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デヴィッド・グレーバーの遺作を知り、ブレイディみかこさんに謝りたくなったのを思い出した

昨年9月に惜しくも亡くなったデヴィッド・グレーバーの新作 The Dawn of Everything(考古学者のデヴィッド・ウェングローとの共著)が出るのを、恥ずかしながらこれを読んで初めて知った。

早くもできている Wikipedia のページから辿った New York Times の記事によると、グレーバーの死の直前である2020年8月に完成させていたらしい。これが彼の遺作になるということか。

この書評を書いているのは、『優秀なる羊たち: 米国エリート教育の失敗に学ぶ』(asin:4385365784)の邦訳もあるウィリアム・デレズウィッツだが、彼によるデヴィッド・グレーバーの初対面の印象についての描写は鮮烈だ。

二人で昼食を取り始めて5分後、私は自分が天才を前にしていることに気づいた。ものすごく頭がいいのではなく、天才だ。そこには質的なちがいがある。テーブルを挟んでそこにいる人間は、私とは別の秩序世界に属しているかのようで、まるでもっと高い次元からの訪問者のようだった。そんなことはそれまで経験したことがなかった。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

さて、その遺作はどういう本なのだろうか。

『The Dawn of Everything』は、ホッブズとルソーが最初に展開し、その後の思想家たちが練り上げ、今日ではジャレド・ダイアモンド、ユヴァル・ノア・ハラリ、スティーブン・ピンカーらによって一般に普及し、多かれ少なかれ世界中で受け入れられている人類の社会史に関する従来の説明に対抗して書かれている。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

そしてこの物語は、グレーバーとウェングローによれば、完全にまちがっている。世界中で発見されている最新の豊かな考古学的発見や、軽視されがちな歴史的資料の深い読み込み(彼らの参考文献目録は63ページにも及ぶ)を駆使して、二人はこれまでの説明のあらゆる要素だけでなく、その前提条件となっている仮説をも解体している。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

詳しくはその先を読んでいただくとして、グレーバーらしい挑戦的な本なのは間違いないようだ。ただ著者二人の論説に対しては、進化人類学者のピーター・ターチンが既に詳細な批判を行っているので注意が必要である(その1その2)。

かなりの大著なので、邦訳が出るとしても3年くらい先だろうか。それはともかく、ワタシは以下のくだりを読んで、はっとさせられた。

「文明」にはそれだけの価値があるのか、と著者は問いかけている。文明は――それが古代エジプト、アステカ、帝政ローマ、国家の暴力によって強制される現代の官僚的資本主義体制などを指すのであれば――著者が考える私たちの3つの基本的な自由である「命令に従わない自由」「どこか別のところに行く自由」「新しい社会的取り決めを作る自由」を失うことを意味するのではないか? あるいは、文明とはむしろ「相互扶助、社会的協力、市民活動、ホスピタリティ、そして単純に他人を思いやること」を意味するのだろうか?

これらは、献身的なアナーキストであるグレーバーが(彼はアナーキーなのではなく、政府がなくても人々はうまくやっていけるというアナーキズムの提唱者だ)キャリアを通じて問いかけてきた問題だ。

翻訳日記: 人類の歴史をもう一度書き直したら

ここを読んで、ワタシはブレイディみかこさんのことを思い出した。

ブレイディみかこさんが『負債論』『ブルシット・ジョブ』といったグレーバーの仕事に大きな影響を受けているのは確かだが、それだけではない。

ベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にワタシがあげた福砂屋の紙袋が登場していたのも今や昔というか、今年はブレイディみかこさんを普通にテレビで見かける機会も多かった。そして今年も彼女は何冊も本を出しているが、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は特に印象的な仕事だった。

この本は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で著者の意図をこえて注目された「エンパシー」をテーマにしている。このエンパシーについて、コグニティヴ(認知的)・エンパシー、エモーショナル(感情的)・エンパシーなど定説となっている分類はもちろんきちんと紹介されるが、それに対して副題にもある「アナーキック・エンパシー」を提唱しているのが著者らしい。

アナーキック、アナーキーといった単語自体は、『アナキズム・イン・ザ・UK -壊れた英国とパンク保育士奮闘記』といった書名に冠せられているものでなくても、ブレイディみかこさんの本に何度も登場しており、この副題に驚くことはなかった。

しかし、エンパシーの本であるとともに実はアナーキーアナキズムの本ともいえる『他者の靴を履く』を読むうちに、自分の中にあるこれらの言葉に対するイメージが、カオスであったり無秩序であったり暴力的であったり、要はこの言葉に出会ったロンドンパンクの(メディア上の)イメージあたりで止まったままのに気づいて愕然とし、なんという浅さだと自分を恥ずかしく思った。

ましてや自分はブレイディみかこさんの本を何冊も読んでおり、自立(自律)としてのアナーキーアナキズムについて認識を更新していてしかるべきはずなのに、実は内心のイメージは古色蒼然というか、単に的外れなままだったとは、今まで何を読んでいたのだ――と『他者の靴を履く』はワタシを密かに恥じ入らせ、反省を強いる本だった。

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自立(自律)としてのアナキズムという話は、最近ではジェニー・オデル『何もしない』にも色濃くあり、伊藤聡さんがこの本を語る際にデヴィッド・グレーバーの名前を引き合いに出しているのも納得である。

そして、今回「献身的なアナーキストであるグレーバー」というフレーズを目にし、一度ブレイディみかこさんにメールで書こうと思いながら、恥ずかしくて出せなかった内容をここに書き残しておこうと思った次第である。

以下は余談。

「アナーキック・エンパシー」を提唱し、自分という主語を確立することの重要さを伝える『他者の靴を履く』だが、個人的にもっとも面白かったのは、マーガレット・サッチャーについて書かれる第4章「彼女にはエンパシーがなかった」だった。

ただこの章で、サッチャーについて「経済についてダーウィンの進化論のような考え方」「経済ダーウィニズム」という表現を用いているところは唯一不満というか、別にダーウィンの進化論は強者生存や優勝劣敗を説くものではないのに、と思ってしまった。もっとも、特に「経済ダーウィニズム」が人口に膾炙した表現であるのは理解しており、本書だけの話ではない。

そのあたりが特に気になったのは、単に『他者の靴を履く』を読む直前に吉川浩満『理不尽な進化 増補新版』を読んでいたから、そしてこれがとても良い本だったから、という個人的な事情に依るのだけど。

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