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映画『ボヘミアン・ラプソディ』、そして1991年のブライアン・メイのインタビュー記事を題材にたどる史実との相違

映画『ボヘミアン・ラプソディ』については、最初批評家による低評価が伝わり、これはパスかなと思いかけたが、実際に観た観客の受けはそれとまったく違い大ヒットという話を聞き、音楽の原体験を聞かれると「1981年に聴いたYMOとクイーン」と答えてきた人間としてはやはり行くべきではないかと思い直し、どうせ観るなら最良の映像、音響ということで、満を持して IMAX 版を観てきた。

実際の史実と異なる点が多い、フレディ・マーキュリーセクシャリティについて「ストレートウォッシュ」されている、といった批判は、まぁ、そうですねという感じだったが、ブライアン・メイが奏でる20世紀フォックスのファンファーレで始まり、ライブエイドにおける圧倒的なステージの再構成で終わるという、映画館に足を運ぶ人たちが観たいものをしっかり見せ聴かせるもので、本当に観てよかった。

特に最後のライヴエイドの場面は、フレディが歌うすべての歌詞が本作における答えになる作りで、そのあたりにちゃんと考慮した丁寧な日本語字幕にも好感を覚えた。

思えば、批評家受けはよくないが観客に愛されるという構図は、(ワタシは観てないけど)日本では今年公開の『グレイテスト・ショーマン』に似ているように思うし、何よりこの構図はクイーンというバンドそのものにも当てはまることに思い当たる。そうした意味で映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、クイーンらしい伝記映画と言えるのかもしれない。

そのように映画としては満足だったのだが、ワタシのようなクイーンの熱狂的なファンとまではいかない洋楽リスナーであっても、やはり史実との違いは気になるもので、昔 rockin' on で読んだブライアン・メイのインタビューを読み直したいと思った。

ただ1990年代前半の rockin' on は、気になるページだけ文字通り破り取った(!)極めて原始的なアーカイブしか残っていないので無理かと思ったが、帰宅後に自室の本棚を調べたら運よく件のインタビューが残っていた。せっかくなので、今回はそのインタビュー記事を紹介したいと思う。

そういうわけで、以下は映画を観た人だけが読むように、と一応注意させてもらいます。

インタビュー記事について

以下に取り上げるのは、rockin' on 1991年5月号に掲載されたブライアン・メイのインタビュー記事である。これは翻訳記事であり、初出は Q Magazine に1991年初頭に掲載されたものである。

この記事を取り上げるのは、当時の新譜であり、フレディ生前のラストアルバムである『Innuendo』のリリースに合わせた、ブライアン・メイがバンドの歴史を振り返る包括的なものであり、またこの時点でフレディは亡くなっておらず、故人の聖人化を免れているため、内容が比較的フラットだと考えるからである。

イニュエンドウ(SHM-CD)

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』の日本公開に合わせて、この映画やクイーンというバンドについてウェブでもたくさん記事が書かれており、その中にはこのインタビュー記事の内容と合致しない内容もあったりするが、ワタシとしてはどちらが正しい/間違っていると言いたいのではなく(日本語にする際の誤訳もあるかもしれないし)、1991年のインタビュー記事にはこう書かれていたよということだけであるのをご理解いただきたい。

以下、引用におけるカッコ内の発言は、断りのない限りすべてブライアン・メイのものである。

スマイルとフレディ・マーキュリー

映画では、ブライアンとロジャー・テイラーが組んでいたバンド(スマイル)をフレディがフォローしており、ブライアンとロジャーにアプローチする。これは史実の通りだが、そのアプローチの仕方は実は映画の描き方とはかなり違ったりする。

その後間もなく暗礁に乗り上げることとなったが、その短い活動期間のうちにイーリング芸術大学芸術デザイン課卒フレディ・バルサラなる人物がこのバンドの非常に珍しいタイプのファンとなっていた。珍しいというのは、つまりフレディはバンドの演奏をしょっちゅう観に来てはいたが、いつも客席ですっくと立ち上がったと思うと歓声を贈るわけでもなく、もし自分がフロントマンだったら絶対にこうするなどとバンドに向かってがなり散らしていたからだ。

