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平民金子さんの名連載「ごろごろ、神戸3」の完結前にその素晴らしい文章を振り返る

ワタシが深夜(というか朝方)泥酔して書いたツイートが、場末の雑文書きであるワタシにしてはバズって驚いた。

ワタシは平民金子さん(id:heimin)の連載「ごろごろ、神戸3」が大好きで、なんとかしてそれを称えたいという気持ちがあってツイートしたものだ。

思えば、ワタシは昔「極私的はてなダイアリーアンソロジー2008」という文章を書いたが、真っ先に平民さんの「おいどんはただ生きてるだけよ」を選んでいて、というかこの文章を読んでなければ勝手にアンソロジーなんてやらなかったでしょう。要は平民さんの文章と写真のファンなのである(余談だが、このアンソロジー後編もあわせ、重要なメンツをほぼ網羅した、すごくよいチョイスだったと思います。えっへん)。

しかし、先のツイートは泥酔状態ゆえに強い言葉を使っていて、平民さんが気を悪くされていないのを祈るばかりである。しかも、このツイートでワタシは決定的な誤情報を書いてしまっている。

それは「この連載は本当にあと1回で終わってしまうのだろうか」のくだりで、なぜそのように勘違いしたのか、自分でもよく分からない。平民さんは第21回の時点でこの連載があと4回しかないことを示唆していて、つまりは25回で終了ということになり、連載の残りは本文執筆時点であと2回ということになる(2018年5月開始なので、連載一年になる2019年4月で終了ということなのだろう)。

そういうわけで、平民さん、間違った情報を書いてしまい、申し訳ありません。

せっかくなので、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の宣伝というワタシのブログの存在意義をいったん忘れ、この名連載でワタシの心に残った文章を各回からチョイスさせてもらう。

上にも書いたように、この名連載は平民さんの文章+写真の妙が肝なので、引用だけ読んで終わらずに元文章+写真を堪能ください。

5月の連休は神戸市内各所で様々なイベントが開催されています。いま「市内各所で様々なイベントが開催されています」なんて書きましたが、正直なところ「神戸は観光地だしどこか人の集まる所に行けば何かしらのイベントくらいはやってるんだろう」なんていう適当な気持ちで「市内各所で様々なイベントが開催されています」と書いてしまった事をここに告白します。実際はどこで何をやっているのか全然知りません。

第1回 ゴールデンウィークの過ごし方 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

連載第1回のはじめからこの調子で最高である。神戸市の広報担当者は度量のある方なのだろう。

公園を出て、シャッターが降りたままの店の軒先に出来たツバメの巣の横を、緊張して通る。
立ち止まったり、じろじろ見たら親鳥に悪い気がするから、「わたしたちはあなたがたに危害をくわえるものではありません。のぞいたりもしません。そもそもあなたたちに気付いてもいませんよ……」というようなそぶりで巣を大きく迂回してそっと、息をころして歩き、それでも気になる心には逆らえず。すれ違いぎわの一瞬だけチラっと、目のはしにツバメ達の元気そうな姿を焼きつけて、そこからわきあがってくるちょっとした嬉しさで、雨の舗道を駆けた。

第2回 新しいメリケンパーク、魂のレポート - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

私は急に、周りの人たちは空気坊主とどのように出会い、やがてどのように別れたのか。大人になった今どのように空気坊主を振り返るのかが気になって、行きつけの酒場の客や店主に聞いてみた。けれど皆一様に「ああ、やってたね」と答えてくれるものの、「だからどうしたの?」となって、話が盛り上がる事はない。それは今となってはあまりにも小さくて、どうでもいいことだからだろう。大人になった私たちには風呂の湯に沈んだタオルから出る小さな泡よりも、もっと楽しいことや悲しいこと、人生の重大事が目の前にあふれている。そしていつしかあれほど親しんだ空気坊主は、記憶の彼方に消えてしまった。

第3回 空気坊主 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

神戸に3年住んで、なんとなく町にも慣れたような、どこか斜に構えたような気分になりそうになる時もあるけれど、この場所に来ると初めてここに遊びに来た時の、新鮮な感動を思い出す。
私は以前も今も、モザイクからのこの眺めが大好きだ。

第4回 日々 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

昨年秋に神戸に遊びに行く機会があり、神戸の街を歩いて思ったのは、ここが小関悠さんが言うところの「徒歩の街」であり、ポートピア連続殺人事件の舞台であり、平民さんがごろごろしている街なのだという感慨だった。

私たちはひどい現実を前にすると、それが子供に関するものならなおさら、社会を一気に良くするような特効薬を探してしまいがちになるけれど、現実的には局面を一発で打開するような「かいしんのいちげき」はなかなか存在しない。悲しい事件が起こった時の当事者ではない私たちが、子供が暮らす社会を良くするために確実に出来るのは、つみかさねる日々の地味ないとなみだけで、たとえば、「視線」の向かう先を変えてみるのはどうだろう。

