当ブログは YAMDAS Project の更新履歴ページです。2019年よりはてなブログに移転しました。

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THE BATMAN-ザ・バットマン-

少し前にようやく『ドライブ・マイ・カー』を観た後にまた3時間の映画と考えるだけで萎えるところもあったが、本作は評判も良いようで、またバットマン役のロバート・パティンソンは、『TENET テネット』でワタシの中で株が上がっていたので、3月末になぜか故郷の映画館で観た。土曜昼の上映で客は10人前後。

本当に3時間の映画とかカンベンしてほしい。そうした映画は、劇場公開時にはインターミッションを入れてほしいと切に願うのだが(ディスクや配信ではカットしていいから)、本作はその長丁場を感じさせない膀胱的プレッシャーを忘れさせてくれる出来だった。

しかし、バットマンというのも難儀な存在である。本作でも、事件現場に彼が当然のように入ろうとして、おいおい、なんでこいつがいるんだよ、と止められる場面があるが、本作のノワール探偵としてのバットマンと異形のクライムハンターを絵面的に両立させるのは難しい。

そこで本作では、ノーラン三部作のシカゴ、『ジョーカー』でのニューヨークとも違う、夜と雨の場面ばかりで陰鬱で病んだ暗黒都市としてのゴッサム・シティを再構築するのに時間をかけている。

カート・コバーンのイメージを重ねたという不健康そうなブルース・ウェインだが、探偵としてはビシバシ有能に謎を解決していき……と思ったら、謎解きを思いきり間違えてペンギン(あれコリン・ファレルだったのか!)にどやされてるのが笑えた。未熟なヒーローを描くというのもなかなか難儀ということだろうが、そうしたマヌケさも本作の主人公にエモさを加えている(とか書くと刺されそう)。

本作のバットマン映画としての各要素を見ていけば、正直本作に画期的なところはないのだけど、やはりこれだけ夜と雨を強調した映像を劇場のスクリーンで観れてよかった、と気分良く映画館をあとにできた。続編にも行くんだろうな。

ナイトメア・アリー

レイトショーで観たのだが、客はワタシの他にもう一人だけだった……。

今年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた10作のうち、『ドント・ルック・アップ』と『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は Netflix『DUNE/デューン 砂の惑星』『Coda コーダ あいのうた』、そして『ドライブ・マイ・カー』は映画館で鑑賞済みだ。

で、アカデミー賞に作品賞をはじめ4部門にノミネートされるも無冠に終わり、また興行的にも思い切りコケてしまった、というか『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に持っていかれちゃった本作だけど、これまでに観た作品賞ノミネート作品の中では、本作が一番好きだったりする。まぁ、これが『Coda コーダ あいのうた』より良い映画かとなると口ごもるけど。

本作については、予告編以上の予備知識をまったくもたないまま、『シェイプ・オブ・ウォーター』に続くギレルモ・デル・トロの監督作ということで観に行った。第二次世界大戦直後に書かれた小説(asin:4151848517)が原作で、当時映画化されているが、もちろんそちらは未見。

そうした昔の小説を原作としていて、ブラッドリー・クーパー演じる主人公が増長してやがて転落する物語という意味で、結末にいたる話の流れはある程度予想できるのだけど、それだけに古典的な物語の力も感じる映画だった。

本作は、過去ありげな主人公が、怪しげな見世物小屋に身を寄せるところから始まる。予告編だけみて、何よりこの監督の作品なので、おどろおどろしいフリークス寄りの話かと思っていたら、主人公は見世物小屋から早々に離れてしまう。そうした意味では肩透かしだったが、舞台が都会に移ってから登場するケイト・ブランシェット精神科医役になんとなく『マインドハンター』を感じていたら、ホルト・マッキャラニーが登場して、それだけで個人的にものすごく嬉しくなってしまった。

見世物小屋で身につけた読唇術を、それを教えたピーター言うところの幽霊話(だっけ?)に使ううちに主人公は一線を越えてしまうのだけど、そうした因果応報な筋立てはありがちながら、一方で救いを求める人間が聞きたい話を金のためにする欺瞞とそれがもたらす悲劇に、今どきな人心のハックや陰謀論との関連を感じるところもあり、そうした意味で本作にも現代的な意義はちゃんとあるのですよ。

前半の見世物小屋、特に予告編でも強調されている獣人の話は何の意味があったのだろう、という伏線を回収するラストにおいて、落ちぶれ、汚い笑顔で「これは宿命なんです」という主人公をみて、ブラッドリー・クーパーは優れた映画製作者だと思った。

アカデミー賞の衰退だけではなく、我々は「映画の終焉」を見ているのではないか?

www.nytimes.com

ご存知の通り、今年のアカデミー賞は、どの作品が、誰がオスカーをとったというのでなく、「ウィル・スミスがクリス・ロックをビンタした」アカデミー賞としてしか記憶されないのが確定してしまいました。

この New York Times の記事はアカデミー賞発表前に公開されたもので、書いているロス・ドゥザット(Ross Douthat)は、映画でなく政治が専門の保守系コラムニスト。

授賞式のテレビ放送の視聴率が低迷し続けるアカデミー賞の衰退については、どこか的が外れたテコ入れとあわせて、番組が長すぎるだの、多様性が足らないだのいろいろ言われている。

ロス・ドゥザットは、真の芸術性を目指し、有名スター、鮮やかな映像や音楽を大きなスクリーンで鑑賞するために作られた、難解過ぎず、一方でアメコミの超大作映画化でもない、まじめな大人を対象とする映画が姿を消してしまっているからと考えているが、これもよく言われる意見だ。

確かに今年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた10作を見ると、その条件を満たしたものが多いのだけど(そうした意味で『ドライブ・マイ・カー』が入っているのが、ロス・ドゥザットは不服そうだ)、しかし、そうした映画を映画館に観に行く人がはっきり少なくなっている現実がある。ノミネート10作品のアメリカでの興行収入をすべて足しても、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の4分の1程度に過ぎないというのは厳しい。

つまり、ハリウッドが昔ながらの魔法をかけようとしても、大衆はそれをもはや求めていないようなのだ。

もちろんこの興行成績の偏りは、年輩の映画ファンを劇場から遠ざけるコロナ禍が影響しているのは間違いないが、これは単にアカデミー賞の衰退というだけでなく、我々は今「映画の終わり」を見ているのではないか、とロス・ドゥザットは書く。

