な特性をもつ、きわめて複雑で極めて賢いスマートなシステムを、はたして制御できるのかという疑問だ。(p.114)

アメリカでもコンピュータ雑誌は終焉を迎えようとしている

www.technologizer.com

今月のはじめ、『WEB+DB PRESS』休刊のお知らせ波紋を呼んだ

同じ技術評論社から出ている Software Design にはワタシも寄稿しているが、『WEB+DB PRESS』にはついぞその機会がなかったし、必ずしも良い読者でもなかったのだが、それでも悲しさを覚えるのは確かである。まずは編集長の稲尾尚徳さんに(まだ早いが)お疲れ様と言いたい。

そういえばアメリカにおけるコンピュータ雑誌の終焉についての記事が先月あったなと思い出した。

この記事の著者のハリー・マクラケン(Harry McCracken)は、かつて PC World の編集長だったテック系雑誌編集者のベテランである。

現存する米国のコンピュータ雑誌の中で何とか命を繋いできた最後の2誌である Maximum PC と MacLife が紙の雑誌から撤退したことで、半世紀近く(!)続いたコンピュータジャーナリズムの紙媒体時代は幕を閉じたとマクラケンは宣言している。

マクラケンが PC World に入社したのは1994年で、そのウェブサイトを開設したのと同じタイミングだったそうだ。やがて、月1回発行されるコンピュータに関する出版物というものが、少しばかりバカバカしく感じられるようになったと彼自身認めている。事実、ウェブは雑誌の収益源を支えた広告ビジネスにも打撃を与えた。

そうしてウェブが一夜にして雑誌を終焉に追い込んだ……なんてことはなく、1990年代後半は PC World がもっとも豊かな時代だったし、彼が退社した2008年においてすら、雑誌は利益の中心だったそうだ。

しかし、この時点で実は既にコンピュータ雑誌のビジネスは終わる必然にあり、『ルーニー・テューンズ』のワイリー・コヨーテが崖の先まで飛び出しているのに、自分がいずれ落下するのに気づいていないみたいな状態だったと振り返る。事実、1990年代後半から有力コンピュータ雑誌が徐々に廃刊を迎える。

PC World が紙の雑誌を止めたのは2008年で、マクラケンが退社した直後だったが、以降他の雑誌もそれに続き、マクラケンは2013年に在籍していた TIME 誌で、コンピュータ雑誌の時代は終わったと書いている。

今回紙の雑誌を終わらせる Maximum PC と MacLife は、むしろインターネットが存在しないかのようにふるまうことで存続してきたが、雑誌自体枯れ細って死ぬがごとき有様で終わりを迎えた。

我々は紙に印刷されるコンピュータ雑誌の終焉を嘆くべきか? とマクラケンは問いかけるが、彼の考えはアンビバレントだ。人々の生活に密着したテクノロジーに関する情報を提供する方法として、ウェブは紙よりもはるかに優れている。しかし、オンラインメディアは紙の雑誌のような活気に満ちたビジネスを生み出せなかったとマクラケンは指摘する(PC World には、ノートパソコンからテレビにいたるあらゆる製品のベンチマークを行う技術者を擁する広大なラボがあったという話はすごいねぇ)。

だからといって、今のコンピュータジャーナリズムを捨てて1995年に戻る魔法のスイッチがあったとしても自分はそれを使うことはない、とマクラケンは釘をさす。

コンピュータ雑誌の時代は終わったのだ――でも、なんて時代だったんだろう、とマクラケンは締めくくっている。

彼の記事の最後にもリンクがあるが、Internet ArchiveGoogle Books に昔の紙の雑誌がスキャンされて読めるのがあったりするのはすごいよね。

さて、コンピュータ雑誌の時代が終わったというのは日本でも同様だろう。そうした意味で、日本でも技術雑誌をデジタル化して復刻するプロジェクトが広がってくれないかと思う。

あと『WEB+DB PRESS』に関しては、とりあえずWEB+DB PRESSカンファレンスなど実現するといいな。

ネタ元は Slashdot

ダグラス・ラシュコフの新刊『デジタル生存競争』が来月出るぞ!