第5回 視線 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

炎天下、風にふかれた枯葉がアスファルトをこする小さな音が聞こえている。
わからんけれど、耳をすまして、聞かなあかん声や。
そんな説明をしながら、舌を鳴らす。輪郭をつかみたい。けれど反響が、何もわからない。
通りではセミが鳴き始めた。夏が始まったのだ。

第6回 反響 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

というわけで、まずは最近新開地の路上でおじさんが手作りしている謎の紙粘土人形を用意する。
次に、須磨海浜水族園本館3階にあるレストラン「うみがめのお店」で、400円ごとに1個もらえるスタンプを10個集めたらもらえる、スタッフ手作りのチンアナゴのぬいぐるみを用意する。
そして最後に、ヒガシマルのラーメンスープを用意してほしい。

第7回 中華冷や汁研究 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

平民さんの文章から時折にじみ出る一種の狂気が好きだ。

景色もパラレルワールドも、もうどうでもよかった。飛び込んだ個室で、私はただ「助かった」と言う思いで、壁に貼り付いた小さなカマドウマと向かい合っている。セミの声がオーケストラのように私たちを祝福していた。何もかもが愛おしく、世界は光り輝いている。

第8回 保久良山 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

自分が普段接することのない層に対して、いたずらに敵意を向けるのではなく、ちょっとした勇気やふとしたきっかけで彼らの空間に入ってみると、案外そこは優しい場所だったりする。

第9回 海の家、20号、21号 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

近い将来きれいに生まれ変わる三宮駅前や須磨海浜公園や神戸新鮮市場は、きっと素敵な場所になるんだろう。
また新しくたくさんの人が集い、また新しいにぎわいを見せるのだろう。
それでも、壊れ行く市場の片隅で「いつまでもそのままで」と小さく唱えたことを私は記しておきたい。

第10回 いつまでもそのままで - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

私たちは、どこにでもあるような街を作ることで、間違いなく生活の平均値を底上げしてきた。
昔のほうがおもしろかったと遠い目で語ったり、「神戸らしさ」という言葉をたくみに使って、私は自分に都合良く街のイメージを固定化していないだろうか。それを常に問い続けること。
そのような自戒と内省を忘れてしまうと、私の語る街の魅力は、ただの懐古趣味の、うわすべりした中身のないものになってしまう。

第11回 なつかしさと、都合良さと - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

この文章は、その前回と対になっていますね。

元町から、メリケンパークから、神戸の街のそこかしこからビッグ赤ちゃんがきらきらと輝いているのが見える。
それを見て、私はこれから出会うすべての小さな赤ちゃんに、やさしい大人でありたいと思うのだ。

第12回 ビッグ赤ちゃんイカリ山 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

いつの間にか私も彼も汗だらけになっている。うちにも犬がおるからああいう状況はほっとかれへんよ、と私が話をする。名前も知らず、この先もう出会う事もないだろうけれど、たぶんこれからの人生で、なんとなくこの日の出来事を私たちは覚えているのだろうな、と思った。

第13回 原田通のイーサン・ハント - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

今の私には、彼ら彼女らを『助けて』いた当時の自分には想像出来なかった、あのころ階段の下でじっと誰かが来るのを待っていた車椅子の人のジリジリとした長い時間を想像する事が出来る。
車椅子をかつぎ上げられる側の人には、感謝以上に、さまざまな感情があったはずだ。
そもそも当たり前の事をするのになぜ手助けを待たないといけないのか、なぜ感謝しないといけないのか。

第14回 「お手伝いをしましょうか」 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

あちらもこちらも、終わるものは終わる。それが今の時代にやって来たというだけなんだろう。でもなんというか、最初から何も知らないままだったのならともかく、東京から遊びに来てこの町に一目惚れし、引っ越して来て、それがごっそりと消えてしまうのを今、見ているだけしかないという、このもやもやとした自分の心にどう落とし前をつければよいのやら、なんて思いながら、やって来たバスに乗った。

第15回 ミナイチ・エレジー - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

と、思いきや、その鳴き声は突然画面をはみ出す勢いで大きくなる。
今ではイヤホンを付けている意味がないほどの大音量となり「ウオッ! ウオッ!」「ウオッ! ウオッ!」とそれは聞き慣れた吠え声となって耳をつんざき、振り向くと声の主は、アシカのナイト君(7歳)であった。

第16回 ふれあい荘のナイトくん - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

この映画『東京暮色』の話が突然アシカのナイト君の話に転調するところを読んでいて、ワタシは自分の目か頭がおかしくなったのかと思ったものである。

私には、この世に生まれて来た瞬間の記憶がある。
産声を上げる事も忘れ、外界の眩しさに耐え、
この問題を解決しないと自分は先へ進めないぞと、
出てきたばかりの体をタオルで拭かれながら黙考していたのだ。
それは「ビールに一番合うつまみは何か」という問題である。