ワタシなど、このキテレツさこそフレディらしい! と思うのだが、まぁ、これをそのまま映像化するとヘンだよな(笑)。

ブライアンの発言を読んでも、フレディは映画で描かれるようにアイデンティティの問題を抱えていたのは確かだけど、同時に生来のカリスマだったのだなと思ってしまう。

「実際、フレディはスターのようなルックスがあったし、実際、スターのように振る舞ってたもんだよ。本当は全くの無一文だったくせしてさ」

またフレディとロジャーはバンド以外でも関わりがあった。

「ジミ・ヘンに熱を上げていてね。そのうちフレディとロジャーは手を組んでケンジントン公園で開かれる市で洋服の露店を始めたんだけど、その時でもヘンドリックスが死んだ日だけは店を閉めてたっけな。ま、とにかくあの露店をやっていたことで二人は、後々にグラム・ロックとなったムーヴメントのとっかかりにいたってことにはなるんだな(笑)(後略)」

そうした意味で、劇中かかるクリームの曲は、ジミヘンだったほうが良かったかもしれない。

クイーンを最初に見出したのは日本のファン?

日本のクイーンファンにとって映画に対する不満の一つに、日本絡みの場面がほぼ皆無なことがあるかもしれない(トレイラーであった、日本と思しきライブ場面が本編ではなかった気がするのだが、ワタシの見落としか?→見落としらしいです)。

またそれに関連して、映画公開前後に「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」、「クイーンは本国よりも先に日本でスターになった」といった言説をツイッター上で見かけた。これはさすがに言い過ぎで、個人的にはそうした「日本age」はちょっとアレだと思う。

クイーンの日本における受容については東郷かおる子の証言に詳しいが、それを見ても初来日公演より前に「キラー・クイーン」というシングルヒット曲がちゃんと出ていることが分かる。第一、セカンドアルバムの時点で全英トップ10入りしているバンドを無名呼ばわりするのはおかしいだろう。

しかし、である。「クイーンを最初に見出したのは日本のファン」と言いたい気持ちも分からないでもない。日本におけるクイーンの人気が、他の国とは次元が違った熱狂的なものだったことは、以下のブライアンの発言からも分かる。

「そして日本で何かがパチンと外れたんだ。東京の空港の税関を通ってさ、いざ空港のラウンジに出てみると三千人もの少女達が僕達に向かって悲鳴を上げていたんだよ。突然、僕達はビートルズになっていたわけだ。そこを通り抜けるためには文字通り、担ぎ上げられながらその子達の頭上を通るしかなかったんだ。さすがにこっちも怯えたけどね。あれはもうロック・バンドっていう現象じゃなくて、完璧にアイドル歌手ノリになってたよ。とはいえね、あれを僕達も楽しんでいたということは正直に白状しなくちゃならないな(笑)」

ジョン・リードのマネージャー就任のいきさつ

英米の「バンドで成功掴もうぜ!」本には最初に必ず「有能なマネージャーを雇え」と書いている、という話を昔本で読んだ覚えがある。

70年代のクイーンは、その役割をジョン・リードが担ったわけだが、映画を見ていると、いきなりバンドがジョン・リードに見出されて、バンドの露出がとんとん拍子に進んだように見えるが、これは史実と異なる。

「アルバムを三枚も出した頃になると、皆は僕達がロールスロイスでも乗り回しているんだろうって想像していたようなんだけど、実際には莫大な負債を抱えていたんだぜ。それで会計士を問い詰めてみて初めてわかったのは、マネジメントと交わしていた契約はお金がほとんど僕達のところに流れてこないように仕組まれていたってことだったんだよ。さすがにこれで僕達の不満も一気に表出したよね。借金はおそろしいほどプレッシャーになっていたし。(後略)」

60年代、70年代のロック界隈でよく聞かれたマネージメントに騙され搾取されていた話だが、クイーンはその問題をどのように乗り越えたのか。

 そこでバンドはこの業界の中でも信頼の高いマネージャーの面々から助言を請おうという手段に訴える。それに当時はまた伝説的な敏腕、辣腕マネージャーが何人も顔を揃えていたこともあって、彼等はあのやたらに攻撃的でそれでいて抜け目のないピーター・グラント(レッド・ツェッペリン)やドン・アルデン(ELO)、より計算機型のジョン・リード(エルトン・ジョン)やハーヴィー・リスバーグ(10cc)まであらゆる人物にどうしたらいいものかと意見を聞きまくっていた。幸い誰もがバンドに同情を示し、それぞれが考えるところの解決策を説明したが、エルトン・ジョンがちょうど休暇を取っていたこともあってバンドはリードに全権を依頼することに決定した。リードはその代わりに彼等をスタジオに送り込み、弁護士らとこの契約に根本的なメスを入れている間は全てを忘れろと指示を出したのだった。