yamdas.hatenablog.com

これを書いた後に、ワタシ自身以前にお世話になったことがあるボイジャーの鎌田社長から、この本の翻訳を手がけていることを教えてもらい、喜んでいた。

で、先月、「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2023年版)」を書いていたときにこの本について入れようかどうかと思っていたところに、タイミング良く邦訳刊行の情報が公開された。

www.voyager.co.jp

億万長者の危険な生き残り思想を論じる本の邦訳は、イーロン・マスクの危険性が露になった2023年に求められているものだと、ゴールデンウィーク中に以下の文章を読んだときも切実に思いましたね。

ジェフ・ベゾス、リチャード・ブランソン、イーロン・マスクなどといった億万長者たちが宇宙征服とロケットの神秘という誇大妄想に取り憑かれた。星を征服するという妄想を中心に据えて、自分でロケットカルテルをつくり、地球を搾取する独自計画を立てている。大衆に空を眺めさせ、ナチスのV-2計画を率いたヴァルター・ドルンベルガーが「いにしえから伝わる夢」と呼んだ宇宙旅行や、火星ににぎやかな植民地をつくるというSFチックな妄想に夢中にさせていれば、誰もこの退屈な地球上で起こっていることに気づかない、とでも思っているのかもしれない。ピンチョンの描いた歴史が、現実になりつつある。

人類はいまだに、トマス・ピンチョンの『重力の虹』の下で生きている | WIRED.jp

訳者は『ネット社会を生きる10ヵ条』asin:B0893HK8X9)、『チームヒューマン』(asin:B095NTWH43)に続いて堺屋七左衛門さんだ。ワオ!

電子版と紙版が6月末に同時発売されるが、両者で値段に差があるのにご注意ください。

ケヴィン・ケリーが人生のアドバイスをまとめた本を出していた

bookfreak.substack.com

Mark Frauenfelder のニュースレターで知ったが、ケヴィン・ケリーの新刊が今月出ていた。といっても以前紹介した『消えゆくアジア』ではなく、人生のアドバイス本である。

ケヴィン・ケリーは68歳の誕生日に「68個のお節介な助言」、69歳の誕生日にさらに99個のアドバイス、そして昨年の70歳の誕生日には「若いころ知っておけばよかった103のこと」をしたためている。

今回の新刊はそれらをまとめたものなんでしょう。詳しい情報は著者のサイトのページを参照くだされ。

『テクニウム』『〈インターネット〉の次に来るもの』と比べるとテクノロジー寄りでない、どちらかというと自己啓発書にも近い内容であり、この新刊に推薦の言葉を寄せている面々にダニエル・ピンクやセス・ゴーディンがいるのはそういうことなのだろう。

これまた紙の本と電子書籍では値段がかなり違うので、買うなら後者でしょうかね。

search/#サーチ2

『search/サーチ』がとても良かったので、その設定を引き継いだ続編的作品というのに惹かれ、ゴールデンウィークに入る前に観てきた。

パソコンの画面上ですべてのストーリーが展開するという設定は前作ほど徹底しておらず、最初はなんで18歳の娘の享楽的な生活を観なならんのかという気分になったが、母親が行方知れずになるとどんどん話に引き込まれる。

前作は失踪した娘を父親が捜索する話だったが、今回はそれをひっくり返して娘が失踪した母親を探す話なのだけど、前作にはなかった親側の今日的な夫婦の問題が重要な設定になっており唸らされた(それについて書くと完全にネタバレになってしまうので以下略)。

Google などの主要アカウントのハッキングが重要というのは前作と共通するが、Netflix ドキュメンタリーが枠物語(誤用?)になるあたり、前作からのネットの変化にも対応していて巧みだった。ただ、本作における機械翻訳は、いくらなんでも都合よくいきすぎだろとツッコミたくなったな。

前作は何度かイヤな展開になりそうになりながらそれが回避される構造だったが、本作は前作よりも意外な展開があるうえに、前述の問題を含め踏み込んでいるところがあるが、主人公が力を借りる異国にいる見も知らぬおっさんの存在が和みというか、緩衝材の役割を果たしていた。

あと個人的には、主人公が『It's a Shame About Ray』(asin:B09RX33XV3)のTシャツを着ていたのが気になったのだが、Z世代でレモンヘッズ人気なの?

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