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邦訳の刊行が期待されるのに未だ出てないのが残念な洋書10冊を改めて紹介

さて、ワタシのブログでは、だいたいゴールデンウィークのあたりで、「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする」という企画をやるのが恒例になっている(過去回は「洋書紹介特集」カテゴリから辿れます)。

よほどのことがなければ、本ブログの次回の更新はその2023年編になるのだが、過去12回(!)もこの企画をやっていると、「あの本の邦訳、結局出なかったな。なんでかなー?」と思う本が出てくる。

原書が出て数年経てば邦訳を諦めてしまうのだが、原著刊行から5年以上の時を経て邦訳が出た『マスターアルゴリズム』、さらには原著刊行から10年以上(!)の時を経て邦訳が出たばかりのデヴィッド・バーン『音楽のはたらき』を知ると、そう簡単に諦めてはいけないのかなと思ったりもする。

そういうわけで、過去12回の「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする」エントリから未だ邦訳が出ていないのを残念に思う本を改めて紹介させてもらう。

原書刊行からまだ1年経過していない本は対象から除外している。こちらの調べが足らず、実は既に邦訳が出ていたり、またこれから出るという情報をご存知の方はコメントなりで教えていただけるとありがたいです。

ナイル・ロジャース『Le Freak: An Upside Down Story of Family, Disco, and Destiny』

yamdas.hatenablog.com

Chic としての70年代、ロックポップ方面のプロデューサーとして活躍した80年代、そして90年代以降も Chic の再結成、映画やゲーム音楽のサントラ、ダフト・パンクとの共演など、未だ彼が現役で活躍していることを思うと、彼の自伝の邦訳が出てないのはちょっと信じられないんだよね。

彼のロック界でのプロデュースワークは、先日リリース40周年を迎えたデヴィッド・ボウイ『Let's Dance』にしろ、ジェフ・ベックにしろ賛否あったわけだけど、それはそれとして。

こないだのコーチェラでもブロンディのライブにゲスト参加していたっけ。お元気そうで何よりである。

ブルース・シュナイアー『Click Here to Kill Everybody: Security and Survival in a Hyper-Connected World』

yamdas.hatenablog.com

とうとうブルース・シュナイアー先生の前作の邦訳が出ないうちに新作 A Hacker’s Mind が出てしまった。なんてこったい。

これはブルース・シュナイアーくらいの大物の本になると、日本では印税などで出版がペイしないということなのだろうか?

マイケル・ダイアモンド、アダム・ホロヴィッツBeastie Boys Book』

yamdas.hatenablog.com

ビースティ・ボーイズがどれくらいビッグだったかを考えると、邦訳が出ないのが信じられないのだが、日本の洋楽リスナーはそこまで減ってしまったのだろうか?

私事になるが、アダム・ヤウクが亡くなった日に個人的に忘れがたい出来事があり、以降はビースティーズを聴くと必然的にそれを思い出してしまうというのがある。

ブレット・イーストン・エリス『White』

yamdas.hatenablog.com

ブレット・イーストン・エリスって『アメリカン・サイコ』の原作者? くらいの認識なんだろうが、彼の面白さについては『現代アメリカ文学ポップコーン大盛』asin:4863854315)収録の青木耕平さんの文章を読んでください。

ケイト・クロフォード『The Atlas of AI』

yamdas.hatenablog.com

そうそう、先週公開した「AIは監視資本主義とデジタル封建主義を完成させるか」で紹介したメレディス・ウィテカーと AI Now Institute と立ち上げたのがケイト・クロフォードなんですね。

彼女の研究には批判もあるのだが、彼女の本の邦訳が出て、そのあたりの議論も日本で紹介されるといいと思う。しかし、今や猫も杓子もな AI の本の邦訳が出ないとは思わなかったな。彼女の文章が掲載された本は、『未来と芸術 Future and the Arts』(asin:4568105234)くらいだったはず。

ティーブン・レヴィ『Facebook: The Inside Story』

yamdas.hatenablog.com

テック界の大物ジャーナリストであるスティーブン・レヴィが Facebook に深く取材して書いた本なのだから当然邦訳が出ると思っていたのだが、ブルース・シュナイアーと同じような理由なんだろうか?

