当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

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榎本幹朗『音楽が未来を連れてくる』を読んで、ジム・グリフィンと『デジタル音楽の行方』の蹉跌に思いを馳せる

yamdas.hatenablog.com

遅ればせながら、榎本幹朗『音楽が未来を連れてくる 時代を創った音楽ビジネス百年の革新者たち』を読了した。ワタシが読んだのは紙版だが、全体で600ページ超のずっしりくる、読み応えのある本だった。それだけの分量なので索引が割愛されているのだろうが、これはよくない傾向だと思うし、できれば DU BOOKS のサイトで PDF ファイルでもよいので提供してほしいところ。

著者の文章の面白さについてはワタシは何度も書いているが、とにかくストーリーテリングが強力で、歴史話を生き生きと読ませるし、その面白さが著者が思い描く「ポスト・サブスク」モデルにおける音楽産業の復活の話に結実する構成に力強さを感じる。

本書は1920年代、それこそエジソンの時代から現在までのおよそ100年間における音楽産業の隆盛と凋落の歴史を辿る。これを「〈危機〉を〈好機〉に変えた賢者の歴史」と読むこともできるだろうが、注目なのはその歴史に何人もの日本人、日本企業が名前を連ねているところで、これには著者の明確な意思を感じる。

つまり本書は「いやぁ、海外に比べて日本は遅れてますねぇ」的なイヤミを垂れ流すような本ではなくて、日本企業は音楽産業においてイノベーションに貢献してきたし、それは今も可能だという意思というかアジテーションが本書の最終章にあるわけだ。

アジテーション」という言葉を使ってしまったが、著者の現状認識は冷静だし、例えば「「ウェブ1.0はブラウザ中心の閲覧の時代、2.0はSNS中心のコミュニケーションの時代、3.0はブロックチェーンで中央集権解体と個人情報保護の時代」という論は、願望的予測のきらいがある。(p.589)」といった分析にもそれが伝わる。

著者がアジテートする「ポスト・サブスク」のフレームワーク、具体的には「定額制配信+都度課金」がどんなものかは、本書を読んでその真価をご判断くださいとしか言いようがないのだけど、やはりワタシを含め多くの人は、自分が若いときになじんだビジネスモデルこそが「正統(正当)」とどうしても思いがちなのに、ワタシと同世代の著者はその陥穽に落ちていない。

さて以下は、本書の内容から少し離れたワタシ個人の繰り言みたいなものである。

 「インターネットが普及すれば、音源のコピーを販売するビジネスモデルは崩壊する。だからダウンロード販売も上手くいかない」
 かつて定額制配信を提唱したジム・グリフィンはそう予言した。デジタルデータが無数の端末に複写されていくのがインターネットの技術的な本質だからだ。iTunesもCDも、実は根本的なビジネスモデルに変わりはなかった。楽曲のデジタルコピーを売ることでは同じだったからだ。iTunesが救世主とならなかった本当の理由は、まさにそれだった。
 iTunesミュージックストアが起こした革命は、音楽会社の流通を物流から通信に変えたことであり、エジソンが創始したビジネスモデルの根本は変わってなかったのだ。ダウンロード配信の失敗を予言したグリフィン。定額制ストリーミングの失敗を予言したジョブズ。まずジョブズの予言が当たり、やがてグリフィンの予言が当たるというのが、この二十年間だった。(pp.333-334)

このあたりにグッときてしまった。ワタシは2005年に『デジタル音楽の行方』を訳しているのだけど、ゲフィンレコードの CTO、ワーナーミュージックグループの社長など音楽業界の要職を歴任した、米レコード産業で思想的リーダーだった(『デジタル音楽の行方』では、当時 CEO を務めていた社名とともに「チェリー・レーン・デジタルの音楽未来思想家」と紹介されている)ジム・グリフィンは、『デジタル音楽の行方』にも謝辞に名前を挙げられており、その内容にも当然影響を与えている。そもそも『デジタル音楽の行方』が実現を訴える「水のような音楽」モデルは、端的にいえば定額制音楽配信サブスクリプションモデルとも言えるわけだ(が、それは現在の Spotify と同じではない。詳しくは後述)。

www.musicbusinessworldwide.com

そのジム・グリフィンは今年デジタルライツのテクノロジープラットフォーム Pex のデジタルライツ部門の VP に就任している。まだまだ現役ですね。

『デジタル音楽の行方』の本文にジム・グリフィンは2回登場しており、第1章の最初でアメリカのテレビ放送システムが広告収入に完全に依存しながら「資金プール」を作り出していることを指摘する彼の発言が引用されており、そして第7章でもその「資金プール」に関して彼の名前が再び引き合いに出される。

 デジタルネットワークの音楽に適用する自発的集合ライセンスが特に注意深く立案されれば、オンラインのファイル交換により生まれる大きな「資金プール」を作り出し、その後資金を分配する公平な手段を決めるだけで前述の問題を解決するかもしれない。レコード会社や出版社には自発的にそうした許諾システムを整備し、消費者がデジタル形式で欲しい音楽を容易に入手できるようにするチャンスが十分にあったことを考えると、彼らが自発的に行動するとはとても思えない。今となってはおなじみの理由からである。つまり、そうすると自分達がコントロールできないからというわけだ。しかし、ジム・グリフィンが非常に簡潔に延べる通りなのだ。「統制を行なう度に我々は敗北している。そのままにしておけば、必ずかつて戦った相手が我々に利益を与えてくれるようになる。我々には無秩序をお金に結びつける手段が必要だ」。(『デジタル音楽の行方』pp.200-201)