このジョン・リードの仕事は、ブライアンによると「素晴らしいほどに功を奏し」、「おかげでやっと作曲をする時間を捻出することができるようになった」とのことで、バンドが創作に集中できる環境ができたおかげで、『A Night at the Operaオペラ座の夜)』というクイーンにとっての決定的なアルバムを出せたというわけである。映画を見ているだけでは、『オペラ座の夜』がまるでセカンドアルバムみたいでおかしいのだが、実際は上に書いた事情があったのである。

オペラ座の夜(SHM-CD)

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なお、映画の中では、ジョン・リードは1980年代に入りフレディに CBS とのソロ契約を持ち掛けたことで彼の怒りをかいクビになっているが、この記事によると、「バンドは初期の窮乏状態を救ってくれたマネージャー、ジョン・リードを友好的に解雇」したとのことで、それは確か1978年のはずだ。

ブライアンがロジャー作の"I'm in Love with My Car"を執拗にディスった背景

オペラ座の夜』レコーディング時、ブライアンがロジャーが作った "I'm in Love with My Car" という曲をひどくバカにして口論になる場面が映画にある。この曲はメンバー間の対立の大きな要因となった印税問題にも象徴的な位置づけになっており、ブライアンがこの曲を執拗にディスっているのは、そのあたりの暗示でもあるはずだ。

「おまけに、お金のいさかいがもう絶えなかったんだ。まあ、作曲っていうのはいろんな形でひどい不正がまかり通っちゃったりするもんだからさ。特にB面曲なんかがそうなんだよね。例えばさ、"ボヘミアン・ラプソディ"のシングルが百万枚売れるとなるとロジャーまでもがそれと同等の印税をついでにもらったりしちゃうんだな。なぜかって言えばロジャーはB面曲の"アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー"を書いたからなんだ。これが原因でいさかいがもう何年も何年も続いたんだ」

レコード会社に発売を拒否されたシングル盤をフレディがラジオ局に持ち込んだが、"I'm in Love with My Car" がA面曲だと思われてしまうシーンが映画にあったが、それにしても1991年段階でもブライアンは怒ってますね(笑)。

余談だが、「ボヘミアン・ラプソディ」をシングルにするのを拒否する EMI の重役を演じているのが、映画『ウェインズ・ワールド』によって「ボヘミアン・ラプソディー」をアメリカでリバイバルヒットさせたマイク・マイヤーズというのは、この映画の密かな笑いどころだったりする。

当時死の床にあったフレディも、この映像をものすごく気に入ったらしい。

悪名高きフレディのパーティライフ

フレディが催していたパーティは、彼のセクシャリティとも絡み、その過剰さが悪名高い。映画では比較的穏当なレベルで描写されていたが、以下の記述にその実際の一端が分かると思う。

(前略)アルバム『ジャズ』をぶち上げるに当たってはニュー・オーリーンズで英米のレコード会社社員のために盛大なパーティを開催、多数のトップレス・ウェイトレス、ふたなりストリッパー、小人、そしてせめて肺癌は避けられるという言い訳のつく、下の口から煙草を吸う女達などを接待として大量動員したのだった。そしてフレディは黒人に扮装した十数名の召使いを従えて豪壮に登場した。それは風刺や諧謔を意味していたのかもしれないが、そこまでくるともはや冗談という世界を遥かに超えていた。

この手のパーティではコカインも存分に振る舞われたらしいし、現在の感覚からすればかなりアウトで、さすがに映画では再現できないわな。

ジャズ(SHM-CD)

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「ブレイク・フリー (自由への旅立ち) 」の放送禁止とトラブルについて

映画では、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち) 」の女装を披露した PV がアメリカの MTV で放送禁止になり、フレディは憤慨するが、これは史実の通り。そして、それ以外でもこの曲と女装のおかげでフレディは大変な目にあっている。

