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iNTERNET magazine 2005年3月号

週末は友人達と飲みなどがあり時間が取れなかったので、本サイトの更新はなし。YAMDAS対談初期の対談相手だった海坊主と何年ぶりかお互い思い出せないほど久しぶりに会ったりした。彼も医者になり、もう対談をやることはないだろうが、達者なのは何よりである。

さて、iNTERNET magazine リニューアル号を編集部よりいただいた。版型が変わって小さくなり、付録の CD-ROM もなくなり雑誌本体としても薄くなった。個人的にはこの変化は非常にありがたいのだが、雑誌経営的にはどうなのだろう。

本号から「ビジネスイノベーションを発見するテクノロジー誌」と謳い文句を替えているのだが、印象的なのはリニューアルしてブログ関係の記事が一掃されていること。リニューアル前の iNTERNET magazine はブログ周りへの大幅なシフトが目立っただけに意外な感じもしたが、「リニューアルのご挨拶」で編集長が書く「有線と無線の融合」、「放送と通信の融合」という本質的な流れに今一度向かい合ったコンクリートな内容になっている。ただまだまだ始まりの段階で確固とした方向性が見えてくるのはこれからだろう。

個人的には正直言ってブログ関係の記事に食傷していたので、内容面の変化も歓迎するが、上と同じく雑誌経営的にはどうなのだろうなとは少し不安にも思った(まあ、必要とあればそちら方面の記事もまた載るのだろうけど)。

記事としては特集における塩田紳二さんの大車輪ぶりが印象的だったが、他では「Skypeが与えるアプリケーションモデルへの衝撃」は4ページでは全然足りない。Skype 周りの話は上に引用した編集長の文章にも合う内容だと思うので、次はこのあたりを特集で期待したいです。

あと忘れてはならないのは、バックナンバーアーカイブスの公開。1994年の創刊号から2002年2月号にいたるまで、発売後3年以上経過した号については、ウェブ上で PDF 形式で無料公開するとのことである。

今年還暦の有名人

先日取り上げた文藝春秋二月特別号だが、特集は飽くまで戦後60年の話であり、その関係で1945年生まれ、つまり今年還暦を迎える有名人の一覧が載っていた。個人的に気になった人をランダムに挙げておく。

タ、タモさん!

京都賞 〜 アラン・ケイ 〜 ヴァニヴァー・ブッシュ

土曜日に NHK で放送された「ETV 特集・京都賞、歴代受賞者からのメッセージ」をうっかり録画し損ねた。

yet another 自分用メモによると、アラン・ケイがヴァニヴァー・ブッシュの「われわれが思考するごとく(As We May Think)」に影響を受けた話を語っていたらしい。

奇しくも iNTERNET magazine のリニューアル号には Douglas Engelbart インタビューがフィーチャーされているが、joesaisan さんも書いているようにその彼がブッシュに大きな影響を受けたことは、例えば「マウスと共に生まれたWWWの起源――第2次世界大戦中までさかのぼる」に詳しい。他にも「ハイパーテキスト」をお題目にベイパーウェア生活40年以上なテッド・ネルソンの Xanaduビル・アトキンソンHyperCard、そしてアラン啓の Dynabook……先人達はみんな Memex の洗礼を受けているのである。

そして joesaisan さんが続ける通り、『ウェブログ・ハンドブック』も、「われわれが思考するごとく」からの引用で始まる。

検索経路の開拓が新たな職業となり、これに従事する人々は、公的記録の膨大な集積のなかに有益な検索経路を進んで確立していくのである。師から弟子たちへ受け継がれるものは、世界の記録への追加ばかりでなく、弟子たちがよって立つ足場全体になるだろう。

ウェブログ・ハンドブック』を訳すにあたり、これだけは既訳に頼った。何よりワタシ自身西垣通『思想としてのパソコン』における訳になじんでおり、それ以外の訳が考えられなかったからである。

ブッシュの60年前に書かれた論文がウェブログにまで当てはまるというのは別にレベッカ・ブラッドだけが言っていることではない。それについては、Ethan Cerami の「Memex に立ち戻る」が分かりやすいだろう。これを訳していて、『思想としてのパソコン』の訳に脱漏があったのに気付いたりもしたっけ。

この文章を訳した後、Memex から始めてウェブログWiki検索エンジンやらを語る文章を構想していたが、能力が足らずまとめられなかったのは残念である。

モンティ・パイソンTV版初の舞台化はフランス語上演

何ともシュールなニュースだが、そのシュールさもまたパイソン的と言うべきなのだろうか。「TV版の舞台化」とは何かヘンな表現だが、要は『空飛ぶモンティ・パイソンMonty Python's Flying Circus)』のスケッチを舞台化ということである。

舞台を見たマイケル・ペイリンは「(自分達は)年寄りの叔母みたいだった」と語っているが、同じく観劇したテリー・ギリアム『モンティ・パイソン・スピークス!』において、自分達でなくカワイ子ちゃん達がパイソンのスケッチを舞台でやり、当人達は脇で椅子に座ってそれを見ているというアイデアを語っており、それがちょっと変わった形で実現してしまったとも言える。