最初はサブスクリプションモデル、定額制ストリーミング配信を推すジム・グリフィンの予言は外れ、そのかわりにスティーブ・ジョブズiTunes ミュージックストアにおけるダウンロード販売が(海外では)成功した。そのまっただなかである2005年に(原書、邦訳とも)刊行された『デジタル音楽の行方』は、サブスクリプションどころかその前の iPod+iTunes モデルにすら乗り遅れまくっていた日本でまったく売れなかったのも仕方ない、と今更ながら自分をなぐさめたくなる。

しかし、である。iPodiTunes モデルに乗り遅れたことそのものを悪と短絡できないということは『音楽が未来を連れてくる』にも書かれており、問題の「資金プール」を作り出す手法において『デジタル音楽の行方』(とジム・グリフィン)は外していたことは正直に認めなくてはならない。『デジタル音楽の行方』が訴えた「水のような音楽」モデルは、イコール Spotify(や Apple Music)ではないのだ。

『デジタル音楽の行方』において、ジム・グリフィンの名前は自発的集合ライセンスによる「資金プール」の創出の文脈で名前が出てくる。もう一つ「資金プール」の創出法として『デジタル音楽の行方』には(機械的に徴収する)強制ライセンスも提案されており、ジム・グリフィンは「ISP 税」としてこの方式もアリなのではないかと提案し、電子フロンティア財団に批判されている。しかし、現実には「自発的集合ライセンス」とも「強制ライセンス」とも違った形で現在のサブスクリプションモデルは実現している。

だから、『デジタル音楽の行方』が「水のような音楽」で想定したほど安価ではないが、Spotify をはじめ(有料版は)各社月1000円前後という現実的な線で定額制音楽配信が実現している……が、それを「現実的」な値ごろ感と思うのはワタシが主に洋楽リスナーだからであって、日本の音楽産業ではまた話が違うというのは『音楽が未来を連れてくる』でも丁寧に説明されていることであり、そうした意味でワタシはこの本を読まれることをお勧めします。

wirelesswire.jp

ここからまた繰り言になるが、初代 iPhone が発売される2年以上前の段階で、2015年時点の「スマートフォン」の在り方を「ユニバーサル・モバイル・デバイスUMD)」としてかなりな精度で予測し、「水のような音楽」モデルを提唱した『デジタル音楽の行方』の売り上げがとても低調だったのは、訳者として残念でならない。もっと早くに安価な Kindle 版でも出ていれば少しは再評価が……とか未練がましいことを思ってしまう。

数年前、故郷の行きつけのバーで飲んでいて、何かの流れで佐野元春の話になり、うっかり「好きだし、恩義もある」と口走ったらすかさずマスターに聞きとがめられ、「恩義ってなんだよ。友達かよwww」と笑われてしまった。これは実生活で会う人でワタシが yomoyomo なことを知る人はほぼいないため起きる現象なのだが、ここでの「恩義」とは『デジタル音楽の行方』の表紙に佐野元春さんがコメントを寄せてくださったことに対するものである。佐野元春さんに限らず、この本に関してお世話になった方々に対する感謝の気持ちは、刊行から15年以上経った今も変わらない。

前回の更新時に『ウェブログ・ハンドブック』を久しぶりに取り上げて懐かしくなった流れで、『デジタル音楽の行方』も成仏(?)させたくて、取り上げさせてもらった。

コンピューター不正行為防止法の適用範囲を狭める米連邦最高裁の判断とアーロン・スワーツの名誉回復

security.srad.jp

取り上げるのが遅くなってしまったが、コンピューター不正行為防止法(Computer Fraud and Abuse Act、CFAA)の適用範囲を狭める判断を米連邦最高裁が行ったことの意義について、日本語圏で報道を見ないので今更ながら取り上げておく。

さて、その意義とは何か? 今回の最高裁の判断を受け、ローレンス・レッシグが以下のようにツイートしている。

すごい。これぞ本当のバースデイプレゼントだ。最高裁(バレット判事)はコンピューター不正行為防止法――アーロン・スワーツが犯したとされる法律――の適用範囲を根本的に狭めた。バレット判事の解釈を適用すれば、アーロンはまったく法を犯してなかったことになる。

2013年のはじめ、26歳の若さでこの世を去った Aaron Swartz の名誉回復(という言葉の使い方はおかしいかもしれないが)につながるということだ。余談だが、ツイート中の「バースデイプレゼント」とは、レッシグ教授がこのツイートをした前日に60歳の誕生日を迎えたことを指している……って、レッシグさん、還暦か!

wirelesswire.jp

ローレンス・レッシグが語るアーロン・スワーツについては、ワタシの文章が参考になるだろう。

「我々の多くは、アーロンを守るために何かできたのではないかと思いながら残りの人生を過ごすことになるだろう。それこそがあらゆる自殺がいたるところでもたらす残酷な帰結なのだ」というレッシグの言葉は、今なお涙なしには読めない。

wirelesswire.jp

アーロン・スワーツについてはこちらも参考まで。彼関係の本の邦訳は結局出なかったなぁ。

例によって、この二つの文章(の加筆修正版+追記)を含む電子書籍も宣伝させてください。

www.eff.org

この件を取り上げている電子フロンティア財団(EFF)のブログからも該当箇所を引用しておく。

EFF は CFAA などの不明瞭で危険なコンピュータ犯罪法を正すべく長年戦ってきました。本日最高裁が、CFAA の広すぎる適用範囲が、恣意的なサービス利用規約によってほとんどどのインターネットユーザをも犯罪者に仕立てる危険があることを認めたのを嬉しく思います。我々はアーロン・スワーツなど CFAA の濫用による悲劇的で不当な結果を忘れませんし、コンピュータ犯罪法がセキュリティ研究、ジャーナリズム、そしてそれ以外にも最終的に我々皆に恩恵をもたらすテクノロジーの今までにない、相互運用可能な利用を殺すことがなくなるよう戦い続けます。