これを書いているのが保守系コラムニストなのを指摘するまでもなく、この「映画の終わり」という言い回しは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(asin:4837958001asin:483795801X)を意識したものだが、もちろん映画が消滅してしまうという意味ではなく、アメリカの大衆芸術の中心にして、有名人を生み出す重要なエンジン、ポップカルチャーの聖堂たる大画面のエンターテイメントとしての映画が過去のものとなるということ。

かつて映画を滅ぼすと言われたテレビもホームビデオも、実は映画を根本的に脅かすものではなく、人材の供給源などとしてその延命にむしろ手を貸した。この記事では、テレビから映画に進出したスターの例としてブルース・ウィリスの名前が挙げられていて、ご存知の通り、その彼が先ごろ失語症のため俳優業からの引退を公表しているのも、なんというか符合めいたものを感じる。

そしてこの記事では、映画史上最高の年としての1999年について触れられているが、1990年代後半のティーンエイジャー(それはつまり、ロス・ドゥザット自身のことでもある)にとって映画(館)は、重要なイニシエーションの場だった。

その後の変化、グローバリゼーションによる文化的な特殊性を抑えたよりシンプルなステーリーテリング、インターネットやスマートフォンの影響の話はもはやお決まりと言ってよい。テクノロジーの進歩により可能になった特撮主導のブロックバスター映画は、先行作品以上にファンダム文化に力を与えたが、「西洋文化の全体的なティーンエイジャー化」ももたらした。

そして、以上の流れを踏まえ、ハリウッドがティーンエイジャーの好みや感性に合わせたスーパーヒーロー映画に依存する一方で、ストリーミングプラットフォームで配信される連続ドラマは、キャスティング、演出、宣伝の面で、もはやかつての典型的な映画と区別できなくなっている。そして、今やテレビドラマのコンテンツの多さは尋常ではない。そして、超越的、象徴的な人物としての映画スターというのも、時代遅れになってしまっている。

ロス・ドゥザットは、いくら膨大にテレビドラマが提供されようとも、小さなスクリーンで語られる物語は、かつての「映画」とは別ものと考えている。その根拠として、映像、音楽、音響編集をあわせた没入型体験としての映画のスケールが持つ力を放棄していること、連続テレビドラマは映画の凝縮性、完結性を放棄していることの二つを挙げている。

確かに『ザ・ソプラノズ』は映画では実現できないような人物造形や心理描写をしているが、『ゴッドファーザー』のほうがより完成度が高い作品であることにかわりはない、と著者は断じる。

では、そうした小さなスクリーンが大きなスクリーンより優勢で、スーパーヒーローの大作と連続テレビドラマに支配される世界で、映画ファンは何を求めるべきなのか?

そこでロス・ドゥザットは、修復(restoration)と保存(preservation)の二つを挙げている。ここでワタシは、「修復と保存って古い絵画の話かよ!」と内心突っ込んでしまった。修復といってもそれは『タイタニック』がアカデミー賞を独占し、著者がティーンエイジャーだった1998年を取り戻すことではなく、アメコミの超大作映画化でない大衆映画が、もう少し現実的で魅力的な世界を望むということだ。

希望的な要素として、地政学の変化、つまり中国で欧米の映画があまり歓迎されなくなり、ご存知の通りロシアは多くの民主主義国家に背を向ける脱グローバリズムの時代を根拠に挙げるところは政治コラムニストならではか。それにより全世界で10億ドルを稼ぐことを目指す映画だけでなく、もう少し小規模で大人向けの映画の復活に期待したいようだが、現実には『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に大方の興行収入をもっていかれ、『ウエスト・サイド・ストーリー』と『ナイトメア・アリー』がコケてしまった現実をみると、その道は簡単ではない

そこでロス・ドゥザットは、ある種の美的体験は自動的に維持、継承されるものではないのだから、優れた映画との出会いをリベラルアーツ教育の一環とする「保存」を映画を愛する人は考えなければならないと主張していて、古典芸能の話かよ、とワタシなど思ったが、著者もこれは「燃えている家に翼を足すようなものかもしれないが」と断っている。

「20世紀の映画は、21世紀の若者にとって過去への架け橋、映画を形作った古い芸術様式との接点になる」、「昔は当たり前のようにあった「愛」を教育するために、励ましと庇護が必要」とまで書かれると、うーむ、もはや映画はそんな言葉で語る存在なのか、とも思ってしまうのが正直なところ。

この文章を中心となる「映画の終わり」の話、具体的にはアメコミ原作のブロックバスター超大作とストリーミング配信サービスのテレビドラマの二極化についても、例えば宇野維正氏の文章やツイートを追っていれば既知の話なのだけど、ここまで古典芸能のごとく「修復と保存」が必要と一般紙で正面切って書かれるのも、遂にアカデミー賞でストリーミング配信作品が作品賞をとった2022年(といっても日本だけ、『Coda コーダ あいのうた』Apple TV+ で配信されていない……)の一つの視座なのだろう。

ネタ元は Slashdot

フランシス・フォード・コッポラが『ゴッドファーザー』三部作、『地獄の黙示録』他を語るインタビュー映像

www.openculture.com

今年は『ゴッドファーザー』公開から50周年ということで、こないだのアカデミー賞でもフランシス・フォード・コッポラアル・パチーノロバート・デ・ニーロが登壇していたが、GQ の30分近くのインタビューで、『ゴッドファーザー』シリーズをはじめとする彼の代表作、そして実現すれば最後の監督作になるであろう『Megalopolis』について語っている。

コッポラは『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』といった代表作を「セーフティーネットのない本物の映画」と呼んでいるが、今では映画史に残る古典でも、当時は制作自体が危険だらけだった。

エリア・カザンから学んだこととして、どんな映画もそれが何の映画か一言で語れなければならないということで、コッポラは『ゴッドファーザー』は「継承(succession)」、『地獄の黙示録』は「倫理(morality)」、『カンバセーション…盗聴…』は「プライバシー」の映画と語っている。

そういえば『カンバセーション…盗聴…』、ワタシまだ観てないんだよな。コッポラが再編集した『ゴッドファーザー(最終章)マイケル・コルレオーネの最期』も。いかんなぁ。