第17回 神戸鉄火巡礼 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

アシカのナイト君に続き、年が明けると平民さんの文章はもう完全にフリーダムな領域に突き進むようになった。

ある日テントに入って何もせずにふてくされて寝ていると音楽が鳴り始めて、うっせえなあと隙間から彼らの歌う民謡を聴いていた、そんな24年前のふてくされ斜にかまえて、目の前の光景に思考停止してしまった、そんな日常も、いま真面目に目をつぶって黙祷している、きみを連れてこの場所に立っているこの日常も、全部がつながっている。

第18回 いつもよりあたたかかったので - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

遂には連載一回がひとつの段落になってしまった。天衣無縫である。

神戸の大偉人である淀川長治が遺した映画にまつわる語りの中で特に印象に残っているのがフェリーニの映画について語ったこの場面だ。何かを好きになる気持ちを前のめりに表明することのすばらしさが詰まっている。
私はいつまでたってもこの場所に無性にときめいてしまう自分の気持ちを大切にしようと思うのだ。

第19回 思い出すのは神戸のことばかり(神戸名所案内) - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

というわけでコロッケを作るが大変でしんどい人は神戸に引っ越してしまえばよいのではないか。
いらいらしている人は出来たてのおいしいコロッケを公園で食べて、ついでにビールを飲んで、酔っ払っていろいろと忘れよう。日に日にあたたかくなって梅の花も咲き始めた公園の日差しの中で、アッツアツのコロッケと缶ビール。
かのフェデリコ・フェリーニも映画の中でこう言っている「人生は祭りだ。ともに太ろう」。

第20回 コロッケのおいしさについて - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

アナ「この季節のノースマウンテンは最高やね~」
エルサ「アウトドア高菜茶漬け。やっぱりこれが最高やん?」
アナ「春の日差しで、屋根がきらきらしとーね」
エルサ「ええやん。これでええやん」

第21回 高菜炒めつくろう - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

もうどうにでもしてくれ状態である。

みなさん、今日のお昼は何を食べましたか? あるいは、これから何か食べられる方もいらっしゃるかと思います。
うどん、とんかつ、寿司、カレー? はいはい、違います。
みなさんが食べていいのはラーメンセットだけです。

第22回 ラーメン屋でセットメニューを注文した時の時間差到着問題 - 『ごろごろ、神戸2』『ごろごろ、神戸3』

神戸に平民金子あり、としか言いようがない。

本当は各回の引用ごとに解説めいた文章を書こうと思ったのだが、それは野暮でしかないでしょう。あとは連載の文章と写真そのものを堪能していただけばよい。

連載も残すところ2回となってしまったが、「ごろごろ、神戸4」を期待してしまう。あとアーカイブは絶対に消さないでください>神戸市広報課

マイク・モンテイロが「アイン・ランドはアホ」と指弾する先にあるシリコンバレー的価値観への批判

デザインコンサルタント会社 Mule Design の共同創業者にしてデザイン・ディレクターである Mike Monteiro の新刊 Ruined by Design を取り上げたエントリなのだが、試し読みできるサンプルチャプターが、ズバリ「アイン・ランドはアホ(Ayn Rand is a dick)」と掲げていて、面白がられている。

アメリカで今でもカルト的な人気を誇る小説家、思想家のアイン・ランドについて知らない人はそうですね、山形浩生の『肩をすくめるアトラス』書評を読んでいただければよいですかね。

マイク・モンテイロが指弾するのは、アイン・ランドシリコンバレーで支配的な価値観に及ぼす悪影響である。

シリコンバレーにようこそ。アメリカの端(文字通り)にあるリバタリアンの最後の拠りどころ。シリコンバレー、特にシリコンバレーベンチャーキャピタルは、高校生のときにアイン・ランドを読んで、偉大だと思い、その後考えを変えてない年寄りの白人男にほぼ牛耳られている(ここで公正を期すために、すべてのベンチャー投資家が怪物なわけはないことをお知らせしておく。事実、私と親しい人にも素敵な人は数人はいる。彼らはまさに例外そのものなんだけど。もっとも、本書を読むベンチャー投資家が皆、自分はその例外だと考えるだろうよ)。偉大なアン・リチャーズの晩年の言葉を引用するなら、連中は「三塁ベースで生まれておきながら、自分は三塁打を打ったと思っている」のだ。

なお、アン・リチャーズの言葉とされているものについては諸説あったような。ともかく、このサンプルチャプターでは Uber のことを滅多切りにしていて、シリコンバレーで支配的な独りよがりなリバタリアン的価値観、その源流にあるアイン・ランドの客観主義に批判的ということである。

著者のマイク・モンテイロの本業はデザインだが、「政治は我々の時代のデザインの問題だ」という文章を書いたり、「ファイズムとの戦い方」という講演をやったり、なかなか尖っていて、彼の新刊は現代世界の問題の原因(とそれに対して我々ができること)を「デザイン」に求めているということだろう。