ジル・ルポール『If Then: How the Simulmatics Corporation Invented the Future』

yamdas.hatenablog.com

これね、カタパルトスープレックス翻訳書ときどき洋書で読んだ書評が面白かったものだから、絶対邦訳が出ると確信していたのだが、難しいものですな。

ケイト・ダーリング『The New Breed: What Our History with Animals Reveals about Our Future with Robots』

yamdas.hatenablog.com

ケイト・ダーリングはサイボウズ式WIRED.jp など日本のメディアでも取材されており、これは邦訳出るのも確実やろと踏んでいたのだが。

ジョン・ルーリー『The History of Bones: A Memoir』

yamdas.hatenablog.com

ここから2冊は原書刊行からまだ2年経っていない本になり、こういうのに挙げるのはよくないかもしれないが、邦訳期待ということで入れさせてもらう。

だってねぇ、ジョン・ルーリー、1980年代の本業にしろ映画にしろとても鮮烈な存在だったわけで、すごくビターだけど面白そうな回顧録に違いないので。

トム・スタンデージ『A Brief History of Motion: From the Wheel to the Car to What Comes Next』

yamdas.hatenablog.com

トム・スタンデージの本はいくつも邦訳が出ているので、これも現在その作業中だと思いたい。

果たしてAIはどのように「規制」されるべきなのか?

www.nytimes.com

エズラ・クラインまでもが AI について書いている。彼によると AI を取材していると面白い体験をするという。ハイプまみれの若いテック業界なのに、多くの人が、歩みが遅くなってもいいから AI が規制されることを切望しているというのだ。昨今の AI をめぐる競争により、あまりに事態の進展が速くなっているのに恐れをなしたということだろうか。そして、一握りの企業だけに舵取りを任せてはおけないというか。

国もそのあたりを踏まえてか、米国政府は昨年秋に「AI 権利章典のための青写真(Blueprint for an AI Bill of Rights)」を発表しているし(参考:TECH+)、欧州や中国もそれぞれ規制のための政策を立案している。

で、エズラ・クラインは欧州、米国、そして中国政府のアプローチについて論評を加えているが、えらいと思ったのは、「AI 権利章典のための青写真」の主著者であるアロンドラ・ネルソンにしっかりインタビューしていること。ワタシもそのインタビューも読み切ってその内容も紹介したかったのだが、そこまで根気が続かなかった。

さて、エズラ・クラインは各国のアプローチを踏まえて、しかるべき規制を行うために優先的に考えるべきポイントを5つ挙げている。

  1. 解釈可能性(interpretability):次世代の原子力発電所を作るとして、炉心が爆発するか読み取る方法がないと言われたら、そんな原発作るなよとなるだろう。AI 企業は同じようなことを言ってないか? 理解できないアルゴリズムに未来を委ねるのか?
  2. セキュリティ:中国への先進的な半導体の輸出を阻止するのは可能かもしれないが、OpenAI の26歳のエンジニアがしかるべきセキュリティ対策を行っていると本気で思ってんの?
  3. 評価と監査:大規模言語モデルの安全性を評価するテストに業界全体で受け入れられているベストプラクティスはなく、現状、不透明で一貫性がない。連邦航空局が飛行機に、食品医薬品局が新薬に対して行っているように、安全でない AI を市場に出さないための監査のための投資や制度構築が必要
  4. 法的責任(liability):ソーシャルメディアにとっての通信品位法第230条みたいに AI 企業を免責するのは間違いで、自社で開発したモデルに何らかの責任を負わせないといけない
  5. 人間らしさ(もう少し良い言葉があるだろうが)

ワタシなど、先日「AIは監視資本主義とデジタル封建主義を完成させるか」でも書いたように、やはり我々には「アルゴリズムの監査機関」が必要なんじゃないかとあらためて思うわけだ。

エズラ・クラインが、「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて」で紹介したドリース・バイテルトと同じく食品医薬品局(FDA)のアナロジーを挙げているのは、そのあたりが穏当な落としどころということなんだろうか。

ネタ元は Slashdot

ウィキペディアのどちらのページが長いかを当てる(だけの)ゲームWhichipedia

whichipedia.com

Wikipedia を使ったゲームというと、目的のページにいかに早く到達するかを競うゲーム WikiWars(Wikiracing)とかウィキペディアの項目を時系列で並べるゲーム Wikitrivia などここでもいくつか紹介してきたが、Whichipedia はもっと単純で、2つの Wikipedia のページのどちらが長い(分量が多い)かを当てるゲームである。

やってみると、これが一目でこっちだろと即断できるものもあるが、意外に当たらなかったりする。

そうそう、ウィキペディアの編集への参加自体をロールプレイングゲームとしてとらえる見方もありますな(笑)。

ネタ元は Boing Boing

速水健朗さんのポッドキャスト再開、そしてマウンティングから老人介護まで

open.spotify.com

速水健朗さんがポッドキャストを「すべてのニュースは賞味期限切れである」あらため「これはニュースではない」という小西康陽リスペクトな名前でリニューアルしている。ワオ!