さて、コッポラは『ゴッドファーザー』を作るまでマフィアについて何も知らなかったとか、映画会社は『ゴッドファーザー PART II』という続編であることが分かるタイトルを嫌がったが、今ではそういうタイトルがありふれたものになっていることなどの逸話を交えながら饒舌に語っている。

そして『Megalopolis』についても語っているが、正直具体的な話は出てこない。上記の映画を一つの単語で表すので言うと、『Megalopolis』は「誠実(Sincerity)」の映画とのこと。

theriver.jp

そうそう、『ゴッドファーザー』制作の舞台裏をドラマ化した「The Offer」が今月末に配信開始となる……のだが、Paramount+ 制作ということは、日本ではいつどこで観れるのやら。

そういえば、「邦訳の刊行が期待される洋書を紹介しまくることにする(2017年版)」で取り上げた The Godfather Notebook の邦訳は結局出なかったか。

リッキー・リー・ジョーンズが自伝を出していたのか

www.hotwirejapan.com

この記事を見るまで、リッキー・リー・ジョーンズが自伝『Last Chance Texaco』を出していたのを知らなかった。

彼女の YouTube チャンネルにも予告編があがっていた。

Hotwire Japan の記事にもあるように、彼女の曲でもっとも有名なのはヒット曲「Chuck E.'s in Love(恋するチャック)」なのだけど(この曲のモデルである Chuck E. Weiss は昨年亡くなっている)、ワタシが彼女の曲で一番好きなのは、同じく彼女のデビューアルバム(asin:B01HSFPCDE)に収められている「Last Chance Texaco」で、「ワタシに魔法をかけた洋楽100曲リスト」にも入れているくらい。

なので、彼女が自伝のタイトルにこの曲を冠してくれただけで何か嬉しくなる。

それでは曲を聴いてもらいましょう(彼女の公式 YouTube チャンネルから堂々と引っ張れるのはありがたいことだ)。

最近のツアーも好評、自伝の評価も高いようで何よりである。邦訳出てくれないかねぇ。

葉石かおり著、浅部伸一監修『名医が教える飲酒の科学 一生健康で飲むための必修講義』を恵贈いただいた

日経BPの竹内さんから、葉石かおり著、浅部伸一監修『名医が教える飲酒の科学 一生健康で飲むための必修講義』を恵贈いただいた。

例によって Kindle 版もあるでよ。

本書の著者、監修者のタッグによる本は、2018年に『酒好き医師が教える最高の飲み方』(asin:B077XSYW2T)を買って読んでおり、これがとても良かった記憶がある。

酒飲みである著者が感じるお酒と健康にまつわる普遍的な疑問を、監修者をはじめとする専門家に素直にぶつけ、専門家たちも分かっていること/分かっていないことをちゃんと開示しながら(例えば、久里浜医療センター院長の樋口進氏によると、二日酔いの原因やメカニズムは、驚くほど分かっていないそうだ)筋道だった答えを返しているところは、『酒好き医師が教える最高の飲み方』同様、本書の美点でもある。

内容的にどうしても前著と重複するところはあったが、だから本書をいきなり読んでも問題ないし、また本書は「コロナ禍における飲酒」という重要なテーマを含んでおり、要は酒飲み皆に文句なしに今一読をおススメできる本である。

「はじめに」で、著者がコロナ禍にネット通販で5リットルの業務用ウイスキー(竹内さん、ここ「業務用ウイルスキー」になってますが、誤植ですよね?)を買ったという話がいきなり出てきて「おいおい!」と思うが、これは他人事ではない。

ここまで読めばお分かりだろうがワタシ自身も酒飲みであり(お酒は好きだが、大して強くはない)、2020年振り返りの文章で書いているように、コロナ禍で精神的不安などあって酒量が明確に増え、それに伴って摂取するツマミの量も増え、蟄居生活による慢性的な運動不足と重なり、元からデブなのが目もあてられないデブにまで太ってしまった。その年の健康診断が「決壊」を思わせる結果となったのに反省して酒量を減らし、また室内での運動を心がけ、なんとか翌年の健康診断の結果全般をその2年前の結果まで戻している。

飲酒と健康の関係について最新の研究結果による知見が得られる本書の内容は、酒飲みである著者をもってしても、一言で言えばシビアとしか言いようがない。ほぼ全方位的に飲酒が健康に良くないのは、もう結論が出ている(ただ本書には、「酒をよく飲む人は風邪をひきにくい」という著者の経験則が、実際の研究結果と合致する話があって驚くのだが、酒をよく飲む人は新型コロナウイルスのワクチン接種時に抗体価が上がりにくいという話がすぐ後に続き、甘やかさない仕掛けである)。

今のところワタシ自身は酒を断つつもりはないが、本書を読んでも暗い気持ちにはならなかった。それは『酒好き医師が教える最高の飲み方』を読んだときも同様で、著者の筆致の誠実さもあるし、リスクを承知した上で、できればお酒と付き合っていこうという気持ちにさせてくれる本である。

ただ飲酒スクリーニングテスト(AUDIT)の結果は、ローリスク飲酒群、ハイリスク飲酒群、依存症予備軍、依存症群という四つの区分のうち、なんとかハイリスク飲酒群に収まっているくらいで、年齢的にも50代に近づくのだから、もう無茶な飲み方はしないよう心がけないといけない。

テック企業(の強烈な個性の創業者)の隆盛と凋落がたて続けにドラマ化されている

個別にはドラマ化の話を既にこのブログでも取り上げているが、テック企業の創業物語、並びにそれらの強烈な創業者を題材とするテレビドラマが、ちょうどこの2月から3月にかけて始まっているので、まとめて取り上げておきたい。

Super Pumped(Uberのトラヴィス・カラニック)

www.sho.com

これは昨年末に邦訳が出たマイク・アイザック『ウーバー戦記』を原作としている。ドラマを日本で観れれば本のほうも相乗効果で売れるかもしれないが、果たしてどのチャンネルで観れるようになるのか。

Uber の創業者トラヴィス・カラニックをジョセフ・ゴードン=レヴィットを演じており、他にもカイル・チャンドラーエリザベス・シューユマ・サーマンといった映画スターが共演、しかもナレーションがクエンティン・タランティーノってなんだ!?