他にもコリイ・ドクトロウPluralistic も参考までリンクしておく。

www.schneier.com

電子フロンティア財団は、最高裁の判断のセキュリティ研究への影響について触れているが、ブルース・シュナイアーも今回は良い判決で、セキュリティ研究者に恩恵をもたらすものと見ているが、ちょっと気になる点が残っているのに触れているのに注意が必要かもしれない。

キャス・サンスティーン並びに「ナッジ」の入門書となるであろう『入門・行動科学と公共政策』が来月刊行

yamdas.hatenablog.com

昨年秋にキャス・サンスティーンの新刊が期間限定で無料公開されていることを取り上げた。「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2021年版)」では、「薄い本なので邦訳は出ないだろう」と書いちゃったけど、来月勁草書房から『入門・行動科学と公共政策』という本が出るのを知る。書名といい、200ページ足らずの分量といい、これはワタシが取り上げた本の邦訳じゃないですかね。

何度も書いているが、ワタシにとってキャス・サンスティーンの重要な仕事は『#リパブリック』方面なのだけど、一般にはそれより「ナッジ」の人だろう。コロナ禍において「行動科学と公共政策」はまぎれもなく重要なテーマなわけで、書名に「入門」の文字があるが、これはサンスティーン並びにナッジの入門書と言えるんじゃないかな。

courrier.jp

何度も書くようにサンスティーンは多作な人で、今彼の本で話題になっているのは『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンらとの共著だけど、これも来年あたり邦訳が出るに決まっている。

この本の元となったカーネマンの論文は、実は既に邦訳が電子書籍になってるのね。

TED-Edに「羅生門効果」についての動画があがっている(が、例によって日本語字幕がまだない)

kottke.org

少し前に「アマチュア天文家から世界的な太陽観測者となった小山ひさ子は日本版『Hidden Figures』なのか?」という文章を書いたが、そのときと同じく kottke.org 経由で TED-Ed 講演動画の紹介である。

そして、今回も日本が関係しているコンテンツなのに、やはり日本語字幕がついていないというのも共通している(涙)。本文執筆時点で5か国語の字幕がついているが、その中に日本語はない。そういえば、小山ひさ子さんの動画についている字幕は11か国語まで増えているが、未だ日本語はない。

さて、今回紹介する動画は、「羅生門効果(The Rashomon Effect)」についての文章である。「羅生門効果」とは何か?

yamdas.hatenablog.com

実はワタシはこれについて2009年に取り上げているのである。この当時はまだなかった Wikipedia 日本語版項目から引用しよう。

羅生門効果(らしょうもんこうか、英: Rashomon effect)とは、ひとつの出来事において、人々がそれぞれに見解を主張すると矛盾してしまう現象のことであり、心理学、犯罪学、社会学などの社会科学で使われることがある。

羅生門効果 - Wikipedia

もちろん黒澤明の映画『羅生門』に由来するわけだが、上の動画は、芥川龍之介の「藪の中」にちゃんと触れているのが好感度が高い。「藪の中」では、見つかった男の死体についての当事者の証言が異なる話だが、『羅生門』ではそれぞれの証言の虚実の描き方、さらには原作には登場しない(よね?)志村喬演じる杣売りによる真相の証言がポイントなわけである。

BS プレミアムは近年、一年に一度は黒澤明の代表作をだいたい放送してくれるおかげで、ワタシ自身は『羅生門』を一昨年だかに初めてちゃんと観たのだけど、酒を飲みながらの鑑賞だったため、映画の終わり方については記憶がかなりあやふやになっている(笑)。

そうそう、はてなダイアリーからはてなブログへの移行時に消えてしまったようだが、上で取り上げた2009年のエントリには、ユーゴスラビアでは(やはり黒澤明の映画が由来で)Rashomon というと「出羽亀」の意味になっているという山形浩生のコメントがあったっけ。

www.studiobinder.com

こちらも今年書かれた「羅生門効果」についての文章だが、映画でこの効果を表現する上でのポイントとして以下の3つが挙げられている。

  1. 見解の不一致(例:クエンティン・タランティーノレザボア・ドッグス』)
  2. 信頼できない語り手(例:『デヴィッド・フィンチャー『ゴーン・ガール』
  3. 不明瞭なエンディング

早く TED-Ed 動画に日本語字幕がつけばよいなと思います。

今日、ピーター・フォークが亡くなって10年になる……

yamdas.hatenablog.com

ピーター・フォークの死を受けて書いた文章だが、彼が亡くなったのは2011年6月23日、つまり今日で彼の没後10年ということになる。10年か……。

ピーター・フォークというとなんといっても『刑事コロンボ』なわけだが、「日本版コロンボ」とも言われた古畑任三郎を演じた田村正和も今年亡くなっている。みんな死んでいくんだなぁ。

yamdas.hatenablog.com

ありがたいことに『刑事コロンボ』は今も NHK BS などで観られるので、あえてコロンボ以外のピーター・フォークの代表的な仕事で、廉価なディスクが出ているものを紹介しておきたい。

いろんなジャンルの映画を手堅く撮っているためか、逆になかなか大きく再評価されてないようにみえるロバート・アルドリッチ女子プロレスを題材にした遺作『カリフォルニア・ドールズ』がまずは浮かぶ。

続いては名探偵による推理もののパロディー『名探偵登場』

トルーマン・カポーティの出演が印象的な作品だが、そうでなくても豪華キャストが楽しい。この映画の脚本はニール・サイモンだが、彼の代表作『サンシャイン・ボーイズ』をフォークとウディ・アレンが主役コンビを演じたテレビ映画版(asin:B00005H6IP)もワタシは好きだったりする。が、これは DVD 化されてないようで残念。

