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運び屋

クリント・イーストウッド『許されざる者』アカデミー賞をとったとき、もちろん作品として素晴らしかったのだけど、これまで映像作家としてちゃんと評価してこなかったイーストウッドの長年を功績を讃えての功労賞な空気があったように思う。

この時点でイーストウッドは還暦過ぎ、後は徐々にフェイドアウトでも不思議でなかったのが、彼の真の快進撃が始まるのはそこからだったというのが恐ろしい話である。還暦過ぎて撮る映画が純粋に良くなっていった人なんて他に知らない。早撮りの名手として言われ、映画からどんどんぜい肉はそぎ落とされ、リアリティ重視で撮影にしろライティングは排され、前作『15時17分、パリ行き』では、実際のテロ事件を題材にするにあたり、その当事者たちに本人役をやらせるというとんでもない領域まで到達してしまった。

イーストウッド『グラン・トリノ』で俳優としての引退を宣言したとき、誰もが永遠には生きられないという当たり前の事実を再確認した。その『グラン・トリノ』は、役者としての彼の落とし前をつける傑作で、ワタシは映画館で後半ずっと泣いていた。

俳優としての引退はその後覆されるのだが、まさかあの『グラン・トリノ』から10年(!)経って、また彼の監督・主演作を観れるとは、なんということだろう。それも90歳の老人が麻薬組織の運転手をやっていたという実際の事件を基にしているという。

一言で説明するなら、本作はイーストウッド『ブレイキング・バッド』と言えるかもしれない。しかし、主人公の愛されキャラが独特の弛緩をもたらす。イーストウッドは老いてからも、「ワシもすっかり歳なんじゃよ。でも、ヒーローやっちゃうし、女もコマすぞ」な映画をいくつも撮っているが、その最新版が見れようとは! これは確かに彼にしか作れない映画だ。

主人公を愛されキャラと書いたが、彼はそれこそ麻薬組織の強面な若造たちをも魅了する。当然女にもモテモテ(笑)だ。しかし、デイリリー(一日しか咲かない花!)の栽培と社交にかまけ、ずっと家族をないがしろにしてきた。当然離婚するし、娘の結婚式まですっぽかし、娘から10年以上口をきいてもらえない。

イーストウッドの映画はまぎれもなくアメリカの映画なのだが、ハリウッドの常識からはみ出る異物感がある。やはりというべきか、演出にははっきりおかしいところがある。例えば、主人公は麻薬組織の人間から携帯電話を渡され、電話が鳴ったらすぐに出ろとしつこく警告される。ならば劇中、一度くらい麻薬組織から電話が入る場面があってよさそうなものだが、電話が鳴ったと思ったらそれは家族からで、おい、そこで家族を組織の人間と間違うくらいの演出がなきゃダメだろ、とワタシなど思うのだが、『アメリカン・スナイパー』で赤ちゃん役に人形をあてがったイーストウッドにとって、そんなフックの必要性など眼中にないのか。

本作では、その『アメリカン・スナイパー』の主役だったブラッドリー・クーパーも、主人公と彼の人生の陰影を際立たせる絡みをやっていて、最後、車中にいるイーストウッドと車のドアを開けて立つクーパーとの会話の場面、逆光でイーストウッドの顔が真っ暗なカットがひたすら尊くて、もうどうにもたまらず泣いてしまった。

こんなことを書くと怒られるだろうが、本作は一種のジジイのファンタジーである。しかも、文句なしの強度と面白さとサスペンスのある映画であり、また書くがイーストウッドにしか作れない作品だ。『グラン・トリノ』が俳優としての彼の落とし前をつける映画だったが、一番大事なのは家族と主人公が悔恨とともに語り、その娘役に実の娘をあてがう本作は、イーストウッドなり一種の懺悔なのかもしれない。そして、それが普遍性のある物語になっている。

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