再開1回目はクエストラブ『ミュージック・イズ・ヒストリー』の話だが、ワタシなど「19歳の女の子に~」というタイトルを見ただけで、スティーリー・ダンの "Hey Nineteen" のことだ! と嬉しくなってしまった。

少し前に東京大学学位記授与式の総長告辞でドナルド・フェイゲンの歌詞が引用されてなによりワタシが歓喜した話を書いたが、これまたドナルド・フェイゲンつながりですね!(強引)

"Hey Nineteen" はスティーリー・ダンの(再結成前の)ラストアルバム『Gaucho』収録のヒット曲である。スティーリー・ダンの最高傑作といえば『Aja』になるのだけど、ワタシは洗練の極みである『Gaucho』も大好きである。

さて、"Hey Nineteen" が「19歳の女の子に「アレサ・フランクリンも知らないの?」とマウンティング」している曲というのは本当なのだけど、この曲は冒頭から「いやさ、(自分が19歳だった)1967年頃は俺もイケメンでブイブイいわせてたわけよ」といきなりウザい。

つまり、19歳の女の子に「アレサ・フランクリンも知らないの?」とマウンティングするこの曲の語り手のイタさは意図的で、当時アラサーだったドナルド・フェイゲンが、10歳くらい若い女の子相手じゃダンスも踊れないし、話も全然かみ合わないけど、クエルボ・ゴールドのテキーラとコロンビア産のマリファナの力を借りて楽しもうぜというイタい語り手を演じているんですね。

ただね、言うてもアラサーの語り手が10歳違いの女の子を誘う歌は当時は全然アリだったろうし、現在でも極端に不道徳とまでは言えないだろう(女の子に酒やマリファナを強いなければ)。

しかし、"Hey Nineteen" は現在までスティーリー・ダンのライブで必ず演奏される代表曲である。リリースから40年以上経った、70歳を過ぎたフェイゲンが19歳の女の子に呼びかける歌は、当時とはまったく違った問題が出てくるのだが――というか、まさか当人もそんな長く現役を続けるなんて、曲書いてる当時は思いもしなかったろうし!

それで思い出すのは、フェイゲンの『ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS』に収録された、マイケル・マクドナルドボズ・スキャッグスと組んだ「デュークス・オブ・セプテンバー」としての2012年のツアーを記録したツアーダイアリーにおける6月27日の以下のくだりである。

 問題はスティーリー・ダンでツアーしていても、最近は会場が縮小しているように思えることだ。むろん、今のわたしは本音を隠している。マイク、ボズ、わたしはいずれもかなりの年寄りだし、観客の大半もそうだ。それにしても今夜の客層は老いぼれて見え、わたしは思わずビンゴの番号を発表したくなった。にもかかわらずライブの終盤には、よたよたしつつも全員が立ち上がり、マイクのうたうバディ・マイルズの<ゼム・チェンジス>に合わせて、精いっぱいロックしていた。というわけでこれが今のわたしの仕事だ――老人介護。(p.162)

いかにもドナルド・フェイゲンらしい皮肉さ全開の書きぶりだが(ビンゴのくだりは、ドラマ『ベター・コール・ソウル』の老人ホームの場面を思い出そう)、それからも10年経つと少々シャレにならないところもある。最近はワタシ自身歳を取ったせいか、この「老人介護としてのロック」について考えることがよくあり、それについてはまた別の機会に書くかもしれない。

おっと、ポッドキャストの話から話が逸れまくったが、速水さん、楽しみにしてますよ!

ガウチョ(SHM-CD)

ガウチョ(SHM-CD)

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三島由紀夫に「嫌い」と言われ、本当に太宰治は「笑った」のか?

toyokeizai.net

三宅香帆さんは今最も優れた連載をしている書き手であり、東洋経済オンラインの連載「明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」」も、正直連載名は好きになれないが、恥ずかしながら実はちゃんと読んでない古典についてその面白さをいくつも教えてもらい、とてもありがたく思っている。

ただ、さすがのワタシも読んでいる太宰治編のある回に疑問を感じた。

といってもこの回の基本的な論旨には特に異論はなく、細かい点になるが、この文章のタイトルにある太宰治三島由紀夫の邂逅についてである。

三島由紀夫が初対面の太宰治に対して、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い放った話は実際にあったことのようだ。

