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ポール・ウェラーのとてもいい話、そして1990年のプリンス担当ディレクター日記

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先ごろ充実した新譜『66』が出たポール・ウェラーについて、彼が1990年代のはじめにソロとして再起を図った頃に担当 A&R を務めた佐藤淳氏が語るインタビューだが、これが実にイイ。

実は、ワタシは佐藤淳氏の文章には30年以上前から親しんでいたのだが、ポール・ウェラーの担当 A&R マンとしてではなかった。それについては後述する。

契約に携わってくれた英国の弁護士から聞いたんですけど、ロンドンのA&Rたちからは“あいつはもう終わった”と思われていたみたいです。90年代に入って、イギリスでは新しい音楽ムーヴメントがどんどん出てきていたタイミングで、80年代の存在だと見放されていたんでしょうかね。

ソロキャリアを救った日本人A&Rが語るポール・ウェラー

これは大げさな話ではない。90年代中盤以降の堂々たるキャリアしか知らないと信じられない話だが、スタイル・カウンシルが見事に失速して解散した後、ポール・ウェラーは半ば終わった人扱いだった。この当時、小さな会場をまわる再起のツアーを川崎和哉氏が取材した記事(rockin' on 1991年2月号掲載)も、「この人は終わったと思っていた」みたいな文章で始まったのを生々しく覚えている(このライブ評もよい文章なので、今回取り上げたかったのだが、残念ながら保存してなかった)。

ポールも自分もお互いにシャイで、ポニーキャニオンの会議室で人見知りの中年男ふたりが黙って向き合って座っているみたいな関係で、世間話とかはしなかったですね。僕らがあなたのためにできることはこうですと伝えて、あなたのことを信じているっていう話をしたことはおぼえています。

「我々は同い年だ、あなたは3回目の勝負に出ようとしている、自分もレコード会社を変わって勝負している、この国でふたりで勝負しようよ」というようなことを話して、信頼されているかはよくわからなかったですけど、少しずつ関係がマシになっていったような気がしました。

ソロキャリアを救った日本人A&Rが語るポール・ウェラー

ここ、佐藤淳氏の誠実な人柄と音楽への愛が伝わり、すごくイイよね。日本が率先して契約したポール・ウェラーは、その後キャリアを立て直すのである。

── 2018年に行われたEX THEATER ROPPONGIのステージ上で、ポール・ウェラーは佐藤さんに向けて感謝を伝えました。その場にいましたが、やはり誰も見向きもしなかった時代に手を差し伸べられて、再出発したことは感慨深かったんでしょうね。

ステージであんなこと言ってもらったんだから、こっちは当然アフターショウに会いにいくじゃないですか。でも挨拶に行ったら、もぬけの殻だったんですよ。そういう素っ気なさは出会った頃と変わっていない(笑)。

ソロキャリアを救った日本人A&Rが語るポール・ウェラー

ここなんか最高である。ステージで極東のレコード会社の A&R マンに対する感謝を伝える。しかし、彼と楽屋で旧交を温めるなんてことをしないダンディズムもまたウェラーらしい。

そして、この記事で一番泣かせるのは、ファンミーティングでの一コマ。

その中で、モッズスーツでばっちりきめた男の子がポール・ウェラーに「I want to be you」と一生懸命言ったら、「俺なんかになるな、お前はお前自身になれ」とポールが答えた。「来た! これだ」って、震えましたね。オリコン1位になった背景は、こういうことなんだなって。まさに生き様を目にした瞬間でした。一生忘れられない光景です。

ソロキャリアを救った日本人A&Rが語るポール・ウェラー

「お前はお前自身になれ」、これ言われた若者の座右の銘になったのではないか。

さて、ワタシは上で「佐藤淳氏の文章には今から30年以上前に親しんでいた」と書いた。それを紹介しましょう。雑誌 rockin' on の1991年3月号に掲載された佐藤淳氏の「ありがとうプリンス、さようならプリンス 最後のプリンス担当ディレクター日記」である。

これは1990年のプリンス来日公演時に、ワーナーのプリンス担当者として佐藤氏が見た地獄を振り返るものである。この時点で退社(とポニーキャニオンへの移籍)が決まっていた佐藤氏にとって、レコード会社担当者として関わる最後の仕事になる。

地獄はプリンスが来日する前から始まる。東京ドームでの来日公演初日になっても、なんとプリンス殿下が日本に到着していないのだ。調べてみると、当日の16時半に成田に着くが、普通に移動していたら、開演19時にまず間に合わない!

佐藤氏をはじめ関係者が対応を協議し、ヘリコプターを用意する(まだバブルだったんですな)。殿下がヘリに乗ってくれるか読めないので、いろんな移動パターンを想定するが、ふたを開けたら「結局、高速道路の路肩を一四〇キロで走って、プリンスは成田から直接車で入った」とのこと(おいおい!)。

その後、甲子園球場でのライブ中に佐藤氏は側近に呼ばれる。「明日朝からレコーディングしたがってるんだ。スタジオとエンジニアの手配頼むわ」とのこと。佐藤氏は公衆電話に飛びつき、東京に電話をかけまくるが、関西からなのでテレホンカードがピュンピュン死んでいく(この描写に時代を感じる)。

年末の忙しい時期に死ぬ思いでなんとかスタジオを押さえ、ステージ器材は次の公演地の札幌に送られたので楽器も必死で調達し、日本で五指に入るエンジニアにスタンバイしてもらう。そのエンジニア氏をスタジオに送り込むも、結局空調の温度をいじらされただけで出てきて、佐藤氏は「割腹というのは、こういうときするのだろう」と書いている(笑)。

東京でレコーディングされた音源は、この後1991年に出た『Diamonds and Pearls』あたりに収録されたのかな?

四都市五公演、そして五日間のレコーディングを終えて、プリンスは帰国の日を迎える。佐藤氏はホテルでお見送りをする。

ペントハウス階の廊下で待つ。大きな窓から光の束が差し込む。素晴らしい日。奥で扉の開く音がし、彼等のささやく声が近付いて来る。私にとって最後のプリンス見送りだ。上機嫌のプリンスが側近に囲まれて通過する。(最後だ)
 不思議なことに自分の口から声が飛び出た。
「カムバック・スーン」
 プリンスは一瞬目を向けると、「オーライト」答えた。私が声をかけプリンスが答えた。豊かな光がペントハウスを包み、私たちが交わした言葉を永遠に封印した。廊下の彼方、光の束の向こうへ、プリンスは消えた。
 有難う、プリンス。さようなら、プリンス。

(引用文中の『「オーライト」答えた』は、『「オーライ」と答えた』の誤植ではないかな)

これプリンスのことを知らないと分からない話だろうが、マスコミ関係者はもちろん、レコード会社の人間といえども、プリンスに気安く話しかけるのはご法度だったんですね。この時既にワーナー退社が決まっていた佐藤氏は、最後の最後にプリンスと言葉を交わせたのだ。

後に佐藤氏は、歴代のプリンス担当者の対談に登場し、このときのことを、俺はプリンスとコール&レスポンスをやった男だと自慢してた覚えがある(笑)。

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