例によっての事情でなかなか観に行けなかったが、今月末のアカデミー賞発表後にまた客が戻ってくることが容易に予想できることと、近場のシネコンで仕事後に行ける時間帯に上映しているのを知ったのがあり、観に行った。
ほぼ3時間の上映時間ということで(たまたまこれを観た日に公開された『ザ・バットマン』もそうですな)、ゆっくりとしか時間が進まない映画で眠くなったらどうしようと危惧していたのだが、そんなことを心配する必要のまったくない、冗長であったり明らかな無駄なカットはなく3時間、じっくり映画を観させてもらったという満足感のある作品だった。
ワタシはシネフィルではないので、濱口竜介の映画は Netflix に入っていた『寝ても覚めても』(asin:B07MD8QVVY)しか観ておらず、こちらについては「2時間まったく緊張が解けることがないホラー映画の傑作」と評価している。
本作はどうかと言えば、「3時間まったく緊張が解けることがないホラー映画の傑作」だった。いや、マジで。
『寝ても覚めても』における東出昌大の役割を本作で担っているのは、雰囲気がサイコパスっぽい岡田将生である。彼と西島秀俊演じる主人公が車の後部座席で語り合う場面の岡田将生のカットなんて、完全にホラー映画の文法で撮られてましたよ。そして、その決定的な場面の後、主人公と運転手の2人がサンルーフを開けて煙草を吸う印象的な画が続くわけだが、あのときの2人の表情は完全にセックスの後の一服の表情ですよ。そして、それは単なるセックスではなくて、その直前の話を考えればネクロフィリアですよ! ……えーっと、これ以上続けると、いろんな人に刺されそうなので、ここまでとする。
本作については、ベンジャミン・クリッツァーさんが「いつも思うのだが、世のクリエイターは女の不倫に甘過ぎる」と吐き捨てているのを大分前に読んで、思わず爆笑してしまったのだけど、本作を観ると確かにそれを許容する方向に誘導されるのを感じて、これが監督の力量なのかと感服した。そうした意味で、本作の成功には、村上春樹の小説の映画化として奇跡的に「都合の良い」存在である西島秀俊を主役に据えたことが大きく貢献している。
しかし、上述の後部座席で語り合う場面の岡田将生の最後のお説教のごとき台詞にしろ、いろんな人がここぞとばかりに引用している「正しく傷つくべきだった」という最後の主人公の台詞にしろ、ここまで直接的な、スローガンのごとき言葉にして口にしないといけないのか? という疑問は確かにある。
本作について猿渡由紀が「この映画はアメリカ全土でうけているというより、アメリカの「映画業界人」にうけている」と指摘しているが、広島国際演劇祭におけるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の上演が一種の劇中劇になっているのもポイントではないか。そうした意味で本作には(映画のタイプは全然違うが)『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に近い感触もあったので、そうした意味でアカデミー賞は国際長編映画賞以外も有望に思えたりする。
しかし、『ワーニャ伯父さん』が発語なしで演じられるクライマックスが見事だったのに、そこで映画が終わらず、とってつけたような最後の場面は、結局、運転手が主人公の車を一人で運転し、そこに犬がいる画でありさえすれば良かったはずなのに、はーい、ここは日本ではありませんよー、そして今はコロナ禍ですよー、と盛り込んでくるところにあざとい目くばせを感じた。