手元に『太陽と鉄・私の遍歴時代』がないため、「アスペのグレーゾーンが不安を書くブログ」からの孫引きになるが、三島由紀夫はその出来事からだいぶ経って以下のように書いている。

 しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの口調で、言ったように思う。すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。

「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」

三宅香帆さんはこれをそのまま受けて、「三島由紀夫に「嫌い」と言われ、太宰治が「笑った」訳」というタイトルで書かれているが、その場に同席しており、これとかなり違う描写をしている人がいる。

当時新潮社の編集者で、太宰治と親交があった野原一夫である。

gendai.media

彼の『回想 太宰治』がやはり手元にないため、千葉一幹氏の文章からの孫引きになるが、以下のようにある。

その酒席での話のやりとりを私はあらかた忘れてしまったのだが、太宰さんは冗談、軽口をまじえた巧みな話術で学生たちをよろこばしていたようだ。酒がまわって、座がにぎやかになってきた頃、酒をのまずひとり神妙な顔をしていた三島氏が、森鷗外の文学について太宰さんに質問したような記憶がある。太宰さんはまともに答えず、なにかはぐらかすようなことを言った。高原紀一君の記憶によると、「鷗外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ。」と太宰さんは顔を横に向けて呟つぶいやたそうである。私の記憶に、これだけは鮮明に残っている三島氏の言葉は、その直後に発せられたのか、すこし時間がたってからだったか。

「ほくは、太宰さんの文学はきらいなんです。」

まっすぐ太宰さんの顔を見て、にこりともせずに言った。一瞬、座が静かになった。

「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた。

これのどちらが真相に近いのか。三島由紀夫の文章での太宰治は、「こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな」といささか媚びているような印象がある。

しかし、思い出していただきたい。この時点で三島由紀夫は処女小説集『花ざかりの森』を刊行していたものの、まだ『仮面の告白』を書く前の、小説家としてほとんど知られていない時期の話である。一方で太宰治は当時の流行作家だった。その彼がよく知らぬ学生風情(事実、三島由紀夫は当時まだ東京大学法学部の学生だった)から「きらい」とかふっかけられても、お前のことなんて知らんがなとなるのが自然に思え、「そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな」と媚びるより、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨て、顔をそむけたほうが真相に近いとワタシは考える。

この出来事の時点で、実は太宰が三島の初期作を読んでおり、高く評価していたとか伏線があれば話は別だが。

野原一夫が当時も今も誰も知らないような存在であればともかく、事実、今年書かれた千葉一幹氏の本に引用されるくらい知られている証言を踏まえずに、自己演出に長けた三島由紀夫の文章を鵜呑みにするのはどうかと思った。

WirelessWire News連載更新(AIは監視資本主義とデジタル封建主義を完成させるか)

WirelessWire Newsで「AIは監視資本主義とデジタル封建主義を完成させるか」を公開

今回は賞味期限の長さよりもジャーナリスティックと言いますか、時事性を優先した。なので早く書き上げることが優先で、正直疲れた……。

そして、今回もまたしても連載複数回分の内容をひとつにまとめた感じである。書き手側から見れば、実にコスパが悪い。

そうそう、今回の文章タイトルにも使った「デジタル封建主義」については、『都市から見る世界史』(asin:4270002093)や『トライブス―世界経済を新たに支配するのは誰か』(asin:4594012183)などの邦訳のあるジョエル・コトキン(Joel Kotkin)の The Coming of Neo-Feudalism の邦訳がそろそろ出るころじゃないかと思いながら時間が経ってしまった。邦訳出ませんかね。

ウィキペディアはAIによって書かれるようになるかジミー・ウェールズが考察

www.standard.co.uk

まったく猫も杓子も AI に関する話題ばかりだが、Wikipedia も ChatGPT によって書かれるようになるんだろうかという疑問を、その共同創業者であるジミー・ウェールズにぶつけた記事である。

当然、ウェールズも真っ先に「ハルシネーション」の問題を、要はそれは「ウソ」だ、と挙げている。

少し面白いのは、Wikipedia のボランティア貢献者が白人男性に偏っていることを指摘した上で(これについては、ワタシも「ウィキペディアにはバイアスの問題がある」という文章を訳している)、それによる内容の偏りが AI によって是正されないか聞いているところ。ウェールズの答えは否定的だ。

