先週、筒井康隆の第16回三島由紀夫賞選評「「阿修羅ガール」を推す」がなぜかはてなブックマークで人気エントリに入っていた。
三島賞が創設されたときの選考委員は江藤淳、大江健三郎、筒井康隆、中上健次、宮本輝の五人だったが、筒井と宮本の二人が現在まで委員を続けている。筒井康隆に対しては「筒井さんは終身選考委員をつとめてほしい」という声がある一方で、宮本輝は『文学賞メッタ斬り!』方面をはじめとして揶揄する声が多い(ように見える)。ワタシ自身三島賞、芥川賞の受賞作すらロクに読んでないのでどうこう言えないのだが、筒井さんの見識に敬意を抱く一方で(しかし終身選考委員ってのはどうよ)、宮本輝に関しては、川三部作や『青が散る』といった初期作が好きだった人間として現状はなかなか悲しいものがあるぞ。
筒井さんが三島賞選考委員就任を受けて書いた「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」について以前取り上げたことがあるが、その中で三島賞が(芥川賞、直木賞と同じく)候補者を事前にマスコミに発表することについて、「プロの作家をあげつらい、落す。無礼なことである」と強行に反対したそうだ。この提案は認められなかったわけだが、
とことん反対しなかった理由は、候補者の発表が文壇ジャーナリズムを活気づかせるという政治的意図をまったく理解できないほどおれが石頭ではなかったためであり、これを主張した人は特に名をあげることはしないものの江藤淳という人である。
と書いて江藤を激怒させ、こうしたやりとりを公開しない旨の念書を書かされた話を江藤の自殺後、同じく「噂の真相」連載で明かしていた。
そして選考時、筒井さんの見識が常に通ってきたわけではなく、東浩紀の「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」を推したものの他の選考委員からの賛同が得られなかったときは、
小林恭二しかり、柳美里しかり、町田康しかり、いずれも最初おれが推して賛同して貰えなかった人である。その後評価が定まり、傑作を書いてから賞を与えるというのでは、新人賞とは言えないのではないか。
と嘆いている。近年の選評は新潮社のサイトで読めるが、第一回から第八回までは『悪と異端者』、第九回から第十五回までは『小説のゆくえ』に収録されている。筒井さんの苦闘を辿るのも面白いし、二冊とも三島賞選評を別にしてもお勧めできる本である。
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以下は余談だが、昨年の日本ペンクラブ言論表現委員会のシンポジウムのレポートに、
筒井さんは車谷長吉氏が谷崎賞の候補になりながらも受賞を逸し選考委員の一人である丸谷才一氏に「文学賞とは何ですか」と詰め寄った際のエピソードを紹介、丸谷氏の「文学賞は運です」という答えから「才能があるだけでは作家として花が開くわけではない。才能がありながら消えていってしまった人たちのことを考えればリスクの問題はもういいのでは」とし
というところがあり、およそ20年前の「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」における、
ある大家が「受賞には運不運がある」うんぬんと発言しているのである。これで頭に血がのぼった。落選した者が自分を慰さめるためにそう言うのならよろしい。とことん議論を尽し、その運不運がないようにと懸命の努力をするのが選考委員の務めではないか。この発言から決定的に欠落しているのは文学史的責任感である。
という激怒を思い出して少し疑問に思ったりした。もちろん「才能があるだけでは作家として花が開くわけではない」というのはその通りなのだが。