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ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男

愛するゲリマン(ゲイリー・オールドマン)がアカデミー主演男優賞を受賞したということで、観に行かないわけにはいかない映画である。が、観測範囲でこの映画に好意的な声がまったく聞こえてこなかった。

実際に本作を観ると、それが分かる気がする。この映画の設定を日本に置き換えて考えると、なんとも居心地が悪いんですね。

本作は1940年5月にチェンバレン政権が退陣し、ウィンストン・チャーチルが挙国一致内閣の首相に就任するところから始まる、一月程度の期間を描いた映画である。後半部は、昨年観た『ダンケルク』と時系列的に重なる。あれがダンケルク海岸に追い立てられた英仏軍を中心に描いたものならば、本作はそのとき英国の首相たるチャーチルがどのように国家の舵取りをしていたかの映画で、図らずも対になっている。

当時ナチス・ドイツが欧州を席巻しまくりな状態で、ベルギーやフランスがナチスの手に落ち、イギリスも国家存亡の危機を迎えていた。政権に残ったチェンバレンがそうだし、また例えばカズオ・イシグロの『日の名残り』(asin:4151200037)に描かれるようにドイツに対して宥和的な考えを持つ英国の要人もいる中で、主戦派にして、しかも過去に軍事作戦でひどい失敗をやらかしているチャーチルの旗色は明らかに悪かった。

あえて乱暴に言うならば、米国の助けを事実上拒否られた(ルーズベルトとの電話会議が完全にコメディになっている)当時の英国は、本土決戦もやむなしと見られていた大戦末期の日本に擬せられる。

そんな状況でナチス・ドイツとの講和を断固拒否して最後まで戦うことを訴えるチャーチルは、その後の歴史を知らなければ、本土決戦を叫ぶ日本の政治家と同じくらいファナティカルに見えてもおかしくない。また本作では、当時の英国国王であるジョージ6世が実は重要な役回りを演じる。しかし、その役回りを例えば昭和天皇がやるとしたらどうだろう?

映画の前半で、チャーチルが自分は地下鉄に一度しか乗ったことがないとか言い出して、何言ってんだよと思っていたら、それはちゃんと伏線になっていて、後になって彼は地下鉄の中で一般庶民と向かい合う。そこでチャーチルは腹を括るわけだが、同じことを大戦末期の日本の庶民が言うとしたら?

いずれも想像するだけでかなり居心地が悪い。本作がそうなっていないのは、言うまでもないがその後の歴史を知っているからというのがまずあるだろう。そして、イギリス国民が空気に縛られるのでない自己を持った存在として描かれているから。ただ、もう少し当時の庶民が感じた不安も描くべきだと思ったけど。

本作におけるジョージ6世を見ていて、どうしても題材的に『英国王のスピーチ』を思い出してしまう。ワタシはあの映画を言われるほど良いとは思わないが、ともかく彼の印象は二作でかなり異なる。どちらが実像に近いのだろう。

本作の地下鉄の場面など見ると、ジョージ6世についての描写と同じく、歴史的正確性に疑いをもってしまうが、本作のゲリマンの堂々たる演技を見ていると、タキ・テオドラコプロスの「スタイルとはなにか?」という文章(『ハイ・ライフ』(asin:4334783341)に収録)をどうしても思い出してしまう。そう思わせるだけ本作は成功しているのだろう。

スタイルとは見せかけの反対である。強い信念のことである。ひっきりなしに葉巻を喫い、痛飲を重ね、意地の悪いことで有名だったウィンストン・チャーチルは、本来的には、下品な男だった。にもかかわらず、その実行力と強い信念が彼を確固としたスタイルの持主にしていた。

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