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シン・ゴジラ

ワタシは『新世紀エヴァンゲリオン』直撃世代……でもおかしくないのだが、実際はまったく違って、テレビシリーズが放送されたとき、暇をもてあましていた大学生だったのに、当時番組の存在自体まったく知らなかった(!)。ワタシにとっての大学時代は黒歴史というか、友達が少なかったんだなぁ、としみじみしてしまうが、思えば当時テレビ東京系の番組で欠かさず見ていたのって「ギルガメッシュないと」ぐらいしか記憶がなかったりする……。エヴァンゲリオンは新劇場版の序と破は観たが、庵野秀明に対して特別の思い入れはない。

本作にしても、正直観に行くつもりはなかった。映画館で何度か観た予告編が、おっさんたちの無表情の顔アップが映るばかりでちっとも面白そうじゃなかったからだ。しかし、公開されるや小野マトペさんが『ズートピア』のときを超える最大限の表現で激賞していて、そんなら時間ができたら観に行こうかね、と思い直した。

のだが、もうなんなんだよ! ワタシのツイッターでフォローしている人がみんな(体感)観て、本作について語りだし、もうタイムラインの相当割合が『シン・ゴジラ』の話題なのである。

ワタシは観に行くと決めている映画についてのブログ記事は、感想を書くまで読まないことにしており、それ関係のツイートも、やはりネタバレとかイヤなので、できるだけ見ないよう心がけている。しかし、その脳内フィルタリングが苦痛になるくらいのレベルである。こんな辛い思いをしたのは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』以来、いや、あのとき以上や!

もういい加減頭にきて、水曜夜に仕事をぶっちぎってレイトショーを観にいってしまったぞ。ガオー!(以下ネタバレも遠慮なく書くことの合図の咆哮)

結論から書くと、欠点も多いけど、文句なしの傑作である。また、これだけいろんな人が本作について語りたくなっていること自体が本作の成功なんだろう。

上で予告編に魅力を感じなかった話を書いたが、意外にもそのおっさんたちのアップ、前半ひたすら会議なおっさんたちがよかった。本作はまぎれもなく3.11を踏まえた映画である。ゴジラという虚構をもって、3.11に向き合う映画といってもよい。そして、その点においてよくできていた。

本作について、政治家や官僚がかっこよく描かれすぎているとか言っていたツイートを見かけたが……どこが? 総理大臣は「ここで決めるの!?」と素っ頓狂な声をあげてしまうし、大臣たちは基本的に事なかれで自分の省益の観点で怪物を見ようとするし、官僚機構は言うまでもなく縦割りだし、でもその中でできる仕事を懸命にしようという姿を見るのが心地良かった。

それに劇中の政治家も官僚も、『アイアムアヒーロー』の前半ではないが、律儀に法律に忠実であろうとするし、非常事態なんだからやってしまえ! みたいなことを感情に任せて叫ぶ人間はいない。

そういう人間が劇中にいるとすれば、庶民になるのだろう。本作に対する批判に庶民が描かれていないというものがある。他の人も書いているが、ワタシも小松左京の『日本沈没』に対する同様の批判を連想した。つまり、それはあまり意味がないと思った。

が、それだけの問題とも言い切れないのかもしれない。本作で庶民が描写されるとなれば、それは自分に降りかかった不幸を大仰に嘆き、物語の進行を滞らせる存在になったのではないか。本作に立法府たる議会の模様がまったく描かれないのも同様の理由だろう(ひたすら自衛隊武力行使原理主義的に反対する野党とかね)。結果として、本作は行政に携わる人間が主役になり、その潔さが本作を気持ちよいものにしている。

その美点について加えて書けば、恋愛脳の独断や身勝手な英雄願望で無謀な挑戦をやらかして、結果周りを窮地に追い込むような悪い意味で物語をかきまわす頭の悪い登場人物がいないことが、映画としての気持ちよさにつながっているのも『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を連想させる。おそらくは岡本喜八(あっと驚く形で登場する)の『日本のいちばん長い日』を意識したであろうキャプションの過剰な多用も、いつの間にか快楽的にすら感じられるくらいで、どんどん出してくれという気になる。