そして、フォークが主に1970年代に何度もタッグを組んだジョン・カサヴェテスの映画では、『こわれゆく女』でしょうか。この映画でジーナ・ローランズが、ゴールデングローブ賞最優秀主演女優賞を受賞している。

そういえばジョン・カサヴェテスというと、今年に入って5枚組 Blu-ray BOX が再発されており、これを書いている時点で二割引きなので、お好きな方はどうぞ。これにも『こわれゆく女』は入っている。

もちろん『ベルリン・天使の詩』も彼の代表作の一つだが、廉価なディスクはないのが残念。それを含め、この文章で名前を挙げたピーター・フォークの代表作が(Amazon Prime Video だけじゃなく)Netflix にも入ったら個人的に嬉しいのだけど。

レベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック』から引用するネット老人会的歴史証言

少し前におよそ20年前のブログの歴史周りのことが少し話題になっていた。

このあたりはワタシにとっても懐かしい話なので、一週間経って沈静化したところで(これがウェブで長続きするヒケツ)、レベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック』を引用して、アメリカ人である著者の目線を中心に当時のことを振り返っておきたい。

もちろんアメリカでもブログ自体は2001/9/11(アメリカ同時多発テロ事件)より前からあったわけだが、レベッカ・ブラッドは、自身がウェブログを始めた当時(1999年4月だったかな)を振り返って以下のように書いている。

 私がRebecca's Pocketを始めたとき,ウェブログの数は全部で50から100の間だった――念入りに追うには多過ぎるが,新顔がリストに加えられたら,皆が気付く程度には少なかった。そのとき,私はゲームに出遅れたことをわずかに恥ずかしく感じた。でも,その後,最初のウェブログ管理ツールが登場すると,たった数ヶ月のうちに,私は古参ウェブロガーの一人と見なされるようになった。ウェブログの数が爆発的に増えたのだ。突如として,誰もいくつのウェブログが存在するのか,そして,その半分でも見たいという願いが適うのかもわからなくなった。(p.142)

これだけ見ると、日本のウェブ日記コミュニティのほうが4、5年くらい進んでいたようにも読める。

1999年時点でレベッカ・ブラッドには「乗り遅れた!」という感覚があったわけだ。しかし、同年に「最初のウェブログ管理ツール」が登場すると、ブログの数は爆発的に増えた。それは(現在は Google が所有する)Blogger である。

 ウェブログの定義に関する議論は,1999年8月にBloggerが登場したことで激しさを増した。Bloggerは,ウェブログの更新を自動化したいくつかのサービスのうちの1つに過ぎないが,間違いなく一番普及した。簡単に使えるソフトウェアだったため,誰もがウェブログを公開できるようにしたツールとして広く知られることとなり,HTMLを知らない多くのユーザーを惹き付けた。Bloggerは,投稿にリンクを簡単に追加できるインターフェイスを提供していなかったので,Bloggerによって作られた新しいサイトは,お喋りや個人的な意見からなるエントリが続くことになり,他サイトへのリンクは,あったとしても少しだった。そうしたサイトを作るのに使われたソフトウェアの名前がBloggerだったものだから,それを使う人達は皆,自分達のサイトをウェブログとみなした。
 かつてはリンクが重要だったウェブログは,突如,巨大で,なおかつ成長を続けているコミュニティによって覆われてしまった。そこでは,Bloggerを使い,それまでのウェブログとは全く異なる種類のサイトが作られていた。文字通り数千もの新しいBloggerサイトが,ものの数カ月で作られたのだ。マスコミは,その会社の,若く,カリスマ性のある創業者の周りに群がり,その公開ツールとコミュニティを混同した。スタートアップ企業向けの資金を求めており,どんなマスコミへの露出もありがたかったMeg HourihanとEvan Williamsは,自分達の製品を説明し,増大するユーザーベースを大げさに宣伝した。次から次へと記事が掲載され,そこではBloggerで作成されたウェブサイトこそがウェブログであると定義された。MegかEvがこの考えを打ち消すことを何か言ってさえいれば,そうした定義は出版された記事には決して載らなかっただろう。(pp.204-205)

これを読めば、レベッカ・ブラッドが Blogger をあまり高く評価していないのが伝わるだろう。彼女はウェブログを、短文からなる日記に近い「ブログ」、コンテンツが長めの「ノートブック」、外部サイトへのリンク中心の「フィルタ」の三つに分類していて、フィルタこそを古典的な、つまりは本来あるべきウェブログのスタイルと考えている節がある。その価値観からすれば、Blogger によって急激に増えた「ブログ」は違和感を覚えるものだったということだ。

その後彼女は認識をある程度変えたことも『ウェブログ・ハンドブック』にあるのを念のため書いておくが、自分が精通したスタイルこそ正統と考え、そこから外れた新興勢力を邪道と見なすのは、多かれ少なかれ誰にもでもある傾向だろう。

これは1999年の話だが、それから10年後の2009年に、ワタシは「敢えてブログは重要だと言いたい」という文章を書いている。そこで取り上げた The Blogosphere 2.0 というブログエントリで、当時ブログがつまらなくなった理由に「Huffington Post」が挙げられていて、Huffington Post のブログ記事が「他のブログにリンクしないなど従来のブロゴスフィアを形造ってきた規範に従っていない」という指摘に、メジャーなものが出てくると「あれは自分たちの流儀に反している」というパターンを繰り返すんだなと思った覚えがある。

当然『ウェブログ・ハンドブック』はレベッカ・ブラッドの主観をベースとしており、それがとても良いのだけど、それとはまた違った見方でのブログ史として、実はこの文章で取り上げてる本の邦訳であるスコット・ローゼンバーグ『ブログ誕生 ―総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア』を今でもおススメします。