しかし、今のところ評価はあんまり芳しくない感じ。

KingInK で「しかしベンチャー企業の成功と失敗の話なんて、みんなそんなに目にしたいかね?」と書いているが、今回取り上げるように、そんなのが3作同時期に放送(配信)開始ということは、確かに需要があるんですよ。というか、(飽くまでテレビ業界から見て)今はテック企業が題材としてホットなんでしょう。


The Dropout(Theranosのエリザベス・ホームズ)

www.hulu.com

「シリコンバレーの小保方晴子」ことセラノスのエリザベス・ホームズをアマンダ・サイフリッドが演じている。残念ながら Hulu なのでワタシは未見である。『ドロップアウトシリコンバレーを騙した女』が邦題みたいね。

セラノス並びにエリザベス・ホームズについては、昨年邦訳が出た『Bad Blood』が詳しいが、こちらはそれでなくドラマと同名のポッドキャストが原作である。

『Bad Blood』がアダム・マッケイ監督、ジェニファー・ローレンス主演で映画化されるというニュースが昨年あったが、まだ本格制作には入ってない模様で、『The Dropout』の評価が今のところかなり高いのがどう影響するか。


WeCrashed(WeWorkのアダム・ニューマン)

tv.apple.com

Apple TV+ なので、やはりワタシは観れない(本文執筆時点では第1回の配信もまだ)。

上の Dropout 同様、本作もドラマと同名のポッドキャストを原作としており、またしても KingInK を引き合いに出させてもらうが、ここ数年アメリカで実録(犯罪)もののポッドキャストが大流行りなのを反映してるわけです。

このドラマについては「(ソフトバンクの意外な復活と)WeWork創業者アダム・ニューマークの隆盛と没落を描く本とテレビドラマ」でも取り上げているが、アダム・ニューマン役をジャレッド・レトレベッカ・ニューマン役をアン・ハサウェイ、と豪華な配役である。

個人的に、孫正義を誰が演じるか興味があったのだが、キム・ウィソンですか。

さて、テック企業の起業物語のドラマ化というと、ニック・ビルトン『ツイッター業物語』を思い出す。これがドラマ化決定! という話は日本経済新聞出版のこの本の個別ページにも明記されているが、その後話を聞かない。

IMDb のページも未だ具体的な情報が一切なしなので、話が流れてしまったものと思われるが、上で取り上げた三作に刺激を受け、制作が本格化しないかな。

それとは(多分)関係なく、『ツイッター業物語』の著者ニック・ビルトンは、テック絡みのドキュメンタリーの作り手に軸足を移している。

やはりセラノス(のエリザベス・ホームズ)についてのドキュメンタリー映画 The Inventor: Out for Blood in Silicon Valley をプロデュースし、昨年は Fake Famous というドキュメンタリーを監督し(参考:偽のインフルエンサーをでっち上げるドキュメンタリー映画が浮き彫りにした、「有名である」ことの意味)、Netflix が手がけるビットコインのボニー&クライド「Bitfinexスキャンダル」を描いたドキュメンタリーの製作総指揮を務める模様。

こういうテック系のドラマやドキュメンタリーを作れる、テクノロジーと映像の両方の理解に長けた人って日本にいますかね?

ドキュメンタリー映画『In the Court of the Crimson King』とキング・クリムゾンの最期をとらえた映像

variety.com

キング・クリムゾンドキュメンタリー映画『In the Court of the Crimson King』が今年の SXSW でプレミア上映され、映画評がいくつかあがっている。

これは元メンバーの証言からバンドの歴史を辿りながら、2018~2019年のツアーを追うもので、やはりこれはビル・リーフリンの最期をとらえた映画とも言える。ロバート・フリップは、彼が「キング・クリムゾンに加入した中で唯一の個人的な友人」だったことを明かしている。

やはりフリップの独特の流儀というか偏屈なユーモアが存分に見れるようだが、まずまず良い評価なので、早く日本での上映が決まってほしいところ。

www.theguardian.com

Guardian によるロバート・フリップのインタビュー(並びに映画評)も面白い。

彼によると、キング・クリムゾンについてのドキュメンタリー映画のオファーはこれまでにもあったようで、「何人かのとても優れた、プロの音楽ドキュメンタリーの作り手からアプローチされましたよ。ナイスで、型にはまっていて、中身を何も思い出せないようなドキュメンタリーを作る人達からね」とのことで、Toby Amies を選んだのは、彼がバンドと何の接点もなかったから。「これが私には理想的だった」とフリップ先生は語る。彼の映画に期待したのは、「キング・クリムゾンの何たるかを私に教えてくれるような」映画……ってなにげにすごいハードルである。

その期待が満たされたかは記事を読んでいただきたいが、この映画の第一の目的は「ロバート・フリップこそキング・クリムゾンであるという(フリップ考えるところの)非常識な考えを捨てさせる」ことであり、「キング・クリムゾンはアンサンブル」だと彼は強調するが、元メンバーたちの証言とは食い違うわけである(笑)。

このインタビューでも、「君は詩人に詩を散文で説明しろと言うのか?」など、フリップ節は絶好調である。

さて、これは旧聞に属するが、クリエイティブマンの公式 YouTube チャンネルにおいて、キング・クリムゾンの昨年12月8日の東京公演における "Starless" の映像が公開されている。

この映像には特別な意味がある。

このライブは昨年の来日ツアーの最終日であり、しかも "Starless" は最後に演奏された曲であり、それはつまりキング・クリムゾンの最後のライブにおける最終曲であることを意味する。

この曲の演奏後、メンバーがステージから去る中、いったんステージ袖に向かったように見えたロバート・フリップがステージ前方までやってきて、客席に向かって深々とお辞儀をした(後、自撮りをやりだした)のもファンの間で話題になったが、それが公式の映像として残されたのは意義のあることだと思う。

ワタシが観た大阪公演でもこの曲がラストだったし、円堂都司昭さんも書いているが、ワタシもこの曲を初めて聴いた高校時代を思い出し、胸が熱くなるものがあった。そして、改めてトニー・レヴィンは素晴らしいベーシストと思った。

しかし、この映像はどういう経緯で撮影されたものだろうか。しかも、その映像が公開されたのが、キング・クリムゾンの公式チャンネルではないのはなぜなのか。(今回のツアーではさほどでもなかったが)ライブ中の撮影については強迫的に禁止のメッセージを流すバンドなので、適当に撮ってみたというのはありえない。もしかしたら、この最後のライブ映像が作品化されるのかもしれない。というか、そうなってほしい。

この映像について、ロバート・フリップFacebook で以下のようにコメントしている。

RF: This, the final piece of the final performance of King Crimson's two completion tours of 2021. At 1'06" tears came to my eyes, and at 12'13 sound moved to silence.

