一部の AI 企業が「オープンソース」の看板をユルユルに使っていることに対する批判を取り上げた記事だが、まさにワタシが WirelessWire News 連載やこのブログで以前に取り上げた問題ですね。
オープンソース AI の支持者たちは、その方が社会にとってより公平で安全だと言うが、一方で反対者たちは悪意をもって悪用される可能性が高いと言う。この議論にはひとつ大きな問題がある。オープンソース AI が正味のところ何なのか合意された定義が存在しないのだ。それに AI 企業を――「オープンソース」という言葉を使って自分たちを不誠実にもよく見せようとする――「オープンウォッシング(openwashing)」と非難する声もある(オープンウォッシングという非難は、オープンソースの看板をあまりにも緩く使ったコーディングプロジェクトに向けられたことがある)。
ようやくこの問題が New York Times くらいのメディアにも取り上げられるようになったのかと思うが、オープンソースソフトウェアは誰でも複製や変更が可能だが、AI モデルの構築にはソースコード以上のものが必要という理由にもきちんと触れている。
Linux Fundation も「オープンウォッシング」の言葉を使って以下のように意見表明していたのね。
この「オープンウォッシング」の傾向は、オープン性――調査、複製、共同の前進を可能にする知識の自由な共有――の前提そのものをむしばむ恐れがある。その危険性を軽減しながら、AI の計り知れない可能性を実現するには、AI モデルの開発ライフサイクルのすべての段階を通して真のオープン性が必要である。
そして、例によって OSI によるオープンソース AI の定義策定の動きについて触れているが、記事の最後には David Gray Widder など真のオープンソース AIが可能か疑っている関係者が多いことが書かれている。まぁ、難しいよね。
ネタ元は Slashdot。