「デザイン思考」の本は既にたくさん出ているが、こういうデザインについての本も邦訳出ると面白いんじゃないかな。

ニューヨーク公共図書館で「ルー・リード・アーカイブ」が開設された

ニューヨーク公共図書館(New York Public Library)において、Lou Reed Archive が遂に開設されている。

このアーカイブについては、それについて語るドン・フレミングのインタビューを昨年秋に紹介しているが、無事オープンして何よりである。しかし、ルー・リードが亡くなってもう5年以上経つなんてな……。

今回のアーカイブ開設にあたり、ニューヨーク公共図書館の Lou Reed Special Edition Library Card が作られており、欲しいな、おい。

ニューヨーク公共図書館におけるアーカイブの一般展示は今週終わってしまうのは残念だが、こうしてアーカイブを遺す姿勢はもっと日本でも見習ったほうがよいだろう。

そういえば今年は、ルー・リードの最高傑作のひとつであり、ワタシが初めて買って聴いた彼のアルバム『New York』のリリースから30年になるんだね。思えば、彼がこのアルバムを作っていたのは、今のワタシとほぼ同年になるんだな。

New York

New York

トータスのアルバム『TNT』全曲再現ライヴ映像に感動する

アルバム『TNT』の発売21周年を記念した全曲再現ライヴ、っておいおいキリよくないやんかと突っ込みたくもなるが、『TNT』はワタシが大好きなアルバムなので(どうして愛する洋楽アルバム100選に入ってないのか、自分でも不思議になるレベル)、これを再現してくれるのなら大歓迎である。

やはりワタシはこのアルバムが好きなんだな、と思ってしまった。ドラマーが二人向かい合ってアルバムタイトル曲を演奏する映像だけで気分がアガる。

このライブ映像は、Pitchfork の YouTube 公式チャンネルで公開されているが、同じく Pitchfork のチャンネルで公開されている Don't Look Down シリーズのライブ映像もいいでよ。

TNT

TNT

梅宮辰夫とクリストファー・ウォーケンが語る「役者の引退」、そしてMore Cowbell!

正直、梅宮辰夫の俳優の仕事について特段知識がないのだが、その引退について語るくだりはグッときた。

 そもそも、俳優の引退は本人が決めるものではないんですよ。世間から「もうアイツの顔は見たくない」と思われたらお払い箱。そうなったら、20代だろうと80代だろうと俳優業を引退しなければならない。

「梅宮辰夫」独占手記 がんで考える自分の“引き際”、芸能界での最後の仕事は… | デイリー新潮

ワタシが思い出したのは、クリストファー・ウォーケンのキャリアを振り返るインタビューでの発言である。まったく同じことを言ってますね。

いや、考えたこともない。役者が引退するとは思わないんだな。「そうだな、引退しよう」なんて言う役者なんてまったく知らない。役者はね、アスリートと同じなんだよ。つまり、引退するのではなく、引退させられるんだ。

改めて読み直して、以下の発言もグッとくるよねぇ、としみじみなった。クリストファー・ウォーケン最高。

他にできることが何もないんだよ。私には趣味がない。子供もいない。テニスやゴルフもしない。文章を書いたり画を描いたり、役者がするような余芸をやってみようとしたこともあるが、気に入らなくてね。私にできることは、健康を保ち、できるだけ長く演技を続けることだけなんだ。

さて、以下はすべて余談なのだが、ここでなんでリーアム・ニーソンの主演映画の記事が挟み込まれるのか。この映画のプロモーションのインタビューで、リーアム・ニーソンが「怒り」について聞かれて答えた発言が大きな問題になってしまうという不幸な出来事があったのだが、それはここでは関係ない。


この映画『スノー・ロワイヤル』のトレイラーで、ブルー・オイスター・カルトのヒット曲 "(Don't Fear) The Reaper" が使われていたから。

ブルー・オイスター・カルトには失礼な話だが、クリストファー・ウォーケンが Saturday Night Live で披露した、番組史上に残る名コント More Cowbell を見た後だと、この曲を聴くだけでどうしても笑ってしまうんだよね。

このコントの映像は、SNL の公式 YouTube チャンネルで公開されているので、堂々と紹介できる。

クリストファー・ウォーケンがプロデューサー(名前はブルース・ディッキンソン!)、ウィル・フェレルカウベル奏者 Gene Frenkle(という人はもちろん実在しませんよ)に扮したコントだが、今回見直してジミー・ファロンも出ているのに気づいた。

ティム・バーナーズ=リーのウェブ誕生30周年記念文章を訳した

Technical Knockout30 years on, what’s next #ForTheWeb? 日本語訳を追加。Tim Berners-Lee の文章の日本語訳です。

今回の文章は原題にハッシュタグを含むのもあり、それを無理に日本語にしてヘンになっても困るので、横着して原題そのままとした。

正直、わざわざ訳すほどの文章かという気もするが、やはりウェブの発明者、ご本尊の言葉は重いし、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の著者として無視することはできなかった。