Facebook

「1分6秒のところで私の目に涙が浮かんだ」とまで言っている。トーヤさんとの夫婦漫才シリーズをやる前までは、ロック界随一の偏屈男視されていたロバフリの目にも涙である……とか書くと怒られそうだが、本当にキング・クリムゾンは「完結」したんだなと感慨にふけってしまう。

そうそう、あとロバート・フリップと言えば、1979年は発表された彼のソロとしての代表作である『Exposure』の32枚組というとんでもないボリュームのボックスセットも発売になる。

1974年にキング・クリムゾンを解散させた後は半ば引退状態にあったのが、ピーター・ガブリエルのアルバムとツアーに参加したのを契機に、ピーガブやダリル・ホールのアルバムのプロデュース、デヴィッド・ボウイやトーキング・ヘッズとの共演ニューヨークパンク~ニュー・ウェイヴ勢との絡みなどを経て、1981年にキング・クリムゾンを再結成するにいたる1970年代末から1980年代はじめあたりまでの活動を網羅しているようだ。

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タイミング良く(?)MeToo運動に火をつけた本の邦訳が出る

bunshun.jp

榊英雄の監督作品は観たことがなく、本件について特に感慨はないのだけど、こうやって性加害が可視化されるとかなりキツいものがあるし、カメラマンの早坂伸氏による「榊英雄氏の報道について」を引き合いに出すまでもなく、明らかに対応を間違ってしまっているわけで……もう少しなんとかならなかったのか?

yamdas.hatenablog.com

アメリカにおいて #MeToo 運動に火をつけ、ハリウッドの大物プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタインを失脚に追い込んだローナン・ファローの『Catch and Kill』を取り上げたのは2019年夏で、あれから2年半が経つ。

まだ邦訳は出ないのだろうかと調べたら、『キャッチ・アンド・キル』として4月に刊行されるのを知る。

これをタイミングが良い、と書くのは不謹慎と言われそうなので先に謝っておく。

ようやく出るのかというか、なんで今まで出なかったのかとも思うが、出ないよりは良いに違いない。

ドライブ・マイ・カー

例によっての事情でなかなか観に行けなかったが、今月末のアカデミー賞発表後にまた客が戻ってくることが容易に予想できることと、近場のシネコンで仕事後に行ける時間帯に上映しているのを知ったのがあり、観に行った。

ほぼ3時間の上映時間ということで(たまたまこれを観た日に公開された『ザ・バットマン』もそうですな)、ゆっくりとしか時間が進まない映画で眠くなったらどうしようと危惧していたのだが、そんなことを心配する必要のまったくない、冗長であったり明らかな無駄なカットはなく3時間、じっくり映画を観させてもらったという満足感のある作品だった。

ワタシはシネフィルではないので、濱口竜介の映画は Netflix に入っていた『寝ても覚めても』(asin:B07MD8QVVY)しか観ておらず、こちらについては「2時間まったく緊張が解けることがないホラー映画の傑作」と評価している。

本作はどうかと言えば、「3時間まったく緊張が解けることがないホラー映画の傑作」だった。いや、マジで。

寝ても覚めても』における東出昌大の役割を本作で担っているのは、雰囲気がサイコパスっぽい岡田将生である。彼と西島秀俊演じる主人公が車の後部座席で語り合う場面の岡田将生のカットなんて、完全にホラー映画の文法で撮られてましたよ。そして、その決定的な場面の後、主人公と運転手の2人がサンルーフを開けて煙草を吸う印象的な画が続くわけだが、あのときの2人の表情は完全にセックスの後の一服の表情ですよ。そして、それは単なるセックスではなくて、その直前の話を考えればネクロフィリアですよ! ……えーっと、これ以上続けると、いろんな人に刺されそうなので、ここまでとする。

本作については、ベンジャミン・クリッツァーさんが「いつも思うのだが、世のクリエイターは女の不倫に甘過ぎる」と吐き捨てているのを大分前に読んで、思わず爆笑してしまったのだけど、本作を観ると確かにそれを許容する方向に誘導されるのを感じて、これが監督の力量なのかと感服した。そうした意味で、本作の成功には、村上春樹の小説の映画化として奇跡的に「都合の良い」存在である西島秀俊を主役に据えたことが大きく貢献している。

しかし、上述の後部座席で語り合う場面の岡田将生の最後のお説教のごとき台詞にしろ、いろんな人がここぞとばかりに引用している「正しく傷つくべきだった」という最後の主人公の台詞にしろ、ここまで直接的な、スローガンのごとき言葉にして口にしないといけないのか? という疑問は確かにある。

本作について猿渡由紀が「この映画はアメリカ全土でうけているというより、アメリカの「映画業界人」にうけている」と指摘しているが、広島国際演劇祭におけるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の上演が一種の劇中劇になっているのもポイントではないか。そうした意味で本作には(映画のタイプは全然違うが)『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』に近い感触もあったので、そうした意味でアカデミー賞は国際長編映画賞以外も有望に思えたりする。

しかし、『ワーニャ伯父さん』が発語なしで演じられるクライマックスが見事だったのに、そこで映画が終わらず、とってつけたような最後の場面は、結局、運転手が主人公の車を一人で運転し、そこに犬がいる画でありさえすれば良かったはずなのに、はーい、ここは日本ではありませんよー、そして今はコロナ禍ですよー、と盛り込んでくるところにあざとい目くばせを感じた。

『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を技術書典やAmazonで買われた方に改めてお知らせ

久方ぶりに『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』の話題だが、しかし、このブログの存在意義は飽くまでこの本の宣伝なのである。

少し前に以下のようなツイートを見かけた。

技術書典で販売された紙版の特別版を買われた方で、「追加のエッセイ」とは、ボーナストラック「グッドバイ・ルック」のことに違いない。

これを入手するには、確かに達人出版会から電子書籍版を購入してもよいのだが、これは以前にも書いた……けどそれからもだいぶ経つので改めて書いておくと、Kindle 版や紙版を購入された方で、ボーナストラックのエッセイ「グッドバイ・ルック」を読みたい方は、購入されたものの写真かキャプチャ画像をメールでワタシに送ってくれたら、無償で「グッドバイ・ルック」のファイルを送付させていただきます!

