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劉慈欣の話題の『三体』と「暗い森」になりつつあるインターネット

kottke.org 経由で知った文章だが、面白かった。

Kickstarter の共同創業者の Yancey Strickler が、Medium が今年になって開始したテクノロジーと科学をテーマにした OneZero に寄稿した文章だが、彼がそこで最初に持ち出すのは、中国本国でベストセラーになっただけに留まらず、アジア人初のヒューゴー賞受賞となるなど欧米でも高く評価されている劉慈欣『三体』である。

そう、7月に大森望さんらの翻訳で訳書が出る、今から話題の本だ!(別にステマじゃないよ)

三体

三体

正確に言えば、『三体』三部作で披露される「宇宙の暗い森理論(the dark forest theory of the universe)」なのだが、それは地球から宇宙を見れば、他の生命体を見出すことができず、我々が唯一の存在に思えるが、なんで宇宙に他の生命体がいたら姿を現さないのだろう、という疑問に対する答えである。

それは夜の森を想像してみればよい。夜の森では何も動くものは見えないが、だからといって、その森に生き物がいないことはもちろんない。暗い森にも生命は満ちている。なぜ動かないかといえば捕食者(predator、そうプレデター)がいるからだ。生き残るために、動物は静かにしているのだ(参考:オバマ大統領の宇宙観に影響を与えたSF作家が語る「中国が地球外生命体と最初に接触したら何が起こるのか?」 - GIGAZINE)。

それを宇宙に当てはめてみるとどうだろう。それはいわば「暗い森」なのだ。地球の他に生命体がいないように見えるのは、地球以外が生き残るために静かにしておくだけの分別があるからなのだ。

そして Yancey Strickler は、インターネットもこの「暗い森」になりつつあるのではないか、と問う。

実はこの文章自体がその実例だと言う。この文章は、最初 Strickler の知り合いや厳選した500人がメンバーのプライベートチャンネルに流されたのだが、このプライベートチャンネルを Strickler は、もっとも安全に感じ、もっとも「本当の自分」であれるオンライン環境だと言う。

彼のプライベートチャンネルはメールのニュースレターだが、ポッドキャストの再興もその好例だという。ポッドキャストの復活については、アメリカの車社会と、車とつながるようになったスマートフォンが理由に挙げられるが、単に文字情報でないだけでなく、抑揚ややりとりがあるので文脈が伝わりやすいという指摘は興味深い。あと日本では、メールのニュースレターは「有料メルマガ」として一定のプライベート性を担保しているともいえるが、一時期の勢いはない。

ニュースレターやポッドキャストだけでなく、「暗い森」は Slack のチャンネル、プライベートモードの Instagram、招待制の掲示板、Snapchat、WeChat(日本なら LINE ですね)などにも広がるという。そして、「未来はプライベート」とぬけぬけと宣言するマーク・ザッカーバーグがもくろむ Facebook のピボット(と「プライバシー」という言葉の夜郎自大な再定義)の背景にもこの流れがあるという。

ここまできて、ワタシは「この話前にもどこか読んだような……」と思い当たったのだが、調べてみて、TechCrunch に「テクノロジーの「暗い森」(Dark Forest)」というかなり近い分析がなされてますね。

話を Strickler の「インターネットの暗い森理論」に戻すと、上にあげた場は、いずれも検索エンジンにインデックスされず、最適化されず、ゲーム化されない環境だからこそリラックスした対話が可能なのだという。そうした場での文化は、他のインターネットよりも現実社会に近いという。

Strickler から見て、現在のインターネットは戦場である。90年代のウェブにあった理想は消え去った。Web 2.0 に夢見たユートピアは、我々に力を与えることしかしないと思っていたネットのツールが兵器になりえたのを学んだ2016年の大統領選挙で終わった。我々がアイデンティティを発展させ、コミュニティを育て、知識を得るために作ったパブリックな場は、その力を市場やら政治やらに利用するのにとってかわられた。

この容赦ない権力闘争こそが、現在のウェブにおいて主流をなす空気である。この権力闘争が規模や凶暴性を増すにつれ、その争いを避けるべく「暗い森」に逃げ込む人の数は増える。つまり、我々は同時にいくつもの異なるインターネットで生きており、そのインターネットの数は絶え間なく増えており、「暗い森」は成長し続けている。

このあたりの記述は、多元宇宙論マルチバース論)を想起させる。たまたま Netflix『OA』第2シーズンを見終えたからというのもあるが、最近このマルチバース論を取り込んだフィクションが多いのも、2016年の大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝利の後遺症なんだろうか。

