作家のロクサーヌ・ゲイが New York Times に寄稿している文章が面白い。
彼女が Twitter を始めた14年前(つまり、2007年……ということはワタシと同じだ)にはミシガン州のアッパー半島に住んで大学院に通っていたが、彼女が住んでいた人口4000人ほどの町では、(彼女と同じ属性の)有色人種、クイア、物書きは少なく、大学院以外ではオンラインこそが彼女にとってのコミュニティだった。そこでフォローした新進気鋭の作家たちは今でも大切な友達だし、意見を交換したり、ミームに参加したりいろいろすることで、いわゆる集団的な興奮というものを味わったと振り返る。
しかし、根本的に何かが変わってしまったと彼女は書く。大方のソーシャルメディアはもう楽しめない。しばらく前からそう感じていたのだが、認めたくなかったのだ。
オンラインへの関わりが、多くの人たちが世界の現状や日々の生活で直面する問題に感じる絶望が、燃料になっていると彼女は指摘する。そしてオンライン空間には、不正は正されるという希望に満ちたフィクションがあって、そのせいで Twitter では、各々が小さな力を行使して、不正に報復し、悪人を罰し、心の純粋さを高める懲罰的な空気がある。
しかし、正義を追い求めるあまり、我々はバランスと基準を失ってしまったと彼女は書く。何か不正が明らかになったら、それこそ戦争犯罪人のように責められる。現実世界では、我々は全能のゴリアテを前に恐怖にすくむダビデだが、オンラインでは、我々は皆いきなりゴリアテ側になってしまうのだ。
オンラインで自分に影響力なり力があると認めるのは気まずいと前置きしてから、彼女は本を何冊も発表する過程で何十万人もの Twitter のフォロワーを獲得したことを書く。そうしたフォロワーの大半は彼女の仕事を評価してくれているが、その中には彼女を憎み、またその憎しみを裏付け、強化する証拠を見つけるためにフォローしているアンチもいる。何かしら理由をつけては彼女に嫌がらせする人もいる。
そのように当たり前のようにアンチから攻撃を受ける環境にいると、すべてが攻撃に感じられるようになるまで批判に敏感になってしまう。善意に基づく批判といちゃもんや残酷な攻撃の区別が難しくなる。かくして、かつては魅力的で楽しかった体験が、ストレスでひどく不愉快になる。我々は釘を探すハンマー、つまり叩けるものを探しては叩いて回るようになってしまった、と彼女は書く。
つまり、手段と目的を取り違えてしまっている状態ということだが、そのせいで元発言に対する誤解や拡大解釈から生まれるクソリプやら、十年以上前の戯言を持ち出しての攻撃やら……まぁ、皆さんご存知の話だらけになってしまう。
特にロクサーヌ・ゲイのような著名人はその傾向が強い。ソーシャルメディアでのクリックがあたかもその人全体のイデオロギーを代表するかのように「いいね」が執拗に分析されるし、何か間違いを犯せば、それはすぐさま救いようのない証拠になってしまう。しかし、その糾弾が間違っていたら、今度はミスの責任を問われた人が、「キャンセルカルチャー」の非人間性を断罪しながら、その窮地にある人の服を引き裂くような大合唱が起こる。
一方で、プラットフォームからほぼ制限されることなく怒りの対象を標的とする人種差別主義者、ホモフォビア、トランスフォビア、外国人嫌いがおり、しかもそれに加えて嬉々として混乱を巻き起こす真正の荒らしがいる。
長年インターネットを利用し、実際いろんなバカげた議論や対話に関わった経験から、オンラインでの怒りや敵意の原動力は、オフラインでの我々の無力感ではないか、とロクサーヌ・ゲイは分析する。オンラインでは善人でありたい、善いことをしたいと思ってはいるが、人間的な優しさはおろか、寛大さや忍耐力はほとんど持ち合わせていない。一方で、感情的安全性(emotional safety、心理的安全性と同じようなもの?)に対する抜き差しならない渇望がある。
それはつまり、自分が完璧で、他人も同じく完璧であれば困ったことはなくなるという絶望的な望みなわけで、それ自体は腹立たしいが、完全に理解もできると彼女は書く。少なくともオンラインでは、自分の主張を伝えることができ、それが誰かに聞いてもらえているという自覚を持てる。
オンラインにコントロールと正義を求めること、オンラインへの関わりが急激に悪化しがちなこと、そしてそれに疲れてしまう人がいることのいずれも不思議はないということだ。
ソーシャルメディアに費やした時間を後悔していない、とロクサーヌ・ゲイは書く。バーチャルな関係がきっかけとなって現実世界で冒険したこともあるし、自分自身に挑戦し、人間として成長する勇気を得た。
しかし、自分はもう以前とは違う。妻をはじめ家族もいて、仕事も忙しい。(『飢える私』で書かれる減量を経て)体が動くようになったので、積極的に外に出るようになった。今では、大半の時間を過ごすのはあまりネットを利用しない人たちで、インターネットでの奇妙だったりイラつかされる出来事について話すと、まるで自分が遠い国の外国語を話しているかのような顔をされがちだという。そして、ロクサーヌ・ゲイは、まあ、そうだよね(And, I suppose, I am.)、と締めている。
折角なので自分の文章に引き寄せると、どうしても以下の文章を思い出してしまう。
この文章のタイトル「なぜ人はオンラインではかくもひどいのか」の答えは「オフラインでの我々の無力感」ということなのだと思うが、やはり現実生活を充実させ、ネットから距離を取れる人間関係が重要という話になるのでしょうな。
ネタ元は kottke.org。