「AI の仕事に急速にバイアスが流れ込んでいることが分かっていて、というのも偏ったデータを AI を訓練すると、その偏りに従ってしまうからなんだ。AI の世界では、多くの人がこの問題に焦点を当てるので、周知されているんだ」

ただ AI によって Wikipedia の項目数が3倍になってもランニングコストは大して増えないとも語っているが、そんなものなのか。

そうそう、少し前にジミー・ウェールズに根負けして Wikimedia 財団に少額ながら寄付をさせてもらった。

ネタ元は Slashdot

生きる LIVING

ビル・ナイのことを認知したのは、DVD をレンタルして観た映画『スティル・クレイジー』が最初だった。今となってはなんでレンタルしたのかも思い出せないが、架空のロックバンドについての映画というのに惹かれたのか。『スティル・クレイジー』は1998年公開の映画なので、その時点で彼は既に50絡みだったことになる。あれから20年以上経ったんだな。

黒澤明の『生きる』はワタシにとっても重要な映画だが、本作はカズオ・イシグロが意外なほど忠実に1950年代の英国に舞台を置き換えている。黒澤版の一種のホラー感も受け継いでいるが、黒澤明特有の主張を叩きつけるようなくどさはなく、あっさりとした出来になっている。それでもカズオ・イシグロらしさを感じるところがあり、『日の名残り』の原作を思い出すところもあった。

主人公が死んでからが実は長いというのが『生きる』を観た人が思うことだが、本作もそこからいきなり場面がそこに飛ぶのかというところで唸らされた。そして、主人公からの手紙で示される謙虚かつ現実的な認識は、本作の最後に少しの苦さと奥行きと落ち着いた余韻を与えている。

ビル・ナイ演じる主人公も、黒澤明の演出による目を剥いた志村喬の迫力はなく、またビル・ナイの歌の上手さが本作の場合痛し痒しの面もあるが、なによりビル・ナイにとって代表作となる主演作がようやくできたことが、彼が出ているだけで嬉しくなるワタシのような人間にとってなにより喜ばしい。

ノック 終末の訪問者

本当は『AIR/エア』を観に行くつもりだったのだが、公開初日でかなり客が多そうで、急遽こちらに変えた。レイトショーとはいえ、客はワタシを含め4人だった。

M・ナイト・シャマランの映画を映画館で観るのは、実はこれが初めてである。ワタシもご多分に漏れず『シックス・センス』で涙し、その後の作品に『シックス・センス』は不幸な誤解かもしれなかったことに気づくのだが、それでも『ヴィレッジ』までは好きで彼の作品を観ていた。

それからしばらく彼の作品から離れた時期があったが、近作では『ヴィジット』『スプリット』を観ており、復活の手ごたえを確かに感じたし、実際低予算でヒットを飛ばし続けており(それが彼の資質に合っているのを自覚したのだろう)、お元気そうで何よりである。

さて、ここから本作の感想に移るべきなのだが、正直特に何もないのである。はい。

狂った集団の論理を受け入れるかどうかという意味で『ミッドサマー』に近い映画ではないかと鑑賞後に思い当たった。いかにもシャマラン的な作品世界なのだけど、実は原作(asin:4801935060)があるんですね。そこにワタシとのすれ違いがあったのかもしれない。

AIR/エア

マット・デイモンベン・アフレックのコンビによる映画だが、監督としてのベン・アフレックに対しては、『アルゴ』『ザ・タウン』の過去があって、彼の娯楽映画を作る手腕について信頼があるのだが、本作も面白かったですね。

ジェイソン・ベイトマンや久方ぶりのクリス・タッカーといったワタシの好きな役者が出ていたのが嬉しかった。

本作は1984年が舞台となり、ダイアー・ストレイツの "Money for Nothing" をバックに(もちろん政治的に正しくない歌詞は流れません)、いかにも80年代な映像がバンバン流れるオープニングに始まり、80年代のヒット曲がふんだんに使われるが、ジェイソン・ベイトマン演じるマーケティング部門の VP が、当時の大ヒット曲であるブルース・スプリングスティーンの "Born in the U.S.A." の歌詞の話をする後にグッと話が締まるのが良かった。

本作はナイキがマイケル・ジョーダンとの契約にこぎつけるまでの実話をもとにした映画だが、2023年の我々から見れば、どうなるというのは分かりきっているわけで、そうした意味で必然的に主人公を応援する気持ちになるのだが、勝負の場で主人公が畳み込む言葉がそれまで見越しており、それに(この映画の時間軸からすれば)未来の映像がかぶさるのには好き嫌いが分かれるかもしれない。ワタシは Netflix の『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』を観ていたのもあり熱くなったが、しかし、あの重要なプレゼンに用意したビデオが(BGM がダン・ハートマンなのは文句ないが)あんな感じだったというのは実話なんだろうか。

シン・仮面ライダー

竹野内豊三部作の完結編、そりゃ観に行きますよ!

