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ジョーカー

本作はアメコミ映画では異例なことにヴェネツィアのような国際映画祭で最高賞(金獅子賞)を受賞し、一般公開とともにかなりセンセーショナルな語られ方をしている。また異例に思える日米同時公開が実現し、しかもポスターなどを観ても宣伝全般作品を歪めるものになっておらず、なおかつそれで日本でヒットしているのは喜ばしいことである。

映画は大抵金曜夜にレイトショーで観るのだが、本作は個人的な都合で(同日公開だった『ジョン・ウィック:パラベラム』同様)それがかなわず、土曜昼の映画館、しかも両脇カップルに固められるという個人的にはもっとも避けたいセッティングでの鑑賞になってしまった。上映後、両隣のいずれのカップルも無言だったのだが、期待したものと違ったんでしょうか(笑)。

ワタシとしては、観たいものが観れたという意味で満足だったが、かなり危険な映画という批判も分からんでもない。でも、ワタシは危ういものこそ映画館で観たいのだよ。それこそ本作を語る際に引き合いに出される『タクシードライバー』がそうであるように。余談ながら、同じく引き合いに出される『キング・オブ・コメディ』は、兄に連れられて映画館で初めて観たマーティン・スコセッシの映画だったりする(もっとも当時10歳くらいだったワタシが作品を十全に理解できたとは言わんけどね)。

フィリップ・シーモア・ホフマン亡き後、その存在だけで映画に格調を加えられる稀有な存在であるホアキン・フェニックスだが、『ダークナイト』ヒース・レジャーが半ば命を賭して演じてしまったジョーカーを、その後に正面切ってやれる人間というと彼しか浮かばない。そして、それを彼はやり遂げた。

そのホアキン・フェニックスと組むのが『ハングオーバー』シリーズの監督と知ってのけぞったが、「君たちが落ち着くまで僕はほかの映画を作らせてもらうよ」という感覚はワタシも正直理解できる。

もっとも『ハングオーバー』はワタシも好きだが、あのシリーズは近年の映画なのに独特の雑さと無神経さがあって、それを本作の主人公アーサーの描写にも微妙に感じた。本作を観て、「この主人公は自分だ!」とアイデンティファイしてる人を見かける。気持ちは分からんでもないけど、気になるところはある。例えば、アーサーは小人症の道化師を「君は優してしてくれたから」と殺さない……けど、他の道化師が彼を嘲笑してたとき、一緒になってしっかり笑っていて、明らかにアーサーも彼を見下しているのが分かる。アーサーがコメディの観劇場面で見事に笑うポイントが他の客とズレていて、「この人コメディアンとしてダメっぽい……」とこの映画の観客に丸わかりになる場面があるが、アーサーの小人症の道化師への嘲笑の同調と、彼の自身の上記のズレとの齟齬は気になった。アーサーはただ同情されるべき被害者なだけではないということなのだが、そのあたり主人公の人格造形にリアルさを加えているのか、本作制作者の無神経さを反映しているのかは意見が分かれるかもしれない。

本作の準拠枠として前述のマーティン・スコセッシの映画があるのは間違いないし、1981年という時代設定は DC コミック原作の近作、そして今どきな情報環境と見事なまでに断絶したうえで、ジョーカーというヴィランの誕生に集中している。これはアメコミ映画に対する一種のハッキング(スクウォッティング?)である。

しかし、そうした映画が2019年の今の政治状況と見事なまでに接点を持ってしまうのだから面白い。主人公の境遇から格差社会といった言葉が連想されるのは当然だし、ニュースに触発されて仮面をかぶって街中で暴れだす人たちが、香港での顔を隠したデモ隊と重なるという映画制作時には予想もしえないシンクロもある。

しかし、である。一方で、本作には上に書いた雑さが確実にある。具体的には、殺人のニュースから人々が仮面をかぶって街中で暴れだすまでがちょっと早いように感じた。もちろん、ゴッサムシティの住人の間でストレスがたまりまくっているという前提はあるものの、1981年を舞台にしながら、(制作者当人たちも意識しないまま)実は今どきな情報拡散速度を前提としてないかという疑いがある。で、さらに、しかし、なのだが、その雑さは本作に明らかに推進力を与えている。

そして、最後はやはりホアキン・フェニックスの見事な演技に収斂する。アーサーが信じていたものが一つ一つ潰されていき、そして彼が本格的におかしくなってしまうところは圧巻としかいいようがない。本作では、主人公が「信頼できない語り手」なのだけど、その手法がこの映画で使われると思ってなかったので、単純なワタシは見事に騙されてしまった。『ダークナイト』でシカゴがモデルとなったゴッサムシティを本作ではニューヨークに引き戻し、上書きしているが、やはりあの階段の場面、ゲイリー・グリッターという非常に悪趣味な、でも意図的(なんでしょ?)な選曲をバックにやはりヘンだけど独特の優雅さすら感じるダンスを踊り、本作でもっとも陽の光を浴びて輝くジョーカーとしての主人公にはめまいがした。

小野マトペさんが書くように、本作は分断していく社会で見捨てられた「キモくて金のないおっさん」が「無敵の人」として目覚めていく経過を美しく描いた危ない映画である。そして、ワタシは雑さと無神経さが気になるものの、本作を支持する。

ざまあみろ、ですよ。それの何が悪いのか。

さて、上記の通り、本作は観るまで時間が空いてしまったため、その間とにかく本作を論じた文章をできるだけ読まないようにするのに苦心した。とりあえず URL だけ保存している文章が20以上あり、これを書き終えたところでようやく読めると思うと、正直今ホッとしている。主人公が冷蔵庫に入ってしまうところとその後の場面がちょっと不連続なところなどよく分からないところも残っているので、これから読む文章にそのあたりの面白い解釈を知れるといいな。

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