これも以前に書いているが、『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』は紙版と電子書籍版で複数のバージョンが存在するので、収録章数、ボーナストラック「グッドバイ・ルック」、2018年秋に執筆した付録「インターネット、プラットフォーマー、政府、ネット原住民」の収録一見表を再度はっておきます。

バージョン 媒体 収録章数 ボーナストラック 付録 価格(税込)
達人出版会本家版 電書 50 770円
Kindle 電書 50 × 770円
技術書典5特別版 42 × 1000円

発売開始から何年も経った『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』において、文章の性質上セールスポテンシャルを落としていないのが件のボーナストラックのエッセイ「グッドバイ・ルック」で、これについての小関悠さんの評を再度はっておく。

小関悠さんが引用しているワタシのツイートにも書いているが、尋常でないネタバレ要素というか驚きのある文章で、「グッドバイ・ルック」単体を note に公開するなり、Gumroad を利用するなりして数百円課金してもよいのだけど、というかそれを勧めてくれる人もいたのだけど、いくつか理由があってそれをやるつもりはない。

ただ、せっかく紙版や Kindle 版で『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて 続・情報共有の未来』を買ってくれた方も「グッドバイ・ルック」を読む権利があると思うわけです(実際、これまで何人もの申し出を受けており、そのたびにファイルを送付している)。

もちろん、まだまだこの本の感想を待ってますよ!

デジタル世界における信頼構築のために今考えるべき「新たなサイバー社会契約」

www.foreignaffairs.com

Schneier on Security で知った文章だが、共著者のクリス・イングリス(John C. Inglis)はかつてアメリカ国家安全保障局NSA)の副長官、今は米国の国家サイバー局長と、国家安全、サイバーセキュリティの要職を務めてきた人である。

ブルース・シュナイアー先生も書いているようにこれは読む価値のある文章なので、ざっと要約をしてみたい。

まず著者たちが引き合いに出すのは、2021年春のロシアを拠点とするサイバー犯罪集団による米国最大の燃料パイプラインに対するランサムウェア攻撃で、これは米国のデジタルエコシステムがいかに脆弱かを物語っているという。

サイバーエコシステムのリスクの高まりは認識されているが、システムの危険性を軽減するための責任は十分には分散されておらず、リスク軽減のためのコストは、それに対処するリソースや専門知識がない利用者に押し付けられる傾向がずっと続いている。多要素認証やパスワード管理ツールは不可欠だが、それだけでは十分ではない。抜本的な解決策として、上記のリスクを弱いところに負わせるのでなく、政府や大企業が今より大きな負担を背負わなければならないし、それを前提とする集団的で協調的な防御が必要だ。

つまり著者たちは、公共部門と民間部門の関係を有意義な形に変化させ、それぞれに新たな義務を提示するデジタル時代の「新たな社会契約」を米国は必要としていると訴える。経済やテクノロジーの重要な変化を受け、官民で重要な調整を行ってきた過去の例として、1963年に制定された大気浄化法などが挙げられる。

サイバー領域で同じように革新的な転換を行うため、民間部門はデジタルエコシステムに長期的な投資を行いサイバー防衛の負担を負い、一方で政府は脅威情報をよりタイムリーかつ包括的に提供し、産業界を重要なパートナーとして扱わなければならない。また官民両セクターが真に協力してサイバーインシデントの防止、対策、回復のための組織に(人的)資源を提供する必要がある。そうすれば、この「新たな社会契約」から得られるメリットは非常に大きい。

繰り延べされた夢

インターネットは民主主義と人権を支えるだけでなく、進歩と平等主義の本質的な力として機能するという黎明期の楽観主義を思うと、現在のサイバー脅威はその悲劇的な裏切りと言える。

中国はインターネットを手なずけ、サイバースペースを利用してデジタル革命をデジタルのディストピアに変えてしまい、今や北京は権威主義を、それを求める世界中の人に輸出せんとしているし、ロシアは偽情報、デジタル操作、サイバーによる地政学的恐喝の名手だ。

市場の利益は少数の大企業に偏っており、個人や中小企業は平等なデジタル経済を享受できない一方で、デジタル犯罪のアンダーグラウンドは、ハッキングツールが用意に入手でき、サイバー犯罪者が重要インフラを人質にとれるという意味で、皮肉にもずっと民主的だったりする。

このためサイバー政策の多くが犯罪者に主導権を与えてしまうし、セキュリティ事故ひとつの範囲や規模がとても大きく、不正なリンクをクリックしたり、ソフトウェアのパッチ適用を怠るのが、地政学的な問題に発展しかねないのがサイバースペースにおけるセキュリティ課題となっている。しかし、セキュリティは物理的な世界でそうなように、サイバースペースでも繁栄の必須条件なのだ。

新たな社会契約

政府が民間部門を協力すれば、現在の市場の偏ったインセンティブもサイバー脅威も変えられるし、これは米国の価値観に完全に合致している。まずは米国政府内の協力体制を強化し、官民を横断した協力に向けた明確な枠組みを作る。前者は進んでいるが、後者の共通理解はまだほとんどない。サイバー攻撃に対する防御側で官民が協力するには、すべてのステークホルダーが、自分たちの役割の位置づけや、どんな状況下で支援を行う必要があるか理解していないといけない。

サイバースペースがすべての利害関係者に公平にサービスを提供するには、市場の力だけでは不十分だ。サイバースペースは、圧倒的に私的な要素で構成されるが、計り知れない公共的な価値があるので、民間企業は(投資家の求めに反しても)ハードウェア製造とソフトウェア開発の両方で、セキュリティやレジリエンスを今より優先させる必要がある。政府もそれを後押しすべく、基準の設定や情報提供などで積極的な役割を果たさないといけない。

官民が今までにない協力のヴィジョンを持つことで、サイバーインシデントに対するレジリエンスを構築し、各組織が単体で活動するよりもはるかに効果的に脅威を特定して対処できる。ジョー・バイデン大統領が2021年5月に発表した、米国のサイバーセキュリティの向上に関する大統領令は、この新しいパラダイムの重要な要素である。この大統領令は、情報技術の標準を強化し、既知の脆弱性からネットワークを防御することで、弾力的なソフトウェアのサプライチェーンの育成を目的としている。

