以下、作品内容に明確に触れるので、未見の方はご注意ください。
思えば、今年はワタシの故郷である長崎が舞台となった映画が多かった印象がある。ワタシが観ただけでも、本作に加えて『夏の砂の上』、あと『国宝』も長崎(の「花月」)から始まったっけ。
石川慶監督の作品は『ある男』に続いての劇場鑑賞になる。彼の映画なら、舞台が何であろうと映画館で観る候補になったはずだが、本作はなんといってもカズオ・イシグロ原作というのもある。
その原作は、今年早川書房のセール時に Kindle 版を購入したが、それからまもなく新装版(asin:4151201173)が出て、気勢が削がれて手をつけてないので未読である。いかんなぁ。
でも、そのおかげでというべきか、本作にはかなり驚かされた。こんな映画とは思ってなかった。
カズオ・イシグロといえば「信頼できない語り手」でおなじみだが、それがこんな形で映像化されるとは。
本作が描くのは1950年代はじめの長崎、そしてその30年後である1980年代はじめのイギリスである。長崎はもちろん、イギリスのほうも40年以上前で、かなり過去になる。
なので、今の我々から見れば、長崎パート、イギリスパート、それぞれに時代を感じるところがあるわけだ。それは例えば、長崎パートにおける露骨な被爆者差別であったり、イギリスパートで吉田羊の口からさらっと語られる、当時まだ残っていた日本人に対する英国人の憎悪であったり、確かに意味があるのだけど、特に長崎パートについては、登場人物の台詞、感情の表出のあり様にどこか白々しさすら感じてしまっていた。しかし、それが最後に覆される。
ワタシの両親が十代だった時代の故郷が舞台のひとつである文芸映画を観に行ったつもりが『ファイト・クラブ』なのに衝撃を受けた、みたいな。何度か主人公が目撃する黒づくめの女性の正体(?)が分かるところなど、ほとんど『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』の「首折れ女」だった。
うーん、こうして他の作品の名前を出すと軽薄な感じがしてしまうが、小手先のトリックではなく、紛れもなく戦争体験、被爆体験のトラウマを乗り越えるための心の働きの表現なのですね。
今年観た映画では『ブルータリスト』級のショックがあった。
演者では、広瀬すずと二階堂ふみが何より素晴らしい。そして、三浦友和演じる主人公の義父も、まさにカズオ・イシグロ的な登場人物だった。
この映画は New Order の "Ceremony" で始まり、終わる。これが意外なことに本作にしっくりきている。そうした映画が悪いわけはないのである。