しかし、上記の通り、そこから切り捨てられたものも確実にあると思う。日本人であれば、本作が3.11あっての作品であることが理解できるだろう。そして、本作は3.11後に作られた、その後遺症ともいえる作品の中で最高峰である。ただ、それが日本を越えて通用する価値を持っているかは分からない。

本作は、今から60年以上前になる初代『ゴジラ』以来の(日本映画では)「ゴジラ」が存在しない世界を舞台とする映画であり、つまりは「ゴジラ」を創造する映画なのである。初代『ゴジラ』の背景に核兵器の恐怖があったように、本作が作られるには東日本大震災、並びにその後の原発事故が必要だった。

それを引き受け、最初「あれっ? お前なの?」というところから見事にゴジラを創造してみせた庵野秀明にワタシは深い敬意を払いたい。やはり本作は庵野秀明の映画である。エンドロールのあちこちに彼の名前が出てくるのを見れば、彼が本作のために身を捧げたのかよく分かるし、本作はある意味エヴァンゲリオンであるし、巨神兵でもある。

もちろん欠点もある。最初ゴジラが海面に姿を見せるところ、映像を見た閣僚たちはすぐにそれが未確認生物の「尻尾」であると判断する。しかし、これはおかしい。あれ自体が主体であったり、触手をもつ生物かもしれないじゃないか。そうした意味では本作には、「ゴジラ」を創造するという本質的なところでも欠点がある。

ツイッターを見ていると、本作については右からも左からも物言いがついていて、それは前述の通り、本作には意識的に排されたものがあるからだが、一方で本作の可塑性の証明でもあるように思う(本作から「排されたもの」はいくつもあり、それが何か考えると面白いだろう。例えば、長谷川博己演じる、おそらくはアラフォーの主人公の妻子や親といった家族についての描写が皆無だったのも潔かったが、ハリウッド映画でも最近では『オデッセイ』のような例もあるけど、それでよいのかとも思う)。

日本が軍事的にアメリカの属国であるという認識を踏まえながらも、本作ではギリギリのところで核攻撃を逃れるための立ち回りを見せる。一方で、平泉成演じる、実に頼りなさそうだった、でも決断に際して良い味出す首相が最後に見せる日本人的な誠意の見せ方に限界も感じるし(結局リアルな外交的腹芸を演出できなかったわけだ)、感情をまれにしか見せず喋り倒す登場人物たちとあわせ、それが本作がグローバルな価値を持ちうるかワタシが疑問に思うところでもある。

……が、それがどうした。ワタシは本作が面白かったし、興奮した。文句あるか。ワタシなど、塚本晋也の顔を見てるだけで盛り上がったぞ。

本作は何より破壊神、人間の敵としてのゴジラを創造する映画である。本作のゴジラはある意味使徒であり巨神兵で、感情移入しようのない得体のしれなさは十分に描けていたと思うが、「怖い」かというと少し疑問が残る。欲を言えば、『GODZILLA ゴジラ』にあった、キメとなる大迫力の一鳴きの立ち姿があればどうかと思ったが、『パシフィック・リム』みたいに夜や雨に逃げずに真昼に堂々とゴジラが暴れる演出をしたところに心意気を感じた。

そのゴジラの倒し方もよかった。これは劇場で見てもらうしかないが、いくらこんな非常事態でも、あんな風にゴジラにアレやアレを爆弾にしてぶつけるなんて作戦はできるわけがないのはワタシにも分かるが、あれは笑ってしまったし、ちょっと泣きそうにもなった。

芹沢博士とともに海に沈んだ初代ゴジラと異なり、本作では東京の中心にそのまま残す形をとり、続編の可能性すら葬りつつ(と思ったが、これは違うみたいね……)、シンボルとかスティグマどころではなく日本人がゴジラと共存しなければならないところにもっていったところに本作の挑戦性と重みがある。

ああ、ここまで書き終えたので、ようやくあとで読むように保存しておいた、『シン・ゴジラ』についてのブログエントリを心置きなく読めるよ……

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