連邦政府は、自身のデジタルシステム構築でその模範を示す必要がある。2022年1月に発表された、政府全体でゼロトラスト・アーキテクチャーを導入する戦略を発表したのもそのひとつだが、このレベルの変革を民間企業に体系的に求めるのは困難なので、だからこそ政府と産業界が前例のないレベルで協力することが必要。バイデン政権が、国家運輸安全委員会をモデルとし、重大なサイバーセキュリティ事故を分析し、将来の危機を回避するための具体的な提言を行うサイバー安全審査委員会を新設したのはその手始め。民間企業が脅威情報を当局と共有することの妨げとなる契約上の障壁を緩和し、データ侵害を連邦政府機関に通知するよう義務付けることも検討されている。

このレベルの協力には、CISA(サイバーセキュリティ・インフラセキュリティ庁)が各危機の対応の責任を持つ機関を特定し、アメリカ国家安全保障会議がサイバーセキュリティが地政学的な問題となった際には調整機関になる必要がある。(2021年1月に設置された)国家サイバー長官室(ONCD)は、米国のサイバー政策全体に一貫性を持たせて推進し、民間セクターの協議して政府の翻訳者の役割を果たし、(サイバースペースは国内問題に収まらないので)国務省国家安全保障会議と協力して米国のパートナーと学びを共有するといういろいろ果たす仕事が多い。

その立ち上げに立ち会う

レジリエンスへの投資、新しい形の情報共有、官民協働を軸とするサイバースペースに関する「新たな社会契約」によって、米国はデジタル時代の幕開けにあった希望を取り戻せる。サイバースペースが究極的に誰のため、何のためにあるのかの理解を改めることで、米国は計り知れない社会的、経済的、地政学的利益を得る態勢を整えることができる。ハイテク産業は、既にイノベーションと成長の重要なエンジンとなっており、米国の経済生産の10%近くを占めている。米国で最も収益性の高い企業10社のうち7社が、テクノロジーテレコミュニケーション、ソフトウェアの企業なのだ。

デジタル接続テクノロジーは、政府、科学者、企業が COVID-19 のパンデミックを管理し、最終的に終息させるのにも欠かせないが、COVID-19 後に他の分野で同じように高性能、高信頼性の枠組みで達成できることを米国はほとんど理解してない。生物医学の研究と同様に、安定した安全なインターネットに必要な政策や技術は、スピードの足を引っ張るのでなく、イノベーターがより迅速かつ自信を持って構想を展開するのを可能にする。米国は差し迫った脅威だけにとらわれるのでなく、その先にある可能性まで見据え、デジタル技術を駆使した世界をより明確に打ち出して、それを現実にしていこうじゃないか。

明るい未来

デジタルとコラボレーションの理想的な未来は予測不可能だが、その幅広いメリットは明らか。科学者、イノベーター、政府、そして個人が自信を持ってサイバースペースで今より素早く行動できる世界なら、未来が明るい。

ここで著者たちは、最も有望かつ緊急な可能性として再生可能エネルギーへの移行、宇宙経済、自動走行車あたりを挙げている。が、その話はワタシの関心であるサイバーセキュリティと少し離れるので、そのあたりの話は端折らせてもらう。まぁ、そこでも安全で弾力性のあるデジタル基盤は重要と言ってます。

最後に著者たちは、上記の「明るい未来」が地政学にも及んでいる、と再度セキュリティに話を戻す。つまりは、米国と同盟国のネットワークが、中国やロシアといった国家が支援するハッキングに対して回復力を持つことの重要性である。そして、中国がスパイ行為や知的財産の盗難を行い、米国人の膨大な個人データを吸い上げ、デジタル経済の活力源たる個人情報を武器にする能力を高めていることを強調した上で、耐久性があり安全なデジタルエコシステムはその回避策になると示唆している。

そして最後に、データがより安全になる世界では、データプライバシーがより強制力を持つことを著者たちは指摘する。米国のデータセキュリティとプライバシー環境の方向性が定まれば、日本や EU など21世紀のデータ法の基礎をすでに築き始めている国との相互運用性や商業交流を深められる、つまりはそれが同盟国との関係を強化する外交政策ツールになり、そしてそれは北京やモスクワの監視技術やデジタル権威主義の蔓延を抑制できると訴えている。

さてさて、以上がワタシなりのざっとした要約だが、この文章で強調される官民の密接な協力を前提とする「新たなサイバー社会契約」の必要性、その背景となる中国とロシアにサイバー分野でやられっぱなしで、このままではデジタル権威主義をゴリ押しされるぞという危機意識を肌で感じるに、この文章が公開されたのは2月21日だが、ご存知の通りその3日後に始まったロシアのウクライナ侵攻を米国の国家サイバー局長であるクリス・イングリスはどこまで把握していたのか少し勘繰りたくもなる(笑)。

ここまで政府にもできることがあると強調するのに、ワタシなどマリアナ・マッツカートの『企業家としての国家』論(asin:4840813159)、国×企業で「新しい資本主義」をつくる『ミッション・エコノミー』論(asin:4910063196)を連想したが、注意すべきは官民の協力を何度も唱えながら、民間に協力や情報提供を強いるのを微妙に織り込んでいるところが匠の技で、ブルース・シュナイアー先生が真っ先に「The devil is in the details, of course」と評し、そしてこの文章で「規制(regulation)」という言葉が注意深く、つまりは意図的に避けられていることを指摘しているのは、そのあたりを指しているのだと思うね。

ウィキリークスのジュリアン・アサンジの裁判についての本が出ている

テリー・ギリアムの Facebook 投稿で、The Trial of Julian Assange という本が出ているのを知った。

ギリアムは「衝撃的だ。とても感動的でもある。クライムスリラーのような読み応えがあり、まったくもって捨てがたい」と書いているが、ウィキリークスが2010年に Afghan War Diary を公開し、それから間もなくジュリアン・アサンジに性的暴行の容疑がかけられ、ロンドンのエクアドル大使館に逃げ込み7年粘るも2019年にエクアドルはイギリスにアサンジを引き渡し、即時の彼の引き渡しを要求したアメリカが175年の禁固刑を科すと脅したあたりで、国連の拷問に関する特別報告者である著者ニルス・メルツァー(Nils Melzer)が刑務所のアサンジと面会して関わりを持ち、その後の調査を受けて書かれたのが本書になる。

