邦訳刊行について書いた関係で、監訳者の服部桂さんからご恵贈いただいた。
第0章の最初に書かれるように、本書は「ロシア皇帝にシベリア探検やデジタル計算機を提案したライプニッツから始まり、その後の米大陸の先住民の運命や、二十世紀のテクノロジー革新、著者のカナダでの野生の生活を通して、デジタル世界が次はアナログな自然世界に回帰すると論じる」本である……ってなんだよ?
いや、本書はそういう本なのだ。本当に。
第0章で著者は、自然と人間とマシンの絡みを、四つの時代区分に分けてみせる。工業化以前の時代、工業の時代、デジタル論理の時代の次の第四の時代、すなわちアルゴリズムの時代は終わったと著者は宣言する。そして、その第一の時代から第四の時代までを本書はかけぬける。
歴史物語として、やはり服部桂さんが訳したトム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(asin:4757102992)を少し思い出したが、本書が扱うタイムスケールは遥かに大きい。正直、最初の数章、人間と自然との相克の話は読んでいてかなり面食らった。いったい自分は何を読んでいるんだという気にもなった。
そして1947年9月、フリーマン・ジョン・ダイソンという23歳のイギリス人大学院生が現れる。言わずと知れた著者の父親である。
改めて書くが本書は、本当に上に引用した通りの本なのだ。しかし、それと同時に、フリーマン・ダイソン、そしてその息子である著者の父子二代記でもある。服部桂さんによる著者インタビューにおいて、ケネス・ブラウワー『宇宙船とカヌー』(asin:4635047644)がアメリカで父子の相克、確執の書と受け取られたことを著者は語っているが、「父と子がそれぞれ違う方法で自然とテクノロジーを追求する話」を著者が改めて語り直す本とも言える(しかも、そこに登場する面々がいちいち豪華!)。
そこまで分かっても、やはり、読んでて面食らうところの多い本である。しかし、そんな飲み込みの悪い鈍いワタシも、「第7章 エレホン再訪」でググっと話が締まるものを感じた。
『エレホン』には三つのメッセージが込められている。われわれ自身の知能が個々の細胞レベルの知能に随伴して発生し超越したように、機械の知能は、確実に人間の知能に随伴して発生し超越する。機械が進化すれば、自己再生産は必然である。いったん始まれば、時計の針を戻そうとしても無駄である。(p.248)
そして「第8章 時間は存在しない」で一気に合点がいくのに驚いているところに、「第9章 連続体仮説」で著者の確信を力強くたたきつけ、そのままさっさと終わりを迎える。読んでて呆然となるような、突き抜けるような読書体験だった。
これらの法則は、自ら思考する人工知能は、形式的にプログラム可能な制御では決して到達できないことを暗示しているように思える。人間の知性を理解するまではマシンが超人的な知能を持つことを心配する必要はない、と考える人々にとっては安心だろう。しかし、理解をせずに何を作ってはいけないという道理もない。(p.299)
たまたま Wired でアナログコンピューターの逆襲と題した記事を見かけたばかりだが、本当にそんなの可能なのだろうか。