仮面ライダー生誕50周年企画作品を謳っているが、今年50歳になるワタシは仮面ライダーと同い年(?)ということになる。そういうワタシも子供の頃、好きで仮面ライダーをテレビで見ていたが、果たしてそれがシリーズのどれか今思い出せないくらいで、また子供もいないので平成仮面ライダーもノータッチ、原作にも特に思い入れもないワタシなど客としては不適格なのかもしれないが知ったことかね。

しかしなぁ、『シン・ウルトラマン』に続いて斎藤工長澤まさみが当たり前のように出ているのだから、クモオーグはクモのガワが取れたら山本耕史だったらよかったのに。

いや、面白かったですよ。

しょっぱなから血の気の多い暴力シーンももちろん大いにアリだし、一方で化学コンビナートというか工場でのバトルアクションなど、子供の頃に見ていたテレビシリーズを思い出してこれだよねと思ったよ。エンディングの夕焼けも美しい。

もちろん欠点は少なからずある。あの蟻んこのドンパチみたいな暗闇でのバトルが何がなんだか分からんとか、そもそも仮面ライダーって、正業に就いてない半ニートのにいちゃんが主人公の、バイト先の店長やら身近なガキどもとの日常がコミックリリーフになってた覚えがあるが、本作はひたすらオーグたちを順に駆逐していく戦闘ゲームみたいな一本道の進行だ。

テレビシリーズではなく映画だからそうならざるをえないのだろうが、庵野秀明はライダーの日常などはなからまったく描くつもりはなかったんだろう。

あと本作における持続可能な幸福を目指す愛の秘密結社(!)としてのショッカー、そして最も深い絶望を抱えた人間を救済する行動こそ目指すべきとする端的に狂った AI という設定は何気にかなり今どきなのだけど、本作を観終わって、えーっと、あの AI どうなったの? とか思っちゃったよ。

なんか不満を並べてしまったが、繰り返しになるが面白かったですよ。しかしですね、これは『シン・ウルトラマン』のときも書いたが、本作を公開初週に観に行ったのは、『シン・ゴジラ』の夢もう一度、というのがどうしてもあるわけで、主人公二人が碇シンジ綾波レイな本作を観終わって AI の次に思ったのは、それなら『シン・ゴジラ』はなんであんなに面白かったんだろう? ということだった。それを現在の日本映画の貧しさとともに考えてしまった。

デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム

ワタシもなぜか GQ JAPAN に追悼原稿を書いた人間なので、行かないというのはありえない。IMAX で観るべき映画と確信していたので、IMAX でやってるうちに行かないと、と無理に都合をつけてこれも公開初週に観に行った。

まさかこの曲から始まるかと意表をつかれ、立て続けにジギー・スターダスト時代のあのメドレーが畳みかけられるだけで満足だった。

本作が、偉大なミュージシャンの人生を回顧する、例えば、家族や仕事仲間やジャーナリストのインタビューをフィーチャーする普通のドキュメンタリーにならないのは予想通りで、ほぼ一貫してボウイ自身の言葉によって進行される。

ワタシにとってのボウイは、何よりミーハーなポップミュージシャンなのだけど、本作は自己イメージを完全にコントロールした晩年のボウイの遺志を継ぐ作品であり、その意味ではよくできている。ボウイの内省的な語りを通して彼の精神性を表現しようとしているのだけど、その映像の中に日本の焼酎のコマーシャルが挟まるところが彼らしい、とか書くと怒られるだろうか。

面白いのは、80年代におけるカルトヒーローからポップスターへの転身が、当時の音楽シーンの空気に合致して大歓迎され、しかし、そのうち「変化がないじゃん」とオーディエンスに見抜かれているのもちゃんと描いていたところ。1980年代後半のグラス・スパイダー・ツアーの映像にジギー時代の「ロックンロールの自殺者」の映像が挟まっているところ、これはどの程度皮肉の意図があったのか。