1999 年においても,ウェブログはちっとも新しいものではなかった。新しかったのは,この種のサイトの周りにできたコミュニティである。(p.207)

そうしたレベッカ・ブラッドなので、9.11がブログコミュニティにもたらした影響についての語りも、通り一遍ではない。

 9.11の後,生存者が大きな悲劇の目撃者の証言を共有するにつれ,自然発生的なストーリーテリングの力が明らかになった。フィルタタイプのウェブログは,かつてよりも多くのオーディエンスを惹き付け,人間による選別の力と有益さを決定的に示すことで,今一度最先端の位置に浮上した。また,9.11 は「ウォーブログ(warblogs)」世代を生んだ。ウォーブログの大半は,テロリストの攻撃に対する合衆国の反応に焦点を絞ったタカ派のサイトだった。ウォーブログは,元々左寄りだったコミュニティに,保守派やリバータリアンの主張をもたらすことにもなった。
 9.11後には,メインストリームのメディアから,よくできた1つのウェブログが,コミュニティにもたらされた。(pp.211-212)

この後書かれるのはコラムニスト/ジャーナリストのブログ参入による pro-blogger 化の話で、そうした意味で「ブログというメディアが広がったのは、20年前の9/11テロがきっかけ」というのも必ずしも間違いではない。

こちらについても触れておくと、確かに Slashdot はブログなのか? そうでないのか? というのも昔話題になったものだが、レベッカ・ブラッドは以下のように書いている。

 オンライン雑誌コミュニティに属するメンバーの何人かは,ウェブログの「主張のなさ」を非難し,ウェブログを下らないリンクの羅列だと評すことで,大っぴらに敵意を示した。この新しい形態に興奮し,より大きなオンラインコミュニティの地位を占めることを熱望していたウェブロガーは,不意打ちを食らった格好となった。怒りに満ちたウェブログエントリが,コミュニティ全体の注意を,「個人ウェブサイトマフィア」のいろんなメンバーによって書かれた文章に向けた。それらの記事は,敵対的なものから単に横柄なだけのものまで,多岐に渡っていた。Slashdotでは,Jon Katzがオンラインコミュニティを扱った論説の中で,ウェブログ現象に言及した。しかし,Slashdotコミュニティは興味なさげだった。
 さて,ここが重要なところである。というのも,ウェブログの歴史に関する議論は,形態よりもコミュニティが重視されるからだ。1997年に始まったSlashdotは,しばしば初期のウェブログとして引き合いに出されるが,同じくらいの頻度で議論フォーラムとしても位置付けられている。Slashdotの編集者は,自分達のサイトを「News for Nerds(ヲタクのためのニュース)」と呼んでいるが,毎日面白い記事のリンクを掲載し,最新のリンクがページの1 番上に表示される。サイト内では,コミュニティのメンバーがコメントを投稿する。偏見抜きで見れば,Slashdotは議論掲示板付きの共同制作のウェブログではあるが,ウェブログムーブメントが根付く前に,ウェブにおける地位を十分に確立していたため,この2 つのコミュニティは決して合流しなかった。

これは貴重な歴史証言で、当時の雰囲気をよく伝えている。Slashdot は初期のウェブログとして引き合いに出されるし、佐渡秀治さんが書かれるようにそのコミュニティの力がオープンソース運動に寄与したのは間違いない。

Jon KatzSlashdotウェブログムーブメントに言及しても、Slashdot コミュニティは興味なさげだったという話は興味深い。つまり、これは Slashdot に当時(1999年)既に確固たるコミュニティがあった裏返しでもある。これはレベッカ・ブラッドがウェブログコミュニティの価値を強調するのとパラレルな話で、この新しいムーブメントとつながるところがありますよと誘い水を向けられても、いや、SlashdotSlashdot でオリジナルだし、栄えてるし、ぽっと出の何かと仲間にされてもね、と当時の Slashdot ユーザが考えても不思議ではなかったわけだ。

レベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック』も原著は2002年、邦訳は2003年刊行で、要は20年近く前の本ということになる(うげっ!)。久しぶりに読んで、こうやってそこから引用してワタシが連想するのは、「歴史は繰り返さず、韻を踏む(History doesn't repeat itself, but it does rhyme.)」というマーク・トウェインの言葉だったりする。

「デザイン思考」の次に流行るであろう「SF思考/SFプロトタイピング」に関する重要人物

toyokeizai.net

www.nikkei.com

先週、まさに「突如」という感じでビジネス界の「SF」への熱い視線について書かれた記事を二つ見かけた。

記事を読んでみると、サイエンスフィクションの想像力は昔からビジネス、というかイノベーションに貢献してきたのが分かるのだけど、コロナ禍により注目された作品に SF がいくつもあったこと、また企業が抱える閉塞感の打破の欲求に未来を描く SF 作品からの「逆算」が期待されることで、SF(作家)に期待が高まった流れが伝わる。

そうした意味で、個人的には2020年夏からフジテレビで放送された世界SF作家会議(番組は現在も YouTube8.8 channel ですべて見れるはず)の役割は大きかったと思う。

おっちょこちょいなワタシなど(書名に冠した本がいっぱい出た)「デザイン思考」の次は「SF思考」だ! とか軽薄なトレンド分析もどきをしそうになるが、「SFを通じた未来予測から、未来に向けたビジョンを探究し、今後起こる問題への解決法を見つけ出す手法」としての「SFプロトタイピング」という言葉も、またしても軽薄なトレンド分析もどきとして書くなら、2021年の流行語大賞にランク入りするのではと今から勝手に予想しておく。

「SFプロトタイピング」についてもっとも早くから本腰で取り組んでいたところでは、ちょうど一年前に雑誌連動特集『Sci-Fiプロトタイピング』として「SFがプロトタイプする未来」を打ち出し、その後もWIRED Sci-Fiプロトタイピング研究所を立ち上げた Wired ではないだろうか。