(前略)今度はブラジルで行われたコンサートでクイーンはおそろしいまでに自分達が政治について世間知らずであったことを露呈する羽目になった。"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"の演目でかつらをかぶり、巨大な尻のステージ衣装を身に着けてステージに登場したフレディは、観客からのヤジと空き缶と石までもが混ざった猛烈なシャワーを受けることとなった。咄嗟にフレディがかつらや衣装を外すとやがて観客もまた静まったのだが、ラテンのマッチョ的心情を侮辱してしまったのだろうかとバンドはその時考えたらしい。しかし、後々になって地元の人達に聞かされた話はそんな生やさしいものではなかった。何とクイーンの、それも特に"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"は常に政情不安に悩む南米では独裁主義に抵抗するという半ば神聖なメッセージをもった解放の歌として受け取られているというのだ。その曲をクイーン自身が茶化してしまうのは、それこそ屈辱的でとても耐えられないことだったのだ。

ザ・ワークス(SHM-CD)

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クイーンのメンバー間の対立の原因だった印税問題とその解決策について

映画におけるライヴ・エイド出演を決めるバンドの話し合いの場面で、ジョン・ディーコンがフレディにこれからは楽曲はすべてクイーン名義とし、印税はすべて平等に分配することをバンドの活動再開の条件として言い渡す。ライヴイベント出演の話し合いなのに、なんで最初に印税の話になるの? と疑問をもった人もいるかもしれないが、上で引用したブライアンの「お金のいさかい」話を読めば、そのあたりがバンドメンバーにとって最大の衝突ポイントだったことが分かる。

これはクイーンというバンドが、メンバー全員が優れたソングライターだったために生じた問題と言える。特にロジャーやジョンの曲がアルバムからのシングル曲になることが多くなった80年代にそれが強まったのではないか。

実は、楽曲をすべてクイーン名義にしたのはアルバム『The Miracle』以降なので、映画におけるジョンの発言は史実とは微妙に異なる。が、その前作『A Kind of Magic』においてもメンバー全員が2曲分担当し、残る1曲はバンド全員のクレジットにすることで均等化が図られているので、まぁ、許容範囲でしょうね。

この決定についてブライアンは、「もっと早くやったら、と本当に思うよ」「はっきり言って僕達が行なってきた全ての判断の中でこれ程賢明なものはないと思う」「でも、これを一度やってみるとね、突然、バンドがあらゆる側面で共同作業に精を出し始めるのに気付くんだよ」と極めてポジティブに語っている。

あと、フレディに印税のことをきっぱり言い渡すのがジョンなのはおかしなことではなくて、それはジョンについての以下のブライアンの発言からも分かる。

ジョンもね、いかにももの静かな古典的ベーシストではあるけれども、信じられないほど思い遣ってくれる一方で、わけがわからないほど無礼になる時もあって、そんな時、犠牲になった奴としては身悶えして死んじゃいたいくらいなんだぜ。ただ、ジョンは本当に変わっているけど、でもバンドのビジネス面のリーダーでもあるんだ。株式はくまなく研究しているし、契約書の落とし穴もわかっているからな。

以下は余談だが、ロジャーが「ディスコやんのかよ!」と反発してメンバーが揉める中でジョンが「地獄へ道づれ」のベースラインを弾きだして、メンバー全員が「おっ、これは……」となる場面、「ディスコやんのかよ!」と反発するくらいなのに、その前にベースライン聴いてなかったのかよ、とちょっとヘンだし、「おっ、これは……」の後に誰か「シックのパクリだよね?」と言い出さないかと思って、映画館でワタシ一人ちょっと笑ってしまった。

そんなことを言えば、八〇年に発売されたクイーンの<アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト>も、少なくとも権利の一部は(引用者注:ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズに)譲るべきだと、ぼくは思います。(ピーター・バラカン『魂(ソウル)のゆくえ』215ページ)

ザ・ゲーム(SHM-CD)

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クイーンの歴史における「ライヴ・エイド」の位置づけについて

映画『ボヘミアン・ラプソディー』のクライマックスは、言うまでもなく「ライヴ・エイド」におけるステージである。映画においてこのステージを完全再現しているという宣伝文句は実は正しくないのだが、それはともかくバンドにとってライヴ・エイドでのステージは、実際大きな転機だった。