本作はボウイの苦闘を描くものではなく、「ワード・オン・ア・ウィング」が美しく使われてイマンとの結婚の話が描かれる一方で、アンジェラ・ボウイなどの話は一切オミットされていて、そのあたりは生前のボウイも触れたくなかった話だろうから、デヴィッド・ボウイ財団公認の本作がそうなのに不思議はなく、こちらも今更スキャンダルなど求めていない。

ただ彼の70年代のアメリカ時代、特に『Station To Station』とそのツアーの映像がないのは、そのあたりもオミット対象なのかといささか残念に思った。90年代以降のライブ映像でも2000年のグラストンベリーなど入れてほしいものもあったが、ただそういうことを言い出せば、「レベル・レベル」や「フェイム」(彼の2曲しかない全米1位シングル!)など代表曲でも漏れが出るのは仕方ないのだろう。

いずれにしろトニー・ヴィスコンティが手がける劇伴も、本作を彼の音楽を時代順に並べただけのミュージックビデオにしておらず、さすがだった。

「AIの開発を直ちに停止せよ」公開書簡が見逃してしまっているAIの現実的なリスク

aisnakeoil.substack.com

Pause Giant AI Experiments と題された「GPT-4より強力なAIの開発を直ちに停止せよ」公開書簡が話題になっている。

これに署名している人でも、スティーブ・ウォズニアックなどは本当に強力な AI に危機感を持っているのだろうなと素直に思うが、OpenAI の共同設立者でありながら、むちゃくちゃ言い始めた挙句に約束してた寄附金額の90%を反故にしたクソ野郎のイーロン・マスクなど、追い付ける見込みが無いと分かって正攻法で戦う気力を無くしただけ、つーか、本当に開発が停止されたら絶対こいつこっそり自分だけ抜け駆けするだろ、と懐疑的に見てしまう。

「インチキAIに騙されないために」で取り上げたアーヴィンド・ナラヤナンらもこの公開書簡に批判的で、もっといえば公開書簡が偽情報、仕事への影響、そして安全性を AI の主要リスクと見るのには同意するが、その真の危険性を見逃していると批判している。

まず偽情報については、LLM が偽情報の作成を自動化するツールを悪意ある行為者に与え、プロパガンダの氾濫につながるより恐れも、AI に対する過剰な信頼と自動化バイアス(自動化されたシステムに過度に依存する傾向)、要は AI にはハルシネーションの問題があるのに軽々しく信用してしまうことによる誤報のほうがよほど現実的な害だという。

次に仕事への影響、つまり LLM があらゆる仕事を時代遅れにする! という恐れよりも、ジェネレーティブ AI が労働者から力を奪い、少数の企業に集中させる搾取構造を心配すべき。

そして、AI に起因する長期的な破局的リスクよりも、現実に LLM ベースのパーソナルアシスタントがハッキングされて個人データが漏洩したり、企業の機密データを ChatGPT に勝手に入力するような従業員がもたらす現実的な AI の安全性を考慮しろよということで、こうしたリスクに対処するにはアカデミアとの連携が必要なのに、公開書簡にある誇大表現は事態を硬直させ、対処を難しくしているという。

また Future of Life Institute は、核兵器や人間のクローンになぞらえて AI ツールの開発中止を訴えているが、こうした封じ込めのアプローチは、核兵器やクローン技術よりも桁違いに安価で(さらにコストは急激に下がり続けている)、LLM を作成する技術的ノウハウも既に広まっている現実に合致していないと批判しているのも納得感がある。

これについては、新しい技術の応用や競争を阻害する代わりに透明性や監査に関する枠組みや規制の整備をやるべきという Andrew Ng 教授佐渡秀治さんの意見にワタシも賛成である。

ChatGPTに人工知能に関する最高の本を5冊選ばせてみた

fivebooks.com

いろんなテーマでその筋の専門家が最高の本を5冊選ぶサイト Five Books のことはここでも何度か取り上げているが(その1その2)、ちょっと面白い企画をやっている。

人工知能に関する最高の本を選ぶ、というのは今どきありがちだが、それを人間の専門家でなく ChatGPT に選ばせている。

果たして AI は、どの本を AI についての最高の本と推すのか。

まず1冊目はピーター・ノーヴィグとスチュワート・ラッセルの Artificial Intelligence: A Modern Approach, 4th US ed.。公式サイトに「1500を超える学校で採用されている、もっとも権威ある AI の教科書」と謳われているが、この分野の古典ですよね。