本書はこの10年あまりのジュリアン・アサンジの受難(本書によると、アサンジが長期にわたる精神的拷問を受けていることを証明する医学的証拠も集められたとのこと)を辿りながら、歯止めのない権力がいかに西洋の民主主義と法の支配を消滅させかねないかを訴える本のようだ。

しかし……こうしてジュリアン・アサンジについて書いていて、なにか居心地の悪さを感じるところがある。

もう忘れた人も多いだろうが、2011年には Wikileaks 本が日本でもバンバン出た。かく言うワタシも『日本人が知らないウィキリークス』『ウィキリークスの衝撃 世界を揺るがす機密漏洩の正体』の二冊を献本いただいて読書記録を書いているが、ジュリアン・アサンジの「非公認自伝」の邦訳を最後に、ぱったりとウィキリークスに関する本はなくなってしまう。

yamdas.hatenablog.com

それは何よりジュリアン・アサンジが身動き取れないのが大きかったが、Wikileaks 自体の変質というか、ジュリアン・アサンジの私物化というか(主にヒラリー・クリントン憎しによる)露骨に党派的な姿勢があり、これを書いた2016年の時点で、残念になっちゃったねという認識が広まってしまったというのがある。分裂騒動もあったっけ。

www.dailydot.com

ウクライナ侵攻に対するカウンターとしてロシアに対するハクティビズムの機運が高まっているが、Wikileaks はその受け皿には全然期待できないという記事を見たばかりである。もう駄目かもしれんね。

yamdas.hatenablog.com

Wikileaks が先鞭をつけたリーク・ジャーナリズム自体は、Distributed Denial of Secrets(DDoSecrets)のような後釜も育っており、もう Wikileaks ではなくそっちに期待すべきなのだろう。

だから、ジュリアン・アサンジの裁判についての本と言われても、邦訳は期待できないなと思ってしまうのだが、それはそれとして上記の通り、今とてもきな臭い国際情勢の今だからこそ、彼が(主に)英国、米国から受けた迫害(メルツァー言うところの精神的拷問)についてちゃんと知るべきではないかとも思うのだ。

秘密主義、免責、そして決定的なのは、世間の無関心によって、歯止めのない権力がいかに西洋の民主主義と法の支配を消滅させる危険性があるかを訴えるこの本の主題は、とても今どきだろう。

ブライアン・イーノ先生、エドワード・スノーデン、ダニエル・エルズバーグといった人達が推薦の言葉を寄せている。

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

新型コロナウイルス第6波の影響もあり、しばらく映画館から足が遠のいていたが、ワクチンのブースター接種から2週間以上経ち、そろそろよかろうと久方ぶりに足を運んだ。1日1回の上映になっていた金曜夜に観に行き、10人程度での鑑賞だった。前作『犬ヶ島』からおよそ4年ぶりか。

カラーコーディネートなど強力なヴィジュアルコントロールによる画面の構成美、その中で遊びまわるかのごとき左右上下のカメラ移動、オーウェン・ウィルソンビル・マーレイをはじめとする常連俳優によるオールスターキャスト――とこれまで何度も書いてきたことを繰り返すことになる、とにかくウェス・アンダーソンらしいウェス・アンダーソン映画としか言いようがない作品だった。

圧倒的な箱庭的映像世界というか、もはや舞台劇の映画化ならぬ映画サイズの舞台劇と評したくなる域に達している。しかも、本作は舞台がパリである。ウェス・アンダーソンとパリって、いかにもらしい組み合わせではないか(本作では白黒が多用されるが、それも彼が愛するフランス映画の反映だろうか)。

映画として全編を覆う悲しみがあった『グランド・ブダペスト・ホテル』には劣るが、観たいものをしっかりみせてくれたという意味で満足だった。

実は、その週の仕事の疲れの蓄積もあり、本作を観ながら何度かうつらうつらしてしまった。と書くと、本作が退屈でつまらなかったと思われそうだが、それは違う。

およそ2時間近く尿意に耐えながら震えていた『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は極端な例だが、上記の事情があってなかなか落ち着いて映画館で映画を観れる環境になかった、というか今もない。それでも、本作はある種の安らぎというか身を委ねられる安心感があった。

Coda コーダ あいのうた

町山智浩さんの紹介山崎まどかさんの文章で興味を持った映画だが、近場のシネコンでの終映日になんとか観に行けた。

いやぁ、良かったですね。この映画はフランス映画のリメイクらしいが、そちらは未見なので比較はできないのだけど、聾唖者家族による多分に性的な内容を含むユーモアは元映画から引き継がれたものなんだろうな。

家族の中で唯一聾唖者でない主人公を演じるエミリア・ジョーンズを観るのは本作が初めてだったが、歌も演技もとても良かった。

障がいを持つ家族の中で必然的にケアを担当せざるを得ないが、歌唱力というその家族が理解できない才能を持ってしまった娘に対して、その父親、母親、兄がそれぞれに思いやり、認識を改めたり、家族の愛情を示すところが良かった。またこの映画自体、恥ずかしいと思う者が立場が変わるとそうでなかったりするなど、人間の多面的な描き方ができているのも良い。

ドラマ『glee』の成功の最大の功績は、何より歌うということ自体のドラマ上の意義というか、極端に言えばそこで歌う曲がイケてる必要なんかまったくないということだが、そうした意味で本作も歌うこと自体の効用をちゃんと描いていた。

主人公がクライマックスで歌うジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」はとても良いチョイスなのだけど、個人的にはバークリー音楽大学ってあんな一芸入試なのかと疑問だったし、「オーディション」という字幕に、えっ、これってそうなの? と混乱したし、本作のおけるヴィラロボス先生はとても良かったのだけど、あそこに飛び入りするのはいくらなんでもやりすぎに思えたり、そこだけが少し作為的過ぎるように感じられてマイナスだった。

しかし、主人公のデュエット相手、ボーイフレンドとなる男の子がキング・クリムゾンの『Discipline』Tシャツを着ていたのはいったいどういう意味があるんだろう(笑)。

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