[2023年8月22日追記]:松尾研究室の投稿にあるように、問題のプレスリリースは修正がなされ、「オープンソース」の記述は削除されている。
東京大学松尾研究室が大規模言語モデル(LLM)を公開というニュースが先週話題となったが、「商用利用不可のオープンソース」という記述に「商業利用できない」のであれば、オープンソースではないという突っ込みがすかさずあがり、佐渡秀治さんも「座視することが難しい」と意見表明している。
ワタシもこれらの意見に賛成である(事実そうした声を受けて、ITmedia などは記事の記述を改めている)。ただ、この話題にすっぽり重なる文章を少し前に見て、居心地が悪い思いをしていたので、それを紹介しておきたい。
「オープンソースのライセンス戦争は終わった」というタイトルだが、どういう文章なのか? リード文を訳してみる。
オープンソースのランボーたちも戦いを止めて、開発者はライセンスの純粋さよりも、ソフトウェアのアクセスや使いやすさを重視することに同意すべきときだ。
これを書いている Matt Asay は、かつて Canonical の COO で、現在は MongoDB の DevRel をやっている人で、オープンソース界隈のベテランと言ってよい。
その彼が、Meta が公開した LLM の Llama 2 を受けて、Meta がこれを「オープンソース」と宣言しており、しかし、そのライセンスが OSI が定める「オープンソースの定義」に合致していないのを認めた上で、それにこだわるのはあんまり意味ないんじゃないと書いている。
上で引用したリード文だけでなく、本文にも Rambo(s) という言葉が何度か出てくる。これはもちろんシルベスター・スタローンが映画で演じるベトナム帰還兵ジョン・ランボーを指しているが、これを日本のネットミームにあてはめるなら、かなり古いが「モヒカン族」あたりになるだろうか。つまりは、用語の厳密な定義にこだわってマサカリを投げるのは止めようよ、という感じか。
Matt Asay は、およそ10年前に言われた「若者のコピーレフト離れ」からの流れ、そして自身の AWS 時代(つまり、クラウドですね)の経験などを説きながら、もう「オープンソース」は重要でない、つまり、ライセンスよりもソフトウェアへのアクセスや利用しやすさのほうがずっと重要であり、それは今では GitHub が担保していると主張している。
LLM の公開を巡って、日米で似た感じの議論が勃発したことになるが、これはおそらく偶然ではない。「Wikipediaをwikiって略すな」に敗北し、「クリプト」がデジタル資産に乗っ取られたように「オープンソース」という言葉も変質してしまうのだろうか。
ワタシの立場は上に書いた通りで、オープンソースの定義に合致しないライセンスのものを「オープンソース」と呼ぶべきではないと考える。Matt Asay が書くように、もう「オープンソース」は重要でないというなら、結構、ならば LLM 時代のオープン性の概念のための言葉を発明し、それを使えばよかろうとしか思わない。
しかし、実は既に「なんか言葉遣いにネチネチうるさくこだわってるよ」みたいな受け取りのほうが多数派だったりするのだろうか?
ネタ元は Slashdot。