邦訳も第1版(asin:4320028783)、第2版(asin:4320122151)までは出ているが、第3版以降は出ていない。原書の第3版が出たのが、まだ AI 冬の時代だった2009年だったからか。しかし、2020年に第4版が出たのだから、人工知能の教科書の古典、ご本尊としてまた邦訳が出るとよいと思いますね。

かつて「プログラミングを独習するには10年かかる」を訳したワタシ的にはピーター・ノーヴィグに親しみがあるが、スチュワート・ラッセルは『AI新生』(asin:462208984X)も話題になりましたね。

2冊目は、ディープラーニングについての教科書といえるイアン・グッドフェローらの『深層学習』。

3冊目は、かつてビル・ゲイツもAI分野の必読書と推した『マスターアルゴリズム』

そして4冊目は、人工知能「脅威」論を唱える最重要人物とも言われるニック・ボストロムの『スーパーインテリジェンス』。関係ないが、この人、ワタシと生年同じなんだよな……。

しかし、ChatGPT が数多ある本の中から「AIコントロール問題」を扱う本書を選んでいるのは面白いね。

そして、5冊目はダニエル・カーネマンの代表作にして、ワタシにとってもオールマイベストの1冊『ファスト&スロー』だ!

しかし……これは人工知能についての本じゃないよね? と思ったら、人間側の誘導が少し入ってますね。

実際の編者と ChatGPT のやりとりについては原文をあたってくだされ。

東京大学学位記授与式の総長告辞でドナルド・フェイゲンの歌詞が引用されてなによりワタシが歓喜

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ワタシは柳瀬博一さんの Facebook 投稿で知ったのだが、あまり話題になってないのでここでも取り上げておきたい。

いや、だって、東京大学学位記授与式の総長告辞でドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」の歌詞が引用されてるんだもの。

「I.G.Y.」とはなんぞや? これは総長告辞を引用させてもらおう。

科学技術の発展に対する疑問をよく表した曲として、私の大好きなアーティストであるドナルド・フェイゲンが1982年に発表したI.G.Y.という曲があります。I.G.Y.とは、先ほどの国際地球観測年の英語名International Geophysical Yearの頭文字を取ったものです。この曲は、科学技術が高度に発展した一見便利に思われる未来社会を、皮肉たっぷりに歌っています。人々は、海底トンネルでニューヨークからパリまで90分で移動し、簡単に宇宙を旅行し、人工的に気候を操作し、機械が社会的に重要な判断までしてくれる、“なんて素晴らしい世界なんだろう(What a beautiful world this will be)”、という歌詞になっています。

なぜこれが皮肉に響くのか、その理由の一つは、科学技術の平和利用と国際協力体制の構築を目指した国際地球観測年の理想とは異なり、現実には冷戦を背景とした対立と競争のなかで、科学技術が使われることになってしまったからです。その結果として、環境問題も、人や国の不平等などのさまざまな社会問題も置き去りにされ、科学技術と実社会の課題との乖離が、人々の不信感や不安を増大させました。

令和4年度 東京大学学位記授与式 総長告辞 | 東京大学

ワタシが付け加えることはない。そして、告辞の締めも素晴らしい。

たとえ世界がどんなに大変な状況にあったとしても、決して未来への希望を失わないでほしいと思います。そして諦めないで、これからも学び続けていただきたいと思います。世界中の誰もが先ほど触れたようなセンスを磨いていけば、前に紹介した私が好きな歌に込められていた「皮肉」を乗り越え、実感とともに

“What a beautiful world this will be
  What a glorious time to be free

と歌えるでしょう。この歌詞がみなさんの声で、素直に歌われる日が来ることを願っています。 みなさんのこれからの活躍を、大いに期待しています。修了、誠におめでとうございます。

令和4年度 東京大学学位記授与式 総長告辞 | 東京大学

冨田恵一『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』の読書記録で書いたように、「I.G.Y.」を含むドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』は、曲から歌詞から演奏からアルバムジャケットからもう何から何まで好きな、こちらがどんな気持ちであれ聴くことができる、そして一度聴き始めれば、確実に現実逃避をさせてくれる特別なアルバムなんですね。

そういえば、ワタシにも「I.G.Y.」の思い出がある。昔、FM 福岡のラジオ番組に出演したときに(今では信じられないが、ワタシのような場末の雑文書きをゲスト出演させるクレイジーなプロデューサーがいたのだ)、リクエスト曲を聞かれ、しばらく絶句した後に『ナイトフライ』のタイトル曲をリクエストしたのだが、放送当日に番組を聞いたら「I.G.Y」が流れ出して、椅子から転げ落ちたものである。

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