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オッペンハイマー

ようやく日本でも観れたわけだが、アカデミー賞7部門を受賞した本作が、下手すれば日本で公開されなかったかもしれないのはとんでもない話である。

クリストファー・ノーランの映画は IMAX というのがもはや周知されており、ワタシの住む田舎でも IMAX シアターは急速に座席が埋まっていた。難解という話を小耳に挟んでいたので、まずは初回は通常のスクリーンで鑑賞し、面白ければ2回目を少しは客の波が引いた IMAX で観ようと考えた。

本作も上映時間が3時間だが、シネコンに向かう前に大福を食べるという準備のおかげで問題なく乗り切れた。今後、2時間半超の映画を観る際には、餅か大福の摂取を心がけたい。

以下、遠慮なくストーリーに触れるので、未見の方はご注意ください。

本作は、1954年のロバート・オッペンハイマー聴聞会、そして1959年のルイス・ストローズの公聴会が交互に描かれ、そしてそれぞれでオッペンハイマー並びにストローズの回想が入るといういささか入り組んだ構成になっている。それを分かっていないと、時間軸としてもっとも後のストローズの公聴会が白黒で描かれるのに混乱するかもしれない。聴聞について作中、「これは法廷ではない」と何度も繰り返されるが、本作は一種の法廷劇でもある。

また、登場人物にキャプションなんてつかないので、うぃきっぺレベルでもオッペンハイマーをはじめとする主要登場人物について知っておいたほうが……と書いていて、芦田央さんの「映画『オッペンハイマー』の登場人物・歴史背景ガイド」を知った。少なくともこれを読んでおきましょう。

登場人物でいえば、ジョン・フォン・ノイマンが登場しないのが気になったが、個人的にはマシュー・モディーンがヴァネヴァー・ブッシュを演じているのにおっとなった。しかし、ボンゴを叩いている人物が出てくるだけで、それが誰か分かるというのもすごいよな(笑)。

少し前にアン・ハサウェイがクリストファー・ノーラン監督にキャリアを救われた話を語っていたが、ノーランはメールアドレスすら持ってない人なので、ネットに毒されることなくそうした「空気」を読まないところがある。少し前まで80年代に活躍したがその後停滞してるベテラン俳優を律儀に起用していた印象があるが(マシュー・モディーンもその一人)、本作におけるアーネスト・ローレンス役のジョシュ・ハートネットの起用もそうした意味で意外なキャスティングのひとつかもしれない。

あとベニー・サフディが、『リコリス・ピザ』に続き、「水爆の父」エドワード・テラーを好演している(そのテラーと最後に対峙するエミリー・ブラント演じるキティのすごい表情!)。

本作を観て、こんなことを思うのはワタシだけだと思うが、『ボーはおそれている』を連想してしまった。

なんだそれと思われるだろうが、この二作は意図せずいくつも共通点がある。まず3時間の上映時間、いずれもユダヤ人の受難の物語であること、そして何より、いずれも後半になって一種の陰謀劇になるところ。もちろん両者は映画としての質がまったく違うのだけど、ワタシがこれを連想したのは、本作の音響にもある。

最初の鑑賞を通常のスクリーンにしたのは、原子爆弾の場面をのぞけば、IMAX で観る必然性はそこまでなかろうとたかを括っていたところが正直ある。ところが、本作の音響はすさまじい。冒頭から音響や映像の効果がビシバシ入り、やはり、IMAX がふさわしいと思った次第。しかも、その音響効果がショックの役割を果たしている。それに加え、本作の時間軸を飛びまくる構成とその中で常に主人公が少し困惑しているように見えるところに少し『スローターハウス5』味があったこと、そして、オッペンハイマー聴聞会ではっきりホラーの文体で撮られている場面があり、そうした映画を想起したのかもしれない。

本作の日本公開がここまで遅れたのは、言うまでもないが、本作の主人公が「原爆の父」として知られる人物だからだ。ワタシ自身は、母親と父方の祖母が被爆者であり、伯父(父親の兄)が原爆で亡くなっている。ここまでは以前も書いたことがある。しかし、数年前に伯母(母親の姉)から、実は父親も被爆者だったのを教えられ、仰天したものである。その父親は、自身も被爆者なのに認定を受けてないことについて、生前一切子供らに語ることはなかった。

