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ルース・エドガー

昔、ワタシは映画館を女性を誘って行く場所だとなんとなく思い込んでいて、なので映画館に行く機会は当然のように多くなかった。2008年くらいだったと思うが、そんなわけないじゃん、という当たり前のことに突然気づき、また当時仕事がひどく忙しくて頭にきて、意地で金曜夜に車を飛ばしてシネコンに一人でレイトショーを観に行くようになった。

それからの10年あまり、だいたい年20本台映画を映画館で観ている。平均すれば月1、2本くらいで大したレベルではないのだけど、それでもとにかくコンスタントに映画館に足を運んだわけだ。

しかし、ご存知の通りの事情で、長らく映画館に行けなかった。最後が2月末に観た『ミッドサマー』だから、もう3か月以上映画館に足を運ばなかったことになる。この10年あまり、体調を崩したり、仕事が忙しかったりで月単位で間が空くことはあったが、3か月以上というのは一度もなかった。

緊急事態宣言明けでワタシの住んでるところの近くにあるシネコンも営業を再開していたが、旧作ばかりの上映だったので行く気になれなかった。それがこの週末あたりから新作も入ってきたので、久方ぶりに映画館に出向いた。未だ映画館は金曜夜にレイトショーを観に行くというスタイルがワタシの基本なのだけど、さすがに今はそれは望めない。

元々はジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』を考えていたのだが、評判を小耳に挟んだ『ルース・エドガー』を(客としての)復帰第一作とさせてもらった。

2019年に本国アメリカで公開された本作が、ミネアポリスアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドが警察官に首を膝で押さえつけられ死亡した事件を発端とした Black Lives Matter 抗議活動の盛り上がりとそれに伴う騒動が報じられるこの2020年6月の日本で公開されたのは偶然なのだが、期せずして時宜にかなった作品になっている。

ただ本作の主人公のルース・エドガーは、窃盗や薬物所持で逮捕歴があり、強盗容疑で起訴されたこともあったジョージ・フロイドとは真逆とも言える、弁舌に優れ、学業もスポーツもこなし、周りの信望も厚い出木杉君な優等生の高校生だ。

その彼に疑惑の影を、やはりアフリカ系アメリカ人である世界史の教師ハリエットが見出すところから本作は動き出すのだが、ケルヴィン・ハリソン・Jr のイヤミのない優等生である主人公の演技が醸し出す不穏さが巧みで、観客も彼は本当はどうなんだという緊張が途切れない。本作はとにかくスリラーとして優れている。

彼の周りで、主人公への疑いをぬぐえない世界史の教師と問題を抱えるその従姉妹、アフリカの紛争地帯から幼い主人公を養子に迎えこれまで愛情を注いできた夫婦のそれぞれの問題も描かれていて、彼らが人間として抱える後ろ暗さが、単なる優等生でもない、だからといって仮面で周りをだます悪人でもない主人公の造形とともに物語に厚みを加えている。

なんといってもナオミ・ワッツ演じる母親と対する場面で主人公が訴える、期待の重圧に窒息しそうなこと(そういえば、エリック・ガーナーもジョージ・フロイドも、「息ができない」と訴えて死んでいった)、自分は聖人でなければ怪物扱いなのかというフラストレーション、そして最後に対峙するオクタヴィア・スペンサーが演じるハリエットと主人公の議論、特に自分もお前も同じ箱に入れられており、その箱に光が差し込むことはまれで、光がまったく届かない人だっているというハリエットの言葉は(劇中黒人らしくない名前と言われる主人公のルースという名前は「光」という意味の皮肉)、まさに今問題となっている軋みと黒人が日常的に抱える圧力を理解する助けになるだろう。

さて、アメリカでの抗議デモにおいて、3人の黒人男性のやりとりが話題になったが、この3人の男性の年齢は45歳、31歳、16歳で、年長者はジョージ・フロイドと同年代、そして若年者は本作の主人公と同年代にあたる。というか、ジョージ・フロイドはワタシと同い年で、上で彼の前科について触れたが、これは彼を貶めたいのではなく、例えばワタシにしても生まれる環境が違えば、今の年齢になるまでにそれがつく可能性があるということだ。そして、本作の主人公くらいの歳の子供がワタシにいてもおかしくないのである。

本作のエンディングの主人公の表情を見る限り、彼を窒息させる重圧が続くことが分かり、そのモヤモヤを観客も共有することになるのだけど、とにかくスリリングな秀作であった。

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