正月帰省した際に、居間にあった「諸君」2005年2月号を読ませてもらった。「諸君」のような雑誌はこういう機会でないと読むことがないわけでそうした意味でありがたい。以前にも書いたが、宮崎哲弥の「今月の新書 完全読破」は別の媒体でやるべき連載じゃないかねぇとまたしても思ったわけだが、稲葉振一郎氏も執筆するようで侮れないところもある……あれ? 2月号にはお名前がなかったような。
2005年2月号で特に目をひいたのは、佐々木俊尚氏による Winny 裁判レポート「Winny裁判被告 東大院助手は“IT思想犯”になれるか」だった。iNTERNET magazine 2004年8月号の特集をはじめ、佐々木氏は既にこの件に関する文章をいくつか書いているが、「諸君」のは12ページに及ぶ分量で、また読んでいてちょっと気になったところがいくつかあったので、そうしたところを引用しながら記事内容を紹介しておきたい。
記事は「天才技術者の挑戦状」という章から始まる。2004年9月1日に京都地裁において始まった「世紀の裁判」第一回公判の模様、並びに被告の経歴の説明。
ところが私の期待とは裏腹に、金子被告はみずから確信しているはずの思想についてはいっさい口にしなかった。それどころか、
「ウィニーの開発は、新型のソフトを作り出すことができるかという技術的な実験として行ったもので、著作権侵害行為の手助けをするという意図はありませんでした」
と自身の思想と哲学を否定するような発言を延々と続けたのである。しかも用意した意見書を、ただ早口で読み上げるという方法で――。(p.161)
次の「ウィニーとは何か」は、P2P技術についての解説、そしてナップスターからウィニーまでの簡単な歴史解説。そして「魔神は解き放たれた」において、金子氏の2ちゃんねるでの発言を引用しながら著作権の概念が時代遅れになっている(と考えている人たちがいる)ことを解説してローレンス・レッシグに言及している。
さらにインターネット時代に入り、音楽や映画のファイルが自由に流通できるようになった。これまで著作権を頑迷に守ってきたシステムが、少しずつ崩れつつある。こうした状況の中で、著作権をめぐる考え方はいったん白紙に戻し、新たな枠組みを考えなければならないのではないだろうか?
レッシグ教授を中心とする反著作権勢力の主張は、おおむね以上のようなものだ。しかし、このような考え方が音楽・映画業界に受け入れられるはずもなく、ここ数年その対立はますます先鋭化している。(p.164)
「新たな枠組み」はいいとして、「著作権をめぐる考え方はいったん白紙に戻し」なんてレッシグは言っているか? ましてや「反著作権勢力」とは一体何なんだ。佐々木氏は本当にレッシグの著作を読んだのか?
そんな中で、著作権破壊の狼煙を上げたのが金子被告だった。
彼は確信犯としてレッシグ思想の実現を目指し、著作権概念の崩壊をはかったのである。その試みはテロリズムに近いものではあったものの、著作権問題に懸念を抱く人たちにとってある種のヒロイックな行為と映ったのは否めない。(p.165)
「レッシグ思想」はそんなものではないと思います。
「"革命"のための危険な思想」では検察官の冒頭陳述からみた金子被告像、そして以前「オヤジ系 vs 技術者系の溝は埋まるか」で披瀝していた技術者気質を金子被告にあてはめている。
「初のウィニー利用者摘発」では京都府警ハイテク犯罪対策室の捜査、続く「最強ウィルスの誕生」、「ソフト開発者逮捕の"異例"」では、それでもなお逮捕するつもりがなかったはずの京都府警が態度を硬化させた原因とされるキンタマウィルスについて、不倫チャットの内容を暴露されたテレビ制作会社の編集マン(38歳)の事例や、当の京都府警の捜査資料流失をまじえ解説。一方で、逮捕の原因は、挑発的な金子氏の態度にあったという説も紹介されている。
そして最後の「なぜ「哲学」を語らないのか」はタイトル通りの佐々木氏の不満を述べたものである。インターネットマガジンの特集を読んだときも「多分そう思ってんだろうなぁ」と思わせながらもはっきり書かなかったことをぶちまけている様相だ。
当初はあれほど盛り上がった支援活動も、沈静化している。「著作権に対する挑戦に賛同して支援金を贈ったのに、これではカネを返してほしい気分だ」と不快感を示す支援者さえいるほどだ。法廷では京都府警捜査員に対する間延びした証人尋問が延々と続けられ、裁判は何とも形容のしようのない肩透かしのまま続いている。(p.171)
公判の模様はワタシはまったく知らないのだけど、本当に上に書く通りなのだろうか。記事は以下のようにしめられる。
彼が超一流のコンピュータ技術者であるのは、間違いないだろう。しかしそうであるならば、彼はみずから作り上げた最高傑作について、その思想と哲学を社会に伝えるべきではないか。「著作権侵害の手助けの意図はない」という彼の主張こそ、みずからの思想と哲学を闇に葬る行為でしかない。
もし金子被告が本当にわが国の誇るべき頭脳であるのであるならば*1、有罪という汚名を恐れることなく、果敢に古い枠組みに対する論戦を挑んでほしい――そう私は願うのである。(p.171)
個人的には噴飯ものの主張であると思う。当方の考えは、昨年5月の頃と変わっていない。
ワタシ自身は Winny を使ったことがない。だからこのソフトウェアにも、その作者にも思い入れはない。正直47氏を必要以上に持ち上げる言説には違和感を感じるところが多々ある。
しかし、逮捕されてしまったわけである。ワタシ自身が当事者面するわけにはいかないが、ソフトウェア技術者としてもう関係ないでは済まされない。裁判となれば、これは何がなんでも勝たなければならない。判例は積み重なる。
ワタシは、有罪になっては元も子もない、という考えに与する。だから無罪を勝ち取る可能性を最大化しようとする現在の弁護団の戦略は別に不思議とも何とも思わない。話せば分かる式の「オヤジ系」の価値観をそのまま持ち込んで裁判を語らないでいただきたいものだ。