まぁ、今年は30周年とキリが良いのもあっていろんなニュースサイトでこの文章の部分的な解説はなされているので、もはや大方意味のない翻訳なのだけど、28周年29周年の文章も訳しているので、今年まで一応やろうと思った次第である。つまり、来年以降はしません。

ウェブ誕生30周年記念ということで、ティム・バーナーズ=リーの本も復刻しないかなとひそかに期待していたのだが、そういう話はまったく聞かないのは残念な話である。

ジョセフ・リーグルの新刊『Hacking Life』はメタライフハック本か

3年前に「仄暗いウェブの底から」という文章で書いたが、ワタシがジョセフ・リーグル(Joseph Reagle)という人を知ったのは、Good Faith Collaboration という Wikipedia についての本を書いていたからだが、二作目はウェブのコメント欄を研究対象とするヘンな本で、この人面白いなと思ったものだが、その彼の三作目が来月出るのを知った。

Hacking Life: Systematized Living and Its Discontents (Strong Ideas)

Hacking Life: Systematized Living and Its Discontents (Strong Ideas)

Hacking Life って、要はライフハック本? えーっ、今さらだよね。それだったら彼が近年研究対象としているギークフェミニズムのほうが面白そうな題材なのに、と思ったのだが、この人のことだから、そんな単純な本ではないようだ。

ライフハッカーは、理解して最適化可能なアルゴリズムの規則であらゆるものを分解し、組み立て直せる部品からなるシステムだとみなすが、この本ではそうした生き方を体系化して、ライフハックが数多くの自己改善メソッドの最新版であることを、ベンジャミン・フランクリンの『貧しいリチャードの暦』からスティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』やティモシー・フェリス『「週4時間」だけ働く。』までライフハックの歴史を分析しており、要はこれはメタライフハック本なんですね。

当然のことながら、ライフハックの功罪両方を扱ったものなのだが、ワタシが興味深いと思ったのは、対象とするライフハックの中にピックアップ・アーティスト運動まで入っていることで、これについては八田真行の「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」といった文章が参考になるが、日本でいえばいわゆる「恋愛工学」も対象ということですね。

速水健朗さんの本のような面白さがありそうだし、やはりこの人ヘンやとも思うのだが、今作こそ邦訳出てほしいけど、実際のところ難しいかねぇ。

一年待った円堂都司昭さんの新刊『ディストピア・フィクション論』が来月出る

はてなダイアリーからはてなブログに移転して、ウェブユーザが検索サービス経由でワタシのブログのどのエントリにたどり着いているか、アクセス解析ではっきり分かるようになった。その一位が「オナニーをして精液に血が混じっていたことはありますか?」であるという事実には、さすがのワタシもなんというかコメントしようがない、というか円堂都司昭さん(id:ending)には、この件に関しては本当にすみませんでした、と言い続けないといけない。

さて、その円堂都司昭さんの新刊が来月作品社から出る。

実はおよそ一年前にもこの本の近刊予告がウェブに出たことがあった。しかし、その後事情があってその予告は取り消されていた。そのあたりの事情について少しだけ推量できる人間として、しかもそれはワタシも通った道だったので、一年経って今度こそ円堂都司昭さんの以前聞いたのと同じ書名の新刊が出ると分かって本当に嬉しく思う。

Wired にディストピア小説の人気が再燃している理由を考察した記事が出たのがおよそ2年前だが、やはりディストピア(を描くの)って面白いんですよね。それについてはニコラス・カーも「SF小説の特に優れたものは、たいてい常にディストピアものだ」と書いている。

もちろん円堂さんの『ディストピア・フィクション論』でも優れた SF 小説が多く取り上げられているが、それだけではないようで、個人的には映画『ズートピア』『帰ってきたヒトラー』が入っているのが気になった。

最近20年において最も影響力のある本20選

確か八田真行のツイッター経由で知ったページだが、過去20年で最も影響力を持った本を20人の選者が一冊ずつ選んでいる。

リストを見ると、確かにネットで名前を何度も聞いている本だったりする。で、書きにくいことだが、ワタシ自身は読んでない本ばかりだったりするのである。

その20冊、そしてそれが選ばれる理由については原文の選者のコメントを読んでもらうとして、邦訳が出ているのは以下に挙げる7冊と少ない(ワタシの見落としがあったら教えてください)。逆に言えば、以下の本ぐらいは現代人の教養として読んでおけということだろうねぇ。

あと、邦訳は出ていないが、イヴ・セジウィックバーナード・ウィリアムズの著作も入っている。

ろくに読んでないワタシが言うのもなんだが、ワタシだったら入れるのにという本は他にあるね。

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

ジョニー・キャッシュの新ドキュメンタリー映画の話をうらやましく思う

ジョニー・キャッシュの新しいドキュメンタリー映画が作られたとのことだけど、この『The Gift: The Journey of Johnny Cash』が重要なのは、ジョニー・キャッシュの代表作であるライブアルバム At Folsom Prison に収録されている、カリフォルニア州立フォルサム刑務所で行ったライヴに焦点を合わせた作品であるということ。