両親とも80代で他界しており、いずれも被爆の後遺症はほぼなかったと推測される。それでもワタシ自身、原爆については、とてもここで簡単に書ききれないくらいにはいろいろ思うところがある。本作に広島や長崎の描写がないことは既に報道されていたが、これについては朝長万左男氏の見解に近いと書いておいてよいだろう。しかし、クリストファー・ノーランの実写撮影のリアリティへの執着を知るにつけ、本作で象徴的に描かれる原爆の被害描写の浅さに、そこに何ら力点が置かれてないのが明確に伝わりもした(これはオッペンハイマーの想像力の限界を表現したものかもしれないが)。

本作を観れば、ユダヤ系である主人公が、ナチスだけには先を越されてはならぬと原爆の開発に突き進むのは理解できる(ように観客は誘導される)。しかし、そのドイツが降伏した後は、米国の力の誇示のためにとにかく原爆を落とすことが目的化し、日本がその対象になるのを誰も止めることができない。キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーは寡黙な人物として描かれているので、その内心について観客に想像の余地があるが、彼も日本への投下に加担していることが描かれる。そして、本作で語られるナラティブは、従来からアメリカで語られてきた主張から一歩も出るところはない。

マンハッタン計画より前の共産党や労働運動の関わりなど、オッペンハイマーは脇の甘い人物であり、腹立たしいような扇動的なことも口走ってしまう。それが終戦から10年近く経ち、聴聞会で責め立てられるのにつながるわけだが、ここでオッペンハイマーを悪辣に詰問するR・ロッブの問い、いつからオッペンハイマーは水爆に反対するようになったか、核兵器の開発についての心変わりがいつどのように起きたのかといったことは、(その聴聞会自体がルイス・ストローズによるオッペンハイマーを失墜させる陰謀であることを承知したうえで)本作におけるオッペンハイマーの言動のちぐはぐさと彼の責任を考えるうえで、実は重要なことなのである。

いや、そんなのは、物事の理解の深まりや状況の変化とともに変わるのは当然じゃないか、というのはもちろんワタシにも分かる。が、本作ではオッペンハイマーの天才性というか揺るぎのなさも描かれている。本作の主人公はオッペンハイマー、そしてルイス・ストローズなのだが、オッペンハイマーの回想においてストローズはまったく重要人物ではない。鼻にもかけていない。それはストローズの回想でも描かれており、その両者の回想が映画の後半で重なるところにストーリー理解の妙があるわけだが、本作で描かれる天才の倨傲とそれを追い落とす「卑しい靴売り」の嫉妬心、恨み心はオッペンハイマーとストローズの二人だけの問題ではない。

本作前半に描かれる何もないロスアラモスに急ピッチで科学者(一家)の街が作られる(一方で家にキッチンがなく、あっさりと「だったら作ればいい」と言い放たれる無茶苦茶さ加減)マンハッタン計画の興奮、ナチスドイツ降伏後に原爆開発の最終段階を迎え、危惧する声が増えながらもトリニティ実験で強制的にその偉大な破壊力を目の当たりにする恍惚、そして戦後になってから成果のしっぺ返しをオッペンハイマーがくらう聴聞会とともにストローズの陰謀劇が明らかになるわけだが、うまいと思ったのは、オッペンハイマーの成功と没落については、少なくともこの映画を観ようと思う人なら大枠知っているだろう。しかし、ストローズについてはアメリカ人観客の多くも事前知識はあまりないはずで、彼の公聴会が果たしてどうなるのかというスリルが本作の最後半に残される。

しかし、そこまでいかにもチョイ役っぽい、しかも二度までも主人公に邪険に扱われているラミ・マレック(演じるヒル)が一気にひっくり返すストーリーテリングのうまさに素直に唸らされた。それでも、ここまでで観客は、オッペンハイマーが主導したマンハッタン計画の興奮、そしてその後のしっぺ返しに十分な居心地の悪さを確かに覚えている。それを強く再確認させるアインシュタインオッペンハイマーの会話の中身が分かるエンディングも見事だった。

というわけで、日本人であるワタシから見れば本作にある種の空虚さを覚えるのは仕方ないのだが、映画としてまぎれもなく傑作なので、多くの人に観てほしい。ワタシも「追いオッペン」を今週末に IMAX シアターでできればと考えている。

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