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アカデミー賞の衰退だけではなく、我々は「映画の終焉」を見ているのではないか?

www.nytimes.com

ご存知の通り、今年のアカデミー賞は、どの作品が、誰がオスカーをとったというのでなく、「ウィル・スミスがクリス・ロックをビンタした」アカデミー賞としてしか記憶されないのが確定してしまいました。

この New York Times の記事はアカデミー賞発表前に公開されたもので、書いているロス・ドゥザット(Ross Douthat)は、映画でなく政治が専門の保守系コラムニスト。

授賞式のテレビ放送の視聴率が低迷し続けるアカデミー賞の衰退については、どこか的が外れたテコ入れとあわせて、番組が長すぎるだの、多様性が足らないだのいろいろ言われている。

ロス・ドゥザットは、真の芸術性を目指し、有名スター、鮮やかな映像や音楽を大きなスクリーンで鑑賞するために作られた、難解過ぎず、一方でアメコミの超大作映画化でもない、まじめな大人を対象とする映画が姿を消してしまっているからと考えているが、これもよく言われる意見だ。

確かに今年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた10作を見ると、その条件を満たしたものが多いのだけど(そうした意味で『ドライブ・マイ・カー』が入っているのが、ロス・ドゥザットは不服そうだ)、しかし、そうした映画を映画館に観に行く人がはっきり少なくなっている現実がある。ノミネート10作品のアメリカでの興行収入をすべて足しても、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の4分の1程度に過ぎないというのは厳しい。

つまり、ハリウッドが昔ながらの魔法をかけようとしても、大衆はそれをもはや求めていないようなのだ。

もちろんこの興行成績の偏りは、年輩の映画ファンを劇場から遠ざけるコロナ禍が影響しているのは間違いないが、これは単にアカデミー賞の衰退というだけでなく、我々は今「映画の終わり」を見ているのではないか、とロス・ドゥザットは書く。

これを書いているのが保守系コラムニストなのを指摘するまでもなく、この「映画の終わり」という言い回しは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(asin:4837958001asin:483795801X)を意識したものだが、もちろん映画が消滅してしまうという意味ではなく、アメリカの大衆芸術の中心にして、有名人を生み出す重要なエンジン、ポップカルチャーの聖堂たる大画面のエンターテイメントとしての映画が過去のものとなるということ。

かつて映画を滅ぼすと言われたテレビもホームビデオも、実は映画を根本的に脅かすものではなく、人材の供給源などとしてその延命にむしろ手を貸した。この記事では、テレビから映画に進出したスターの例としてブルース・ウィリスの名前が挙げられていて、ご存知の通り、その彼が先ごろ失語症のため俳優業からの引退を公表しているのも、なんというか符合めいたものを感じる。

そしてこの記事では、映画史上最高の年としての1999年について触れられているが、1990年代後半のティーンエイジャー(それはつまり、ロス・ドゥザット自身のことでもある)にとって映画(館)は、重要なイニシエーションの場だった。

その後の変化、グローバリゼーションによる文化的な特殊性を抑えたよりシンプルなステーリーテリング、インターネットやスマートフォンの影響の話はもはやお決まりと言ってよい。テクノロジーの進歩により可能になった特撮主導のブロックバスター映画は、先行作品以上にファンダム文化に力を与えたが、「西洋文化の全体的なティーンエイジャー化」ももたらした。

そして、以上の流れを踏まえ、ハリウッドがティーンエイジャーの好みや感性に合わせたスーパーヒーロー映画に依存する一方で、ストリーミングプラットフォームで配信される連続ドラマは、キャスティング、演出、宣伝の面で、もはやかつての典型的な映画と区別できなくなっている。そして、今やテレビドラマのコンテンツの多さは尋常ではない。そして、超越的、象徴的な人物としての映画スターというのも、時代遅れになってしまっている。

ロス・ドゥザットは、いくら膨大にテレビドラマが提供されようとも、小さなスクリーンで語られる物語は、かつての「映画」とは別ものと考えている。その根拠として、映像、音楽、音響編集をあわせた没入型体験としての映画のスケールが持つ力を放棄していること、連続テレビドラマは映画の凝縮性、完結性を放棄していることの二つを挙げている。

確かに『ザ・ソプラノズ』は映画では実現できないような人物造形や心理描写をしているが、『ゴッドファーザー』のほうがより完成度が高い作品であることにかわりはない、と著者は断じる。

では、そうした小さなスクリーンが大きなスクリーンより優勢で、スーパーヒーローの大作と連続テレビドラマに支配される世界で、映画ファンは何を求めるべきなのか?

そこでロス・ドゥザットは、修復(restoration)と保存(preservation)の二つを挙げている。ここでワタシは、「修復と保存って古い絵画の話かよ!」と内心突っ込んでしまった。修復といってもそれは『タイタニック』がアカデミー賞を独占し、著者がティーンエイジャーだった1998年を取り戻すことではなく、アメコミの超大作映画化でない大衆映画が、もう少し現実的で魅力的な世界を望むということだ。

希望的な要素として、地政学の変化、つまり中国で欧米の映画があまり歓迎されなくなり、ご存知の通りロシアは多くの民主主義国家に背を向ける脱グローバリズムの時代を根拠に挙げるところは政治コラムニストならではか。それにより全世界で10億ドルを稼ぐことを目指す映画だけでなく、もう少し小規模で大人向けの映画の復活に期待したいようだが、現実には『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に大方の興行収入をもっていかれ、『ウエスト・サイド・ストーリー』と『ナイトメア・アリー』がコケてしまった現実をみると、その道は簡単ではない

そこでロス・ドゥザットは、ある種の美的体験は自動的に維持、継承されるものではないのだから、優れた映画との出会いをリベラルアーツ教育の一環とする「保存」を映画を愛する人は考えなければならないと主張していて、古典芸能の話かよ、とワタシなど思ったが、著者もこれは「燃えている家に翼を足すようなものかもしれないが」と断っている。

「20世紀の映画は、21世紀の若者にとって過去への架け橋、映画を形作った古い芸術様式との接点になる」、「昔は当たり前のようにあった「愛」を教育するために、励ましと庇護が必要」とまで書かれると、うーむ、もはや映画はそんな言葉で語る存在なのか、とも思ってしまうのが正直なところ。

この文章を中心となる「映画の終わり」の話、具体的にはアメコミ原作のブロックバスター超大作とストリーミング配信サービスのテレビドラマの二極化についても、例えば宇野維正氏の文章やツイートを追っていれば既知の話なのだけど、ここまで古典芸能のごとく「修復と保存」が必要と一般紙で正面切って書かれるのも、遂にアカデミー賞でストリーミング配信作品が作品賞をとった2022年(といっても日本だけ、『Coda コーダ あいのうた』Apple TV+ で配信されていない……)の一つの視座なのだろう。

ネタ元は Slashdot

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