Wired の編集長の松島倫明さんは、大変な才人だとお見受けする。

鈍いワタシもさすがにこれで「SFプロトタイピング」という言葉を知ったのだが、この企画(や世界SF作家会議)に参加している樋口恭介さんTwitter でフォローしているおかげで、氏のイキり威勢のいいツイート経由でこの話題もなんとか追うことができた。

さて、先週「SF思考/SFプロトタイピング」についての記事がたて続けに出たのは、つまりはこれをテーマとする書籍がこの夏いくつも出るということでもある。

その中に樋口恭介さんの新刊、共著が含まれるのは言うまでもない。

樋口恭介さんの本では、およそ一年前に刊行された『すべて名もなき未来』もかなり面白かったが、「SFマガジン」2021年6月号の異常論文特集の監修といいすごい勢いである。多くの若い人がこの重要人物の仕事に感化され、乱反射してくれると面白いことになると思う。

『スタートアップ・マネジメント』邦訳が出たと思ったら、原著者の新刊『Startup CXO』も出ていた

avc.com

フレッド・ウィルソンが、友人であるマット・ブラムバーグの新刊『Startup CXO』を紹介している。640ページの分量のため、真っ先に出た言葉が「こいつは重い本だな!」だったりする(笑)。

ウィルソンは、これは(おそらくは頭から読み通す)本ではないと書く。これは経営陣や企業をスケールする「フィールドマニュアル」で、会社の机に入れておき、折に触れて取り出しては問題への取り組みを理解したり、経営者のその取り組み方を理解するための本だと(だから Kindle 版よりハードカバー買ったほうがいいよ)とのこと。

著者について調べ始めたら The Startup CEO blog に行き当たり、この著者って『The Startup CEO』の著者だったのかと思い当たった。

さらに調べると、『The Startup CEO』は少し前に『スタートアップ・マネジメント』として邦訳が出たばかりだった。

日本を代表するユニコーン企業・PaidyのCEO杉江陸が、座右の書『Startup CEO』を自ら翻訳。

スタートアップ・マネジメント | 書籍 | ダイヤモンド社

これが内容紹介の最初に書かれているのに少し面食らったが、それだけ Paidy 並びにその CEO にネームバリューがあるのだろうか。ワタシなど昨年はじめにあった事件で認識が止まっていたので、それを改めないといけない。

『スタートアップ・マネジメント』が売れたら『Startup CXO』の邦訳も出やすくなるだろうが、何しろ640ページのボリュームなので難しいか。

歌川広重が遺した11枚の影絵がなんとも楽しく、心を和ませる

kottke.org

歌川広重(かつては安藤広重とも呼ばれた)というと江戸時代の浮世絵師で、「東海道五十三次」「名所江戸百景」といった作品で知られる……とか通り一遍のことしかワタシも知らないのだが、彼が描いた影絵の連作が取り上げられている。

影絵の一覧を見ていただければ、人が様々なポーズをとった絵、そしてそれが光に照らされてできる影絵のいずれもどこかユーモラスで、心が和ませるものがあると賛同いただけるのではないだろうか。

さて、この浮世絵検索サイト日本語版)だが、はてなブックマークを見る限り、2013年には存在していたようだ。しかもこのサイトって jQuery の作者として知られる John Resig が作ったものなのか! 恥ずかしながら知らなんだ。

こうやって浮世絵を自由に検索でき、またそれをブログにコピーできるのは、それがパブリックドメインだからと言える。浮世絵とパブリックドメインというと、2年前に「葛飾北斎の傑作「神奈川沖浪裏」が博物館、著作権、そして今日のオンラインコレクションについて教えてくれること」というエントリを書いているが、こうした先人の偉業を人類に知らしめる仕事をもっと日本政府がやっていいとも思うのだが、つくづくそうした面での期待というか信頼が失われたのがこの一年あまりというのも現実なわけで。

ファーザー

先日帰省した際に時間に空きができたので観に行った。数か月前の『ノマドランド』もそうだが、なんか映画を観に帰省しているような気すらするよ。それにしてもコロナ禍のせいで行けなかった映画がいくつもあって恨めしい。本作は終映近かったためか、客はワタシとあともう一人の年輩男性のみで、これはワタシ的に新記録(?)だった。

さて、本作でアンソニー・ホプキンスは、今年のアカデミー賞において『マ・レイニーのブラックボトム』のチャドウィック・ボーズマンが本命視される中、二度目のアカデミー主演男優賞をかっさらってそのままほぼ沈黙のままテレビ中継が終了という放送事故に近い事態を引き起こした。

『マ・レイニーのブラックボトム』については別途感想を書くつもりで、舞台劇が元になった映画なのが観ていて伝わるのが本作と共通しているが、純粋に主演男優の演技のみを評価するならば、アンソニー・ホプキンスの受賞は妥当としか言いようがない。

やはり一般には『羊たちの沈黙』レクター博士役になるのだろうが、それがなくてもイギリスを代表する名優である。近年の作品では『ヒッチコック』はあまり感心しなかったが、『2人のローマ教皇』は良かった。

その彼が認知症の老人を演じる本作は、時にチャーミングだったり意地悪かったり目まぐるしく感情の表現を変える、快活な老人の自負がただの思い込みでしかなく、基本的な世界の認知(ここは私のフラットだ! ……よね?)が揺らぐ際の動揺まで表現するアンソニー・ホプキンスの演技がやはりすごい。最後になって、自分がある場所に来たことを理解した主人公(役名もアンソニー)が感情をさらけ出すところは、彼の存在あってこそとどうしても思ってしまう。

