2023年11月に入院の報があった後、確か翌年の2月に予定されていた出演イベントが即座にキャンセルされたとき、これは彼が帰ってくることはないのではと思ったのを覚えている。
以降、彼の病状についての情報は一切漏れてこず、それが事態の深刻さを伝えていると解釈した。リハビリに取り組んでいたとのことだが、文章を書いたり談話を出せるような状態ではなかったのだろう。Andy さんも書かれるように、ワーカホリックだった渋谷陽一にとって、最期の闘病の日々はとても辛く苦しいものだったことが想像され、胸が痛む。
これはもう彼の復帰はなかろうと密かに覚悟してから、ワタシはこのブログで彼の文章の紹介を断続的に行ってきた。
- 陽一の空手いきあたりばったり――渋谷陽一が空手をやっていた頃
- 渋谷陽一の架空インタビューと再結成しないバンドについて
- 産業ロックについて語るときに渋谷陽一の語ること
- 渋谷陽一は16時間ものラジオ生放送中に40歳の誕生日を迎えていた
- 渋谷陽一「僕は売れるポップ・ミュージックが大好きだ」再読
- 30年前に渋谷陽一はビーイングについてどう評していたか
- 追悼ブライアン・ウィルソン――渋谷陽一が語る「いちばん好きなビーチ・ボーイズのビデオ・クリップ」
これはかつて全面的に影響を受けた彼に対するワタシなりの落とし前のつもりだったが、当たり前だがまったく足りない(なお、それ以前にも坂本龍一や山下達郎の彼によるインタビューを取り上げている)。
宇野維正も書くように、渋谷陽一は「ラジオDJ、ライター、編集者、経営者、フェスプロデューサーという5つの側面を合わせて考えないと全体像が見えてこない」ということなのだろう。
ワタシが雑誌『rockin'on』の読者だったのは1989年から2004年まで、という話は何度も書いているが、それは(ほぼ)毎号買っていたのがそれくらいということで、以降も2010年くらいまではたまに買っていた。2010年以降のこの15年ばかりは、数年に一度買うくらいである。
ワタシが買い始めた時点で彼は『rockin'on』の編集長からは降りていたので、ワタシが知る『rockin'on』は、橘川幸夫『ロッキング・オンの時代』ではなく、増井修『ロッキング・オン天国』の時代が主だったことになる(2004年まで読者だったといっても、ゼロ年代は正直惰性で買っていた自覚がある)。
ラジオ DJ としての渋谷陽一に関して、「サウンドストリート」を挙げる人が多いが、1973年生まれのワタシが彼のラジオ番組を聞き始めたのは「FMホットライン」からになる。そして「ワールドロックナウ」だが、これが四半世紀以上続いたのだからすごい話だ。雑誌を買わなくなった時期あたりか、「ワールドロックナウ」も一度聞かなくなったが、その後、またリスナーに戻った。
渋谷陽一の最後の出演回でローリング・ストーンズの新譜『Hackney Diamonds』を紹介して、このアルバムに10点満点で4.5点をつけたピッチフォークに怒っていて、お元気ですなと思ったところでの入院の報に虚を突かれたものである。
音楽評論家としての渋谷陽一には毀誉褒貶あるが、彼のロック観が80年代後半から(兄の影響を離れて)自発的に洋楽を聴くようになったワタシの規範だったのは確か。今となっては窮屈に思えるが、それは後になって分かることだ。
速水健朗が「【追悼】批評家として、メディア起業家として。2つの渋谷陽一について。」において(速水さんがロッキング・オン社の入社試験を受けて落ちていたのは知らなかったな!)、「気に食わないものを(正しくではないが)気に食わないと言える人」と渋谷陽一を評していたが、ワタシ自身、書き手としての彼のそういう断定的、戦闘的なスタイルにも影響を受けたことも認めざるをえない。
これは良いことよりも悪いことのほうが明らかに多かったと思う。この10年ばかり、ワタシがネットで攻撃的なやりとりはほぼやらなくなったのも、その自覚があるからである。
そういえばこれは速水さんも言っていたが、彼の雑誌における激しい筆致と、ラジオ DJ として見せる顔は明確に違っていた。ワタシも近年、彼がラジオで普通に紹介していたロジャー・ウォーターズによる『狂気』再演アルバムのことを、トークライブでボロクソにけなしているのを知り、そのあたり切り分けているのだなと改めて思ったものだ。思えば、「サウンドストリート」時代やっていた「著作権料よこせリクエスト大会」は90年代以降まったくやらなかったわけで、当然ながら彼にも変化はあった。
ワタシのネットにおける交友関係でロッキング・オンについて肯定的な人はほぼ皆無で、経営者としての渋谷陽一についても(名前は出さないが)ある方から辛辣な評言を何度か聞かされたものだ。増井修が書くところの「冷酷無情なサディストとしての側面」とは、そのあたりを指しているのかもしれない。
さて、渋谷陽一の文章やインタビューの紹介だが、彼が亡くなるまでは続けようと思っていた。ただ、先週彼の追悼文をいくつも読んでいて、そうそう、あの文章もあった、あのインタビューも面白かった、というものがいくつも浮かび、実家クラウドに掲載誌が残ってさえいれば、これからそうしたものの紹介をやっていきたい。それがワタシなりの弔いである。
それとは別に、もう一人、ロッキング・オン関係者の「不在」について近々書くかもしれない。