映画では、フレディの取り巻きのポールがライヴ・エイドの話を隠していたためクイーンの出演が決まらなかった筋書きになっているが、もちろん史実は異なる。

 そしてクイーンの面々も進んで認めるように彼等はボブ・ゲルドフに感謝をしなくてはならない。彼等のキャリアに再び脚光を呼び戻したあのライヴ・エイドに出ないかと最初にボブが打診してきた時、彼らは過去の破滅的で実のなかったチャリティー・ギグでの経験を思いあわせて躊躇していた。それをボブが無理矢理食いついて出演させたのだ。ボブはまず、マネージャー、ジム・ビーチの休暇用の別邸にまで押しかけるとクイーンのヴィデオでも語っているように「あのオカマあんちゃんに、とにかくこの世で起こったどんな出来事よりもこれほどデカイものはないんだって伝えておけよ」と談判し、ジムは言われた通りにバンドを説得することとなった。

映画『ボヘミアン・ラプソディー』の中でまともに登場するクイーン以外のミュージシャンがほぼボブ・ゲルドフだけというのも批判の対象になっているが、正直ボウイ役くらいは誰か当てると思ってたね。

そのゲルドフは、ライヴ・エイドにおけるクイーンのステージを以下のように評している。

「ま、個人の好き好きを全く超えたところでクイーンこそがあの日最高のバンドだったと絶対に思うよ」

「演奏は最高だったし、サウンドも最高だったし、ライヴ・エイドの、あの地球規模でのジューク・ボックスっていう発想を完璧に連中はわかってくれたと思う。しかも、あれはフレディにとってはこれ以上にないって言えるほどの恰好の舞台だったんだからね。あいつは世界中を相手にしても臆面もなくショー・アップできる奴なんだ」

まさにその通りだと思う。アメリカでの商業的な失敗とその後の停滞、大きな批判を浴びたサン・シティでのライブ問題など、バンドを取り巻く悪い空気を20分のステージで払拭したのは、フレディのショーマンシップだったわけだ。ゲルドフは「サウンドも最高だった」と言っているが、「触るな!」と書かれているのを無視して、スタッフが音量をこっそり上げたという映画における描写は本当のことらしい。

 実際、クイーンの面々もライヴ・エイドの成功には非常に感じ入ってしまったようで、ジョンの言葉を借りれば「ライヴ・エイドで僕達の世界はもう一回引っくり返ったんだ」ということだ。確かに、この出演はすさまじい宣伝ともなり、たちまちにして猛烈な勢いで旧譜セールスに火をつけ、86年のスタジアム・ツアーのきっかけともなったのだ。クイーンは再びウェンブリーとネブワースに凱旋し、ハンガリーブダペストに足を伸ばすという快挙も成し遂げた。しかし、何より重要だったのはライヴ・エイドはバンド自身のやる気にまた活気を吹き込み、その姿勢をも心機一転させたということだ。

伝記映画がライヴ・エイドのステージで終わるのは、必然的なのである。

しかし、このインタビュー記事の終わりあたりの記述は、今読むとなんとも言えない気持ちになる。

(引用者注:ブライアンは)数日したらクイーンの面々とスイスのモントルーにある自分達のスタジオに入り、何ともう新作のレコーディングをするのだと言う。『イニュエンドゥ』がリリースされたばかりだというのにだ。何でもロジャーとフレディが新年に食事をした際、今現在のバンドのエネルギーがあまりにもありあまっていて絶対にこれを抑え込んでは駄目だという結論に達したのだという。

今になってみれば、彼らが新作が出たばかりなのに次のレコーディングを急いだのは、言うまでもなくフレディの命が残り少ないことをメンバー全員が自覚していたからだと分かる。

そのように生き急いだフレディがなしたことすべてが正しかったわけではないし、映画『ボヘミアン・ラプソディー』にしても、フレディのエイズに関する描写は事実を歪曲しているという批判もあるのも分かるが、見事にショーアップされた映画だったと思うし、それはフレディにふさわしいものだと思う。

本当は映画について書きたいことはまだいろいろ残っているのだが、もういい加減長くなってしまったので、ここまでとさせてもらう。

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