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シェイン・マガウアンが亡くなる30年以上前、かなりその近くまで来ていた頃の話

nme-jp.com

旧聞に属するが、昨年ザ・ポーグスのシェイン・マガウアンが亡くなった。現代英国でもっとも愛されるクリスマスソング「ニューヨークの夢(Fairytale of New York)」をはじめとする代表曲で知られるが、訃報を受けてアイルランドの大統領が追悼の声明を発表したし、国葬を思わせる葬儀の映像を見て、また後にボビー・ギレスピーニック・ケイヴの真摯な追悼文を読み、いかに彼が愛されていたかをあらためて思い知った。

個人的には、亡くなる少し前に彼の退院のニュース記事に付された画像を見て、これは長くないと覚悟していたので驚きではなかったが、それでも悲しいことに違いない。

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これも旧聞に属するが、「町山智浩の映画特電」ポッドキャストで『教養としてのパンク・ロック』(asin:4334101534)の著者川崎大助のゲスト回を聞いていて、彼が1988年にポーグスのインタビューのアシスタントをやったとき、シェインはワイングラスを持つ手が震え、インタビュー中に涎たらして寝てしまうズタボロの状態で、「もうこの人は絶対長くない。数年以内に死ぬんじゃないか」と思った話を語っていた。

そのインタビュー記事を読んだ記憶があったので、1989年から2004年まで読者だった rockin' on のバックナンバーを引っ張り出す「ロック問はず語り」をやろうと決めた。問題のインタビュー記事を探したのだが、手元の(雑誌から気になったページを破って持ってきた原始的)アーカイブには、残念ながらそれが掲載された1990年5月号の該当記事のページがなかった。

そこで、1992年1月号(表紙はエリック・クラプトン)に掲載された NME の翻訳記事「ポーグス蘇生への遠い道 ジョー・ストラマー加入の新生ポーグス取材現場に突如現れたボロボロのシェーン」を取り上げたいと思う。これを読めば、当時のポーグス並びにシェイン・マガウアンがどういう状態だったか分かると思う。

記事は、書き出しから不穏である。

 シェーンはそもそもはと言えばこの取材場所にいるはずではなかった――大体、シェーンの穴を一時的に埋めるべく、既にザ・クラッシュのあのジョー・ストラマーが雇われているのだ。この日の二週間前、ポーグスがメディアにばらまいたニュース・レターによればバンドは「本人が健康を著しく害しているため」シェーン・マクゴワンと訣別したということだった。先の日本公演で予定された四回のギグのうち三回もシェーンが姿を現さなかった時に、バンドは訣別を決めたのだという。
 そういう経緯があっただけに、北ロンドンにあるこのリハーサル・スタジオにシェーンが突然姿を現した時、メンバー全員がひどくあわててしまったのも無理はない。(中略)メンバーはうんざりした様子でシェーンを見上げると順々にスタジオを出ていった。

ポーグスの1990年のアルバム『ヘルズ・ディッチ』は、上の引用で名前が出るジョー・ストラマーがプロデュースしているが、その後のツアーでまともに役目を果たさないシェイン・マガウアンが解雇され、バンドはストラマーに助けを求めた。しかし、そのストラマーをフロントマンにした全米ツアーに向けたリハーサルの場にシェインが予告なしに現れてしまう。いきなり修羅場である。

シェインはスタジオで一人ギターを弾き出すも、「とにかく、ひどい音でとても聴いていられるものではない」と記者は書いている。言葉もおぼつかない。バンドがスタジオに戻ってきた頃には、シェインはバーに移るのだが、元々はそこでバンドのインタビューをする予定だったのも変更を余儀なくされる。

当時、ポーグスはひどい状態にあった。

 とにかく、この一年は不幸続きでポーグスの面々全員にとって辛い絶望的な一年だった。バンドのメンバーの恋人が痛ましい死を遂げたということもあったし、今また友達のクルーが一人、こときれようとしている。バンド関係者でこの先一生車椅子生活を送らされることになった者もいる。

その不幸の極めつけが、シェインの健康状態の悪化だったわけだ。腕が動かずギターが弾けなくなる症状がまず出たようだが、長年の飲酒やドラッグ使用が災いしたのは容易に想像できる。

 それにしてもシェーンの問題は一体どうなるのか。もう決定的にたもとを分けてしまったのだろうか。それともシェーンに真剣な養生を促す一つのショック療法なのか、バンドとシェーンの間でこの先、妥協の余地はあるのだろうか。バンドのメンバーは明らかに口が重い。しかし今日のシェーンの行状を目にして語らざるをえなくなってしまったのも確かだ。

メンバーとしては、この状態のシェインとはとてもではないがツアーはできないが、この先どうなるか見えない状態だった。そこで助っ人のストラマーが、60年代のビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンの関係と似た構図、つまりバンドはツアーをやり、シェインが楽曲で貢献するといった形がありうるのではと希望的意見を述べるのだが、ズタボロ状態のシェインを見た後では、記者もそれを鵜呑みにはできない。

インタビューは、ジョー・ストラマーとポーグスの関係(1976年の10月に行われたクラッシュの有名なギグで、客席のシェインは後にモデッツのメンバーになるジェーン(・クロフォード)とすさまじいい取っ組み合いになり、しまいにはお互いの体をガラスの破片で傷つけ合い、シェインの血まみれの陶酔した顔は、夕刊紙や音楽紙のニュース欄を飾ったとな)、このインタビュー当時、クラッシュの「ステイ・オア・ゴー」がリーバイスのコマーシャルに使われて全英一位になっていた件、そしてお決まりのクラッシュ再結成の質問が続く(この時のオファーは相当な金額だったため、ジョーも気持ちがぐらついたことを、ポーグスのメンバーとして来日した時に行われた岩見吉朗によるインタビューで正直に認めている)。

そうするうちに、インタビュー現場は再び修羅場と化す。

 そこで会話は途切れてしまった。というのはシェーンが部屋に入ってきて皆がぎこちなくなってしまったからだ。シェーンの口はよく回らないが、目の表情ははっきりしている。
 シェーンが言うことでは、スパイダーから話があると人から聞きつけて来たんだということだった。スパイダーはそんなことは何も知らないと答えるが、だからと言って会いたくないわけじゃないんだぜと説明する。するとシェーンは全員を見回す。
「そんじゃあよぉ、おれぁ消えるよぉ」とシェーン。
「すぐいなくなっからよ」
 そう言ってドアが閉まった。皆はへたりこむように息をつく。そこで私達は何とかして小声で会話を続けようとする。私のジャーナリストとしての本能は激しく感応している。これはすさまじい記事になるかもしれないと思いながらも、でも自分の中の何かがすごく痛がっている。そこへ数分して、シェーンがまた入ってきてしまった。どうも皆と話したいようなのだ。一方、私達はもう震えが止まらなくなってしまったし、気分も尋常なものではない。この時点で取材は終わった。

この記事を読んだ当時、ピンク・フロイドが『Wish You Were Here』のレコーディング時に、シド・バレットがふらりとスタジオにあらわれ、その変わり果てた姿にメンバーがひどくショックを受けた逸話をワタシは連想したものである。

川崎大助の「もうこの人は絶対長くない。数年以内に死ぬんじゃないか」という述懐が決して誇張ではないのがお分かりになると思う。

しかし、実際はそうならなかった。紆余曲折あったが、シェインはポーグスに復帰したし、近年ではジュリアン・テンプルによる『シェイン 世界が愛する厄介者のうた』という伝記映画も作られた。往時を知る者としては、よくぞこの状態から踏みとどまり、30年以上も生きてくれた、というのが正直なところだったりする。

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