ワタシはブログで、Amazon で980円以下で買えるアルバムを紹介する「Amazon980円劇場」というコーナーを勝手にやっていて、At Folsom Prison も取り上げているのだが、調べたら本文執筆時点で700円台になっているね。

AT FOLSOM PRISON

AT FOLSOM PRISON

このアルバムについては、川崎大助の文章も参考になるでしょう。

80年代以降忘れられたスターになりかけていたジョニー・キャッシュも、リック・ルービンとの American Recordings シリーズの成功、特に「Hurt」の傑出したビデオのおかげで晩年脚光を取り戻し、伝記映画『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』も作られたけど、こうやって新たな音楽ドキュメンタリーが作られ、またジョニー・キャッシュの素晴らしい仕事にスポットライトが当たるところがえらいと思うね。

それを痛感するのも、フィッシュマンズのドキュメンタリー映画のクラウドファンディングのページで以下の文章を読んだからというのもある。

話は変わりますが、日本は数多くのミュージシャンが存在するものの、あまり音楽ドキュメンタリー映画を目にする機会が少ないと思いませんか?それは単純に実例がないというだけではなく、乗り越えるべき様々な問題があるからです。まずは音楽の権利処理。日本ではその楽曲のほとんどをJASRACが管理しており、映画や番組などので楽曲を使用する場合には、多額の使用料が発生します。もちろん、このシステムは著作権者を守るためのシステムのため仕方がないのですが、この金額が高額なために、低予算のドキュメンタリー映画が実現できないという事実もあります。

『フィッシュマンズ』vo.佐藤伸治の急逝から20年、あの孤高のバンドの映画化を実現したい!! - クラウドファンディングのMotionGallery

ともあれ『The Gift: The Journey of Johnny Cash』も Netflix とかで観れるようにならんかな。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』への反応 その19

この間(おそらく)最終版を公開した『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』だが、以前にも感想をいただいている Spiegel さんが、またブログエントリを書いてくださっている

なるほど、今からこの電子書籍を買われる方は、最新の文章である付録「インターネット、プラットフォーマー、政府、ネット原住民」を最初の読むのがよいのかもしれませんな。自分は書いた側なので読むのもすぐだけど、全50章を乗り越えないと新作が読めないと思うのは窮屈だ。

それにしても、この電子書籍自体、随分と「成長」したような気になってしまう。

国家や市場がインターネットに「情報(力)の搾取手段」あるいは「コンテンツ・デリバリ装置」としての価値しか認めず個人のプライバシーや自由になど鼻くそほどの価値も認めていないのであれば,私達はもはや中央集権システムとしてのインターネットから出ていくしかない。 あっ,これってヒッピーの発想か(笑)

『続・情報共有の未来』は付録から読むのがオススメ — しっぽのさきっちょ | text.Baldanders.info

これは、ちょうど八田真行が「インターネットからスプリンターネットへ」で書いていることに符合するように思う。

一方で私自身は、インターネットが一般大衆のものになった今、細かく管理され、人畜無害で漂白されたものになっていくのは残念だが仕方がないとも思っている。いずれにせよ今後インターネットは、可愛い猫の写真ばかりの安心・安全で無意味なものになっていくのだろう。だとすれば、我々は情報の自由を求めてまたフロンティアを開拓するしかない。

インターネットからスプリンターネットへ(八田真行) - 個人 - Yahoo!ニュース

インターネットから「脱出」する日がワタシにも来るのだろうか……。

スーザン・クロフォードの新刊とアメリカにおける光回線の問題(とGoogle Fiberの失敗)

先月の記事だが、日本でキャッシュレスが浸透しない理由をわざわざアメリカの読者向けに解説するなんて、誰が書いてるんだと思ったらスーザン・クロフォード先生で、そういえば彼女は新刊が出るんじゃなかったかと調べたら、今年はじめにもう出ていた。

Fiber: The Coming Tech Revolution―and Why America Might Miss It

Fiber: The Coming Tech Revolution―and Why America Might Miss It

タイトルになっている Fiber とはまさに光ファイバー回線のことである。副題が「来るべき技術革命――そしてアメリカがそれを逃しかねない理由」というのは、アメリカの大手通信会社に対する批判なんですね。

コリィ・ドクトロウやヨハイ・ベンクラーといったこのブログでもおなじみの人たちが推薦の言葉を寄せている。

彼女の第一作『Captive Audience』が、ネット中立性を擁護し、アメリカの大手通信会社の既得権を厳しく批判する内容であったことを考えると、新刊はその延長上にある本だと分かるのだが、「反応が良い都市と市民のテクノロジー」で取り上げた前作(共著)の『The Responsive City』のような Civic Tech やスマートシティ方面のほうが面白味がありそうなので、そうした意味で少し残念である。

