仲俣暁生さんが「半熟派にとってのハードボイルド」という文章を書かれている。
『大いなる眠り』を「三分の二まで読んでもまったく入り込めないので放棄し」たそうで、文面からすると『長いお別れ』も(当該エントリを書いた時点で)読まれてないようだ。その段階で「ハメット>マクドナルド>チャンドラーというひどく乱暴な価値判断」をされ、以下のように続けている。
そもそもぼくの世代にとって、チャンドラーのフィリップ・マーロウ風の気取りはださい、カッコ悪い、という価値観が前提としてまずある。
一冊も読み通すことなく価値判断をするのは勝手だが、ワタシは『長いお別れ』が死ぬほど好きな人間なのでムキになって反論させてもらおう。
「フィリップ・マーロウ風の気取り」とは何ぞや? そもそもフィリップ・マーロウは気取っているのか。ワタシはそれは違うと思う。フィリップ・マーロウの言葉はつまりは小説上の彼の生きる姿勢を反映したものだが、探偵という後ろ暗い稼業、言うなればモンキービジネスを営みながら、またそれに屈託するだけの知性を持ち合わせながら、不本意な妥協、切り売りを強いる世間に対して、自身の信念をごまかすことなくプライドを守り抜こうとする果敢さのあらわれである……と書くとかなりダサいが、確か福田和也も同じようなことを書いていたと記憶する。「シェイクスピア以来の英国文学からきている」というのもあるだろうが、対峙する事件、そして探偵としての自分と何とか折り合いをつけようとするための迂回も含まれているからこそ、あの独特の言葉遣い、言い回しになったのだとワタシは解釈している。
しかし、日本の作家による「ハードボイルド」となると、(良質のものであっても)どういうわけか一足飛びにダンディズムやナルシズムと結びついてしまうものが多い。乱暴に書けば、(主に)男のロマン、みたいなかっこつけの話になってしまう。マーロウが体現する、後ろ暗さを認識した上で自身のプライドを守ろうとする苦闘、またそれに付随する良質のセンチメンタリズムが描かれることは少ない。
チャンドラーが完璧な作家だというのではもちろんない。『大いなる眠り』にもはっきりと出ていることだが、その小説の骨格をなす事件自体の「弱さ」はよく言われる。後になって、チャンドラーのあの小説の犯人って誰だったっけ? などということもあるくらいである。でもそれは、「フィリップ・マーロウ風の気取り」とやらとは基本的に関係ない話だろう。
それに第一、「前提」となる「ぼくの世代」の「価値観」ができるほどチャンドラーが仲俣さんの世代に読まれているのだろうか。ワタシは仲俣さんよりおよそ十歳年少なのでよく分からないのだが、仲俣さんのように一冊も読み通すことなく(「仲俣さんのように」がかかるのはここまで)、日本のハードボイルド小説の印象を、流通しているフィリップ・マーロウの言葉にあてはめて甘く見ているだけではないか、という疑いを持ってしまう。それこそ「ギムレットには早すぎる」という言葉をマーロウが言ったものだと思い込んでいる手合いのような底の浅さを感じるのだが、いや(自分以外の)同世代の人間はちゃんと読んで判断してるぞ、ということであれば謝ります。
仲俣さんの世代にチャンドラーがどう受容されているかということにワタシは興味はない。そしてジャンルとしてのハードボイルドの位置づけなどにも興味はない。矢作俊彦の言葉を借りるなら、ワタシは「ハードボイルドが好きなのではない、チャンドラーが好き」なだけなのだ。
はい、「気取り」というのは、↑のような文章を指していうべき言葉なのです(笑)