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それは「友愛」の誤訳から始まったのではないか

Spiegel さんの「mixi は結社的公共空間?」の本題でないところに反応。

で,気になったのは「公共性」と「友愛」というキーワード。そういえばどっかで博愛・友愛・同胞愛は基本的に同じものだと聞いたことがある。つまり「愛」の及ぶ範囲が有限であるということだ。神のごとき無限の愛など人は到底望むべくもない,と。

「基本的に同じもの」なわけはないでしょう(笑)。いや、その後に書いていることは分かる。これに関しては、フランス革命の標語の訳に問題の根源があるというのがワタシの説である。呉智英の「民主主義こそ疑え」から引用する。

 そもそも、この人たちが民主主義と共産主義を対立物のように思っているのが奇妙だ。民主主義の要件を簡単に言い表わせば、フランス革命時の「自由・平等・同胞愛」の標語になるだろう。このうちの同胞愛fraterniteは、日本語では意図的になのか、"博愛"と訳されているが、もちろん誤訳である。

呉智英は「歴史にこだわる」では「自由・平等・友愛(フラテルニテ)」と表記しているが、考えてみればここで「博愛」を要求すること自体おかしい、というか言葉のレベルが違う。個人的にはこれらの文章を読んで以来、「自由・平等・博愛」と無自覚に書いている人の文章は注意するようになった。

上に挙げた呉智英の文章は、いずれも『サルの正義』に収録されている。

サルの正義 (双葉文庫)

サルの正義 (双葉文庫)

仲俣暁生さんは、「自由、平等、友愛」と言われてますね。

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