この記事では触れていないが、パイソンにはフランス(人)を茶化したスケッチも多く、さすがに「鼻に指を突っ込むとフランス国家が流れ出すテープレコーダ男」スケッチはできないだろうな。

そういえば「横縞のシャツにベレー帽」がフランス人労働者階級の典型的なカリカチュアであることを知ったのは、パイソンの「羊のコンコルド」スケッチだった。このスケッチは、ジョン・クリーズとペイリンのインチキフランス語が肝なので、やはりこれもフランス語ではできない。

そういえば、Jibjab.com の最新曲 "Second Term" でもシラクが「横縞のシャツにベレー帽」をやっている。件のカリカチュアがイギリスだけでなくアメリカでも浸透しているらしい。

記事の最後にはエリック・アイドルブロードウェーミュージカルに触れてあるが、『モンティ・パイソンと聖杯』とは『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』のこと。

ロバート・デ・ニーロ、『タクシードライバー』続編に意欲?

はじめこのニュースを聞いたときには冗談だろと取り合わなかったが、いくつも見かけるにつけ、まさかデ・ニーロやスコセッシは本気じゃないだろうかと真剣に不安を覚えるようになった。

『タクシードライバー』を観て、何かしら思うところのあった人なら誰でも同意するだろうが、絶対に止めてほしい。冗談じゃない。一体あの映画にどんな続編がありうるというのか。

デ・ニーロやスコセッシが一番そのことを承知しているだろうに。デ・ニーロは「アクターズ・スタジオ・インタビュー」に出た際、あの映画の "You talkin' to me?" をやってくれという司会者の申し出に対し、「それはできない」ときっぱりと断ったじゃないか。スコセッシにしてもインタビューで、「あれは自分の映画ではない。(脚本の)ポール・シュレイダーの映画だ」とまで語っていたじゃないか。確かにあの映画は、主人公トラヴィスにも劣らぬ精神状態だったシュレイダーなくして考えられない。それにあの映画の役柄のせいでジョン・ヒンクリーという負債を抱え込むことになったジョディ・フォスターが出るわけはないし……何をどう考えても映画になる見込みがもてないのだが。

もっとも名作の続編の噂は常に話題にのぼるもので、これもその一つだと思いたい。以前定期的に取り沙汰されたのは『卒業』で、それを逆手に取ったのがロバート・アルトマンの復活作『ザ・プレイヤー』である。あの映画の冒頭の、主要な登場人物を一通り紹介した上に、アラン・ルドルフがスコセッシに間違われるなどのくすぐりまである8分6秒の長回しの中で、脚本家が主人公である映画会社の重役に『卒業』の続編のアイデアを熱心に売り込む場面がある。その脚本家は、『卒業』の脚本を務めたバック・ヘンリー本人で、台詞はすべてアドリブだったそうだ。

花とアリス

DVDジャケット

岩井俊二おそるべし。

考えてみれば彼の映画は『Love Letter』しか観たことがなく、あれはあれでできた映画だったと思うが、どうも小手先な技に頼る映像作家という先入観を勝手に持っていた。本作についても、違和感の演出が主目的のような一部キャスティング、本筋への集中を妨げるカメオ出演、柔らかい光の撮り方はいいけどビデオじゃなくちゃんとフィルムで撮ってくれよ、など文句をつけようと思えばつけるポイントはいくつもあるのだが、これだけの少女映画を作ったとなればこれは賞賛するより他ない。

冒頭、思いきりダラダラした退屈な映画をみせられるのではないかという懸念を持ったが、美しい春の場面になりそれは消し去り、あとは二時間この映画の世界にとらわれたまま。この間『ブラッド・シンプル/ザ・スリラー』について「久方ぶりに痺れる映画だった」と書いておいて何だが、端的に言って、痺れた。

『スウィングガールズ』といい、お前は女子高生が主役なら何でもいいのかと言われそうなので書いておくと、あれにしてもこれにしてもエロやロリの要素が皆無なのが私的に楽しめるポイントなのだと思う。正直、この年になって自分の半分(!)ぐらいの年齢のエロなんか見てもまず虚しくなるということだが、本作は単なる少女映画に留まっていない。それだったら、鉄腕アトムをあんな形で出すなんて思いもつかないだろうし。

ストーリー的には、鈴木杏演じる花が主人公の映画と思いきや、最も印象に残る言葉も動きも蒼井優演じるアリスが持っていってしまうのだが、特にアリスに関する伏線が回収される後半は話もよくできている。またちゃんと花にとっての見せ場となる場面があるのもよかった(ただ花屋敷の話は余計だったかなと思う)。

斎藤美奈子なら本作に『紅一点論』の裏返しを見るのかもしれないが(宮本には自分の過去について問い質す同性の友人がいない)、冬に始まり、春、夏、そして秋と巡っていく季節をとらえた美しい画とその中にいる主人公三人はずっとワタシの記憶に残るだろう。特に若い主人公達の相応しい夏の画は。いやはや、岩井俊二おそるべし。

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