週末は幼馴染みの父上の葬式があったりして、コラムを書き上げることができなかった。明日か明後日には公開したいところだが。
お葬式への参列は二度目だったが、一度目はその幼馴染みの祖父のときだった。なんということだろう。
二度目の葬式というと、『ニューヨーク・ストーリー ルー・リード詩集』に以下のような述懐がある。
セント・パトリック教会のミサのとき、アンディにもう二度と会えないと思い知った。どういうわけか、私は彼がそこにいることを期待した。彼が最後の仲間たちに取り囲まれ、にこにこしながら、「やあ。どこへ行ってたの?なぜ連絡をくれなかったんだい?」と言いながら。私にとって、二度目の葬式であり、二度目の通夜だった。(194ページ)
アンディというのは言うまでもなくアンディ・ウォーホルのことで、一度目はルーの詩作の師であるデルモア・シュワルツ。
はじめてこれを読んだときは、四十台半ばで葬式に二度しか出たことないってどういうことよルー親父、と思ったものだが、ワタシも他人のことをどうこう言えない。
またルー・リードは New York Times Magazine に寄稿したスターリング・モリソンへの追悼文 Sterling Morrison Velvet Warrior の中で、死に床にある元バンド仲間を見舞った後のことを以下のように書いている。
ニューヨークに戻る電車を逃し、次の待ってセメントの道路に腰を下ろした。どうしようもなく煙草と酒がほしかった。なんということだろう。俺たちはもう二度と一緒にギターをプレイすることはないのだ。ニコとも。アンディとも。スタールとも。
最初読んだときは、偏屈大王ルー親父でもこういうことを書くのかと思ったが、今はまた別の感想がある。