……と最初思ったのだが、光回線の通信速度が OECD 加盟国中、2015年の7位から18年は23位に急転落した日本も、この本の内容は他人事ではないのではないかと思い当たった。

Fiber といえば、Google がそういうサービスやってなかったかと思ったが、もはや撤退戦モードみたい。そのあたりについては、「グーグル・ファイバーは「最高の失敗」である」という記事に詳しい。

ニルス・ロフグレンのソロ新作にルー・リードとの40年前の共作曲が5曲も収録される

ブルース・スプリングスティーンのバックバンドであるEストリートバンドのギタリストとして知られるニルス・ロフグレンだが、彼のソロ新作のタイトルは『Blue With Lou』で、この Lou とはルー・リードのこと。

この二人は1970年代末に共作しており、そのうち3曲はニルス・ロフグレンのアルバム『Nils』、別の3曲はルー・リードのアルバム『The Bells』に収録されている(いずれも1979年リリース)。

今回ニルス・ロフグレンが取り上げたのは、それらに収録されず、今まで未発表だった5曲になるそうな。基本的には、曲:ロフグレン、詞:リードらしい。

本来ならルー・リードの未発表曲が5曲もリリースされるとなれば、ワタシ的にもっと盛り上がってしかるべきだが、40年前ってルー・リードは低迷期にあったという認識があってですね。

しかし、これを機会に数年ぶりに Apple Music で『The Bells』を聴きなおしたところ、昔よりは好きに思えてきた。ただし、それはニルス・ロフグレンとの共作の力というよりは、このアルバムに全面的に参加し、やはり共作もしている、名トランぺッターのドン・チェリーの存在が大きいのだが……。

このアルバムタイトル曲は、ちょっと冗長かなとも思うが。

ともあれ、ニルス・ロフグレンのアルバムが Apple Music 入りしたら聴いてみないといけませんな。

Blue With Lou

Blue With Lou

『ビバリーヒルズ高校白書』と『ツイン・ピークス』と同時代人としてのワタシ

少し前に『ビバリーヒルズ高校白書ビバリーヒルズ青春白書)』のオリジナルキャストでの新番組がアナウンスされ、幸か不幸か、主要キャストを務める『リバーデイル』が成功しているルーク・ペリーは不参加かもと言われ、一方で今年公開されるクエンティン・タランティーノにも出演することでまた彼のキャリアに光が当たると思われたところでの早すぎる死をとても悲しく思う。

ビバリーヒルズ高校白書』については昔書いたことがあるが、アメリカのテレビドラマのシステムを知る意味でもワタシにとって実は大きな存在だった。リアルタイムで最初から見ていたわけではないし、最終シーズンはほぼ見ていないのだけど、よく再放送してくれた NHK には感謝しなきゃいかんのだろう。

昨年、『ツイン・ピークス』の新シリーズを DVD レンタルして観ていてふと思い当たったのだが、『ビバリーヒルズ高校白書』と『ツイン・ピークス』は同じ1990年開始なんだね。

この二つのドラマを並べて批評する人はいないだろう。ワタシにしても、それをするつもりはない。それでも、この二つが同時代の作品であることは動かしようがない事実なのである。さらに言えば、1990年に高校2年生だったワタシは、この二つのドラマの高校生の登場人物と設定上は同年代ということになる。この感覚は伝えるのが難しいのだが、それは忘れてはいけない感覚である。

ルーク・ペリーがそうであるように、実際に演じていた人たちはワタシよりも明らかに年長だったりするのだが、それでもドナ役のトリ・スペリングとデビッド役のブライアン・オースティン・グリーンは、ワタシと同年生まれだったりする。

ビバリーヒルズ高校白書』の登場人物たちは、高校生の分際で教師よりもいい車を乗り回すような金持ちだったりしてワタシなどまったく縁がない生活を送っているのだが、そこらへん不思議なのだが自分とはまったく別と割り切れるようで、ワタシはほとんど抵抗なく楽しんでいた。

ワタシとまったく別の世界を生きるというのでは、『ツイン・ピークス』も別の意味でそうなのだが、実はこちらのオリジナルのドラマを観たのは DVD の再リリース後の数年前だったりする。

高校時代テレビで放映したパイロット版を観てゾクゾクし、その後日本でもブームになったのもあり、大学に入ったらビデオをレンタルしようと思っていたのだが、ワタシにとって大学時代は文字通りの黒歴史というか、頭がおかしくてなぜか4年間どこのレンタル屋の会員にもならなかったのだ。

そうして数年前ようやく観た『ツイン・ピークス』は、よくこんな作品がアメリカで一時的とはいえ大受けし、カルトクラシックになったものだと呆れるほどヘンテコだし、そして面白かったが、やはりもっと早くに観るべきだったと苦くも思った。

