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翻訳書における訳者

訳者は役者に過ぎない。

山形浩生という歌って踊れる訳者の仕事が目立つためか、どうも翻訳書における訳者の権限を、実際よりも大きく見る人が最近増えているような印象がある(もちろんそれは山形さんの責任ではないし、氏に対して文句を言いたいわけではまったくない)。

かなり強引に映画にたとえるなら、製作が出版社、監督が編集者、脚本が原著、そして役者が訳者にあたると思う。訳者は役者に過ぎず、編集者の本であり、そしてその商業的な部分は出版社が握る。

心血を注いだ脚本に下手な演技で襤褸を着せてしまったら、それは役者の責任である。翻訳書の場合、それが襤褸の大部分であるから、訳者はそこに心血を注がねばならない。しかし、それ以外にも落とし穴はある。刊行を遅れを訳者のせいだと誤解されるのは(極めて腹立たしいが)実際に往々にしてあることだから我慢するとしても(まあ、僕にしても『Wiki Way』がそうだった)、何か訳者が権限を持っているぐらいに思われるとちょっと困る。

編集者なしに、本は作られない。それほど大きな存在である。当方は訳者として、それに常に敬意を払わなければならない。しかし、もっと重要なことがある。編集者なしに本はないかもしれない。しかし、読者なしには本が出る意味がない。読者のために本は存在するということである。

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