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「フォークして忘れるディケイド」とはなんだと思うが、ティム・オブライエンが書くオープンソース開発の変遷の話である。
1990年代は舞台が整った10年である。1990年代前半まではプロプライエタリな OS が主流だったが、ウェブ(WWW)が立ち上がると、そのサーバを担ったのは Apache だった。が、そのバックエンドは Oracle などの商用エンジンに依存しており、初期のウェブはオープンソースなしにありえなかったが、中核はクローズドなままだった。
それでも Linux や FreeBSD がウェブと出会った瞬間が、次のディケイドのオープンインフラ基盤を築いた。
で、2000年代は「オープンソースの10年」だったとオブライエンは書くが、このディケイドでオープンソースは主流となった。
Apache、Eclipse、Mozilla のコミュニティは単にコードを書いていただけでなく、一種の評判ゲームを構築していた。「私はコミッターだ」という肩書きが、スタートアップの資金調達や就職を可能にしたのである。コミッターであることが社会的資本になったわけだ。
そうして当時は、マスターレポジトリへの貢献がプロジェクト支配につながり、フォークは協力ではなく反抗とみなされ、オープン性に捧げられた運動の中で、権威は集中していた。
そのパラダイムを変えたのは分散型バージョン管理システムであり、およそ20年前にリーナス・トーバルズが開発を始めた Git だった。
かくして2010年代は「大いなる分散化の時代」だったとオブライエンは書く。Git は Subversion を押しのけ、フォークを日常的な行為に変え、GitHub はバージョン管理をソーシャルネットワークへと変貌させた。
しかし、摩擦が消えたことでフィルターも失われた、とオブライエンは書く。Git はコードを分散化しただけでなく、注目そのものを分散化したというのだ。
そして、もう折り返し地点を過ぎた2020年代をどう呼んだものか。それがこの文章のタイトルにある「フォークして忘れるディケイド」なのだが、生成 AI がオープンソースを再び変容させているとオブライエンは書く。
ゼロ年代、必要な機能を備えてないライブラリをどうにかしようと思ったら、メーリングリストに参加し、コミュニティで信頼を築いてコミッターになる必要があった。それには時間がかかるし、政治的な立ち回りも必要だった。
それが今では、フォークして修正したい内容を AI に説明すれば、5分後には次の作業に移れるとオブライエンは書く。レビュー待ちの行列に並ぶ必要も、メーリングリストでコーディングスタイルの議論をする必要もない。
そして、オブライエンは、生成 AI を利用して開発する、しかし生成したコードを読めない人のための愛称が生まれると予測している(将棋における「観る将」みたいな感じか?)。
もちろん大規模プロジェクトでは人間の開発者が求められ続けるが、AI 生成のオープンソースの貢献が急増し、エコシステムに影響が出るのは間違いない。
cURL や tldraw など「AI 生成のオープンソースの貢献」と人間の開発者の摩擦が生じているが、かつてオープンソースを結び付けていた社会的接着剤(メンターシップ、議論、協働メンテナンス)は薄れていくとオブライエンは見ている。そして、彼はそれが必ずしも悪いことではないと考えている。
フォークし、忘れ、機械に記憶を委ねる自由こそ、オープンソースにおける新しい自由というわけである。