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ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』を恵贈いただいた

ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』をこのブログで取り上げた関係で(その1その2)、共訳者のお一人である北村紗衣さん(id:saebou)から恵贈いただいた。

本書を前にしてまず思ったのは、「分厚い……こんな分量の本を訳したいと思ったのか?」という自問であった。

ワタシは原書刊行時にブログで言及しており、その前後にハードカバーを取り寄せて読み、翻訳したいと思った。なぜか?

ゼロ年代の前半、ワタシは『Wiki Way』『ウェブログ・ハンドブック』、そして『デジタル音楽の行方』を訳しているが、ヘンリー・ジェンキンズの Convergence Culture に、ウェブツールについての二冊とエンタメ寄りの一冊をつなぎ、それをさらに発展させる方向性があると思ったからだ。

本書は、「メディア・コンヴァージェンス、参加型文化、そして集合的知性という三つの概念の関係性について検討する(p.24)」本だが、参加型文化といえば言うまでもなくブログや Wiki が当てはまるし、集合的知性は Wiki にとって重要なトピックである。そして、「モードの融合」を指す「コンバージェンス」と「情動経済学(p.121)」は、デジタル音楽の行方を考える上でもなじみやすい概念だった。

本書には「ウェブ2.0時代のファンフィクション」という文句も出てくるが(p.313)、自分が足を突っ込んでいた Web 2.0 周りの文化を踏まえたエンターテイメントメディアの変化、そしてかつては受動的だったのが能動的になった消費者を扱う本がとても魅力的に見えたのはお分かりいただけるだろう。

コンバージェンス文化にようこそ。ここは古いメディアと新しいメディアと新しいが衝突するところ。ここは草の根メディアと企業メディアが交差するところ。ここはメディアの制作者とメディアの消費者の持つ力が前もって予見できない形で影響し合うところだ。(p.24)

「訳者あとがき」における、「ポップカルチャーの不真面目な快楽から、市民生活を民主的に運営するという真面目な取り組みを生み出そうというジェンキンズのスピリットこそもっと早くに紹介されるべきだった(p.505)」という意味で本書はもっと早くに翻訳されるべきだったという嘆きにはワタシも同意するし、本書が現在も読まれるべき内容を持っていることも強調したい。

第1章の「『サバイバー』のネタバレ」、第2章の「『アメリカン・アイドル』を買うこと」といった章題を見ると、「不真面目な快楽」の面目躍如と言えるし、スティーブン・ジョンソン『ダメなものは、タメになる』にも通じていると今にして思ったりするが、本書が価値を保っているのは、第6章「民主主義のためのフォトショップ」、そしてあとがき「YouTube時代の政治を振り返る」があるからだ(ただし後者は、言及される動画をだいたい把握していることが前提になっており、今になって本だけ読んでもかなり厳しいので、リンク集はありがたい)。

実は、ワタシが15年前に原書に目を通したとき、最後の民主主義の話が出てくるのがよく分からなくて、つまり当時ワタシは本書の価値を分かっていなかった(ので、これを訳そうと本気で手を出さなくて正解だった)。

しかし、その真価を今になって辿るのは、苦さも伴う。第6章「民主主義のためのフォトショップ」で最初に引き合いに出されるのは、ジョージ・W・ブッシュが大統領として無能なのでクビにしようと訴える動画だが、その動画は人気テレビ番組『アプレンティス』を編集して作られたものだ。ここまで書けばお分かりだろうが、そこに登場するのは、ドナルド・トランプである。これが皮肉でなくてなんだろう。あと本書には、ジョゼフ・バイデンルドルフ・ジュリアーニのことを皮肉った話が引き合いに出されるところがあるのだが、まさか2021年にそれぞれこんなことになってるとはねぇ。

この章ではハワード・ディーン(とその参謀だったジョー・トリッピ)の名前が出てきて懐かしくなる。ディーンのインターネットを活用する選挙運動の手法はバラク・オバマに引き継がれたが、それから時を経て『グレート・ハック: SNS史上最悪のスキャンダル』『監視資本主義』で描かれるようにソーシャルメディアがハックされたことを我々は知っている(余談ながら、本書に FacebookTwitter の名前がソーシャルメディアの代表として併記されている箇所があったと思うが、執筆時期を考えると驚きである)。

またこの章を読んでいて、『デイリー・ショー』に代表される良質な政治風刺(またしても余談ながら、The Colbert Report が『ザ・コルベア・レポー』と正しく表記されている本を初めて見た)が若者に受け入れられたアメリカと、2ちゃんねる文化というか、朝日新聞的偽善への嫌悪と糾弾が何より盛んだった日本とのその後の差異についても考えてしまう。

良くも悪くも、これがコンヴァージェンス文化の時代における民主主義の姿である。多様性を促進し、民主主義を可能にするメカニズムとしての参加型文化の将来に関心があっても、現在の文化がこれらの目標に遠く及ばないことを無視していては世界に何の恩恵ももたらさない。(p.499)

このように著者は、「コンヴァージェンス文化の時代における民主主義」は「多様性を促進」すると当然のように書いているが、一方で本書に描かれているのは早期採用者(アーリーアダプター)であり、「本書に出てくる人たちは、この国においては、不釣り合いなほど白人で、男性で、中産階級で、大学教育を受けた者たちである。これらの人々は新しいメディア・テクノロジーにもっともアクセスできる人たちであり、こうした新しい知識文化に完全に参加するために必要なスキルを習得している。(p.57)」と当然のように書いているのも注意する必要がある(が、それで著者を批判するのはお門違いであることを先回りして書いておく)。

今になって本書を読んで思い当たることは政治の話だけではない。『マトリックス・リローデッド』以降がどんどん詰まらなく感じられたのは、「トランスメディアストーリーテリングとしての『マトリックス』現象」にワタシがまったく理解がなかったからだと本書を読んで今更ながら気づかされるが、今や「トランスメディアストーリーテリング」の手法は MCU などにも応用されている。

本書ならびに本書全体を通して心に留めておかなければならないのは、生産者と消費者の利益は同じではないということである。重なり合うこともあれば衝突することもある。あるところでは生産者の最良の味方であるコミュニティは、別の場面では彼らにとって最大の敵かもしれない。(p.113)

スター・ウォーズ』サーガとファンコミュニティ、そして「ウェブ2.0時代のファンフィクション」のせめぎ合いについては本書以降も紆余曲折があったが、権利がジョージ・ルーカスからディズニーに移り制作された新三部作の方向性や受容を巡り、ファンコミュニティの有害性があらわになったところは、その新三部作の価値のなさを考える上で避けて通れない「本書のその後」に違いない。もっとも本書においても著者は、ファンの参加が常に良い結果をもたらすとは書いていないのもやはり強調する必要があるだろう。

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