本当ならこの週末は WirelessWire News 連載原稿を書いてなければいけないのだが、書き上げるどころか書き出すところまですら行けなかった。しかし、次の週末も土曜日は丸一日予定が入っており、果たしていつ原稿を書けるか目途が立たない……。
というわけで、断続的にやっている渋谷陽一の著書からの引用でお茶を濁させてもらう。今回取り上げるのは、「僕は売れるポップ・ミュージックが大好きだ」(rockin'on 1985年4月号掲載。『ロックはどうして時代から逃れられないのか』収録)である。
そのものズバリといった感じのタイトルだが、書き出しはこうである。
昔から売れているものに興味があった。売れているものというより、売れているという事実に興味があったと言った方がいいかもしれない。
どんな評価よりも、多くの人が金を払ってそれを買ったという事実の方が信用できた。『ロッキング・オン』の創刊動機については100回ぐらい書いたような気がするが、今にしてみるとエンド・ユーザーを対象とする商品を作ってみたかったというのが一番正確な言い方かもしれないという気になっている。
渋谷陽一の「売れるものは正しい」論だが、これを明確に書きだしたのはこの頃だったと思われる。
よく自分の作品が売れなかったりすると、客は馬鹿だ、時代が悪いと怒ったりする奴がいるが、僕の場合は性格がいいせいか、反省は自分の作品の方に向かってしまう。というより、客が悪いとか言ったところでどうなるものでもないし、そんなに自己肯定的になったところでしょうがないだろうと思うのだ。問題は自分が何を書きたいかではなく、人が何を求めているかなのだから。
そして渋谷陽一は、自分の文章も一番気にするのはどう読まれるかであり、自分が書きたいことは飽くまで二次的な問題、と断じる。
今まで自分がやってきたメディア活動もそうである。何をやりたいかではなく、何が求められているが一番重要なのだ。ちょっと下品な表現をすれば、そこにマーケットが存在するかどうかが大切なのである。よく人からお前は商売人だからな、といった言われ方をするが、そうしたレベルでは間違いなく僕は商売人と言ってよいだろう。
渋谷陽一、商売人宣言である。その彼が、音楽の物理メディアが売れない時代になるやフェスの運営に乗り出したのは、商売人として自然な流れだったのかもしれない。
それだけに、自分の好みは別として売れているものに対しては常に謙虚である。例えば『少年ジャンプ』などは、昔からちゃんとした読者であったことなど一度もなく、むしろあの過剰な少年性に対しては嫌悪感しか抱けないが、400万部と聞くと思わず尊敬してしまう。
まぁ、ここまでくると、お前は産業ロックを随分貶めていたが、同じ謙虚さ、尊敬を持ってたのか? とツッコミが入りそうであるが。
そして、彼の「売れるものは正しい」論はポップミュージックにも向けられる。
ポップ・ミュージックはまさに聴かれるための音楽、どれだけ多くの人に聴かれるかが勝負の音楽である。ポップ・ミュージックにかかわる人間にとって、客が悪いという表現は許されない。それは敗北主義以外の何ものでもない。
このあたり山下達郎などいろいろ言いたくなるんじゃないかと思ったりするが、この文章は以下のところがキモだろう。
人は他者の視線によって初めて相対化される。相対化され、ひとつの関係性の中に置かれた時、コミュニケーションは可能なのである。ポップ・ミュージックというのは今日の情報大衆化社会の中にあって、そうした相対化された自我が最も優れた形で作品化されたものだ。現在は村的な表現が非常に困難な時代である。どんな表現も巨大な情報システムによって試され、そこで洗われなければならない。そうした状況にネガティブであれば、結局は時代や状況から逃げたことになってしまう。(中略)そうした中にあってどれだけ他者の視点を獲得し、自らの表現エゴを相対化し、売れるものを作り得るか、僕にはこれが一番興味深い。(後略)
この文章の最後は、「ロッキング・オン」がいつになってもナンバーツー雑誌であることが頭痛のタネであること、それはまだそれにふさわしい言葉をスタイルを獲得していないからと認め、その上で「勝利の日は近い、のかな」と締めている。
実際に「ロッキング・オン」が「ミュージック・ライフ」を抜いて(だよね?)洋楽誌のナンバーワンになったのはこの後だが、果たして現在の洋楽誌売り上げナンバーワンは何であり、売り上げは最盛期の何分の一くらいなのだろうか。