インターネットにおける「暗い森」の広がりは、それが心理的評価経済における逃げ場を提供からだと Strickler は見る。場にいる他の人が誰かを把握できるからで、主流である自由市場におけるコミュニケーションスタイルと比べ、社会的、感情的な安全がある。

この「場にいる他の人が誰かを把握できる」という感覚について、ワタシは少し前に読んだ東浩紀さんのインタビューを思い出した(し、以下引用するところ以外にも符合するところがあるように思う)。

はてなダイアリーは、なぜだったかわからないですが、意見が違ってもみんな「はてな」に所属しているという独特の感じがありました。いまでも「はてな村」ってよく言いますけど、あれは別に蔑称で使うべきものではなくて、「俺たち同じ村に所属してるんだ」という感覚があったからこそ、実は議論もできていた。それがみんなバラバラにいて、みんなで爆弾を投げあうような感じになってしまうと、ただ相手を潰せばいいということになってしまう。

「ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている」批評家・東浩紀が振り返る ネットコミュニティの10年 (1/2)

ゆるく考える

ゆるく考える

次に Strickler が語るのは、自身の体験である。彼は数年前インターネットから「消えた」という。スマホからソーシャルアプリを削除し、全員をアンフォローしたのだ。これは間違いなく良い決断だったと Strickler は書く。それでよりハッピーになったし、自分の時間のコントロールを取り戻した、と。

しかし、彼個人が健康になるにつれ、この変化のリスクも見えてきた。

メインストリームの場から切り離されてしまうことだ。当然ながら、(TwitterFacebook も削除したんだから)対話が行われているプラットフォームで主張を伝えることができない。

そこで Strickler が唱えるのは「インターネットのボーリング場理論(The Bowling Alley Theory of the Internet)」である。

ボーリング大会に参加する皆がボーリングが好きなわけではない。多くの人にとっては、他の人と一緒にいるのが一番であり、ボーリング自体は二番手以下だったりする。一緒にいる、という感覚こそが重要なのだ。これをインターネットに当てはめるなら、人々は純粋にお互いとオンラインで顔を合わせることが重要なのであって、長期的に見れば、我々が集まる場は、そこで行われるやりとり自体に比べれば重要ではない。それがあるときは MySpace であり……日本のネットでは、かつてそのボーリング場が mixi だった時代もあったわけだ。

Strickler は個人的な健康や生産性を理由にネットから消え、同時に「ボーリング場」に行かなくなったわけだが、最近になって、彼はその決断が正しかったか疑い始めたという。

インターネットの主流から撤退し、暗い森にシフトすると、主流での影響力を失ってしまう。ある意味、それはテレビ放送に対するインターネットの影響の話でもある。未だにテレビがどれだけ力があるか我々は忘れがちである。同じように、暗い森を築いたところで、インターネットの主流にどれだけ力があるか痛感することにもなる。

孤独に耐える余裕がある人はいいが、多くの人は(FOMOなどの言葉で表現される)「取り残される」という感覚に恐怖を覚える。

Facebook にしろ Twitter にしろ、未だ巨大であり、消えそうではない。だからこそロシアは、世論を操作しようと思ったときにこれらのプラットフォームに目をつけたわけで、実際それは大きな影響力があった。

この後の Strickler の文章の締めはちょっとワタシにはよく分からないところがあるのだが、それはともかくパブリックとプライベートの揺り戻しというのも過去何度かインターネットで話題になったことである。例えば、上で名前を挙げた mixi が流行ったときには、mixi にはパソコン通信時代を思わせるものがある、なんて論調があったのだから。

こういうのを見ると、「歴史は繰り返さず、韻を踏む(History doesn’t repeat itself, but it does rhyme.)」というマーク・トウェインの言葉を思い出してしまう。ただ反復しているわけではないんですね。

確かに「暗い森」の広がりは実感できる。「暗い森」と書くと何か印象が悪いウラミがあるが、上で名前を挙げた東浩紀さんがやっているゲンロンだってその一つに含まれるかもしれない。これも上で書いた Facebook のピボットは間違いなくこの動きを踏まえている。個人的には Facebookティム・ウーが主張するように分割すべきだと思うが、おそらくはピボットをうまくやりおおせるのではないだろうか。

あと、この文章の著者の Yancey Strickler は、今年秋に初めての本を出すんだね。

This Could Be Our Future: A Manifesto for a More Generous World

This Could Be Our Future: A Manifesto for a More Generous World

This Could Be Our Future: A Manifesto for a More Generous World (English Edition)

This Could Be Our Future: A Manifesto for a More Generous World (English Edition)

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