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愛のある批判――坂口安吾の場合

この前安吾について触れたとき、「愛のある批判」と書いた後でそのフレーズに考え込んでしまった。

「大阪の反逆」は織田作之助の死に際して書かれたものだが、安吾は翌年の太宰治の死の後も「不良少年とキリスト」(これも『堕落論』収録)という文章を書いている。余談ながら、ワタシは安吾の評論・エッセイの中でこれが一番好きで、太宰についてはいろんな回想録、研究書が書かれているが、その大半が数十枚の「不良少年とキリスト」の足元にも及ばない(とワタシは思う)。

この三人(あと石川淳など)はまとめて無頼派、新戯作派などと称されたわけで、自分を鑑みて言わせてもらえば、凡人であれば仲間の死に際して、とりあえず擁護しておいてあわよくばおこぼれに預かろうという保身に走るだろうし、そうでなくても追悼文の類を血の通ったものにするのは難しい。しかし、安吾はそうはせず、「愛のある批判」を書いた。

そうした優れた文章が書けたのは、その時期(昭和20年代前半)安吾が作家としてピークを迎えていたからというのもあるが、何より当たり前であるが批評対象となる織田作、太宰の文学の本質を理解していたからだろう。

愛のある批判を行うには、対象の理解の他に自らへの自信が必要だろう。現実には自信のなさが原因か、愛という言葉の名を借りた依存心が横行しているのだが、これらの文章を読んで分かるのは、安吾の依存心や党派意識のなさである。いやまったくなかったわけはないだろうし、特に「不良少年とキリスト」からは戦友を失った無念の想いが読み取れる。

しかし、安吾の批評は党派意識や依存心を断ち切っており、実際「大阪の反逆」では織田作の大阪への依存心、「不良少年とキリスト」では太宰とそのファンの依存関係を鋭く突いており、それが彼らの文学への率直な批判になっている。

党派意識、今でいえば馴れ合いだろうか。人間関係で馴れ合うのは勝手だが、それが表現に反映されて面白かったためしはない。

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