そして、昨年観た新シリーズだが、当たり前だが旧作からの登場人物が25年老けていて、とんでもないスローペースなのにやはり呆れさせられた。

なにしろデヴィッド・リンチの作品だし、1話を観た時点でワタシなんぞがちゃんと理解しようとか考えても無駄というのが分かったので、そうした解釈は完全に放棄して、観るものを観るしかなかったので、賢しらな評価とか何も書けない。

個人的には旧シリーズでロクでなしの高校生だったボビー・ブリッグスがすっかり白髪頭になり、このシリーズを観ていてグッと涙がこみ上げるシーンの立役者だったのに、なんか救われるものがあった。これも説明が難しい感覚だが。

何しろ25年ぶりなので、丸太おばさんなど文字通り死の床で仕事を果たすキャストがいる中で、18話すべてを監督し、しかも役者として旧シリーズよりも遥かに出番の多いデヴィッド・リンチが一番元気なんじゃないかと、やはりアンタおかしいよと恐ろしくも思ったものである。

それはそうと、『ビバリーヒルズ青春白書』の新シリーズは……やはり見てしまうのだろうか。

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運び屋

クリント・イーストウッド『許されざる者』アカデミー賞をとったとき、もちろん作品として素晴らしかったのだけど、これまで映像作家としてちゃんと評価してこなかったイーストウッドの長年を功績を讃えての功労賞な空気があったように思う。

この時点でイーストウッドは還暦過ぎ、後は徐々にフェイドアウトでも不思議でなかったのが、彼の真の快進撃が始まるのはそこからだったというのが恐ろしい話である。還暦過ぎて撮る映画が純粋に良くなっていった人なんて他に知らない。早撮りの名手として言われ、映画からどんどんぜい肉はそぎ落とされ、リアリティ重視で撮影にしろライティングは排され、前作『15時17分、パリ行き』では、実際のテロ事件を題材にするにあたり、その当事者たちに本人役をやらせるというとんでもない領域まで到達してしまった。

イーストウッド『グラン・トリノ』で俳優としての引退を宣言したとき、誰もが永遠には生きられないという当たり前の事実を再確認した。その『グラン・トリノ』は、役者としての彼の落とし前をつける傑作で、ワタシは映画館で後半ずっと泣いていた。

俳優としての引退はその後覆されるのだが、まさかあの『グラン・トリノ』から10年(!)経って、また彼の監督・主演作を観れるとは、なんということだろう。それも90歳の老人が麻薬組織の運転手をやっていたという実際の事件を基にしているという。

一言で説明するなら、本作はイーストウッド『ブレイキング・バッド』と言えるかもしれない。しかし、主人公の愛されキャラが独特の弛緩をもたらす。イーストウッドは老いてからも、「ワシもすっかり歳なんじゃよ。でも、ヒーローやっちゃうし、女もコマすぞ」な映画をいくつも撮っているが、その最新版が見れようとは! これは確かに彼にしか作れない映画だ。

主人公を愛されキャラと書いたが、彼はそれこそ麻薬組織の強面な若造たちをも魅了する。当然女にもモテモテ(笑)だ。しかし、デイリリー(一日しか咲かない花!)の栽培と社交にかまけ、ずっと家族をないがしろにしてきた。当然離婚するし、娘の結婚式まですっぽかし、娘から10年以上口をきいてもらえない。

イーストウッドの映画はまぎれもなくアメリカの映画なのだが、ハリウッドの常識からはみ出る異物感がある。やはりというべきか、演出にははっきりおかしいところがある。例えば、主人公は麻薬組織の人間から携帯電話を渡され、電話が鳴ったらすぐに出ろとしつこく警告される。ならば劇中、一度くらい麻薬組織から電話が入る場面があってよさそうなものだが、電話が鳴ったと思ったらそれは家族からで、おい、そこで家族を組織の人間と間違うくらいの演出がなきゃダメだろ、とワタシなど思うのだが、『アメリカン・スナイパー』で赤ちゃん役に人形をあてがったイーストウッドにとって、そんなフックの必要性など眼中にないのか。

本作では、その『アメリカン・スナイパー』の主役だったブラッドリー・クーパーも、主人公と彼の人生の陰影を際立たせる絡みをやっていて、最後、車中にいるイーストウッドと車のドアを開けて立つクーパーとの会話の場面、逆光でイーストウッドの顔が真っ暗なカットがひたすら尊くて、もうどうにもたまらず泣いてしまった。

こんなことを書くと怒られるだろうが、本作は一種のジジイのファンタジーである。しかも、文句なしの強度と面白さとサスペンスのある映画であり、また書くがイーストウッドにしか作れない作品だ。『グラン・トリノ』が俳優としての彼の落とし前をつける映画だったが、一番大事なのは家族と主人公が悔恨とともに語り、その娘役に実の娘をあてがう本作は、イーストウッドなり一種の懺悔なのかもしれない。そして、それが普遍性のある物語になっている。

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