「iPadを待ちながら:我々はどれくらい自由であるべきなのか」でジョナサン・ジットレインの懸念を取り上げたが、iPad 直前にコリィ・ドクトロウも同趣旨の Why I won't buy an iPad (and think you shouldn't, either)、もう少し技術的なところからの設計思想への不満としてティム・ブレイが Memory Matters という文章を書いている。
それに対してニコラス・G・カー先生がジットレイン、ドクトロウ、そしてブレイをまとめて The iPad Luddites となで斬りにしていて、その論旨に賛成するかはともかく、その好敵手ぶりにほれぼれとしてしまう。
でもな、進化が俺の期待を構ってくれるなんて幻想は俺はこれっぽっちももってねーんだよ。進化はホビーストによって加速するかもしれないが、進化がホビーストの倫理を共有するわけじゃない。技術の進歩の特徴の一つに、それが道具を精錬するにつれ、その道具の働きから実際の人間の働きを除外する傾向があるんだよん。
カー先生はこの後も iPad ラッダイトネタを続けているが、Pynchon and the Badass Luddites で取り上げていたトマス・ピンチョンの Is it OK to be a Luddite? って、翻訳がプロジェクト杉田玄白にあがってたはずだけど、さっきリンクを辿ったら訳文が消えていて残念。