- 出版社/メーカー: ジェネオン・ユニバーサル
- 発売日: 2009/07/17
- メディア: DVD
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ここ10年ほどのクリント・イーストウッドのフィルムワークは見事なもので、ワタシが観たことがあるだけでも『スペース・カウボーイ』、『ミスティック・リバー』、『硫黄島からの手紙』など力作揃いである(『目撃』はそれには入らんかな)。本作もその一つに数えられる凄みをもった、これぞ映画と言いたくなる作品だった。
実はワタシはアンジェリーナ・ジョリーという女優さんがあまりタイプではないのだが、感情の抑制と意思の強さの両方を兼ね備えた主人公を立派に演じていて、彼女に対する苦手意識を忘れさせてくれた。
かけがえのない一人息子が行方不明になり、保護されたとして警察が連れて来た息子は別人で、それをロサンゼルス市警に訴えると精神病院に放り込まれてしまうという本作の主人公が経験する苦難はあまりに過酷である。これが実話を元にしているのに驚くし、それに決して屈しない主人公には強く心を揺さぶられる。
しかし……これは本当に1920年代の腐敗しきったロス市警が相手でなければ起こらない話なのだろうか。ワタシが本作を観て連想したのは、ブレイディみかこさんが書くS子さんの話だった(この問題については THE BRADY BLOG の過去ログを昨年6月あたりから辿っていただきたい)。
映画の観客は、主人公の母親に感情移入し、彼女の主張の正しさを確信して映画を観る。しかし、その当事者になり、圧倒的な権力の代弁者から、「我々の主張の正しさは科学的に完全に説明できる」、「それを受け入れないあなたは精神異常だ」と畳みかけられたとき、何を言い返せるだろう。
言うまでもなく、母親には目の前の少年が自分の息子かどうか「分かる」。でも、何をもってそれを立証できるのか。これはアイデンティティの問題であり、その自明であるはずのことを崩される恐怖を本作は描いている。
そして、ゴードン・ノースコットという猟奇殺人者が登場して、本作が単純な「か弱い一市民 vs. 警察権力」の勧善懲悪の物語でないことが分かってくる。
この大量殺人者について、案の定殺人博物館で取り上げられているが、それを読んで本作と現実の間に大きな相違点があるのに気付いた。ゴードンの母親の存在である。
本作ではゴードンの甥が証言者となるが、まったく登場しないゴードンの母親も犯行に加担している(Wikipedia によると、何と5人の殺害に関与している!)。
つまり、本作ではゴードンの母親の存在は意図的に排除されている。その点はこの映画のずるいところかもしれない。もし、被害者である本作の主人公クリスティン・コリンズと加害者であるサラ・ノースコットという二人の母親を対比させていたらどうだろうと思う。
結局、ゴードン・ノースコットは真実を明らかにしなかった(余談だが、面会の場面は本当にあったことなのか。受刑者にあんな接近するのを許すとは信じがたい)。主人公は前半は腐敗した組織に、後半は腐敗した犯罪者に真相追究を阻まれる。しかし、彼女の信念はまったく揺ぎない。そして、彼女が最後に見出す言葉は……
観客である我々は、この映画が主人公が望むハッピーエンドで終わらないことを知っている。しかし、クリント・イーストウッドがこのような母親たる女性の強さを描く映画を撮るとは思わなかったな。