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『メガロポリス』と『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』、もしくは「芸術的浪費という美徳」

www.rogerebert.com

フランシス・フォード・コッポラの『メガロポリス』については何度か取り上げてきたが(その1その2)、遂に来月日本でも公開される。

メガロポリス』については、まぁ、今のところ失敗作という評価に落ち着いているが、同じく昨年の公開時に不評だったトッド・フィリップス『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』とあわせて評している文章を思い出したので、『メガロポリス』の日本公開記念(?)に紹介しておこう。

これの著者のマット・ゾラー・サイツは、RogerEbert.com の editor-at-large にして、『ウェス・アンダーソンの世界 グランド・ブダペスト・ホテル』(asin:4866470674)や『ウェス・アンダーソンの世界 フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(asin:486647212X)の邦訳がある映画評論家である。

フランシス・フォード・コッポラが何十年もかけて製作し、しまいには彼が富を築き上げたブドウ畑を一部売却して製作費を賄った『メガロポリス』だが、1億2000万ドルという制作費も、ハリウッドメジャーが手がけるフランチャイズ作品と比べたら、必ずしも割高ではない。

今ではスピルバーグやスコセッシやウェス・アンダーソンの作品すら、アートかぶれだとか気取ってるとか嘲笑されるほど反知性主義に堕しているが、『メガロポリス』のような映画はかつては大手スタジオによって定期的に公開されていたものだ、と著者は指摘する。確かに映画は常に大衆的なアートフォームだったが、かつてはそれから外れた挑戦的なもの、芸術的なものを意図的に探し求めていた。

そうした映画は、現在のファンサービス至上主義な、ファンダムへの奉仕のための映画と違い、観客に新たな視点や感情を提供するものだった。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』についても同じことが言え、『ジョーカー』の大ヒットを受けた続編ながら、観客に受け入れにくい挑戦的な作品になっている。著者は、作品としての難点や物足りなさを感じたことを表明しながらも、『ジョーカー』で得た「白紙の小切手」を使い、トッド・フィリップスが観客に媚びない、自己表現に徹した作品を作り上げたことに敬意を表している。

今ではコッポラの『地獄の黙示録』が、製作中のトラブルから大爆死確実と見られていたか忘れられているし、それに続く『ランブルフィッシュ』など80年代の作品も大ヒットはしなかったが、時を経て評価が高まっている。

要は、映画は公開時の採算や大衆受けだけで測るべきものでないと著者は言いたいわけですね。

メガロポリス』や『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、商業的な成功よりも監督のヴィジョンを追求した結果として生まれた「芸術的な浪費」なのだろうが、こうした作品が映画の多様性と創造性を維持するために必要であり、それが観客にも新たな体験をもたらす、と著者は主張している。

この主張は分かる。分かるのだけど、我々が「ハリウッド映画の終焉」を目の当たりにしているとすれば、果たしてどこまでそうした「芸術的な浪費」を美徳とみなす余地というか余裕があるだろうか、とと思ってしまうのも正直なところ。

メガロポリス』は、もちろん観ますよ。なにかしら「芸術的な浪費」の美徳を感じさせてくれる映画であってほしい。

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