面白いのは、認知症患者から見た世界にその彼の世話をする家族の感覚まで(老人虐待の問題も含め)シームレスに侵入する描き方により、観ている側にも微妙な緊張を強い、ほとんど心理ホラーの領域に達しているところ。

ワタシは本作を観ながら伯母のことを思い出していた。2年半前の年末、美容院でパーマをかけている途中でなぜか洗濯物を思い出して帰宅し、自宅の玄関で転び大けがを負ったのだが、その日帰省したワタシはその伯母と彼女の家で食事を共にする予定だったため、いくら電話しても通じず、事態を知って仰天したものである(ことの始まりの時点でなんだかなぁなのだが、老人介護の現場はそれの積み重ねなのだ)。

腕の骨を折り、また顔にもインパクトのある損傷を負って入院した伯母を翌日から何度か見舞ったが、前回ワタシが来たことを見事に覚えておらず、およそ5年前に亡くなった娘(ワタシからすればいとこ)がやってきたとワタシに訴え、看護師が来れば、家族が来たから今すぐここから出してくれと訴える伯母を見て、これはもうここから出られるまで回復することはないのではないかと正直思ったくらいである。

娘がやってきたというのを除いても、彼女がベッドで語る話はもはやマジックリアリズムの域に達していた。ただワタシぐらいの歳になると、例えば高熱を出した時に見る悪夢の類を思い出し、彼女の状態もそれなりに想像できる。高齢で唐突に身体の自由が利かなくなった伯母は、そうした不快な現実に耐えていたのだ。

ありがたいことに二月あまりかかったが伯母は退院でき、その後現在まで息子夫婦と福祉の力を借りながら、一人の生活を成り立たせている。退院後、彼女の家で一緒に食事することも叶ったが、ご存知の通りコロナ禍により(県外の人間と会うと、二週間介護ケアを受けられないため)、昨年の2月を最後に一年以上会えていない。月に一度以上は電話を入れているが、先日電話したときも、急に改まった感じで、「あんたには言っておかなくてはならない」と言い出したので何かと思ったら、「娘がやってきて、ずっと私に謝るのだがどういう言うだろうか?」という話だった。

正式に診断を行えば、伯母は認知症に分類されるのだろう。だけど、だからなんだと言うのだ? 本作で描かれる過去と現在の意識の混濁、(おそらく)主人公の夢として現れる思い出したくない次女の悲劇を見て、ワタシは伯母のことをどうしても思い出し、この映画を多くの日本人に観てほしいと思ったし、そして早くまた伯母と会える日が来てほしいと切に思った。

クリエイティブ・コモンズ設立20周年を祝い、久方ぶりに寄付をした #CCTurns20

creativecommons.org

2001年にローレンス・レッシグによって立ち上げられた Creative Commons が今年20周年を迎えている。

やはり今年 Wikipedia も20周年を迎えているが、クリエイティブ・コモンズの場合、ウィキペディアほど人口に膾炙していない。それでもよくここまで活動が続いてきたものだと敬意を払わずにはいられない。

20 Years: Better Sharing, Brighter Future という特設ページができているが、やはりそこで真っ先に訴えられているのは寄付のお願いである。

思えば、Creative Commons には2015年以来寄付をしていない(折角の機会なので、自分のメールを検索したら、Mozilla Foundation には2018年、Internet Archive には2019年、Wikimedia Foundation には2020年に寄付している)。

www.classy.org

そういうわけで、今回も大した額ではないが、キャンペーンページから久方ぶりに寄付をさせてもらった。CC は寄付をするとTシャツがもらえるのが楽しみだったが、もうそういうのはなくなったのかな。

思えばこのブログ自体 Creative Commons ライセンスの表示 - 非営利 - 継承 4.0 国際 — CC BY-NC-SA 4.0を指定しているし、昔「クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのブログ翻訳のススメ」なんて文章を書いたものだ(遠い目)。

「情報共有の未来」と題した連載を ワイアードビジョンワイヤレスワイヤーニュースと媒体をまたいでやっていた人間にとって、Creative Commons が掲げる「シェア」の理念は重要なものに違いないわけで。

『インスタグラム:野望の果ての真実』が2021年版洋書紹介特集本で最初の邦訳本になるようだ

「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2021年版)」で紹介した本の中で、果たしてどの本の邦訳が最初に出るか(ワタシだけが)気になるところだったのだが、サラ・フライヤーのインスタグラム創業物語がそれになる模様。

原書のハードカバーが出たのが昨年4月なので、比較的早い邦訳登場と言えるでしょうね。

「「暴君」Facebookの傘下でもがくInstagramの理想と野望、そして裏切り。100%の共感と教訓に満ちた実録ビジネスドラマ」とのことで、これは楽しみですね。もう少し中身を知りたい方はカタパルトスープレックスの書評をどうぞ。

www.catapultsuplex.com

さて、この本の版元はNewsPicksパブリッシングなのだけど、ここって刊行している本の個別ページがないようで、刊行書籍一覧からのリンク先はすべて Amazon である割り切りである。その代わりに公式 note があるところが今どきなんでしょうな。

サイバーセキュリティと言えばニンジャ? Cyberjutsu(サイバー術)というセキュリティ本が面白そうだ

確か Facebook 経由で知ったはずだが、No Starch Press から Cyberjutsu という本が出ていて受けてしまった。

「サイバー術」ってなんじゃそりゃと思うが、"Cybersecurity for the Modern Ninja" という副題からも分かる通り、これはサイバーセキュリティ本なんですね。忍者のテクニック、戦術、流儀に基づく実践的なサイバーセキュリティのフィールドガイドとのこと。マジかよ。

本の公式サイトができているが、著者の Ben McCarty はアメリカ国家安全保障局NSA)やアメリカ陸軍での勤務経験があるサイバーセキュリティ分野におけるエキスパートとのこと。

おいおい(笑)と思うが、こういうの憎めないんだよねぇ。アジャイルがサムライなら、セキュリティはニンジャというわけか? 邦訳が期待ですな。

アマチュア天文家から世界的な太陽観測者となった小山ひさ子は日本版『Hidden Figures』なのか?

