これは良いエントリですな。梅田さんの以前の『永久保存版 羽生vs佐藤全局集』についてのエントリにおける「将棋を鑑賞する」という概念の話も、将棋となれば指すことばかり考えてしまう当方は唸ったが、それを具体化した提案になっている。
梅田さんは金子金五郎が将棋誌に書いた観戦記を例に出しているが、新聞の観戦記も昔(少なくとも戦前戦後の頃)は今よりずっとスペースが大きかった。名人戦ともなれば、それを当時の有名作家が執筆していたわけである(坂口安吾のように将棋を指せない人が書く対局者の心理を洞察した観戦記もあった)。
あと金子金五郎の観戦記の素晴らしさは梅田さんや当方のような古くからの将棋ファンなら自明だが、若い将棋ファンには伝わらないだろう。河口俊彦の『将棋界 奇々快々』(asin:4140840412)からの孫引きであるが、エントリの補足の意味で一つ引用しておこう。
世間は新しいものを価値として要求する。百番指したといわれる大山、升田戦が棋技としていかに至宝のごとき内容を持つものであっても、その人としての限界を越えることは出来ない。そこで世間はちがった"人"を要求し、その限界を破ろうとする。これが歴史とか生命とかいうものの命令なのだろう。加藤一二三君はこの要求に応えねばならない位置に押し出されてしまったのである。追われる大山名人も辛いだろうが、ちがった意味での重圧感を加藤君は感じているにちがいないと想像していた。
これは昭和35年、神武以来の天才と言われた加藤一二三が初挑戦した名人戦の第一局の観戦記である。
将棋界に次の真の天才があらわれたとき、誰かがこの金子金五郎のような文章で、その前途を祝福できればなと思う。