自らの不明を恥じる、という表現が適切だと思うが、kottke.org 経由で知った TED-EdYouTube チャンネルで先月公開された動画を見て驚いた。

この動画で「The woman who stared at the sun(太陽を見つめた女性)」と紹介されている小山ひさ子のことをまったく知らなかったからだ。

でも、それはワタシだけではないのかもしれない。だいたい Wikipedia 英語版には Hisako Koyama というページができているが、日本語版がない!

それにこの TED-Ed 動画自体、本文執筆時点で7か国語の字幕がついているが、その中に日本語はない。なんてこったい。

彼女の著書を探したが、Amazon には一冊しか登録がなく、しかも書影が明らかに別の本だったりする。ヒドい話だ。

www.pbs.org

2017年には PBS に小山ひさ子を日本の「hidden figure」と紹介する記事が公開されているが、その少し前に公開された映画『Hidden Figures』(邦題は『ドリーム』)にかけているのは言うまでもない。

日本語で読める彼女の紹介記事は以下の二つが代表的なものかな。

女性が科学者になるのが今よりずっと難しかった時代に太陽の観測、特に黒点の記録を数十年に渡って続け(同じ人物が同じ望遠鏡、同じ観測方法で太陽を記録し続けた例はほとんどない!)、彼女の死後、ガリレオ以来の太陽の黒点観測記録の見直しが行われる過程で彼女の粘り強い仕事が(TED-Ed の動画から引用すれば)「人類史における太陽活動のもっとも重要な記録」として高く評価されるようになったという。すごい話ではないか。TED-Ed の動画に早く日本語字幕がつくことを願う。

映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の内容はでっち上げで、フランク・アバグネイルの自己宣伝こそ彼の最高の詐欺だった?

whyy.org

スティーヴン・スピルバーグの映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』はワタシも公開時に観て楽しんだが、ブログの感想をリンクしようと探したが見つからない。この映画は、ワタシがはてなダイアリーでブログを書くようになる少し前に公開された映画なんだね。

さて、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の元となったフランク・アバグネイルの自伝小説の信憑性については以前から議論があり、フランク・アバグネイル自身本の共著者に責任を被せるような言い訳をしているが、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の主人公である詐欺師の「神話」を作り上げたことこそが、フランク・アバグネイルが実際に行った最高の詐欺だというのが新しく出た本のテーマらしい。

つまり、あるティーンエイジャーが、あるときはパンアメリカン航空パイロット、あるときは医師、あるときは弁護士と職業を偽装しながら、各地で偽造小切手を使った詐欺事件を起こしながら FBI の捜査官から逃げおおせたという話自体がほぼ作り話だというのだ。

実際には、アバグネイルはトランス・ワールド航空のパイロットを装い、ポーラ・パークスという客室乗務員を追いかけまわし、ほとんどストーキングの勢いで交際を迫ったという。彼女がバトンルージュの両親を訪ねると彼もついてきて、彼女はそうではなかったが、彼女の家族が彼のことを信用し、親切心を起こした。アバグネイルは彼らの小切手を盗むことでその恩を仇で返した。彼が小切手詐欺で騙したのはホテルや銀行、という話はウソなんですね。

この件でアバグネイルは逮捕されるわけだが、ティーンエイジャーだった彼が FBI に追われてそれこそ世界中を逃げ回ったという話は完全にフィクションで、その期間のほとんどを彼は刑務所に収監されていたのだ。

1974年に仮釈放されたアバグネイルはすぐに窃盗で逮捕されてしまうのだが、保護観察官に勧められて自分の話を売り込むことで彼の人生は変わる。最初は小規模な講演会で自分が犯した罪の話をしていたのが、どんどん話が大きくなっていき、1977年には To Tell the Truth という全国放送のテレビ番組への出演を果たしてしまう。このテレビ番組は実は現在も放送されているのだが、なんというか皮肉な番組名である。

そこでアバグネイルが披露した(嘘の)話が大受け。すぐ後に「トゥデイ」ジョニー・カーソンの「ザ・トゥナイト・ショー」と全国区のテレビ番組に次々と出演するようになる。

1978年にはサンフランシスコ・クロニクルの記者がアバグネイルの話を検証し、アバグネイルが吹聴する話が本当でないことを記事にし、その後にもアバグネイルの嘘を暴く記者が続くのだが、インターネットなどない時代、彼らの検証記事は広まらず、巧みに語られるアバグネイルの魅力的な法螺話のほうが人々の記憶に残り、しまいには『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』として映画化されてしまう。

そこで、フランク・アバグネイルの自己宣伝によって詐欺師の「神話」を作り上げたことこそが、彼が行った最高の詐欺だという結論になるのだが、それならインターネットがある現在ならアバグネイルの嘘はすぐに潰されたのだろうか?

そうかもしれないが、今回アバグネイルの嘘を検証する本を書いたアラン・ローガンは、誤情報がすごい勢いで広まることは十分に証明されており、特に有名人が陰謀論を支持すると、真実がどこにあるのかを理解するのが難しくなる、という話をしているのが面白い。

そこで一歩身を引き、一息ついて考えてみる健全な懐疑心を持つことが大切という教訓が導き出せるわけだが、やはりインターネットがあろうがなかろうが誰でもある種の話に騙される可能性はあり、自分だけが例外と思っちゃいけないということだろう。

ネタ元は Boing Boing

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